狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決の加害者と被害者、秦郁彦「現代史の虚実」より

2008-11-26 07:26:28 | ★集団自決

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■知っていながら、知らないそぶり■

佐藤優氏は沖縄の左翼主催の講演会で、「あの11万6千人という数字は、一つ一つカウントすればそこまではいかないなということは、集会の主催者や参加者がいちばんよく知ってますと、沖縄では言ってはいけないことを口走ってしまった。

沖縄左翼には、

知っていながら知らないそぶりをすべきことが多すぎる。

「集団自決で隊長命令があった」という主張は、

沖縄では一枚岩であるかのように、沖縄紙「は喧伝しているが

、肝心の沖縄タイムスや各出版物も「軍命あり」の主張が時の流れと共に微妙に揺れ動いていることは明らかである。

昨年の3月、高校歴史教科書の検定意見が公表されたとき、現代史家の秦郁彦氏は、

「(軍命が一人歩きしていることを)教科書執筆者も既に気付いており、今回の検定はいわば“渡りに船”だったのではないか」と皮肉に満ちたコメントをしていた。

そう、「11万人の神話」と同じように、「軍命の神話」も教科書執筆者は皆知っているはずなのだ。

そして、「軍命が一人歩きした」ことを一番承知しているのは、他ならぬ『鉄の暴風』の発刊者である沖縄タイムスなのかもしれない。

「集団自決に軍命はなかった」

この事実を、

知っていながら知らないそぶりをしているのは、

沖縄タイム中心にした「軍命あり派」の応援団であろう。

一年半前の産経抄を再掲する。

 

【産経抄】

 沖縄戦での住民の集団自決については、2年ほど前にも小欄でふれた。沖縄本島の南西、渡嘉敷島と座間味島という二つの小さな島で大戦末期、米軍の激しい攻撃にさらされた多くの住民が自ら命を絶った。何とも痛ましいできごとだった。

 ▼だが集団自決が両島に駐在していた日本軍の守備隊長の「命令」だったという説には早くから疑問の声があった。「命令」を証言した女性が後にそれをひるがえしていたことも分かった。軍の要請で戦闘に協力したのなら遺族年金がもらえるため、口裏合わせをしたというのだった。

 ▼その後も当の隊長らが、「命令はしていない」と訴えて裁判を起こすなどで、否定する説が一段と強まっている。それなのに今回、検定を受けた高校の日本史教科書は相変わらず、軍に強いられたように記述していた。それも7種の教科書がほぼ横並びだった。

 ▼だから文部科学省が「誤解を招く」として検定意見をつけ、修正させたのは当然のことだ。遅きに失したぐらいである。戦争の悲惨さを伝えるのは大事だが、あくまで真実に基づくのが教科書だからだ。逆に分からないのが教科書執筆者や出版社の態度である。

 ▼軍命令を否定する説は耳に入り、目にもしていたはずである。それなら自ら徹底的に検証して書くべきではなかったのか。そうせずに、過去の記述を踏襲、修正は文科省の検定のせいにする。そんな体質が慰安婦問題など「歴史誤認」の独り歩きを許してきたのだ。

 ▼秦郁彦氏は産経新聞(東京版)へのコメントで「軍の命令」が独り歩きした背景を探った上で、こう述べている。「教科書執筆者も既に気付いており、今回の検定はいわば“渡りに船”だったのではないか」と。痛烈な皮肉と受け取った。

(2007/04/01 05:06) 

「集団自決」 教科書検定が“渡りに船”とはね。

                  ◇

「軍命あり」を主張する出版物が「軍命の有無」で揺れ動く様を、

秦郁彦氏が、『現代史の虚実』(2007年文芸春秋社)で次のように書いている。(太字強調は引用者)

≪風向きが変わったのは『ある神話の背景』(1973年)出現してからである。著者の曽野氏は現地調査の過程で、『鉄の暴風』の執筆者たちが現地を訪れず、村長以下の当事者に取材もせず、伝聞や風説で書きあげたことを突きとめ、渡嘉敷については軍命令説を裏付ける証言は見つからなかったと結論づけた。
しかし、曽野説を受け入れ、あっさり転向する人がいないではなかったが、地元の沖縄では既定の政治路線にしがみついたり、1957年から始まった援護法の打ち切りを懸念してか、どっちつかずの書き方を工夫するなど対応ぶりは分かれた。(表2参照)

  肝心の沖縄タイムスは、ロングセラーとなった『鉄の暴風』の増刷を現在もつづけている。1980年代には曽野説に歩み寄る姿勢を見せ、「梅澤隊長のごときは、のちに朝鮮人慰安婦の二人と不明死を遂げた」という事実無根のくだりを削除(1980年)した。また社説に「集団自決の軍命か自発的なのかはさておきー戦争に責任」と書いたり、社の幹部が梅澤氏に「謝罪」(1985年)したりする動きもあった。
だが沖縄タイムス紙上での連載対談で太田良博氏が曽野氏から「素人のたわごとのようなことを言うべきではない」とたしなめられたのに反発したのか、「『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はない」(85年4月)と開き直っていらい、以前の以前の原理主義的論調へ逆戻りしたまま現在に至る。
沖縄原理主義との兼ね合いでゆらぎを見せているかに見える県史や村史は、執筆者の信条もさることながら集団自決の死者を「戦闘協力者」とみなし、援護法が適用されて累計200億円以上と推算される年金が遺族と共同体の生活を支えてきた内情を反映していると見てよい。

          ------------

<表2> 軍命説への対応の変遷 ( )内はページ

家永三郎     1968年  赤松隊長は島民に食料を提供して
(太平洋戦争)         自決せよと命じ、・・・梅澤隊長は
                  ・・・・自決せよと命じ(213,299)

同(第2版)    1986 上記のうち赤松の部分は削除(299)

 

『沖縄戦史』第8巻 1971 赤松は自決を命じた

同10巻        1974 「どうして自決するような破目になっ                                                   (大城将保執筆)        たか知る者は居ないが」(690)

 

大城将保(嶋津余志)1983 曽野は(渡嘉敷で)自決命令がな『沖縄戦を考える』      かったことを立証した

大城将保       2007 曽野に「随分と甘い点をつけたもの『沖縄戦の真実と歪曲』  だと我ながら恥ずかしくなる(66)

 

『渡嘉敷村史ー資料編 1987 誰が自決を指示したかは不明(安仁屋政昭執筆)       (366)

『渡嘉敷村史ー通史 1990 米軍上陸前に村の兵事主任を通じ(同上)              て日本軍から自決命令(197)

 

家永裁判へ提出 1988(2月)  日本軍に仕組まれた計画で集した金城重明の意見書      団自決を強いられた

金城の那覇出張 2007(9月10日) 集団自決は赤松の命令      法廷における証言 
             ≫(『現代史の虚実』文芸春秋 2007年)

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『現代史の虚実』の冒頭の「大江健三郎『沖縄ノート』裁判の行方」と題する章で、

秦氏は、山本夏彦の

「論より証拠というより、証拠より論の時代である

という文章を引用して「大江裁判」を次のように皮肉っている。

ノーベル賞作家の“高踏”戦術に惑わされるな。史実を見据え、泥沼の論争に今こそ終止符を!」

大江氏の証人尋問を傍聴した秦氏は、罪の巨塊なる造語をラテン語の訳語から思いついたと強弁する大江氏を見て、次のように書いている。

ラテン語の衒学的詮索は無駄で、真の狙いは曽野氏や私のように「罪の巨塊」を赤松隊長の形容とみなすのは「誤読」と決めつけ、両者を切り離すことで名誉毀損のイメージをすこしでも薄めようとする“高踏”戦術ではあるまいかと。(同上)≫

 

そして集団自決の「加害者」と「被害者」に別れる当事者が、

現在でも狭い島で一緒に住んでおり、それに「援護金」受給という極めて現実的な理由が絡み合って、それが真実を語りにくくしている状況に鋭く切りこんでいることについて次のように述べている。

≪今や時効となり、援護年金を返済要求される心配はなくなったので、沖縄県民は赤松氏や梅澤氏を「恩人」として遇してもよさそうなものだが、むしろ逆行するような「公的記録」(パブリック・メモリー)が再生しつつあるのは、別の心理的要因があるとしか思えない。 そうした仮定に対し口の重い当事者たちがやっと教えてくれたのは、集団自決の場で仲間に手を下し自分は生き残った「加害者」と「被害者」の遺族が、戦後も同じ島や集落に共生している例が珍しくないという現実だ。 しかも狭い共同体だけに親族関係にある場合が多く、真相を確認するすべもないので、多くは風聞と疑惑の域にとどまったまま沈黙するしかないのだという。 
だが例外もあった。 あえて沈黙の路を選ばず、集団自決の語り部として論陣を張りつづける沖縄キリスト教界の長老、金城重明牧師である。(同上)≫

 (つづく)

 

現代史の虚実―沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム
秦 郁彦
文藝春秋

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