菅新内閣が日本学術会議の新会員任命新を拒否したことがが問題となっている。
■メディアと学者の癒着
学者たちが既得権を守るため騒ぐのは当然としても、不思議なことにメディアは一斉に学術会議を支持し、政府の任命拒否を批判している。
政府を攻撃するという点で、学者とメディアは目的を同じくしているのが目立つ。
筆者が購読する沖縄タイムスの主張を紹介すると、次の通り。
社説[学術会議任命拒否]学問の自由脅かす圧力2020年10月3日
社説[学術会議人事介入]任命権乱用の疑義深く 2020年10月7日
[大弦小弦]学問への介入2020年10月6日
社説[学術会議人事介入]任命権乱用の疑義深く 2020年10月7日 05:00
全国主要新聞のスタンスは、どうなっているか。
社説の本数とタイトルだけで概ねわかる。
朝日新聞は以下の通り。
「学術会議人事 学問の自由 脅かす暴挙」
「学術会議人事 説得力ない首相の説明」
「学術会議問題 論点すり替え 目に余る」
毎日新聞はこうだ。
「学術会議6氏任命せず 看過できない政治介入だ」
「学術会議巡る首相発言 これでは説明にならない」
「学術会議人事と菅首相 理由示せないなら撤回を」
菅首相の任命拒否に対し野党やメディアは判で押したように「学問の自由を侵す」などと猛反発。
中には「任命拒否」は憲法違反と大上段に構えた批判もある。
既に野党は10月26日開会予定の臨時国会でこの問題に取り組むことを表明しているが、任命拒否された松宮孝明立命館大学教授が「俺達は学者を任命しないと倒閣になるぞ」などと事実上の脅迫をする始末。
選挙の洗礼受けていない「公務員」の学術会議が選挙で選ばれた菅内閣を「倒閣発言」で脅迫するなど、問題の履き違いであり、思い上がりも甚だしい。
この問題が菅新内閣にどの程度のダメージを与えるのか。
「学術会議任命拒否」問題は,メディアと大学教授ら学者とマスコミの関係を考える上で,きわめて興味深い。
さらに興味深いのは,彼ら学者たちがメディアを舞台にして,「国民」を啓蒙
して「世論」を形成しようと働きかけた点である。
彼らは新聞や雑誌に盛んに寄稿し,積極的に新聞記者と交流することで,時局を動かそうとしたし、現在もそうしている。
大学教授や研究者の肩書きをもちながら,自らを国民の代表と位置づけ,その主張の貫徹を目指して旺盛な活動を行った。
学者や大学人がメディアにおいて集団で論陣を張ることの効果を彼等自身十分に自覚していたのである。
筆者は,この問題を学者とメディアが相互に利用しあうディア史上の事件として指摘したい。
■日本学術会議とは?
日本学術会議は戦後日本が独立する前の1949年(GHQの統治期間)に、日本を代表する科学者が、政府に政策提言を行う機関として設立された。過去に学者が戦争に協力した反省から、軍事研究はしない方針を決定。2017年にもこれを継承し、防衛省の資金提供制度を問題視する声明を発表した。
GHQ占領下の当時を考えれば、学者を結集して、官民一体となって科学の力で焦土と化した日本を復興しようと考えるのも理にかなっていた。
また昭和24年の占領下に発足した組織に入ると、特別国家公務員になれるという特典でもあった。
それから71年が経ち、日本を取り巻く情勢は大きく様変わりした。
しかし、当の学者たちは、どうしても既得権益を手放したくないようだ。
任命権がある首相に対し、「我々が推薦したとおりに任命しろ!さもなくば政治の人事への介入だ!学問の自由が脅かされている!」などと連呼するのは前述の新聞論調と同じ。
戦前には日本学士院と学術研究会議があったが、戦争に協力した学術研究会議は解散され、幹部は公職追放になった。それを総理府所轄の政府機関として再建したのが日本学術会議だった。
元会員で東大名誉教授の生駒俊明氏はこう書いている。
日本学術会議は、戦後間もない時期にGHQが日本の「軍国主義」を廃絶し「民主主義」を根付かせるために、学者を組織し学界を日本社会の思想的バックボーン形成の中心に据えようとして、日本政府に作らせたものである。したがって、その組織構造は会員選出法を含めて極めて「民主的」であった。すなわち、ある一 定の資格をもつ「学者」が一票の選挙権を持ち、「学者」全員の直接選挙で会員を選出した。
学術会議は日本の再軍備を防ぐためにGHQにより政府に送り込まれた監視役(スパイ)であった。 そのためには政府の外郭団体ではなく政府の中枢に置く必要があった。
ところがこの制度設計は裏目に出て、共産党が学術会議を乗っ取り、1950年の戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明などの極左的な方針をとるようになった。
さて、長い前振りになったが、本稿のテーマは「日本学術会議」の検証ではなく、「学者」とマスコミの隠然とした関係を検証することである。
日本を戦争に扇動したとされるマスコミと政府の関係が良く知られている。
だがその裏でマスコミと目的を同じくする「学者」という連合軍が存在した事実はあまり知られていない。
マスコミによる政府批判は、表面上は「マスコミvs政府」だが、実際は「マスコミ・学者の連合軍vs政府」という三つ巴の抗争であった。
つまり本稿で「マスコミ・学者連合軍」対政府との抗争について検証してみたい。
その意味で言えば「日本学術会議」の問題は、現在メディアの既得権を享受する「テレビ局と新聞社」と「学術会議」の「学者・メディア連合軍vs菅内閣」のバトルと言うことが出来る。
学者・マスコミvs政府の抗争を検証するため、時間を70年前の1950年に戻してみよう。
未だ日本がGHQ統治下であった当時、学術会議が政府方針を妨害するため、当時の吉田内閣はこれを民営化する方針を打ち出した。
だが、民営化に反対したのは学術会議自身であった。
■吉田首相と曲学阿世の輩
日本が独立するサンフランシスコ講和条約締結を翌1951年に控え、吉田政権が主張する「単独講和」に対し、学者やメディアは全面講和を主張。
世論は「単独講和」か「全面講和」で大きく分かれていた。
学者の中でも特に全面講和を主張した東大総長南原繁の言説に対し吉田首相は敵意をむき出しにした。南原総長は、三月の卒業式においても、社会に出ていく学生にむかって平和と全面講和を説いていた。勿論朝日を筆頭に新聞は全面講和を支持した。
1950年5月、吉田首相は、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難した。5月3日、自由党の両院議員秘密総会で演説した吉田首相は、「永世中立とか全面講和などということは、 言うべくして到底行なわれないこと」であり、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれいうことは、 曲学阿世の徒にほかならないといえよう」と強調した。
ちなみに曲学阿世とは「学問を捻じ曲げ世間にへつらう」と言う意味。
5月6日、南原総長は、吉田首相に反論し、曲学阿世の徒などという「極印は、満州事変以来、美濃部博士をはじめわれわれ学者にたいし、 軍部とその一派によって押しつけられてきたもの」であり、 「学問の冒涜、学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」と逆襲して吉田首相を非難し、 「全面講和は国民の何人もが欲するところであって、それを理由づけ、国民の覚悟を論ずるは、 ことに私には政治学者としての責務である」と強調した。
更に南原氏は、 「複雑変移する国際情勢のなかにおいて、現実を理想に近接融合せしめるために、英知と努力をかたむけることにこそ、 政治と政治家の任務がある」にもかかわらず、「それをはじめから曲学阿世の徒の空論として、 全面講和や永世中立論を封じ去ろうとするところに、日本の民主政治の危機の問題がある」と声明した。
南原の声明に対し吉田首相は8日、記者団と会見して「南原君が反論しようとしまいと、それは当人の勝手で、 私の知ったことではない」と再反論。
「日本としては事実上アメリカなどとの単独講和はすでにできている」のだから、 「これを法的に講和にもってゆくべきだ」と主張した。
結局講和条約が吉田首相の単独講和で締結されてたのは、歴史の事実を示すまでもない。
歴史に「If」はないといわれるが、仮に吉田政権が南原東大総長ら学者の主張する「全面講和」に従って講和条約を締結していたら、どうなっていたか。
東西ドイツの分裂と同じく北海道や四国はソ連に占領され、日本はソ連主導の共産主義社会と米国主導の自由主義社会に二分されていただろう。
当時、南原東大総長が主張した「学問の冒涜、学者にたいする権力的弾圧」と言う文言は、70年経過して「学術会議任任命拒否」問題で揺れる現在、学術会議や左翼メディアが菅内閣を批判する「学問の自由の侵害」などの文言と生き写しである。ここで、筆者は現在マスコミをに賑わしている「学術会議とこれを支援するメディア」と、これに対する内閣の「三つ巴の抗争」ついて70年前の「東大総長と吉田内閣」のバトルの類似性を指摘したい。
70年前の吉田茂首相が、学者の代表ともいえる南原繁東大総長に罵声を浴びせたように現在の菅首相が日本学術会議の会長を務めた大西隆東京大学名誉教授に「曲学阿世の輩」などと罵声を浴びせることはできないだろう。 だが実際は「日本学術会議」の大部分の会員は吉田首相がいみじくも罵倒した「曲学阿世の徒」であることは間違いない。
敗戦後のGHQ統治下の「学問(教育)」と「マスコミ(報道)」に関する出来事を、時系列に並べてみよう。
・昭和20年9月 ミズーリ号にて降伏文書調印 GHQの統治始まる
・昭和21 南原繁東大総長 「東京大学社会科学研究所」設立( 反日・左翼学者中心 )
・昭和21 南原繁東大総長 「憲法研究委員会」設立( 反日・左翼学者中心 )
・昭和21 「日本国憲法」公布
・昭和24 「日本学術会議」設立
・昭和25 「放送法」公布 ( 政府の許認可事業とし、他社参入規制 )
・昭和26年7月 「日刊新聞紙法」公布 ( 新聞社の株式譲渡制限特例法 )
・昭和26年9月 サンフランシコス講和条約調印 GHQの統治終わる
GHQの統治期間に、我が国の政策の根幹をなす「学問(教育 )」と「マスコミ(報道 )」についての大変革が、行われた。これはGHQによる「日本は戦争が出来ない国にする」という魂胆によるものである。
7年間の占領期間で、GHQは、日本の文化と歴史を徹底的に破壊し、二度とアメリカに立ち向かえない国とすることを目的に、政策を進めたことはよく知られている。 そのため日本学術会議は、GHQが日本の再軍備を防ぐために政府に送り込まれた監視役(スパイ)であったことは前述の通りである。
終戦直後GHQは、「言論・思想の自由」を標榜し、戦前は非合法組織だった獄中の共産党員を次々と解放した。
GHQの一連の「言論の自由」を表す言動を見た国民の間には、「戦争に反対した共産党」というマスコミの報道に煽られ、一種の共産党ブームが起きた。
調子づいた共産党と左翼勢力は、1947年(昭和22年)2月1日、ゼネスト実施を計画。吉田茂政権を打倒し、共産党と労働組合の幹部による民主人民政府の樹立を目指した。
GHQは想定外の「共産党ブーム」に驚き、共産党を民主主義の敵と見なすようになる。 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、ゼネスト決行直前に指令を発しゼネストは中止に追い込まれた。「言論の自由の盟主」の豹変である。
1949年7月4日、マッカーサーは「日本は共産主義進出阻止の防壁」とする声明を発表した。
マスコミの支援を受けた学者による政府攻撃は、南原東大総長vs吉田首相の「曲学阿世の徒事件」の前にも存在した。
「曲学阿世事件」から、時間をさらに約百年巻き戻して、日露戦争と学者の政府攻撃について検証してみよう。
教科書が教える日露戦争の概略はこうだ。
東洋の小国日本が世界の大国ロシアを打ち破ったが、実際は「痛み分け」であり、日本には経済的にも戦争を継続する能力が枯渇し、テオドール・ルーズベルトの米大統領の仲介で和平のためのポーツマス条約を締結する。
だが、学者やマスコミの扇動により日露戦争は大きな犠牲を払って勝ち取った勝利であると受け取った国民は、賠償金がないなどの不利なポーツマス条約の内容に不満が募り、日比谷公園で開かれた抗議集会は暴動と化し、首相官邸などの政府機関、政府系新聞社が襲撃され、交番は焼き討ちされた。政府は戒厳令を布いて暴動を鎮圧した。
教科書は、日露戦争を巡る「ポーツマス条約への不満」やそれに伴う「日比谷焼き討ち事件」までは教えるが、政府攻撃の裏に潜む「学者の扇動」(帝大七博士事件に)ついて触れることはほとんどない。
つづく