今日の各紙は、「黒田 復帰戦勝利」と広島カープの勝利を報じている。カープの一ファンとして、この日を迎えた感慨は一入(ひとしお)だ。
広島カープは、昭和24(1949)年12月5日、広島市や地元財界・有力者の支援のもとに「広島野球クラブ」として誕生、県民球団の性格を打ち出し、資本金は広く一般から募集した。迎えた昭和25年は41勝96敗1分、勝率2割9分9厘で8位(最下位)に終わった。わずか1厘だが勝率が3割にも満たなかったところに、この球団のその後の苦難が感じ取れる。以降43(1968)年に3位(Aクラス)になった以外は、50(1975)年に初優勝を遂げるまで一貫してBクラスを抜けでることはできなかったのである。
初代監督は地元出身の石本秀一。氏は3年半カープの指揮を執ったが、グランドでの監督業はさておき、一年中金集めに奔走していたと聞いている。日本野球界の生んだ偉大な野球人に、野球をさせる余裕をカープは持っていなかったのである。
当時のホームグランドは観音新町の広島県営球場であったが、その客席の要所々々に四斗樽が置かれてあり、観戦を終えた人々は、その樽の中に何がしかの金を投入して球団資金の一部に寄付していた。風呂屋に行っても、つり銭はカープ支援箱に投入される。また、球団は資金集めのためにたびたび債券を発行、市民がそれを購入して支援した。もちろん、配当はおろか元本すら返ってこなかったのであるが…。
1975年の初優勝以来、一時黄金時代を築くが、親会社を持たないカープが金のないことに変わりはない。高給で選手を買うことはできず、逸材を探しては2軍から期間をかけて必死に育てる。育った選手は、名を成すと巨人や阪神に出て行く。
しかし、その恩義を忘れない男もいたのだ。黒田博樹……、この男は、自分を育ててくれただけでなく、メジャーリーグに送り出して武者修行させてくれた恩義をも忘れなかった。アメリカで仕込んだ高度な技術をひっ提げて、真っ直ぐ広島カープに帰ってきて、そのマウンドに立って2740日ぶりの勝利を挙げた。
「お帰りなさい」の幕を掲げスタンドを埋め尽くすファンは、市民球団的性格に引き寄せられた新たな層(カープ女子等)などで、かつてなく厚みを増していた。黒田はそれをどう感じ取ったことだろうか…。
本日の毎日新聞スポーツ欄、富重圭以子記者のコラム「自由席」は、次の言葉で結ばれていた。
「球団の体質と、選手の性格と、ファンの熱気。そのどれが欠けていてもあり得なかった至福のシーズンが始まった。」
2015年3月30日付毎日新聞より