旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

月日の移ろい

2009-06-30 17:12:58 | 時局雑感

 6月も終わろうとしている。今年も半分を終えるのだ。
 「24節気の酒」の夏至の項(621日)で、「冬至を基点とすれば今年も半分が過ぎたことになる」と書いた。昼が最も短い“冬の至り”である冬至と、昼が最も長く“夏の至り”である夏至を基準に一年を測る方が、季節感からすれば適切のような気がする。
 しかし太陽暦が現れて、冬至の10日ぐらい後が正月となって、一年の始まりとなった。当然、一年の半分の日も夏至から10日ぐらいずれて迎える。何でそんなことになったのか「暦の歴史」を習ったときに聞いたような気がするが忘れた。そもそも全て割り切れない世界を、年や月や週で区切りながら生活しようとするわけだから、本当の季節感などとは離れたものになるのであろう。
 季節感と言えば、一番寒いのは冬至ではなく1、2ヶ月後であり、一番暑いのも夏至(6月)ではなく7月の終わりから8月初めだ。太陽光線の届き具合からそのようなことになるのか、人間の決め事と自然の摂理はどうもピッタシこない。

 昔の人はもっと自然とともに生きたのだろうが、夏至や冬至をどう捉えていたのだろう? 今は夏は冷房、冬は暖房で、夏至も冬至もあったものではない。こうして人間は自然を離れ、自然を破壊しても罪の意識も抱かなくなったのではないか?

 いずれにせよ、今年も6月は終わる。6月は年央にありながらあまり特徴のない月だ。過去の一番思いで深い6月はいつであったか・・・?
                             


オペラは楽しんでもらえたか?(つづき)

2009-06-28 18:06:33 | 文化(音楽、絵画、映画)

 オペラを普及する・・・オペラファンをたくさんつくる・・・、とはどんなことか?
 一体、オペラを聴いて満足するというのはどんな状態をいうのか?

 オペラというのは歌による劇であるので、その物語の中味が伝わらなければならない。ところがほとんどのオペラは、それが生まれたイタリア語で書かれているので、イタリア語が分からなければ意味が分からない。もちろん、意味が分からなくても素晴らしいメロディが多いので、曲だけでいい気分になることはある。それにしても意味が分かればもっとよいに決まっている。
 だから、歌い手の力と共に解説と進行の妙が全体の雰囲気を左右する。それにより聞く人の満足度は違ってくるのであろう。そして、何とも楽しく、もう一度聞きたい、となればファンは増えオペラは普及していくのであろう。

 その点からすれば、今回の「ミャゴラトーリ第1回公演」は成功したようだ。私の昔の仲間K夫人は、
「こんな楽しいことはなかった。2時間をこんなにいい気分にしてくれるのなら3千円は安い! もっと高くてもいい」
と言ってくれた。
 また他の同僚は、「出演者の真面目な態度が素晴らしい! 何ともすがすがしい気分だ」と何度も言ってくれた。そして多くの人が、「第2回公演はいつか?」と聞いてくれた。
 ささやかな公演であったが、オペラファンは確実に増えたのではないか。このようなことがオペラの普及活動と言うのであろう。何も一流歌手や大劇場でなくても、真面目に、手を抜かず、客席と一体となって演奏をすれば、みんな“いい気分”になっていただける。そして「また聴きたい」と思ってくれる

その意味では、娘の意図は生きたのであろう。
                   


オペラは楽しんでもらえたか?

2009-06-26 18:16:41 | 文化(音楽、絵画、映画)

 何度か触れたが、娘は昭和音大の声楽家を出て、オペラに出演したりアンサンブルを組んでアリアを歌ったりしてきたが、最近は、自分が歌うことより「オペラってこんなに素敵なの」「この素晴らしい声を聞いて・・・」と、オペラの普及活動に力を入れてきたようだ。
 オペラの素晴らしさを知ってもらうには、それにふさわしい“素晴らしい声”をそろえなければならない。しかもソプラノからバスまで揃わなければオペラの一場面も実演できない。ただ、既に名声を博した第一線級の歌手は、ギャラが高くて手が届かない。

 ところが一方には、素晴らしい才能を持ち、訓練も十分につんで、舞台に立つ機会をひたすら待っている人たちもいる。
 娘は一年近くをかけて、そのような歌手5人を集めたようだ。そして、自ら設立した「Miagolatori(ミャゴラトーリ)」という変な名前のオペラ集団の第1回公演として、コンサートを開いた(623日、中目黒GTプラザホール)。何とか成功させてあげたいと思い、私もワイフも、これまでの長い(年だけは人に負けないくらい生きてきたので)付き合いの中で音楽や芝居に関心のある人に呼びかけた。といっても、せいぜい百数十名の会場だが、おかげで椅子を継ぎ足すほどたくさんの方々に来ていただいた。
 結果は、皆さんに大変喜んでいただいた。「よかった!」と言ってくれる皆さんの顔に、単なるお世辞でないものを感じた。私自身も久しぶりに興奮するほどオペラのアリアと名場面を楽しんだ。そして来客に喜んでもらったとすれば、何が満足を与えたのかを考えた。

 5人の歌手は未だ30歳前後で、ほとんど無名の新進歌手だ。しかしいずれも、決して既存の歌手に負けない力(というより素質)を持っていると思った。何よりも歌うことが好きで、真面目に全力を挙げて(この“手を抜かない”ということがなかなか出来ない素晴らしいことなのだ!)歌っていた。
 その真面目さと誠実さが、何よりも聴衆の心を打ったのではないか? 手前味噌だが、娘の進行と解説も良かったと思う。ポイントを得た解説で“オペラの楽しさ”を引き出し、プロというより“初々しさ”があって、聴衆と一体になれたのではないか?
 ものごとの普及、というのは意外にその辺にツボがあるのかも知れない。
                   


焼酎「森伊蔵」の果たした役割

2009-06-24 13:31:33 | 

 前回のブログ(621日)で、相次ぐ焼酎ブームの中で本格焼酎が伸びてきたが、その地位を不動のものにしたのが「森伊蔵」だと書いた。私は酒の戦後史を見る中で、第一次日本酒革命の導火線を「越乃寒梅」を中心とした地酒ブームとし、第二次革命の先導者を清酒における「十四代」、焼酎における「森伊蔵」に見る。両者は、サラリーマンなどで蔵を離れた息子が親の老齢化で呼び戻され、一念発起して「本物つくり」に挑み、業界トップ品質を造り上げて、無名の蔵を全国に知らしめた点で似ている。しかも、その酒に親の名前をつけた点でも共通する。

 「森伊蔵」を造った森覚志氏は8人兄姉の末っ子、焼酎屋のくせに九州短大の電気工学科を出てサラリーマンとなる。ひょんな事から退職することになり独立、調理師免許を取ってスナックの経営をやるなど大阪、東京、神奈川を渡り歩いたようだ。
 ところが、70歳と年老いた父親に「四人の兄は蔵を継げない。お前しか居ない」と鹿児島の垂水市に呼び戻された。1981年、覚志氏32歳の時という。(1999.11.22~日経新聞「人間発見」より)
 帰ってみると蔵に往年の面影は無く、「錦江」という焼酎は酒屋にも置いてもらえない状況であったようだ。一時は自棄酒も飲んだようだが、父の下で修行すること5年、“5代目当主・杜氏”となるや、「どうせやるなら酒販店など当てにせず“消費者が直接買いに来るような焼酎”を造ろう」と発起、材料としての芋、米麹、水を徹底的に追求、本物造りに取り組んだ。
 特に芋については、化学肥料で作った芋を止め、選び抜いた品種“コガネセンガン”を有機肥料で作る農家と契約栽培することにした。
 こうして完成した名品を、「私の名前は新聞や雑誌など読んでもお目にかかったことがない」と常に話していたと言う父親森伊蔵の名をつけて世に出したのである(前掲紙より)。
 19881215日のこと。時は昭和の暮れ(昭和63年)、日本は新しい平成に向けて動き出そうとしていたのであるが、この「森伊蔵」はまさに酒造界の新時代を切り開いたのである。
 覚志氏が発起したとおり、この焼酎が「消費者が直接、列をなして買いに来る」名酒となった事は周知のとおりである。
                             


24節気の酒 ・・・ 夏至

2009-06-21 17:39:34 | 

 今日は夏至。一年で一番昼の長い日とされている。冬至から見れば、今年も半分が終わったのだ。つまり夏のさ中というわけだ。
 しかし日本の夏至は梅雨の季節にあたり、じめじめとして夏という気がしない。今日も朝から雨で、夏の気配はない。

 この時節の酒は何か? 一年のほとんどを日本酒で過ごす私も、この時期はカラリとした焼酎が欲しくなる。六月の酒は焼酎(しかも本格焼酎)ではないか?
 焼酎もまた悲しい戦後史を生きてきた。日本酒が、美味しくない混ぜ物清酒でシェアーを激減させてきたように、焼酎も「甲類焼酎」という似て非なるものにシェアーを奪われてきた。甲類焼酎は連続蒸留器で100%まで蒸留したものを、薄めて味付けしたものであるので、本来の素材(芋とか麦とか)の味は生きていない。本来の焼酎(本格焼酎)は、ポットスチル式の単式蒸留で素材の味を残し生かしたものだ。ところがこれが「乙類焼酎」と分類され、長く日陰を歩いてきた。
 誰でも乙より甲が上だと思う。そして飲んだ甲類焼酎を本物と思われてはたまらない。これに対し、「これぞ本物」と本格焼酎を押し出してきたのが近時の焼酎ブームだ。芋のとれる鹿児島は芋の味を生かし、米の豊富な熊本は米焼酎を、麦の多い大分などは麦焼酎をと個性を打ち出した。このような個性的な味は甲類焼酎には生まれない。

 そしてこの本格焼酎ブームを不動のものにしたのが『森伊蔵』であろう。これまで随分飲んだが、その生い立ちを思うとなお更名酒と思う。長くなったので詳細は次回に譲るが、今や国内外に名をはせ、JAL国際便の土産品にもなったその品を先日飲んだので、写真だけでも掲げておく。
                    


トルコへ行きたい!

2009-06-20 17:52:33 | 

 4月19日付ブログ「旅心を誘うフランスの友」で、「今年はトルコかオーストラリアに行きたい」と書いたが、昨夜の友人との集まりで、急速にトルコが固まってきた。
 久しぶりに銀行時代の友人数名とベルギービールを飲みながら放談したが、その中の二人がトルコを気に入っていて、「トルコに行きたい。死ぬ前に、東西文明の結節点イスタンブールを見たい!」などと話していた私とK氏に「是非行け」とたきつける。
 それでなくてもウズウズしていたわれわれ二人の心に一気に点火、早ければ8月、遅くとも9月、という線で決行することになった。
 帰ってワイフに話すと、「何時死ぬか分からない身、チャンスがあれば全て乗る」と二つ返事でOK。

 実はこのような計画を内心温めているということがばれていたのか、JTBから「文明の架け橋・イスタンブールへ」という宣伝メールが届いていたのだ。
 どうしてこちらの計画が分かるのだろう、なんて思っていたのだが、にわかに貴重な資料に思えて見直している。
 問題は日数で、K氏の80歳、私74歳などを考え「8日間が精一杯」となり、イスタンブール中心にするか、カッパドキアを加えるかが計画の焦点。一応、イスタンブール中心と決めたが、思いはさまざまに飛ぶ。

 誰と誰に呼びかけるか? いつにするか? 
 何だかにわかに忙しくなってきた。
                    


頑張れまえしん!(前進・・・テノール歌手前田進一郎)

2009-06-19 14:02:06 | 文化(音楽、絵画、映画)

  昨夜、岩本町のオペラサロン「トナカイ」に、食事かたがた歌を聴きに行った。将来を楽しみにしている新進オペラ歌手前田進一郎君が出演するので、その応援も兼ねて。
 前田進一郎君は、娘と昭和音大声楽科の同期で、出身地沖縄で音楽活動を進めていたが、このたび将来を期して東京に出てきた。その前哨戦のように、昨年9月、名古屋の愛知県芸術劇場公演『ファルスタッフ』にバルドルフォ役で出演、ワイフと娘と三人で名古屋まで応援に駆けつけた話は既に書いた(08.10.1付ブログ)。
 彼は学生時代よくわが家に遊びに来た。当時から“まえしん”のあだ名で、わが家のリビングできれいな声で歌っていたが、その成長は見違えるほどで、このたび娘が企画した『オペラコンサート』(6231830より中目黒GTプラザホール)にも中心メンバーとして出演するので、その出来具合を見るためにも、昨夜出かけたというわけ。

 こちらは食事をとりながらのんびりと聞かせてもらったが、先月藤原歌劇団でデビューし今うわさの某ソプラノ歌手ともども、たっぷりと良いアリアを聞かせてくれた。23日の娘のコンサートでも、手を抜かずに頑張って欲しいと願うとともに、将来の大成を祈ってやまない。

 しかし問題は山積している。彼は一念発起して妻子を連れて上京してきたが、生活は甘くない。一分、一秒を惜しんで練習に励みたいが、日々の食い扶持を稼ぐ時間がそれを遮る。それよりも、安定した食い扶持を得る仕事が無いのだ。未だ無名のよそ者に、ピアノや発声を教わる生徒が容易に集まってくるわけは無い。何でもやると言っているが、練習と調和できるアルバイトなどそう簡単に見つからない。

 まえしん君は敬虔なクリスチャンだ。日曜は教会に行くし、オペラなど舞台の本番の前には必ず聖書を読むと聞いている。その清らかな生活がそのまま現れたような美しいテノールを、私は何とか伸ばしてあげたいと思っている。

 このような若き才能が、日々の生活に憂い無く研鑚を積んで生きていけるような社会は、いつ来るのであろうか・・・。
                            


タケノコ、山菜、ブナ林の緑の木漏れ日・・・

2009-06-17 14:51:42 | 

 駒ヶ岳の中腹にある「ゆぽぽ山荘」(わらび座の山荘)は、高さ2030メートルに及ぶブナの林に囲まれている。その一室に座るだけで、ブナの緑をいっぱい吸うことができる。しかも山荘の周囲には、あらゆる山菜が生えている。王様と言われるシドケ、女王と呼ばれるヒデコに始まり、ホンナ、アイコ、ミズ、わらび、ぜんまい、タケノコ(根まがりだけ)に至るまで、植えられまた自生している。
 だから、夕食も朝食も数種類の山菜料理が並ぶ。出かけるわれわれを見送りに玄関を出たご主人夫妻が、「今あなた方が食べた山菜はこれですよ」と、玄関脇から山荘を取り巻く草むらの中の山菜を、一本いっぽん説明してくれる。
 今回の目玉は「タケノコ」であった。タケノコと言っても、南の方で食べる太いタケノコではなく、細い笹のタケノコだ。これを焼いて、「着物を脱がすように」皮を剥ぎ取り、中の柔らかいところを味噌で食べる。あくもなく、新鮮な香りが口中に広がる。
 今が旬で、その日に採ったという山のように積まれた細いタケノコを見せてもらった。

 山荘を囲むブナも美しかったが、翌日乳頭温泉に向かうブナ林の美しさは格別であった。広葉樹の中でも、ブナの葉は特によく太陽の光を通すようで、一定の間隔をとって生える林の中に太陽の光が満ちる。しかもそれが、“緑の木漏れ日”となってゆらゆらとゆれる。
 この美しさはブナ林に特有ではないか?


 針葉樹は光を通さず、杉の林のように「昼なお暗き」様相を呈すが、ブナはまったく対称的である。ここでもまた、ブナの緑をいっぱいに吸った。
                                     


秋田の一番いい季節「六月」を満喫

2009-06-15 15:59:45 | 

 3ヶ月ぶりに秋田を訪ねると、入梅宣言はいつか、などのうっとうしい気分とは裏腹に快適な季節であった。
 12日午後2時秋田空港着。空港から秋田駅までのバス、秋田から八郎潟までの列車の車窓には、かなり緑を濃くした稲が水を張りつめた水田に勢いよく伸びていた。そして夕刻八郎潟に近づくにつれ、空は明るく晴れてきた。

 翌朝、旅館の窓を指し込む明るい日差しに目を覚ます。宿を出る頃(10時)、にわかに掻き曇ってポツリと来た感があったが、その雲も瞬く間にかき消され、快晴の空が広がる。
 実は今年の一月から『秋田歳時記』なるものを書きつづけているのだが(「こめたび」ホームページ所収)、この「六月」を“緑濃く最高の季節”と題して、「秋田の6月は、一年で一番いい季節」と書いた。もちろん、私の独断で書いたのではなく、かなり多くの人に取材して書いたのだが、私は、ほんとうに「そんなに良い季節なのか?」と一抹の不安を感じていたのだ。
 ところが、この1214日の3日間で、その快適さを満喫した。13日は、八郎潟町のK先生に“秋田の歌碑”などの資料と貴重な話を聴き、昼食を兼ねた某寿司屋の主から“はたはた漁”の話を聴き、車を秋田市に飛ばして「竿灯資料館」で説明員の方に竿灯の歴史、実演、映像を通した話を聴き、リーフレットや本を買い込む・・・という取材を続けた。
 そこから、その日の宿「ゆぽぽ山荘」(わらび座の山荘)に向かったが、角館を過ぎ田沢湖を遠目に、駒ヶ岳の中腹まで上るその行程は、高く青い空に伸びる木々と、濃い緑に包まれていた。空気は怜悧で、半袖シャツでは薄ら寒さを感じるくらいであった。
 翌日も最高の天候で、乳頭温泉の一つ黒湯で“快晴の下の露天風呂”に浸かった。湯の花の浮く湯船に四肢を伸ばし、真っ白な雲、真っ青な空と調和する深い緑をいっぱい吸った。

 6月のど真ん中・・・、自ら書いた「緑濃く最高の季節」、「一年で一番いい季節」を肌で実感しながら、私は心の底から満足した。

 しかし待てよ? そう世の中うまく行くのかなあ? これは、大して分かってもいないよそ者が折角「良い季節・・・」などと書いたのだから、せめてそ奴が来た時くらい心地よくしてやるか・・・、という天の計らいであったのかもしれない。
                                                               


秋田へ行ってきます

2009-06-11 22:40:19 | 

 明日から3日間、秋田へ行ってくる。用事は3っつある。
 第一は関係している会社の株主総会であるのでそれに出席する。このような老いぼれが参加しても何の役にも立たないが、こちらにとってはボケ防止の役に立つかもしれない。
 第二は、福禄寿酒造さんが今年の全国新酒鑑評会で金賞を取ったのでお祝いの一言を言いに行く。いろいろな関係があって、ひそかに応援している蔵であるので。
 第三・・・これがなかなか厄介なのだ。実は前にも触れたような気がするが、身の程知らずに「秋田歳時記」なるものを書いており、6月までは書き終えたが、7月以降の材料の取材をしなければならない。内容は伏せさせていただくが、秋田の夏から暮れにかけての半年・・・、そのテーマのいくつかにつき、少なくとも四人の人に会う計画を立てている。明日(株主総会)を除くたった一泊二日の間に・・・。

 まあ、このようなことをやっている間は、生きていけるのかも知れない。一番怖い敵は、酒どころ秋田の酒である。この飲む量を制御できれば、本当に生きていけると思っている。
                    


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