旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

クラスター爆弾禁止条約と有力6紙の報道

2008-05-31 18:39:12 | 政治経済

 

 久しぶりに一つのテーマをめぐって、有力各紙の報道の仕方を追求してみた。アイルランドのダブリンで、有志国110カ国により全会一致採択された「クラスター爆弾禁止条約」を、読売、朝日、毎日、日経、産経、赤旗の6紙がどう報道しているかを見たのだ。

 このクラスター爆弾をめぐる問題は、米露中という軍事大国が参加をしていないが、英独仏に日本などを加えた110カ国が集まり、それら有志国と民間活動団体(NGO)が主導して、実質的にクラスター爆弾の使用を禁止させるもので、私は今後の軍備廃絶の一つの道筋を示すものと関心を持ってきた。しかも、有志国とNGOが推進した軍縮運動は、99年に発効した「対人地雷禁止条約」に続く2例目である点にも注目する。
 軍事大国のわがままで、ほとんど打開の方向を見出し得ない軍縮交渉は、これらNGOと平和を望む有志国との連帯の中で、新たな道筋が見出されていくのではないかと期待するのである。

 それだけに、各紙の採りあげ方と国民世論の動きに関心があった。
 最も大きく取り上げていたのが毎日。一面トップに大きく報じた上、23面にクローズアップ、7面に詳細記事を載せ、加えて社説で「今こそ日本は廃絶の先頭に――無差別攻撃から市民守れ」と訴えている。
 次は読売で、一面トップと2、6面にかなりのスペースをとって報道、特にNGOの活動を評価すするなどの記事があった。赤旗もトップではないが一面で取り上げ、7面には各国の対応(独仏などが「早期廃絶に向かう意向」を表明、など)を報じている。
 それらに対し朝日と日経は、いずれも社説を掲げているが、朝日は8面、日系は6面にそれほど大きくない記事を掲載しているに過ぎなかった。産経にいたっては、5面に小さい記事があるだけであった。

 私たちは、ほとんどの出来事をテレビか新聞で知る。その採り上げ方によって、かなり意識を左右される。私は毎日新聞を最初に読んだので、その詳細な報道と社説の主張などで、「軍備廃絶の新しい方向性」など、いろいろと考えさせられた。朝日や日経、産経などを読んだ人は、どの程度の事実認識を得、思考をめぐらしたのだろうか?
 その結果、さまざまな世論が形成されていくことになるのだが、改めてマスコミの影響力について考えさせられた報道であった。
                             


近代国民国家と軍備(2)

2008-05-30 17:25:15 | 政治経済

 

 世界には今、200近い国がある。それぞれ民族、宗教、イデオロギー、発展段階などに応じて国家を形成している。各国家は、単純には一つになれない歴史的要因の上に「他国と一線を画して」国として存在しているのであろう。
 こうした各国は、少なくとも「自分を守るため」に軍備を持つのがごく当たり前となっており、その「自衛のための軍備」で他国との戦争が行われてきたのが人類の歴史と言えよう。イラク戦争でさえ大義名分は自衛である。つまり、テロから民主主義陣営を守るためその温床に「先制攻撃をかける」というものだ。とうてい認められる論理ではないが、世界で最も民主主義の進んでいる国の一つとされているアメリカ国民の大半がこれを支持して、熱狂してイラク戦争に突っ込んだのである。
 人類は未だこのような段階にしか達していない。
 この段階で軍備を廃絶できるとはとても思えない。とはいえ憲法9条を捨て去るわけにはいかない。それは平和を守る戦いの「世界にたった一つの灯」であり、また、世界は必ずその方向に向かうだろうと思うから・・・。

 しかし9条だけから世界平和は来ないだろうとも思える。前回書いたように「イラクに参戦した日本人」K氏は、「アメリカが私から奪ったものは憲法25条(文化的最低生活の保障)である。これが奪われたとき、9条もへったくれもあるものか・・・」と言っている。
 世界を覆う貧困問題が紛争の火種の一つであることは疑いない。これらを無くしていく過程(25条の真の実現)で、国は他国を攻める必要性をなくし(つまり軍備の必要を無くし)、それが重なり他国から攻められる可能性が少なくなれば自衛のための軍備も無くなっていくのかもしれない。
 気が遠くなるような先の話であるが・・・。

 もう一つ、TNさんの言う「国連軍的なもの」が、上記のような段階に至ってもなお、アルカイダのようなならず者を取り締まるために必要な武力ならば、これは軍備ではなく警察力みたいなものではないか? 少なくともそれは「他国を攻める武力」ではなかろうから。(ただ、ならず者とはいえ核兵器を持ち、それに対処する武力となれば警察力とは質を異にするのかもしれないが)
                             


近代国民国家と軍備

2008-05-28 21:38:42 | 政治経済

 

 堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』について3回に及んで書いたところ、いつもコメントをくれるTNさんと工藤さんから、するどいコメントをいただいた。いずれも「理想としての憲法9条はわかるが、現実問題として軍備なしでいけるのか?」というものである。
 私もこの問題は問い続けている問題で、すべてに説得力を持つ答えを持っていない。それにつけても、現平和憲法を採択した戦後の憲法制定議会での、時の南原繁東大総長の発言が今も残る。氏は現憲法を可決しようとする日本国民を前に、次のような意味の発言をしたと伝えられている。

 「軍備の放棄、戦争の放棄、・・・この憲法は崇高な理想を掲げるものであるが、国民はこれを永久に守り続けることができるだろうか? 日本国民は将来大変に困る事態に直面するのではないか?」

 事実、60年を経て日本は国論を二分して国の将来を決めかね、「大変に困っている」のである。南原繁氏は半世紀後を見抜いていたのだ。というより、民族、国家が割拠する国民国家時代に軍備も持たず丸腰で生きるという思想は、南原政治哲学の中にも無かったのであろう。
 そこに、「正に稀有の賜物としての憲法9条が産み落とされ、それが半世紀の長きわたって守られてきた以上、それは今や世界遺産として維持されるべきもの」(爆笑問題太田光『憲法9条を世界遺産に』より要約)となった。そこに国民の悩みがあるのだ。
 コメントをくれた工藤さんは「憲法9条はアメリカという庇護者がついているからこそ謳える条項」と言い、TNさんは「各国が戦争しない約束をしていっても、アルカイダみたいなものが存在する。少なくとも国連軍的なものは必要ではないか」と言う。お二人とも9条を守りたい立場からの提起と思われる。

 日本はやがて、アメリカの属国から離れひとり立ちしなければならないだろう。どんなに平和思想が進んでも、アルカイダのようなならずものは簡単になくならないかもしれない。人類がお互いに殺しあうことを超越した水準にいつか到達するとしても、それまでの過程で軍備を廃棄できるのかという問題は、戦争だけはやめようという現実的な課題とともに、かなり高水準な哲学的課題を含んでいるように思える。
                            


『ルポ 貧困大国アメリカ』について(3)

2008-05-26 14:02:04 | 政治経済

 

 前回、「アメリカの一州兵としてイラク戦争に参戦し」、「・・日雇い肉体労働であろうが、戦争であろうがお金を稼ぐことに変わりない。生活に追い詰められた選択肢の一つが戦争であったに過ぎない」と答える日本人K氏の発言に慄然としたと書いた。しかし、この本の著者堤未果氏は、「あなたにとって日本国憲法の存在は?」と、なお問い続ける。彼は答える。

 「日本人としてイラクに行くことで、(中略)なぜそんなに騒ぐんです。苦しい生活のために数少ない選択肢の一つである戦争を選んだ僕は人間としてそんなに失格ですか? たまたま9条を持つ日本に生まれたからといって(中略)。アメリカ社会が僕から奪ったのは25条です。人間らしく生き延びるための生存権を失った時、9条の精神より目の前のパンに手が伸びるのは人間として当たり前ですよ。・・・」(187頁)

 アメリカとアメリカの軍隊についても、K氏は次のように答える。

 「軍隊を持つのはその国の権利だと僕は思う。(中略)アメリカ人は自由は当たり前のように手に入ると思っているけれど、今の便利な生活はただで手に入れたものじゃない。政府が民主主義をうまく機能させたからこそ、国民は恩恵を受けられているんです」(185186頁)

 この答えに対し、質問した著者はそれ以上の論争を書くことをせず、民主主義に対する自らの見解を、以下のように要約している。

 「民主主義には二種類ある。『経済重視の民主主義』と『いのちをものさしにした民主主義』だ。前者は大量生産大量廃棄を行い、確かに日常生活の便利をもたらし、そのもっとも効率のよいビッグビジネスが戦争だろう。しかし後者は、環境や人権、人間らしい暮らしに光をあてる。前者では国民は“消費者・捨て駒”となるが、後者では国民は個人の顔や生きてきた歴史、尊厳を持った“いのち”として扱われる」(186頁要約)
 そしてその頁を次の言葉で結んでいる。

「K氏の体験したように、軍隊というものが未来ある若者たちに“いのち”をどこで捨てても同じだというイメージを植えつける場所であるならば、憲法9条ほど国家レベルでこの“いのち”に重きを置いたものが他にあるだろうか?」(186頁)

 すばらしい提言である。もっともプリミティブな生活の現場を取材する中で提起されたたものだけに、この提言は光り輝く。
                             


『ルポ 貧困大国アメリカ』について(2)

2008-05-24 11:47:24 | 政治経済

 

 昨日のブログで、この著書を紹介しながら、医療や教育などが民営化される中で貧困が作り出され「その延長線上に戦争の問題がある」と書いた。著者の堤未果氏はその経緯をたくさんの取材を通して事実を持って解明している。
 そこには、新自由主義による競争原理のもとで、格差の拡大、貧困の増大が推し進められ、そうして作り出された貧困層は行き場がなく軍隊に流れ、それがイラク戦争を支えている実態が生々しく描出されている。高額の医療費、保険料、学費に追われ借金漬けとなった生活から逃れるために、死と健康破壊と隣り合わせの軍隊に向かう。
 その取材の中の圧巻は、「州兵としてイラク戦争を支えた日本人」(178)K氏の言動である。少し長くなるが引用を交えて紹介する。

 K氏は戦争に参加することなど全く意識せず、災害支援などに出動する達成感や、給料や学費補助に引かれて入隊する。激しい訓練(詳細を書く余裕はないが、相当に激しく、その訓練の中で人間的感覚を喪失させられた、と話している)の後にイラクに参戦、現地に行って初めて「これは戦争だ」と実感したと言う。
 「自分がイラクにいる意味を考えたか」という著者の質問に彼は答える。
 「何のためにです。マンハッタンで寿司屋や運送屋のアルバイトをしていた時と何も違いはありませんよ。機械的に体を動かして金を稼ぐ時に感情は邪魔です。それが日雇いの肉体労働であっても、戦争であっても」
 「それまで政治になんか興味がなかった連中が、イラクに行ったとたんにいのちの価値を考え始め、間違っていると叫び反戦に立ち上がる。平和な国のマスコミはそんなストーリーを期待するでしょう。でも現実はそうじゃない。貧乏人の黒人が前線に行かされるというのも正しいとはいえません。今は、黒人も白人も男も女も年寄りも若者も、みな同じです。目の前の生活に追いつめられた末に選ばれる選択肢の一つに、戦争があるというだけです」(185頁)

 この回答には慄然とした。まったくきれい事では済まされない厳しい現実を突きつけられた。それでも著者は「あなたにとって日本国憲法の存在は?」と食い下がる。(長くなったのでそのくだりは次回へ)
                                                        


作り出された貧困ーー『ルポ 貧困大国アメリカ』について

2008-05-23 16:01:57 | 政治経済

 

 堤未果氏の『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)をようやく入手して読んだ。というのは、このベストセラーを本屋に行くたびに探したがいつも売り切れていて、なかなか買えなかったのだ。読んでみてそれだけすばらしい著作だと思った。
 それは、今の日本が抱えている問題の根源を、驚くべき調査力で「アメリカの中に」見出しているからだ。
 ワーキングプアーの問題、後期高齢者医療制度に端を発した医療不安・保険制度の問題、教育の破壊、中間層の崩壊・貧困化と格差問題、そしてその延長線上にある戦争の問題などなど、日本が直面している根幹的問題が、新自由主義政策を推し進めるアメリカに、既に何年か前から深刻に現れていた。それを見事な調査力で暴いている好著だ。

 アメリカの貧困を示すいくつかの数字を、この本の中から挙げておく。

 「アメリカ農務省のデータによると、2005年にアメリカ国内で『飢餓状態』を経験した人口は3510万人(全人口の12%)」(27頁)
 「アメリカ内国歳入局の発表によると、2006年度の時点でおよそ6000万人のアメリカ国民が一日7ドル以下の収入で暮らしているという」(30頁)
 「医療保険未加入者の数は2007年の時点で4700万人、この数は毎年増え続け、2010年までには5200万人を超えると予想されている」(91頁)
などなど・・・。

 これは恐ろしい数字だ。国民の2割が「一日7ドル(700円強・・・月2万2千円弱)で暮らし、国民の一割強が「飢餓状態を感じて」いる! アメリカは決して裕福な国ではなく、大国とも言えないのではないか? しかも医療費の高いので有名なアメリカで、国民の10数%が医療保険にも入れない。
 この本は、それらが生み出された原因を新自由主義、市場原理主義政策の推進、特に医療や教育の民営化の中に見ている。そして次のような恐ろしい指摘をしている。
 「現在、在日米国商工会が『病院における株式会社経営参入早期実現』と称する市場原理の導入を日本政府に申し入れているが、それがもたらす結果をいやと言うほど知っている多くのアメリカ国民は、日本の国民皆保険制度を民主主義国家における理想の医療制度だとして賞賛している」(93頁)

 日本は今やこのアメリカの後を追っている。
 小泉・竹中路線、いわゆる民営化路線を、日本国民は傍観視しすぎたのではないか?
 いや、今気がつけば何とかなるかもしれない。
                            
                                              

 

 


台湾紀行(7)--揺れる台湾の政情

2008-05-21 17:28:16 | 

 

 今日の新聞各紙は、馬英九台湾総統の就任の様子を伝えている。台湾は1996年に初めて総統選挙が行われ、国民党の李登輝が総統に選ばれた。4年後の2000年には民進党の陳水扁が勝って政権交代が行われ、8年後の今回、再び国民党の馬英九が勝ち与党に復帰したのだ。
 民進党の陳氏は台湾独立志向を打ち出した急進性と、不調な経済政策から国民の支持を失い、最後は支持率13%に落ち込み総統選で敗北した。民進党は独立派とは一線を画す穏健派の蔡英文という女性主席を選び、党勢立て直しを図っているという。

 今回の台湾訪問で、二年前といくつかが変っていることがあった。その一つは台北のど真ん中の、広大な敷地の中にある蒋介石を記念する「中正記念堂」の名前が、「台湾民主記念館」と変えられていたことであった。
 台湾では1947年に起こった「二・二八事件」の真相が解明されるにつけ、同事件による台湾人民弾圧の張本人が蒋介石であることが知れわたり、蒋介石の人気は低落を続け、ついに「中正記念堂」(中正は蒋介石の呼び名)は「台湾民主記念館」と変えられることになった。それを変えた陳総統も今回選挙で敗北して、冒頭に記した馬英九の就任となったが、「馬総統のお父さんは蒋介石とともに台湾に渡ってきた人であるが、『台湾民主記念館』の名前もどうなることやら・・・」というのが、わがガイド蘇麗蘭さんの解説であった。
 蘇ガイドはまた、「陳総統の敗北で台湾の独立は遠のいた」という解説もしていたがこれも前回訪問時と異なる空気だ。ただ私はそうは思わない。台湾独立の方向は変わらず、今後もその方向に進む以外にないのではないか? もちろん急速には進まないが・・・。
 馬総統は就任演説で中国との関係につき、「統一せず、独立せず、武力用いず」という「三つのノー」を提示している。そこには確かに「独立せず」とあるが、同時に「統一もしない」のであるから、それは、あせりはしないが実態的には独立していくことを意味するだろう。中国も大人であるなら、それくらい分かっているはずだ。
 そこらあたりを読みきっているところに、李登輝以来の知恵があるような気がする。

 前回と最も変わったかに見えたのは、改装中であった故宮博物館がきれいになっていたことである。しかし、これは変わったのではなく元通りになったのであるから、「不朽の名品は永遠に変わらぬ美しさを放っていた」と言うべきだろう。
 変わらぬものは変わらぬのだ。
                                                       


台湾紀行(6)--再び日本の統治について

2008-05-18 18:51:12 | 

 

 このシリーズの第1回目(5月8日付)で、前回訪問時以上に対日親善の強さを感じて「改めて日本統治時代の児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造らの事業を思い起こした」と書いた。この3人に加え八田興一や井沢修二などはあまりにも有名である。

 児玉源太郎は、台湾総督の傍ら日露戦争の現地指揮にも当たるなど、並外れた逸材であったようだ。その児玉総督の下で、後藤新平は水道や道路など台湾のインフラの基礎を築き、新渡戸稲造は砂糖を中心にした産業を興す。八田興一は南部の大ダム工事により不毛の地を農地に変え、井沢修二は教育の基礎を築く・・・。
 今回の訪問に際していろいろ読むと、そのほかに西郷菊次郎(西郷隆盛と沖縄の愛加那との間の子)の治水工事や、明石元二郎総督の台湾帝国大学創設の路をひらくなど善政がたくさんあり、森川という巡査は村民に慕われて神様として祭られているという話まである。八田興一にいたっては、夫妻の墓が作られ命日には今でも現地の人による供養が行われているという。(『地球史探訪「台湾につくした日本人列伝」』より)

 祀られている言えば、大御所児玉源太郎について、その『地球史探訪』に次のような記述がある。
 「児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議がおこったが、予算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このことが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。」
 要するに、日本人より台湾の人々に彼らは慕われていたのだ。
 誰をとっても、明治から大正にかけての日本人の中で最も傑出した人物ばかりに思える。それがみんな台湾に出かけ、理想と全人智を傾けて「新しい国つくり」をやったのではないか?
 その間日本には、あえて名前は挙げないが小物ばかりが残り、日本を変な国にしてしまったのではないか?

 とはいえ植民地支配をよいとはいえない。しかし彼らであれば、当時の人にはもちろん後世の人々にも喜ばれた政治をやったであろうとも思う。
 要するに為政者の人物が、いかに重要であるかという証左ではあろう。
 それに引き換え、現国政に携わっている人物の、なんと貧弱なことか。
                            


四川大地震などーー人智の無力を痛感

2008-05-16 14:46:53 | 時局雑感

 

 四川大地震の被災規模が、日を追って大きさを増している。今朝の各紙は「死者5万人超、なお生き埋め多数」という中国政府の発表を報じている。つい先日、ミャンマーを襲ったサイクロンの被害につき、「死者10万人超も」という国連の発表に接したばかりだ。
 サイクロンについては、かつて経験したことのない規模のもので、ミャンマーにとっては全く無防備なものであったらしい。何年か前アメリカ南部のニューオルリーンズを襲ったハリケーンも、それまで経験しなかった規模のものであったらしく、それだけ悲惨な被害をもたらした。
 人類はこれまでに経験したことのない、「質をことにする天災」に直面しているのではないか? もしそれらが、地球温暖化などを原因とするあらたな気象の変化によるものとすれば、それは天災というより「人災」の匂いを濃くする。

 地震は地球の奥深いところでのプレートの軋みなどを原因とするので、それは人智ではどうすることもできないのかもしれない。しかし今度の「サイクロンに対するミャンマー」と「四川大地震に対する中国」の為政者の対応に、共通点を見て不安を覚えた。
 それは、いずれも外国の援助を拒んだことだ。(中国はそのご受け入れを認め、今日は日本の救助隊がようやく現地入りしたが) これほどの大災害を受けては、被災者個人はなす術はなく、同じ地上に住むもの同士が助け合うことによってしか救われる道はないだろう。生き埋めなどいう想像を絶する状況にある人を助けるには寸秒を争うはずだ。それを、救助を断ることにより被害を大きくしたとすれば、これは人災ではないのか?

 このような事態に直面する度に「人智の無力」を痛感する。人類は人智なるものを自分の儲けと他国(他人)支配と、果ては享楽のために使ってきて、地球環境を破壊しつつ「自らを滅ぼすかもしれない」天災(人災というべきだろうが)を準備してきたかに見える。そして、「死と直面する」というもっとも人智を必要とする時に至っても、まだその人智は発揮されないのである。
 もちろん、このような能書きを言っていることこそ無力の証明であるが。
                             
                                              


台湾紀行(5)--食文化と規制について

2008-05-15 16:53:03 | 

 

 前回、「台湾には酒文化が未成熟で、その最大原因は『酒の専売』にあるのではないか」と書いた。つまり民営化し、誰でも作れるようにしなければ多様化、個性化の追求は行われないのではないかと思ったわけである。
 ではすべて民営化すればそれだけでよいか、といえばそうはいかない。特に営利や収入増目的だけにさらされると、文化として育てるべき観点どころか食品の本質問題まで失われ、大変なことになる。最近の食品問題(吉兆、赤福、比内鳥、ミートホーフなどなど)はもとより、日本酒の歴史にも大きな汚点が残されている。
 戦時中に米不足を補うために作り出された「アル添三増酒(醸造アルコールや水飴、味の素などを添加し、三倍にも増量された酒)」は、大量生産の可能な工業製品のようなもので、灘、伏見の大手酒造会社で量産され売りまくられた。国は酒が売れるほど税金が取れるので利害は一致し、米あまりの時代が来てもアル添三増酒を清酒と認め続けた。
 その結果、この美味しくない、しかも個性のない酒(アル添三増酒は何社が作ってもほぼ同じような味)が日本酒離れを起こし、清酒シェアーは低落の一途をたどりついにピーク時の約40%まで落ち込んだ。
 戦中戦後の一時期はまだしも、「日本清酒は、米と米麹と水だけで造るもの」という本来の日本酒を守り続けることこそ、国の務めであっただろう。ドイツは「麦芽とホップ以外のものが入ったものはビールと認めない」という『ドイツビール純粋令』を5百年間守り続けている。昨年秋、ミュンヘンの「オクトーバーフェスト」をはじめフランクフルト周辺でドイツビールを飲みまくったが、その豊かな味と個性に、美味しさとともにドイツビールの誇りを感じた。

 規制すべきは断固規制し、その中でより高きを求めて競い合う自由と創意が発揮される・・・、文化が育つ上で欠かせない両面であろう。
 いつの日か台湾に、今の豊富な料理メニューに負けないような多種多様な酒が生まれる日が来ることを期待してやまない。
                            


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