狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

軍人より軍人らしい民間人 「無理心中」の原因

2008-06-29 08:02:23 | ★集団自決

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「集団自決」が起きた時期は戦時中のこと。

正式な軍命が民間に対して可能かどうかはさて置き、軍が住民に対して、あらゆる面で指導的立場にあったことは想像できる。

だが、彼らより住民に対して、はるかに大きな影響力を与えた民間人たちがいたことは事実だ。

いろんな証言の中から「軍人よりも軍人らしい民間人」が多くいたことが明らかになっている。

彼らは、例えば「翼賛壮年団」に代表されるように、血気盛んな民間人が徒党を組んで、県内各地で戦意高揚の集会を開催し、県民を扇動していた。

当時の新聞報道等を見ると、「集団自決」の数ヶ月前に那覇の県庁他で挙行された「大詔奉載日式典」で、県民を相手に気勢を上げていたのは、これら民間人だったことがわかる。

これらの式典には座間味島の梅沢隊長等島の軍人は参加しておらず、参加した村の三役から式典の様子を聞き及んだという。

大詔奉載日とは開戦記念日のことをいう。

琉球新報 金口木舌 2008年6月23日
 
 座間味島に住む宮平春子さんは、63年前の沖縄戦で「強制集団...」を免れた。村助役と兵事主任を兼ねる兄は、父親に「軍からの命令で玉砕しなさいと言われている」と告げた後、妻子と共に命を絶った
▼兄夫妻とは別行動を取った春子さんは、父親を含む残された家族と逃げた。しばらくして、村の有力者に父が詰問された。「お前は村の親分なのに何でここまで生きてきたのか。恥を知れ。いつまでも生きていないで、死ね」
父は元村長で、当時産業組合長だった。詰め寄る村の有力者に対し、こう言った。「自分は子や孫もたくさんいて、どうしても子どもや孫たちには手を掛けきれないから、恥を捨ててここまで逃げてきた
」(略)

                      ◇

新聞に数多く掲載される「証言」を丹念に検証していくと、座間味島にも「軍人より軍人らしい民間人」の影が浮かび上がってくる。

過去のエントリーでも書いたが「参謀長と呼ばれた教頭先生」が、若い日本兵を顎で指揮している様子が証言録に記載されている。

当時の島では、ある意味では、軍人より怖い学校の先生や村の役人がいたことも事実のようである。

「集団自決」のキーパーソンともいえる宮里盛秀氏とその父の盛永氏にもその面影が伺える。↓

沖縄タイムス (8月25日)

 連載「命語い」(42)  
 
産業組合の壕 -1- (8月25日朝刊総合3面)
体制支えた兵事係も死へ
(42)亡き父思い 心の真実追う娘

 戦後、座間味村長を務めた宮里正太郎(86)は、戦前の座間味役場のことを知る唯一の人物だ。入庁は一九四一年六月、十九歳の時、行政書記として採用された。役場への就職を勧めたのは、当時二十九歳だった役場職員、宮里盛秀だった。
 正太郎は学費を稼ぐため屋嘉比島の鉱山で働いたが体を壊した。重労働ができない正太郎のことを盛秀は心配していた。「体が大きく、厳格だけど優しい人。そんな印象だった」と正太郎は振り返る。

 役場には村長、助役、収入役の三役の下に、兵事、勧業、税務、衛生、受付の各係が一人ずつ。盛秀は兵事係として徴兵事務や在郷軍人会関係の担当をした。「重要な仕事だけに盛秀さんは、ずっと兵事係の担当だった。村民の兵籍など熟知していた」 正太郎の入庁が決まった時、親せきが羽織袴を仕立てようと喜んだ。それほど役場職員の地位は高かった。「ジッチュウトゥヤー(月給取り)」。村民は役場職員と教師を陰で呼んでうらやんだ。「役場職員には、簡単に話し掛けることもできない。尊敬もされ、恐れられてもいた」 新米職員の正太郎にとって役場の上下関係は厳しかった。「十代の職員は私ともう一人。仕事は大先輩の盛秀さんたちの指図通りに働いた」 正太郎は、四一年徴兵検査を受け満州の部隊に現地入営するため、役場を辞した。

 そのころから徴兵のため島から次々と男子青年の姿が消えた。「男子は役場に採用してもすぐ徴兵された。結果的に職員は、ほとんどが女子になった」。軍国主義体制を地域で支えた兵事係。「兵事係の職務を熟知していた盛秀さんは助役に就任しても、引き継がず兼務していた」 亡父・盛秀の写真を二女の山城美枝子(66)が友人に見せたことがあった。友人は「集団自決」のことは知らない。「怖い表情だね」。何げない一言が胸に刺さった。

 ある日、座間味島に渡る船中で年老いた女性が話し掛けた。「夫の出征後、盛秀さんが暮らしぶりはどうですか、とわざわざ訪ねて来た。優しい人だった」 軍国主義体制を村で支えた父。「威厳を保つ表情の下で、心中何を思っていたのか」 盛秀ら村三役役場職員ら十五家族六十七人が、産業組合の壕で「集団自決(強制集団死)」で亡くなった。戦後、一人残った美枝子が泣かない日はなかった。父の心の真実を求め続けた。=敬称略(編集委員・謝花直美)

                     ◇                                     

宮平春子氏の「軍命証言」とは、去年の夏、『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏が証言台に立つ一ヶ月ほど前に、突然出てきたもの。

この証言のため晴美氏が従来の考え方を変えたといういわくつきの証言である。

そもそも、宮平春子氏は住民を死に追いやったとされる村の助役・宮里盛秀氏、そして戦後「援護法」の拡大適用のため奔走をしたといわれる宮村幸延(宮里より改姓)氏の実の妹である。

これだけ見ても宮平春子氏が兄たちに不利な証言をする可能性は薄い。

おまけに本人が直接聞いた「軍命」ではなく、死んだ兄の盛秀氏が話すのを聞いたという伝聞証言。

座間味島の梅沢戦隊長が集団自決に関して、軍命令あるいは強制を行ったという客観的証言・証拠が皆無の被告側にとって、

この「宮平春子証言」は重要証言として沖縄二紙は当時大々的にこれを報じた。↓

元助役の妹が軍命証言 座間味「集団自決」  (7/7 9:47)

「集団自決」について証言を聞く、県議会文教厚生委員会の委員ら=6日、座間味コミュニティーセンター

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制などの記述が削除・修正された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午後、座間味島を訪れた。「集団自決」の生存者や遺族らの聞き取りでは、当時助役だった兄の宮里盛秀さんを「集団自決」で失った宮平春子さん(80)が、兄の言葉として「集団自決」をするよう軍命があったことを証言した。(略)
 

                     ◇

「当時助役だった兄の宮里盛秀さん」は、防衛隊長も兼ね、本人が自決命令を出したとされている

同じ記事を沖縄タイムスで見ると証言者として、自決命令を出したとされる宮里盛秀さんのもう一人の妹宮村トキさんも証言している。

 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。

 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。

 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。

 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。>

「軍命令説」を定着させたのは、宮里盛秀氏の弟の宮村幸延氏であり、今回証言した宮平春子さん(80)宮村トキ子さん(75)はその妹である。

座間味村役場の援護係だった宮村幸延氏が昭和62年に、

集団自決は当時の村役場助役(宮平春子さんの兄・盛秀)の命令だったが、

遺族補償のため梅沢守備隊長の命令として申請した事情を記して、

梅沢氏へ渡した「詫び状」を提出した。

その辺の経緯を現代史家・秦郁彦氏は次のように述べている。

座間味村役場の援護係だった宮村幸延氏が昭和62年に、集団自決は当時の村役場助役の命令だったが、遺族補償のため梅沢守備隊長の命令として申請した事情を記して、梅沢氏へ渡した「詫び状」を提出した。梅沢氏の無実を証する決定的証拠といえるもので、文科省の検定でも援用された。>(産経新聞 平成19年4月14日)

その「侘び状」は「母の遺したもの」によると次のとおりである。(重要証言者は伏字になっている)
 

昭和20年3月26日よりの集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく、助役宮○盛秀(宮村盛秀・引用者注)の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。

 

昭和62年3月28日         

元座間味役場 事務総長 M・Y(宮村幸延・引用者注)

梅沢裕 殿

役場の「事務局長」というのは、村議会の事務局長のことである。「元」ではなく、現職の事務局長であった。亡くなった助役の苗字も、遺族の戦後改姓の「宮村」になっている。

 

「母の遺したもの」には次のようなくだりがある。

それから(詫び状を書いた日から)20日ほど経った4月18日の『神戸新聞』に、「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」「遺族補償得るため“隊長令”に」という大見出しで報道され、さらに4月23日の『東京新聞』夕刊にも同じ内容の記事が掲載された。このなかでは、「Aさん」(M・Y氏)は『集団自決は、部隊長(梅澤氏)の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。これを弟の私は、遺族補償のため、やむを得ず隊長命として(補償を)申請した』との親書を梅澤さんに寄せた」とある>

だが、係争中の裁判で被告側は宮村幸延氏(故人)の「証言」を翻す。

<「隊長命令説は遺族等援護法の適用を受けるためにやむを得ず作り出されたもの」と書き綴った『証言』と題する書面は、幸延氏が作成したものではない>

宮村幸延氏は「侘び状」を作成した記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べているほか、仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられた同氏が、梅澤から「妻子に肩身の狭い思いをさせたくない、家族だけに見せるもので絶対公開しないから」と言われ、何の証拠にもならないことを申し添えた上で作成したもの>

・・・幸延氏が泡盛を飲まされ、泥酔状態で書かされた可能性があるなどと主張している。

 

この泥酔説に原告(梅沢)側は次のように反論している。http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/24/

<『証言』と題する書面は、その際、幸延氏自身が、一言々々慎重に言葉を選びながら作成したものです。決して被告がいうようなものではありません。
そのことを
裏付ける証拠が書面自体の中にもあります。書面の末尾には「梅澤裕殿」との宛名があり、そのうち「裕」の字が明らかに誤っています。梅澤さんが自らの字を誤って書く筈などありません。また、書面の筆跡は極めてしっかりとしています。幸延氏が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じる筈です。これらの点を、被告らはどのように考えているのでしょうか。>

<そればかりではありません。幸延氏は、その後、神戸新聞社の取材に対しても、同様に、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ず、『歴史を拡大解釈』してつくったものだと答えています。ところが、被告は、なんと神戸新聞の記事は、幸延氏に対する取材のないまま造られた捏造記事だと主張しています。これに対しては、この記事を書いた神戸新聞の中井元記者から、数回にわたり取材を行ったことを証明する陳述書が提出されました。最早、その証言の信用性を疑う余地は全くありません。>

 

宮平春子さん(80)と宮村トキ子さん(75)姉妹に「証言者」としての資格があるのか。

①両姉妹の兄・宮村盛秀氏は当時、助役兼防衛隊長をしており、事実上集団自決は、部隊長(梅澤氏)の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役・盛秀氏の命令で行われた。

②戦後、これを同村の援護課職員だった盛秀氏の弟・宮村幸延氏が、遺族補償のため、やむを得ず隊長命として(補償を)申請した。

③「梅沢悪鬼説」が流布するのは自分の責任と感じた宮村幸延氏は梅沢氏に謝罪して「侘び状」も出した。

④その後、被告側は「泥酔説」で上記謝罪をひるがえし、記憶が無いとする。

このように兄二人が「事件」の当事者としてその「証言」が二転三転する中、しかもマスコミが「軍命令あり」の大キャンペーンをする中で、冷静な「証言」が出来るだろうか。

兄・盛秀氏は「集団自決」の命令を出したと言われる人物。

もう一人の兄・幸延氏は援護課職員として遺族補償のため、軍命令を主張した人物。

その妹二人が「軍の命令だった」と証言するのは「親族のアリバイ証言」と同じで、結果は予見できること。

それに、今回始めての証言というが、

「沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。」(沖縄タイムス)という理由だけでは信じるのは困難だ。

数少ない生き残りの証言を村史に記すのに同島に在住しなくとも証言できたはずだし、これまでも何度も証言の機会はあったはずだ。

裁判長が通常の判断力があれば、宮平春子証言の欺瞞性は見抜けると思うのだが・・・。

 

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