旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年も終わる

2016-12-31 15:29:37 | 時局雑感

 

 今年も暮れようとしている。81歳の越年である。
 何度も書いてきたが、若いころは80歳まで生きることは想定していなかった。4,50歳のころでも、70歳くらいから先のことは考えたことがなかった。つまり老後の蓄えとか生き方など考えることなく生きてきたということだ。そのうち平均寿命とか余生などの話が出てきて、また、自分の健康状態などを考えるにつけ、話がおかしくなってきたことを思い出す。時すでに遅く、準備なしに迎えた老後は不安なことばかりが多い。
 人はなぜ長寿を望むのだろうか? 長く生きているほどいいことがあると思うからだろう。しかしそれは誤りではないか? 年を取るほど確実にすべてにおいて悪くなるのではないか? 体の自由はきかなくなる。思考力は落ちてくる。金や資産はなくなってくる(消費は避けがたく進むが新たな収入の道はないのだから)。友人知人は確実に減っていく…、…。
 長寿でいいことはないのではないか? 生きていればいいことがある、というのは大変な錯覚ではないか? 活力を失うだけ過去の思い出に生きる。しかし、中年ごろまでは過去のいいことばかり思い出していたが、年を取るほど悪いことばかり思い出すようになる。嫌な思い出ほどイヤなものはないが、不思議といいことはあまり思い出せない。
 
 こんなことを考えながら、また新しい年を迎える。それにしても長寿社会というのは恐ろしい。解決策なんて絶対にないと思うからなおさら怖い。
 もちろん、新年が巡ってくれば人はまた何かに期待して生きていく。神は人の世が絶えないように希望というものを与えたのだろう。そしてこの希望ほど厄介なものはないのであろう。
 新しい年がいい年でありますように。

      


今年を振り返る … 文化

2016-12-29 16:19:45 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 既述の通り、今年の投稿項目の顕著な変化は、旅と酒の、特に旅の投稿が激減して、、その代わりに文化とスポーツが多くを占めたということであった。特に文化は、全58件中13件を占め、ウェイトは時局雑感を除けばトップとなった。
 その内容は、圧倒的にオペラに関することが多く、つまり、娘の主宰するNPO法人ミャゴラトーリの活動紹介で占められている。前半は、8月に公演したベッリーニ作曲のオペラ『カプレーティとモンテッキ』の記事で、後半は、明けて1月9日に公演する松井和彦作曲『泣いた赤鬼』の紹介だ。
 この二つの物語は、オペラというより別の形で知られている。前者はシェイクスピアの演劇『ロミオとジュリエット』として、後者は浜田廣介童話の代表作として、いわば子供向けの話として。ところが、娘がこのオペラを取り上げた動機は、単なるメロドラマや子供向けの話ということではなく、その原作が奥深く問いかける戦争の愚かさや差別思想の恐ろしさという、人間の問題の根源に触れる内容がその中にあるからだ、ということであった。
 つまり、21世紀にいたってまだ人類が当面している戦争(新たなテロを含む)や差別問題(貧富の格差、難民問題など)を考えるとき、これらのオペラは、きわめて現代的課題を提起しているということだ。過去の一般的演劇や物語としてみるのではなく、現時点の課題に照らして見つめ直そうということだ。したがって娘は、『カプレーティとモンテッキ』を、大人たちの愚かな争いの中で苦悩するロメオとジュリエッタの戦争告発として描こうとし、『泣いた赤鬼』も大人向けの本格的オペラとして取り組んだようだ。その根底には、「大人のわかるものは子供もわかる。大人に差別の根源がどこにあるか見てほしい」という願いがあるようだ。
 私自身としても、この二つのオペラに接する中で、特に『浜田廣介童話集』を何度も読み直す中で、相当に勉強をさせられた。時あたかも「戦争前のめり安倍政権」の暴走が日々の政局を動かしているだけに、絶えることなき人間の愚かさを見せられているようで、うら悲しい思いを続けている。来年はどうなるのだろうか?


今年を振り返る … 旅と酒

2016-12-26 16:28:23 | 

 

 このブログは「旅のプラズマ」と名付けたように、旅の記事を書いてきた。また、もう一つの趣味である酒についても、私の旅の多くが酒に結びついていることもあり、多く投稿してきた。ところが今年は、この二つのカテゴリーに関する投稿のウェイトがめっきり落ちた。
 過去10年で1490稿の記事を書いてきたが、そのカテゴリー別内訳は、時局雑感384(26%)、旅353(24%)、酒281(19%)、政治経済212(14%)、文化177(12%)、スポーツ83(5%)であった。ところが今年のウェイトは、旅が7%、酒が15.5%と大幅に落ち、反面文化が22%、スポーツが14%と増えた。(時局雑感26%、政治経済15.5%とほとんど変わらなかった)
 つまり、旅には全く出かけず、酒も三分の一宣言により控えてきた結果がそのまま表れているようだ。酒については、酒の会の出席を三分の一程度減らし、晩酌も大変な努力の結果二合強から二合弱に減らしてきた。齢(とし)相応の量と思っているし、その所為かγ‐GTPが初めて基準内(60)に収まった。たまに酒の会に参加すると3、4合飲むこともあるが、晩酌の二合弱(一合何勺かは秘密)が効いている。ただブログの話題はめっきり減っているようだ。
 旅は、今年は全く出かけていない。日帰りバス旅行で群馬の富岡製糸場に行ったぐらいだ。旅のうちに入らない。九州の臼杵に2度帰ったが、弟の四十九日と一周忌で、旅どころではない。年一回の海外旅行と、ここ数年は国内旅行をかなりこなしてきて、そのため旅の投稿がグングン増えてきたのであるが、これで打ち止めということであろう。目は悪く、足はふらつく状況では、海外はもちろん国内旅行ももままならない。まあ、これからは書棚に並ぶ旅行記など膨大な資料と写真集をたどり、旅の思い出に生きることにしよう。
 酒について一言だけ書いておく。日本酒の水準が相当に高まってきたということだ。ここ数年、特にその思いを強くする。その多様性と質の高さは、醸造酒としては世界トップ水準に到達したのではないか? 今月16日、今年度の「日本純米酒大賞酒を楽しむ宴」(フルネット社)に参加したが、そこに選ばれた32銘柄46商品は、いずれも個性豊かで文句のつけようのない品質であった。
 中でもグランプリ酒に輝いた山形市の『秀鳳』は、純米大吟醸のグランプリほか、純米酒、純米吟醸、特別純米など出品5種すべてで金賞を獲得するという出来栄えで驚いた。毎年全力を傾けるとはいえ同じ造りを繰り返す酒つくりで、どのようなめぐりあわせでこのような素晴らしい酒が生まれてくるのだろうか? どれを飲んでも驚異的においしかった。

    


今年を振り返る … スポーツ

2016-12-23 14:21:21 | スポーツ



 今年はオリンピックの年であったし、国内にあっても相撲界で何十年ぶりに日本人力士が優勝するなど、スポーツの話題に事欠かない。しかし、何と言っても野球界での広島カープの優勝であろう。中でも黒田博樹!
 記録だけからいえば、2年連続トリプルスリーの山田(ヤクルト)や、攻守ともにベストナインに選ばれた大谷(日本ハム)などいるが、真のフランチャイズ制を生かした市民球団広島カープの優勝と、その中心となった黒田の存在感は他の追従を許さない。親会社を持たず市民が支え続けたこのような球団が、戦後60数年間にわたって存在し続けたこと自体が驚異である。
 金のない球団は高額の選手を買うことはできず、ひたすら選手を育て続け、創立(1950年)から30年をかけて、ようやく80年代の黄金期を迎える。しかし、それから今回の優勝まで再び25年を要した。そして、そこで育てられた恩義を忘れなかった男が黒田博樹であった。彼は、20億円のメジャーからのオファーをけって、4億円の年俸で古巣カープに帰りその恩義に報い、今回の優勝に貢献したのである。いくらBクラスが続こうと、最下位が続こうと常に変わらず支援を続けた市民の力ともに、その存在はまさに黄金の輝きを放っている。
 この特異な球団の魅力は、数年前からカープ女子などの新たなファン層を生み、黒田の存在が重なって、広島カープは新たな境地に到達しようとしているのではないか? 金儲け主義のプロ野球社会と別の社会を、広島市民と全国に広がった広大なファンとともに築き上げつつあるのではないか?
 広島カープは今回の優勝後、広島市に5億円の寄付を行い、そのうち1億円は原爆ドームの維持復旧に充てるように申し出ている。

 今年のスポーツを振り返る投稿で、オリンピックに触れないわけにもいかないので一言。
 陸上400メートルリレーの銀メダル獲得を称賛する。9秒台走者のいない日本チームが、それら選手が大半を占めるジャマイカ、アメリカと対等に戦い2位をを獲得するとは、バトン操作を含むチームワークの勝利というほかない。世界は驚いたのではないか?

  
  松沢病院ケヤキ公園(12月2日撮影分)


今年を振り返る … 政治経済

2016-12-20 13:40:34 | 政治経済

 

 今年も余すところ10日となった。毎年この時期になると、一年を振り返る記事となる。月並みであるが、年中行事として主要な出来事の項目ぐらいは掲げておこう。まずは政治経済…。
 国際政治は波乱にとんだ年であったのだろう。英国のEU離脱、米国のトランプ大統領選出、シリアなど中東の紛争と難民問題などなど。最後のプーチン・安部会談では、鳴り物入りで始まったが北方領土返還の糸口も見えず、それこそ鼠一匹出てこなかったが。
 米英二大国のハプニング事件は大方の予想を裏切るものであったが、底辺を流れる国民の閉塞感は、中東問題などとも共通する「格差と貧困の拡大」が生み出したもので、必然的な要因があったのであろう。
 資本主義社会は行き詰まりの様相を見せているが、その出口が見えない。社会主義・共産主義社会は、ソ連、中国、北朝鮮などが歩んだ独裁政治でその理念は大きく傷つけられたが、しかし、それに代わるものを誰も示し切れていない。資本主義は出口なき袋小路の中にいる。
 ただ、前述した米英二大国で新しい現象が起こっている。11月14日付「アメリカ大統領選挙(つづき)」で書いたように、同大統領選では、民主党予備選で社会主義者を名乗るバーニー・サンダース氏が善戦し多くの支持を集めた。イギリス労働党党首選では、同じく社会主義者を名乗る最左翼のジェレミー・コービン氏が勝利した。いずれも、民主的社会主義者と「民主的」を冠しているが、資本主義の旗手を自認する反共二大国にあって、社会主義者を名乗るのはタブーではなかったのか? 多くの国民は、資本主義の出口に社会主義という古典的王道を求め始めているのではないか? もちろん、暴力的変革・独裁の道ではなく、修正資本主義――議会を通じての民主的変革の道であるが。
 日本にあっては、安倍自公政権の強権政治ぶりが目につく一年であった。維新の会の協力もあり圧倒的数の力を誇り、やりたい放題という感じだ。安倍首相のもつ右翼思想を含め、戦前歩いた道を再び歩き始めるのではないかという危惧を表明する人は多い。しかし安倍政権の支持率は依然として高く、50%を超えている。戦争法の強行にしろ福祉切り捨て政策にせよ、一般国民には決してよくない政治だと思うが、支持は高い。これが最大の疑問だ。
 ただ、反面に野党四党と一般国民の統一戦線が組まれてきたことは、かつてないことだろう。しかも、共産党を含む共闘が国政レベルで組まれてきたことは、安倍強権政権に対するアンチテーゼとして必然的に生まれてきたのかもしれない。([注]日本共産党の現綱領の方針は、前述した「修正資本主義――議会を通じての民主的変革の道」と理解している)。これらの動きが、前述した欧米の動きと何か軌を一にするものがあるのかどうか、関心を持っている。本日付毎日新聞の世論調査によれば、中核となる民進党と共産党支持者の6割以上が「共闘に賛成」となっているので、ぜひとも前進させてほしいものだ。来年に向けた最大の関心事である。

 


不易流行 … ノーベル賞授賞式の服装に思う

2016-12-14 09:34:44 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 職場でネクタイについて話題になった。30年前、某大手企業に入社した時、「スーツにネクタイ以外はダメ、靴下も紺か黒…」と厳しく言われたが、今や、「ネクタイなど〆ていて仕事ができるか!」と言われる時代になった、ということだ。世の中の変化は目まぐるしい。
 それに対し私は、「ラグビーやサッカーの監督はネクタイを締めている。あの戦いの場でネクタイを締め、立派に仕事をしているのではないか。何よりもあのネクタイ姿はカッコいい!」と述べておいた。
 近年の暮の話題の一つにノーベル賞にかかわる話題がある。日本人受賞者が続いていることもあるからだ。そして私は、あの授賞式に臨む受賞者の美しい姿に見惚れる。それを象徴するのはあのタキシード姿である。今年も大隅良典・東京工業大学名誉教授が医学生理学賞を受賞し、その受賞の様子がさまざまに報じられた。大隅氏のひげ面がタキシード姿に映えて、威厳をたたえなんとも美しかった。ネクタイ姿の勝利である。
 一方、ボブ・ディランの文学賞受賞が、その授賞式不参加も含めて話題となった。ボブ・ディランは、「受賞は大変な名誉。音楽は文学か? という問いに明快な答えを出してくれて嬉しい」とメッセージを送ったが、授賞式へは参加しなかった。氏の不参加の理由は、われわれ凡人にはわからぬ様々な理由があるのであろうが、その理由の一つに服装の事もあるのではないか? 彼は、授賞式に参加するとしてもタキシードはもとよりネクタイは締めないだろう。ボブ・ディランは、あのギターを弾きながら汗まみれで歌う姿でなければならない。しかし、スエーデン・科学アカデミーは、その姿での受賞を許さないであろう。
 世の中は絶え間なく移ろいゆく。ボブ・ディランはその先端を行ってるのかもしれない。またスエーデン・アカデミーは伝統と威厳を守り続けているのだろう。不易と流行……芭蕉の説いた俳諧の理念では、この両者は根本において一つであるとされている。

   
    12月11日付毎日新聞夕刊より


川内優輝選手の激闘を称える … 福岡国際マラソン3位(日本人トップ)

2016-12-05 13:51:54 | スポーツ

 

 昨日の福岡国際マラソンには興奮した。すべては、来年の世界選手権代表をかける川内選手に期待してのことであるが、内心はほとんど期待をしていなかった。直前のけが(右ふくらはぎと左足首ねんざ)が報じられていたことと、ここ1、2年不調が続いていることから、多くを期待することはできないと思っていたからだ。
 周囲には無理な出場を危ぶむ声も多かったと聞くが、彼は、「代表に選ばれることよりも、闘うことが目的」と、出場を選んだ。マラソン選手として、全く走れない状況でない限り、全力を挙げて挑み、闘うことが義務付けれている、というのが彼のスポーツマン精神であるようだ。もちろん、ファンの期待に応えることを含めて。
 結果は、ペースメーカーが離れた22キロ以降、積極的にアフリカ勢につき、し烈な駆け引きを交わしながら、優勝した昨年世界選手権の銀メダリストツェガエ(エチオピア)に22秒差、本大会三連覇を狙うマカウ(ケニア)に13秒差で3位に入った。2時間9分11秒、残念ながら9分を切れなかったが立派な記録である。
 レース後、嗚咽を繰り返していたが、かなり時間をおいて、両足をひきずりながらインタビューに応えた。そこでも、「周囲の応援に励まされ、がんばれれてよかった」と、涙を抑えきれなかった。悪条件を自覚しながらも、スポーツマンとして「戦い抜いた」姿がそこにあった。
 あといくつかの選考レースがあるので、その行方は分からないが、今季のマラソンはこれですべて終わった、という感さえあった。川内選手、感動をありがとう。

  
   12月5日付毎日新聞より


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