わが家の愛猫パンダが、19日間の逃亡生活の末、ガリガリにやせ衰えて帰還したことはすでに書いた(10月1日付)。逃亡前は5キロを超えていた体重は、2.5キロと半減していた。背中をさすると骨と皮だけで、「皮下脂肪を使いつくしていいる」(獣医師)状態だった。
娘は毎日、時間をかけて食を与え、点滴と歯の治療(注射)などで医者に通うこと数度に及んだ。前記したように17歳(人間に換算すると84歳)の老猫で、私は正直いって生きることはむつかしいのではないかとさえ思った。しかし、だんだん元気を取り戻し、体重も0.5キロふえて3キロ台を取り戻した。
それにつけても19日間何処をさまよっていたのだろうか?…、と言うことがもっぱらの関心事だ。娘と女房と私が、代わるがわる尋ねる。「お前はいったいどこにいたの?」、「家の近くにずっといたの?」、「それとも相当遠くまで行ってきたの?」……しかし、パンダは何も言わない。
この間、いったい楽しかったのだろうか? それとも怖い毎日だったのだろうか? いくら聞いても何も言わない。時々反省しているようにも見えるが、隙あらばまた飛び出そうと狙っているように外を眺めているときもある。
すべては何もわからない。ただ、すこしずつ回復し、元気になってきたのがうれしい。
帰還した直後のパンダ(10月2日撮影)
帰還後19日目。階段を上る前、一休みするところがいじらしい。
しかし、炊事場で食をねだるまでになったので、生きていけるだろう(20日撮影)
広島カープのCS完全制覇を心から喜んでいる。。CSという変な一発勝負で、セリーグの覇者がどうにでもなる不安があったからだ。
私の一番の不安は、正直に言って、巨人が勝つかもしれないという不安だった。巨人はレギュラーシーズンで勝率五割に届かない、つまり負け越しチームだ。レギュラーシーズンを負け越したチームが、日本シリーズを争う資格はないと思っている。ところがこのところの調子では、巨人は勝つ気配すらあったのだ。カープは終盤、大瀬良やジョンソンの好投と打線がかみ合わず負ける試合が多かった。反面巨人は、ヤクルト戦の菅野のノーヒット・ノーランのように調子づいている。一発勝負では何が起こるかわからない。
ところが、神の裁きは正しかった。実力通り、カープの三連勝となった。巨人が勝ったら、「資格のないものを日本シリーズに送る」という事態をどうするか、心の始末に困るところだった。。実にスッキリした昨夜の試合であった。
本日付け毎日新聞より
19年続いている恒例のフェスティバルを今年も無事に終えることができた。しかし私にとっては、とても恒例どころではなくきわめて印象深いフェスティバルとなった。それは、この回をもって、19年間務めた純米酒普及推進委員を退くことになったからである。80歳を超えるころから、目の不自由さもあり引退を申し出ていたが、なかなか後任が見つからずここまで来たのだ。
数えてみれば今回は、51回目のフェスティバルにあたる。東京では春と秋に催してきたので、今年(19年目)で38回、そのほか夏に、大阪で10回、名古屋で3回催している。思えば長い道のりであったが、振り返れば昨日のことのようにも思える。人の世の常だろう。
私は最後のステージに立って次のような挨拶をした。
「日本文化のうちの最たるものの一つであると思われる日本酒文化――その本流である純米酒の普及推進に、19年間携わってきたことを誇りに思う。人類は生まれ落ちるとともに酒を造ってきたと言って過言ではない。ビールの神様マイケル・ジャクソンは、『人類が狩猟時代の彷徨をやめて一定の地に定着したのは、パンを焼くためではなくビールを醸すためだった』とさえ書いている。日本酒の神様坂口謹一郎博士は、『優れた酒を持つ民族は、必ず優れた文化を生み出している』と書いている。日本酒が今、純米酒を中心に百花繚乱咲きにおい、世界に羽ばたこうとしていることを見ると感に堪えない。私は今回をもって委員の任を卒業するが、今後も日本酒を愛し続け、飲み続け、その普及に相応の力を注ぐことに変わりはない。だから私は、サヨナラは言わない。みなさんご機嫌よう! そして、われらが純米酒に栄光あれ! ありがとうございました」
ご出展頂いたすべての蔵を回った。たくさんお客さんたちと語り合い、記念写真も撮った。そのいくつかを掲げておこう。
スロヴァキア出身のヤナさんは「黒牛」が大好きなので蔵元に紹介
娘のオペラグループにネクタイとTシャツをプレゼントすると大ヒット
「郷乃誉」須藤蔵元に紹介すると、たちまちオペラ談義となった
「白鷺の城」ブースで、蔵元と4名の普及推進委員の記念撮影
義兄一家と二泊三日の箱根に出かけ、二日目は大涌谷から芦ノ湖周辺を回り、最後は海賊船に乗ってくつろいだところまではすでに書いた。三日目は、朝もゆっくりして、見物も「箱根美術館」と強羅公園だけにして、早めに帰路についた。
箱根美術館は初めて行ったが、陳列品も素晴らしく、何よりも庭園がきれいであった。開設者の岡田茂吉は、1882年(明治15年)に浅草に生まれ、1955年(昭和30年)72歳で死去するまで、かなり波乱にとんだ生涯を送ったようだ。Wikipediaによれば、岡田は日本の新宗教・世界救世教の始祖とあり、ほかに宗教家、文明評論家、書家、画家、歌人、華道流祖、造園家、建築家、美術品収集家、となっており生活の巾の広さをうかがわせる。
我々は、その美術品収集家と造園家の一端に触れただけであるが、その素晴らしさに驚いた。収集品では備前と景徳鎮が目を引いた。何とも欲しくなるような酒器などが並んでいた。
庭園の美しさには驚嘆した。一面やわらかい苔に覆われ、木々の緑と調和した風情は、心を和ませてくれた。言葉は要らない。写真を何枚か掲げておこう。
ついでに強羅公園の写真も一枚。
この20日近く、わが家は悲しみに暮れていた。10年近く飼ってきたパンダ丸という猫(通称パンダ)が、姿を消したのだ。娘がアルバイトをしていた動物病院から、処分の運命にあったところを引き取り、わが子のように可愛がり育ててきた猫だ。故あって全て室内で育ててきたのであるが、この度、わずかな網戸の隙間から逃げ出し姿を消した。9月13日の朝のことで今日で19日目になる。
この間、娘は探し続けた。自分だけではなく、オペラ仲間のおじさんたちまで動員して、家の周囲を相当広範囲にわたって探し続けた。夜には帰ってくるはずだと、真っ暗になった庭先に、「パンダ、パンダ…」と呼ぶ娘の声が、夜ごと、悲しく、むなしく響いた。しかし、パンダは帰ってこなかった。
「猫を探しています」という写真入りのチラシを何枚も作り、周囲の家々や飲食店などに張ってもらった。みんな協力してくれて、いろいろな情報をたくさんくれたが、いずれも似ているほかの猫であった。
パンダはどこに行ったか? 以前いた猫が一週間後に帰ってきたこともあったので、最初の10日や二週間ぐらいは私も希望をつないでいたが,20日近くなって私もあきらめかけていた。年齢17歳(人間なら84歳)と推定され、最近はよぼよぼと歩いていた。猫は死に様を見せないとも言われる。私は、「パンダは死に場所を求めて出ていったのだ。最後は自分の居場所を自ら探し、自らも光を放つ星になったのだ」と思っていた。…しかしそれを娘に言う勇気もなかった。悲しみに暮れて待ち続ける娘が不憫でならなかった。
ところが! 今朝、帰ってきたのだ。隣りに住む甥が「パンダらしい姿を見た」と知らせてきたので、娘は早朝から探した。そして隣の家の庭に備えたエサにを食べに現れたのだ!
実に19日目である。ガリガリに痩せている。「ほとんど食べていないのではないか?」と言うのが娘の見立てだ。
奇跡が起こった、としか言いようがないと思っている。
逃亡前のパンダ(わが書斎にて)