わが一行は9名、平均年齢は70歳台後半。この種の集まりの話題は、死ぬ話か病気の話に相場は決まっているが、今回の集まりでそのような話はほとんど出なかった。先生のご遺徳か、それがこの会の誇りでもある。
みんな多士済々であるが、その中で養鶏業を営んでおるS氏の話は面白かった。、それによると……、
卵の色や味は鶏を育てる餌により異なる。トウモロコシで育てられた卵に慣れているのでそれをおいしく感じる。米で育てた鶏の卵は、味があっさりしていて美味しさを感じない。しかし卵において変わりなく、栄養も変わらない。1個15円から100円まであるが中身は同じ。100円の卵を高価と思っているが、確かに値段は高い(高価)が中身は同じ、ということだ。この話は、今後卵を買ううえで教訓としよう。
日本の鶏肉はほとんどブラジルから輸入しているそうだ。ブラジルの養鶏業の設備や機械はイタリアが供給している。南米の宗主国はスペイン、ポルトガルで、その宗主国はイタリアだから、つまるところブラジル産業はイタリアに支配されているそうだ。ローマ帝国の威光は、いまだ世界を照らしているというべきか。ブラジルの鶏肉を食っている日本も、その威光の下にあるのだ!
この旅の後半は、同期のG君とHさんと行動を共にしたが、その案内役が前述したわが旧友K君。彼はその日東京出張で、我々より3時間早い3時半のフライトであったが、それまでの寸暇を惜しんで五台山を案内してくれた。
もちろん私を除き初対面だが、独特の気さくな個性で、紹介した3分後には10年の知己のように親しい雰囲気に包まれた。彼は喋りまくりながら竹林寺から牧野植物園を案内した上、入園料から昼食代までの一切を、われわれに口を出させず支払った。加えて高知駅での別れの際には、高知名菓の土産をわが3名に手渡した。その手際の良さに我ら3名は舌を巻いて従うしかなかった。
極めつけは、私が彼の車に置き忘れたケイタイが、高知空港に届けられていたことだ。午後6時半フライトを知っていた彼は、3時半フライトの際、そのケイタイを空港の土産屋に依頼して私に呼び出しをかけてくれたのだ。(当初はANAに依頼したが、ANAは受け付けてくれなかったという)
これらすべての手際よさは「Kさんのサプライズおもてなし」として、私たちの間で語り草になっている。
高知城
T病院へ定例的な眼の検査に行ってきた。黄斑浮腫を縮小させるための注射をやってかれこれ2か月目、その後の経過を診るためだ。結果は若干広がっており、注射の効果が消えつつあることを示している。
注射の後はよく見えていたが、すこしづつ左が欠けて見えるようになっていたので、自覚症状もあったといえる。また2,3か月したら注射ということになるのだろうか? 加齢…には勝てない悲しさだ。
それはさておき、昨日の診療には時間がかかった。いつもの2倍を越えて3時間超を要した。聞けば、「電子診療」に診療方法を変えたらしく、医師が診療内容や患者の病状をそのままパソコンに入力することになったらしく、そのため一人一人の診療に時間がかかるようになったらしい。
従来は診療結果が記入されたペーパーを会計窓口に出して代金を支払っていたが、診察券だけを出せばすべて窓口で分かるようになったようだ。確かに病院側としては大変な合理化になるのだろう。医師の診療内容をペーパーで渡すのと、即時パソコン入力で全部門が把握できるのとでは大違いであろう。
しかしその合理化のしわ寄せが、患者の待ち時間にかかるのはいかがなものか? もちろん医師も大変な労力を要するだろう。つまり患者と医師にしわ寄せした企業合理化ということにならないか?
病院側の説明によれば、一時的な混乱で、医師が慣れてくれば収まるということだが、所詮は従業員の労働密度アップにより企業収益をあげようという一般企業と同じことが病院でも行われているということだろう。
それが、患者の待ち時間にも影響するとすればとんでもない。一時的混乱というが、本当に収まるのか次回の診療でチェックの要あり。
ようやく安倍政権のほころびが見え始めた。改造内閣の看板娘たちが相次いで辞職、閣僚ではないが片山さつき氏まで同調して問題を起こしている。やっと女性に光が当たる時代が来たかと夢みた世の女性に、どう申し開きをするのだろうか?
古い政治界の世襲議員としての小渕優子氏は、その甘さをそのままさらけ出したのであろう。松島氏の「たかがウチワ…」という態度も、片山氏の議会を無視した委員会運営も、多数を背にした傲慢さがにじみ出ている。三人とも一度議員を辞めて、庶民のつつましい生き方を学び直し、顔を洗って出直すべきではないか?
男性閣僚も負けていない。江渡防衛相をはじめ小渕氏の後任宮沢経産相も登壇早々問題の山だ。秘書が行ったのか本人が行ったのか知らないが、SMバーとはとんでもない。そのようなところにかかわりを持つ人に、国の政治を任せる気にはならない。閣僚としての品位の問題だ。
いずれにせよ、このようにボロボロと問題が出てきたのでは、安倍改造内閣もこのまま続けるわけにはいかないだろう。それとは関係ないかもしれないが、消費税増税などもってのほかだ。すべて出直してもらいたい。解散総選挙は意外に早いかもしれない。
ところが今朝のフジテレビ「報道2001」によれば、内閣支持率はあまり落ちてない。自民党の支持率は落ちたが、民主党支持率も落ちている。攻める野党に力なく、行き場のない国民は未だ安倍内閣に期待しているのだろうか? 安倍晋三という男のどこにそれほどの魅力があるのだろうか?
土佐が輩出した偉人は多い。日本の近代史は土佐の人々が切り開いたのではないか? 坂本竜馬、中岡慎太郎、武市半平太、板垣退助、岩崎弥太郎、ジョン・万次郎…、はては吉田茂に至るまで。私はその中でひそかに植木枝盛を慕っている。土佐自由党では板垣が有名であるが、その理論的支柱は植木であったと思う。
私がそれを言うと、「酒好きのお前は、植木が全国酒屋会議のストライキを指導したからだろう」と言われるが、それだけではない。確かに植木枝盛が、酒税の増税に反対して立ち上がった明治15年5月1日の「全国酒屋会議」を指導したことは、“幻の酒屋メーデー”として歴史に残るが、植木の業績はそれだけにとどまらない。
土佐自由党が起草した憲法草案は彼の立案によるところが大きく、また婦人層を含めた底辺の人たちを教育して、幾多の婦人活動家を育てたのも彼であった。「自由は土佐の山間(やまあい)より」という有名な言葉は、植木の言とも言われている。
それはさておき、土佐は牧野富太郎という偉大な植物学者を生んでいる。植物学という地味な学問のため、板垣退助や吉田茂などのように華やかではないが、文久2(1862)年に生まれ明治、大正、昭和を生きて、昭和32(1957)年に没するまでの94年の生涯を、植物学ひと筋に捧げた世界的植物学者である。
牧野は、「94年の生涯において蒐集した標本は約40万枚、新種や新品種など1,500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた」(牧野植物園リーフレットより)偉大な人物である。
その業績を語る豊富な資料を展示した記念館を含む「県立牧野植物園」が五台山にある。約6haに及ぶ広大な園地には、牧野ゆかりの野生植物など、約3,000種類が四季を彩るといわれ、すべて回るには優に一日を要する。
私たちは時間の許す限り園地を回り、展示品を眺め、記念館のテラスで食事をとった。これまた、竹林寺の緑にもまして心を豊かにしてくれた。
牧野植物園正面入り口
館内に、牧野の少年期、青年期、壮年期の写真が飾ってあった。少年期の知的な面立ち、青年期の充実感、また壮年期の豊かな風貌が、その成長の跡を物語っていた。
少年期青年期
壮年期
翌朝9時、一同うち揃って墓参に向かう。宿泊したホテル日航高知旭ロイヤルから車で約20分、介良(けら)という町にある介良霊園が墓地の在所。
建立の記録を見ると、先生はご逝去の2年前にこの墓を建てたようだ。先祖伝来の墓を整理し、「竹村家代々の墓」を建てそこに収め、その隣に自分の入る別の墓を「竹村家の墓」として新たに建てたようだ。
奥様の話として伝え聞くと、「主人はお骨で収めたのではなく、自然に帰る形で収めました」ということらしいので、それまでの先祖の墓と別に建立したのかもしれない。マルクス経済学者(唯物論者?)としてのお考えがあったのかもしれず、実直な先生のお人柄を改めて偲ぶこととなった。
戒名:教門院誠智脩道居士 平成17年10月19日没
墓参を終えてホテルに帰ると10時30分、夕方6時のフライトには十分時間があるので、先ずは五台山に上り竹林寺を訪ねることにする。高知在住の友人(臼杵高校時代の同級生…後述)K君が、自慢のベンツで案内してくれるというので、昨日から行動を共にするG君、Hさんと乗り込み竹林寺に向かう。
竹林寺は四国霊場第31番札所、名僧行基(ぎょうき)が開いた古刹。特に夢窓国司の作庭といわれる庭の美しさは何とも言えない。緑豊かな参道を歩いて心安らぎ、師を偲ぶ旅に相応しい訪問先となった。
私が竹村修一先生に接したのは昭和29(1954)年から33(1958)年、ゼミナリステンして親しく学んだのはその後半2年であった。当時大分大学にはマルクス経済学系の先生は3人のみで、九州大学を経て講師として着任間もない先生は、その中核的存在として輝いていた。後に経済学部長まで勤め上げるが、講師から助教授という最も熱い時期の教鞭を受けた。
卒業後も先生を慕う学徒は多く、東京在住者だけでも最盛期は2、30人集まり、毎年「師を囲む会」を続けていた。その会は先生の死後も続いて、今年は10回忌を迎えたので、これを機に生地を訪ね墓参を行うことになったのである。
今回の同行者は総勢9名、うち3名が33年卒の同期生で、このG君とHさんと行動を共にすることとなった。
19日(日)12時45分、快晴の高知龍馬空港に降り立ちバスで高知駅に直行、夜の宴会までの時間を使って先ずは桂浜を訪ねる。G君が高知は初めてというので、桂浜とはりまや橋だけは見ておこうというわけだ。
ここの眺めはいつ見ても素晴らしい。松や砂浜の美しさもさることながら、海岸線から太平洋を望む雄大さは他に比類ない。坂本竜馬のような大きな人間が生まれた理由がわかるような気がする。
その龍馬の像が高台に建っている。遥か太平洋の彼方を見つめているとも、また江戸を見つめているとも言われている。タクシーの運転手さんの説明によれば,「昭和3年にこの地の青年が当時2万5千の寄付を集め建てた。同じく高知出身の岩崎が金を出そうと言ったがそれを断り、自分たちの手で建てた」とのこと。確かに銅像の裏にはその旨の記載があり、4名の青年の名が記されてある。
「高知の青年の心意気ですね」というと、「土佐の“いごっそう”だ」と運転手さんは胸を張った。
大学のゼミナリステンたちと、恩師の墓参りに行くことになった。恩師竹村教授を偲んで毎年東京在住者で会合を開いていたが、一つ趣向を変えて恩師の郷里に出向くことにしたのだ。四国の高知ということでもあり、ちょっとした旅行気分を味わうことも加味したわけだ。すでに7回忌も過ぎたので、遊び気分を加えても先生に叱られることもないだろう。
台風の心配もなく、秋晴れの四国を存分に味わうことにしよう。全員で10名になるらしいが、同期生が3人おり、行動を共にすることになるだろう。細かい計画は全くない。まだ行ってない室戸岬を訪ねたい気はあるが、そんな無理はしないつもり。のんびりと高知市を楽しんで来よう。
心友会のことについては、このブログで何度か触れた(2012,6.23付「心友会のこと … どんな心でつながれている会か」など)。これは銀行時代に労働組合活動を共にした人たちの会だ。
労働組合と言っても都市銀行の企業内組合の活動で、かつての総評とか国労とかの華々しい活動はなかったが、それでも良心的な人びとが、労働条件の維持向上、諸権利や働くものの文化を求めてひたすら闘ってきた記憶は今も残る。
だから当時から40年近くたつが、年に一度は集まって思い出を語り、現下の世相を語り合う。昨日、約20名が集まり、恒例の会を開いた。
前述のごとく都市銀行の労働組合として決して華々しいものではなかったが、60年代からら70年代の高度経済成長を背景に、賃金や諸権利はじめ労働条件の一定の前進を勝ち取ることができた。それに反し現下の貧困、雇用問題は深刻である。年収200万円以下の貧困層が2千万人に及ぶとか、特に必死で働いても生活できないワーキンプアーが1千万人を超すとか想像を絶する。その根底には不正規労働者などの雇用問題があるのだろう。
そしてそのなお根底には、労働組合が機能していないことがあるのではないか? 機能していないというより労働組合はなくなっているのではないか? 働くものの唯一の力は「組合としてまとまること」だ。組合として要求を一つにまとめ、一致団結してその要求の実現を図ることだ。
組合がないことが、現下の日本を暗くしているだけでなく、日本の将来をも暗くしているのではないか?
心友会に集まった人たちは、当時少なくとも次の三つの事を守ろうと必死で頑張ってきたような気がする。すなわち、①権力に媚へつらわない、②組合員、従業員を信じる、③組織の統一と団結を守る…。
日本の労働者は、このような気概をいつから失くしてきたのであろうか?
一昨日、神宮外苑の日本青年館で上条恒彦コンサートが開かれた。今回取り壊されることとなった日本青年館を惜しんでのコンサートである。
日本青年館は1925(大正14)年に日本青年団のために建てられたという。その後1979(昭和54)年に改築され、地上9階、地下3階の堂々たる2代目青年館となった。ホテル、結構式場、ホールなど総合的な催し場で、私も何回この会館に通ったことか数えきれない。
この度、隣接する国立競技場の2020オリンピックに備える拡張で、その周辺用地となるため90年の歴史を閉じる。南寄りの地に再建される計画ということであるが、詳細は未定のようだ。だからこのコンサートのテーマは、
「90年間のご愛顧に感謝をこめて…
二代目日本青年館に感謝し三代目を待ち望む」
となっていた。
それはさておき、上条恒彦の歌う歌は懐かしかった。老齢(74歳?)の所為か風邪の所為か喉を痛めていたようだが、相変わらず重量感のある声で、わが青春期から壮年期を辿ってくれた。「いぬふぐり」に始まり「さとうきび畑」や、あの「木枯らし紋次郎」や「たびだち(出発)の歌」など……
一貫して反戦、平和、民衆の歌を歌い続けた上条恒彦に敬意をささげる。日本青年館の歴史を偲ぶ意味からしても、最適の歌手のコンサートであったであろう。
昨日は、姪のKちゃんの結婚披露宴に参列した。Kちゃんは未だ34歳の若さで「こめたび」という会社の社長をやっている。「秋田の米(こめ)を都会の人に食べてもらい、その美味しさと秋田の魅力を知った人に、秋田へ旅(たび)をしてもらおう」というのが「こめたび」社の理念だ。
当然のことながら半分は秋田の人と付き合うことになるが、ついにその虜となって横手市のWさんと結婚することになった。このところ地方の人の「地方離れ、都市集中」が問題になっているが、東京生まれ東京育ちのKちゃんの「秋田への御嫁入り」は快挙である。もちろん、もう一本の軸足は、「米を食べてもらう人の住む都会」に置くことは当然であるが。
結婚式は先月27日横手で行われた。題して「稲刈り祝言」……
米どころ横手らしく、田圃の畔道に赤じゅうたんを敷いて、そのバージンロードを歩いてきた新郎新婦が、たわわに実った稲(亀の尾)を刈り取るという演出である。地元の農家、酒蔵関係者など、70人の友人が祝ってくれたという。稲刈りというユニークな演出と「祝言(しゅうげん)」という昔懐かしい言葉がいい。
その東京披露宴が昨日、池袋の『リビエラ』で行われた。こちらは、わが首藤一族に新郎一家を紹介することが主目的で20名ほどのこじんまりした会であったが、横手に近い羽後町の「西馬音内盆踊り」の披露や、秋田の産物をふんだんに使った料理の振る舞いなど、これまた「こめたび」の趣旨を生かした楽しい催しであった。
従妹のお嬢さんのインタビューに答える新郎新婦
見事な西馬音内盆踊り
秋田の素材を生かした料理の数々