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全国各都道府県の教育行政の最高責任者は、
その自治体の教育長である。
その教育長が、県下の全校長を集めて政治集会への参加を命じる県があるいえば驚くひとが多いだろう。
それが沖縄県である。
沖縄以外にこんな県があるとは寡聞にして知らない。
小林よしのり氏いわく。
「沖縄は『全体主義の島』」。
言い得て妙である。
仲村守和氏が沖縄県教育長だが、このお方二年連続で学力ワースト1県の不名誉な称号を受けるや、
急遽東京に飛んだ。
そして「学力向上の為金をくれ」と文部省に泣きついた。
学力向上の自助努力をする前に先ず、「金をくれ!」には驚くが、
その次に打った手が、今度は学力全国一の秋田県に飛んで、優秀な先生を派遣してくれという。
その見返りに沖縄のダメ先生を秋田に送って実地研修してもらうというから虫のいいはなしだ。
とにかくこの「教員交流計画」は合意に至ったようだ。
⇒秋田県に学び学力最下位返上へ 教員人事交流に調印(2008.11.18)
「悪貨は良貨を駆逐する」
「朱に交われば赤くなる」
秋田の優秀な先生が赤くなって帰任する羽目に陥らないように祈りたいものだ。
学力向上には他人任せの仲村教育長も「政治活動」には積極的だ。
昨年の「歴史教科書検定撤回要請」を叫んだ「11万人」集会では、
県下の学校長に「大会への動員」を呼びかけていた。
琉球新報 社説
教科書県民大会 断固譲れない検定意見撤回 (9/8 10:35)
< 「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(同実行委員会主催)参加へのうねりが日に日に大きくなっている。
7日開かれた県立学校長研修会で仲村守和県教育長は、学校長の全員参加を呼び掛けた。>(9/8 10:35)
◇
上記は昨年の「11万人」集会(県民大会)直前の琉球新報社説だが、
主旨は、教科書検定意見は県民大会への大量動因で可能と説く。
そして同大会への参加状況を嬉々として羅列している。
①県立学校長研修会で仲村守和県教育長は、学校長の全員参加を呼び掛けた。
②全市町村で撤回を求める意見書を可決した。
③県議会では同一定例会中で初めて2度も可決された。
④琉球新報社の調査では全41市町村のうち39市町村の首長が参加意向を表明した。
どこの自治体に教育長自ら政治運動の集会に校長に対して参加指令をする県があろうか。
教育長だけではない。
県下の各議会が、新聞に煽られて一斉に同じような言動をするとは、まさにこれは全体主義の島ではないか。
小林よしのり氏が佐藤氏に問題提起した四つの論点のうち、
「沖縄は全体主義の島か?」に関しては、
県教育長が学校長を集めて「全体主義的指令」をする例を見れば、佐藤氏がこれに反論するのは苦しい。
それどころか、佐藤氏は沖縄は「政治闘争が足りない」と沖縄紙に媚びるような発言をして、
佐藤氏自身も「全体主義」を煽っているではないか。
佐藤優氏も沖縄タイムスの特集記事でこう述べている。
≪ 沖縄のメディアには「政治闘争」が足りない。正義闘争だけでは勝てない。民主主義は、結局、多数決だから正面突破だけでは、少数派は勝てない。≫(3)佐藤優さん・起訴休職外務事務官(8月3日朝刊総合1面)
教科書は学術的検証・議論の結果記述されるべきだが、
これを「政治闘争」で勝ち取るべきとは、
愈々佐藤氏は「言論封殺魔」の正体を現し始めたのか。
数を頼んでの怒りで教科書を書き換えられてはたまったものじゃない。
教科書記述の問題と、民主主義の多数決は全く別の次元の問題だ。
それを故意に混同したのか、それとも本気でそう思っているのか、
政治闘争で教科書の記述に介入せよと扇動するとは県民愚弄もはなはだしいのではないか。
それにしても≪沖縄のメディアには「政治闘争」が足りない≫のくだりには驚くというより笑ってしまう。
このお方、政治プロパンガンダ化した沖縄のメディアの実態を本当にご存知ないのだろうか。
新聞が煽った昨年の「11万人」集会には、
元教員の知人も、各方面からの人脈をたどって参加を要請され、気は進まなかったがしぶしぶ参加したという。
*
事実の検証ではなく、政治闘争で歴史教科書を書き換えろと説く佐藤氏の主張は沖縄紙の主張に迎合する恥知らずの論だ。
琉球新報の社説と佐藤優氏の論旨はまさに「人民裁判」で教科書記述をせよと言うに等しい。
「人民裁判」は群集が多ければ多いほど熱狂しやすい。
そのために「県民大会」への大動員を地元マスコミが必死になるという構図だ。
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小林よしのりが語る沖縄の「同調圧力」↓ 【動画】小林よしのりは過去に、沖縄の同調圧力について、こう語っている。
以下に沖縄県民が扇動に乗り熱狂し易いという例を書いたエントリを再掲します。 「勝ち組、負け組」というと、「格差社会」を連想する人が多いだろう。 六本木の高層ビルに居を構え、一夜にして巨万の金を動かす若者集団がいる一方、その日のねぐらを求めてネットカフェを渡り歩く若者集団が存在するのは事実だ。 だが、ここで言う「勝ち組、負け組」は日本の格差社会の問題ではなく、遠く離れたブラジルでの60数年前の「事件」のことである。 ブラジルというと日本人は何を連想するか。 天皇陛下の玉音放送はブラジルにも短波放送で伝わったが、その放送をほとんどの日系人が聞くことは出来なかった。 また、例え聞いた人の中でも、玉音放送が敗戦を告げる放送だと信じるものも少なく,日本のように「解説」してくれる人もいなかった。 英語のわかる一部日本人の中で、アメリカの放送も聞き、日本の戦況を良く理解する人もいたが、大多数の日系移民は「不都合な真実」を聴く耳は持たなかったようだ。 日本ではマッカーサーが日本占領開始した頃、ブラジルの各地の開拓地では、「日本が勝った、日本が勝った、」と戦勝記念日の祝賀会を開催するところまで現れた。 その原因は主に日本語による情報入手の困難性にあった。 【追記】 狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては常態である。 一人は個、二人は対、三人以上になると集団性を帯びる よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします。 |