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「集団自決訴訟」の原告側弁護団の徳永弁護士の講演会の報告、
「独断と推論の判決 大江健三郎の世迷い言」の続編です。
*
前回のエントリーで説明しかけ、そのままにしてある「真実相当性」について説明したい。
「集団自決訴訟」は基本的には名誉毀損を問う裁判であり、法律で言う名誉毀損は最高裁でルールがあるという。
つまり判例があるということ。
それによると、「名誉毀損ではあっても、真実であれば違法性はない」ということ。
これだけで済めばことは簡単だが、「この真実である」という一見簡単なフレーズで論争しているのが今回の裁判。
まず、一般的に名誉毀損が成立する要件、・・・
というより、次の要件を充たせば名誉毀損は成立しないという、「名誉毀損の成立阻却要件」を復習しておこう。
ちなみに阻却(そきゃく)という、普段聞きなれない言葉を、辞書で引くと、「さまたげること。妨害してしりぞけること」とある。
解り易く言えば、
■「名誉毀損が成立しない要件」■
以下の名誉毀損の成立阻却要件に準じたものである場合には、その責任は問われない。
①(公共性)
公共の利害に関する事実に係ること
②(公益性)
その目的が公益を図ることにある
③(真実性)
事実の真否を判断し、真実であることの証明がある
被告側(大江、岩波)は公共性、公益性は当然主張する要件であるから、問題は、③の「真実性」が裁判の大きな争点となった。
ところがである。
問題の「真実性」については必ずしも真実である必要は無く、
ある事実を真実と誤認するに相当の理由が認められる場合であれば、真実性が無いという理由で、責任を問われる事は無いというのだ。
最高裁判例は言う。
「真実性立証に失敗した場合であっても、表現時の事情に照らし、真実だと誤診したことにつき、相当な理由(「間違いだが、仕方がない」と言える事情)があれば、故意・過失を阻却するとして免責されるのである(昭和41年最高裁判決)。
うーん、これが「真実相当性」の説明だだと言われても・・・、分かる人は分かるが、分からん人には難しい(当たり前だが)
「真実相当性」とは、真実ではないが、真実と勘違いしても仕方がないので、問題の表現(今回の裁判では『沖縄ノート』の文章)は責任を免れる、・・・ということになる。
深見裁判長は、この「真実相当性」或いは「誤信相当性」を使って、被告・大江と岩波の名誉毀損の責任を問わないとして、被告勝訴の判決を出したわけである。
前回も記したが、もう一度、裁判長の判決を解り易く?書いた文を引用する。
「部隊長の自決命令があったと断定するのには躊躇を覚える。 自決命令がなかったと断定することも出来ない。 しかし、軍の深い関与はあった。 軍の関与から自決命令があったことが強く推認することが出来る。 だから自決命令による集団自決が発生したと信じても止むを得ない」(原告弁護団長・松本勝一弁護士の解説文)
■驕れる岩波の自縄自縛ー『沖縄ノート』増刷の愚ー■
大江・岩波の名誉毀損行為を免責にした、「真実(誤信)相当性」の判断は、
皮肉なことに、その後の出版継続の足枷となる。
真実の証明がないとの判断は、違法性の宣告と同じであり、従って、大阪地裁の判決後の出版は、違法と知りながら出版したことになる。
もはや、「勘違いしても仕方がなかった」と言い訳できないと言うことになる。
事実はどうなっているのか。
愚かなことに、『沖縄ノート』は、判決後も続々と増刷されており、5月7日で59刷が確認されている。
被告側が判決を正しいと受け入れるなら、判決と同時に『沖縄ノート』は出版停止にすべきであった。
ところをが『勝訴で出版停止』ではノーベル賞作家と天下の岩波の面目が立たないと思ったのか、判決後の増刷という自縄自縛の自殺行為に及んでいる。
大江・岩波が控訴審で勝つには、次の二点実行しかない。
①改めて隊長命令の真実性を立証しなければならない。
判決後の増刷という愚挙を行ったお陰で、被告側は自ら「隊長命令の真実性」を立証する必要に迫られることになる。
皮肉にも、勝訴した大江側が、挙証責任を負うという状況に追い込まれたのだ。
②大江健三郎が『沖縄ノート』を書き直さねばならぬ。
隊長命令があったことを事実摘示することを改め、それが大江の意見や推論に過ぎないことを読者に分かり書き直すことになる。
これは、大江・岩波にとっては面目丸つぶれで、事実上の敗北宣言になる。
■「文部省の立場」⇒「隊長命令は証明されていない」■
日本は三権分立の国であり、司法は独立している、と素人は考えるのだが・・・。
実際は、必ずしもそうではないらしい。
地裁判決が、被告側の「隊長命令を記述した部分」を、誤信相当性、つまり、「勘違いだが、仕方がない」として免責した最大の根拠は、教科書県定意見に表れた「文部省の立場」なるものだった。
つまり三権分立の司法判決が、行政機関である文科省の意見に左右されたのだ。
ところが、裁判所が判断の拠り所にした文科省の意見自体を事実誤認しているというから話は複雑だ。
判決では、平成17年度の教科書検定までは、「集団自決が軍命によるものであった」ということは通説であり、教科書の記載についても容認され、軍命の記述を否定した平成18年度の検定意見についても、その後の政治運動により不動的となり、高等弁論終結時の12月21日には、未だ固まっていない、とした。
ところが、これは明白な間違いである。
そもそも、平成17年度の検定時点において軍命説が通説であるわけが無い。
裁判中数々の論議で軍命説は論破されており、深見裁判長自身が「部隊長の自決命令があったと断定するのには躊躇を覚える。 自決命令がなかったと断定することも出来ない」と判決で述べているではないか。
また、口頭弁論終結時(12月21日)において平成18年度の検定意見が固まっていないとした点も明白な誤りだ。
①平成18年3月31日公表の文科省検定意見
⇒「軍の命令や強制という記述は認めない」。
②沖縄メディアを中心の政治運動⇒「2・29 “11万人”集会」
⇒「世論」に動揺して、検定済の教科書の訂正申請を受け付ける。
③12月18日の各紙報道⇒「隊長命令は証明されていない。 軍命ないし軍による強制の記述は認めない」(教科書小委員会の結論)
マスコミ報道に煽られて「軍命の存否」は一見揺れ動いているように思えたが文科省の立場は「証明されていない」で一貫しており、揺れ動くことは無かった。
マスコミに扇動され揺れ動いたのは、他ならぬ深見裁判長その人だった。
■12月26日・訂正申請に対する検定意見」■
口頭弁論終結日の12月21日から5日後というまことに微妙な日の12月26日。
その日に公表された検定結果は、軍の関与に関する訂正は認めながらも、軍命及び軍による強制の記述は認めないという従前の基本姿勢を堅持するものであった。
少なくとも、検定問題が決着した12月26日以後は、「軍命は証明されていない」という文科省の立場は、周知の事実となった。
従って、その後に増刷された『沖縄ノート』における隊長命令を事実とする記述やこれを前提事実とする個人攻撃の記述は、真実性はもとより、真実相当性もないということになる。(続く)
「付記」控訴審(6月25日)を目前に控えて、被告側得意の「場外乱闘」はもう始まっている。
高校生を巻き込んで。⇒歌や絵本で沖縄戦継承 証言者減少で表...(2008.6.10)
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