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2006年8月17日
特攻隊の見た星
石垣島に来ることになる前は、長野県の八ケ岳東麓、標高1350メートルの野辺山高原にいた。夏は避暑地、冬は一段と星空も美しいが、氷点下の日が続く厳寒の地である。
27年前、ここにミリ波という波長の天体電波観測では、世界の群を抜く性能を誇る直径45メートルの電波望遠鏡を備える野辺山宇宙電波観測所が完成し、最先端の研究が続けられている。
ある日突然、観測所の入り口に石碑が建った。表には「三重航空隊」「野辺山派遣隊」の文字が刻まれていた。建立のいわれを尋ねてみて驚いた。この観測所のある場所が、太平洋戦争最後の特攻隊の訓練地であったというのだ。
昭和20年5月、いよいよ本土決戦を覚悟した軍は、B29爆撃機に体当たりし撃墜するためにわが国初のロケット型特攻機「秋水」を開発する一方、ひそかにこの野辺山高原に海軍飛行予科練習生である少年兵を全国から集め搭乗員とすべく訓練していたのだ。その数1196名。
そんなわけで、特攻隊にも関心を深くしていたが、石垣島に来てみるとなんと最初の特攻隊員は、石垣島出身で陸軍の伊舎堂用久中佐だと知らされた。天文台の仕事を通じて、最初と最後の特攻隊について知ることになった。
何年か後に石垣市の平和祈念館で催された伊舎堂用久展で、ガラスケースに収められた遺品の中に、夜間に星の位置を測り飛行する天測航法のための手帳があった。そういえば、元予科練の方は「夜でも自分の機の位置が分かるように星の位置は正確に憶(おぼ)えていた」とよく自慢された。
ゼロ戦で沖縄の空を何度も飛んでいたという方が石垣島を訪ねて来たことがある。地上から眺める星空の美しさに平和の尊さをも感じてもらえたと思っている。
(宮地竹史、石垣島天文台副所長)
◇
「日本軍は住民を守らなかった」
「米軍より日本軍の方が怖かった」
これらは「集団自決訴訟」を通して、沖縄の新聞が大々的に繰り返してきた反日キャンペーンのスローガンである。
彼等の視点に欠落しているのは、島を取り囲んで軍民見境なく無差別攻撃をかける米戦艦に体当たり攻撃をかける特攻機の若い兵士や、沖縄救援に向かう途中撃沈された戦艦大和の兵士たちのことである。
沖縄救援のため若き命を散らした特攻隊や戦艦大和のことは、多くの記録や映画等で知る人も多いが、彼等の終着目的地地であった沖縄のマスコミが彼等の命をかけた救援劇を報じる事はない。
いや、それどころか、「戦艦大和は沖縄人虐殺のために沖縄に向かっていたのだから、撃沈されて良かった」といった「識者」のトンデモ論を掲載して反日感情を煽る新聞もあるくらいだ。
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昭和20年の3月下旬、慶良間諸島を取り巻いて、雨あられと無差別に艦砲射撃を加える米艦船に捨て身の特攻作戦で散った若者たちのことを報じる新聞はない。
本土から来島した石垣島天文台副所長の宮地さんが特攻隊員伊舎堂用久中佐のことをコラムで書いているが、沖縄人で伊舎堂中佐のことを知る人はいない。
沖縄戦では、第6航空軍(福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。
知覧を飛び立って沖縄に向かった特攻隊の話しは、最近では映画等でよく知られるようになったが、沖縄戦では慶良間を取り囲む米艦船に、真っ先に戦いを挑んだ特攻隊は、実は北の知覧からではなく南の空から飛来していた。
台湾所属の誠飛行隊はその日(26日)、23日以来の米艦船の慶良間攻撃のため上陸も近いと察知して、八重山の白保特攻機地に待機していた。
座間味、昭和20年3月26日。
その日は沖縄戦にとって象徴的な日であった。
米軍の沖縄上陸は、公式には翌月の4月1日となっており、戦後の米軍占領時代には4月1日は記念日として公休日になっていた。
ところが米軍が座間味島に上陸したのはその6日前の3月26日、つまりその日の未明に座間味島民が集団自決を決行し始めた日である。
その日は、ブルース少将の率いる米第77歩兵師団が、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸を開始する日でもある。
米軍上陸開始の噂に、逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日の未明に集団自決をしている。
その日の米軍の動きは実にあわただしい。
先ず米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将が、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命され、
米第77歩兵師団により慶良間諸島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置されている。
26日に慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は、チェスター・ニミッツアメリカ海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布した。
更に同じ26日には、「軍は住民を守らなかった」という戦後左翼のスローガンとは裏腹に、多くの若き特攻隊が及ばずと知りながら、米艦隊に決死の攻撃を敢行していた。 その中には石垣基地から飛び立った特攻隊機もあった。
同じ26日の未明、当時15歳の宮平秀幸少年は家族と共に艦砲射撃を避けながら壕から壕へと彷徨っていた。
そして自分の壕に向かう寸前遭遇した「参謀長」と呼ばれていた山城教頭に抜刀の上一家皆殺し寸前の身も凍る体験をしていた。
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その同じ時刻の26日の未明、島を取り巻く米艦船に体当たり攻撃をかけて散った沖縄出身の特攻隊員のことを宮平一家が知る由もなかった。
その日の早朝午前4時,沖縄出身の特攻隊員伊是名用久大尉は、特別攻撃隊「誠第一七飛行隊」(四機編成)の隊長として「九九式襲撃機」に搭乗して石垣基地を出撃した。
座間味島を取り囲み島に「鉄の暴風」を降り注いでいた米艦隊に、果敢に《特攻》攻撃を加えた。
そして、午前5時50分頃には慶良間諸島西方洋上の敵空母群に突入したが多勢に無勢、雄図むなしく慶良間の洋上に散華した。
石垣市出身の伊是名用久大尉は陸軍士官学校第五十五期の満二十四歳、二階級特進で中佐となっている。
宮平一家は勿論、当時の座間味島の住民には、これらの事実を知る由はなく、ただ逃げ場を求めて島中を逃げ惑うのが精一杯であった。
伊舎堂中佐の遺言(辞世)がやけに明るいのは、部下を率いる特攻隊長として部下を勇気付けする意味もあったと思うが、もうひとつの大きな意味が含まれている。
遺されたか家族が、若くして先立つ身の不孝を思って悲嘆に暮れないよう、
精一杯の明るさを遺した武人の優しさ・・・これがが辞世の句に読み取れる。
「軍は日本を守らなかった」
「米軍より日本軍の方が怖かった」
沖縄マスコミと反日左翼が、いかに大声でこのスローガンを叫んでも、
及ばなかったとはいえ、多くの日本軍の若者が沖縄防衛のため、
尊い命を沖縄の海に散らしたことは、紛れもない歴史の事実である。
また、多くの米兵が沖縄住民に残虐行為を加えたことも紛れもない歴史の事実である。
昭和20年3月26日午前5時過ぎ。
島を取り囲む米艦船に体当たり突撃を敢行した伊舎堂大尉(当時)の目に、
沖縄の空と海そして座間味島、渡嘉敷島はどのように映ったのだろうか。
合掌。
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