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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「パンドラの箱訴訟」、崩壊した手榴弾軍命説

2011-02-16 06:32:12 | ★パンドラの箱訴訟

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■「パンドラの箱」掲載拒否訴訟

上原さんが琉球新報を訴えた訴訟を「言論封殺訴訟」と記してきたが、今後、訴訟の内容をより具体的に表す「『パンドラの箱』掲載拒否訴訟」という呼称で統一させて頂きます。

 

「パンドラの箱」掲載拒否訴訟は、集団自決に関わる軍命の有無、ひいては教科書に軍命を記載するか否かに関わる重大な意味を持つ書いた。

琉球新報が掲載中の連載戦記を掲載日直前になって突然掲載中止を強行した理由もここにある。

これまで沖縄タイムスとタッグを組み、歪曲と捏造報道で県民を誤誘導してきた琉球新報は、上原さんの記事により、県民に集団自決の真相が知れ渡ることを恐れたのだ。

上原さんによる真相の暴露は、集団自決論争を、これまでのように「沖縄VS元軍人」という対立構造に印象操作して県民を騙すことはできなくなる。

上原さんという地元の沖縄戦研究者の手で集団自決の真相が明らかにされるのを恐れた結果が言論封殺だったのだ。

地元の研究者が沖縄の代表的新聞に突きつけた「ノー」によって、これまで沖縄の左翼学者が捏造してきた沖縄戦の歴史が真実の明かりで照射されようとしている。

今回の訴訟は、集団自決の真相解明という点では、現在上告中の「集団自決訴訟」と表裏一体をなす。なるので、 両裁判の核心部分とも言える集団自決の争点を再検証しつつ、上原さんの支援をしていく予定である。

 

■悪魔の証明■

「○○があった」という議論では、「あった」と主張する側が立証する責任がある。 「なかった」と主張する側がこれを立証するのは悪魔の証明」といわれるくらいで、事実上極め困難であるのがその理由である。

「集団自決訴訟」では、梅沢、赤松両隊長による「軍命があった」と主張する被告側は一審、二審を通じて「軍命があった」と立証することが出来なかった。 したがって両隊長の名誉は、事実上、回復されたことになる。

ただ、沖縄2紙を中心の左翼勢力が県民を熱狂状態に誘導した結果、「集団自決訴訟」を「沖縄県民VS旧軍人」という対立構造に印象操作されてしまった。 この作戦はある意味成功し、2007年の「11万人集会」の動員のために県教育長が校長会で生徒の動員を指示したり、日程が重なった高校野球の試合を延期させてまで大会参加を強要したりで、各自治体も新聞の連日の熱に浮かされたような過激報道につられ、会場までの無料バスを準備するといった異常な状況であった。

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文科省検定意見が発表された2007年当時には、ほとんどの県民は「教科書から集団自決の記述が削除された」と誤解し、その年の9月に行われた「11万人集会」へと誤誘導されたのである。

その時の状況を筆者はニーチェの言葉を引いて次のように書いた。

狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である

2007年は沖縄県民にとってまさに狂乱の年であった。

沖縄二紙は、狂ったようなキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

その同じ年の2007年、上原正稔さんが琉球新報から言論封殺を受けたといえば、琉球新報が必死になって集団自決の真相の隠蔽を図った理由も納得できる。

 

そしてその年の9月10日、福岡高裁那覇支部で「集団時決訴訟」の出張法廷が行われ、被告側証人として金城重明氏が証言している。

集団自決の生き証人として象徴的存在の金城氏の証言とあって、どのような新証言が飛び出してくるかと、筆者は息を呑んで翌日の新聞を見た記憶がある。

金城氏の出張尋問を伝える当時の琉球新報と沖縄タイムスの記事を引用する。

金城氏「軍命出た」 岩波「集団自決」訴訟2007年9月11日
2007年9月11日 琉球新報

 沖縄戦中、渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、岩波新書「沖縄ノート」などで日本軍の隊長命令だったと記述され、名誉を傷つけられたとして、戦隊長だった梅澤裕氏(90)らが岩波書店と作家の大江健三郎氏に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で所在尋問(出張法廷)を行った。渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。

 金城さんは約2時間、原告・被告双方の代理人の尋問に答えた。法廷は非公開で、終了後に双方の代理人が会見し、証言内容を明らかにした。

 渡嘉敷島では米軍上陸翌日の1945年3月28日に「集団自決」が起き、住民329人が命を落とした。当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。

 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。

 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。

 金城さんは、高校日本史教科書から「集団自決」について軍の強制の記述を削除した3月の文部科学省の教科書検定に対しては、「多くの体験者が軍命や軍の強制を証言してきた。戦争の残酷な部分を隠ぺいする文科省の責任は大きい」と批判した。

 岩波側の代理人は会見で「体験者しか話せない実相を述べ、軍命があったと考えていることもはっきり証言された」として、軍の強制についての立証ができたとの認識を示した。

 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。

                                                        ☆


金城重明さんの証言要旨 (2007.9.10.福岡高裁那覇支部)

              (「沖縄タイムス」2007年9月11日朝刊から)

1「集団自決」について

(1)北山(にしやま)への集結命令について

 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山(にしやま)に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ、北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。

(2)軍の自決命令について

 北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。

 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。

 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。

 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。

(3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について

 米軍上陸の1週間くらい前に、兵器軍曹が役場に青年団や職員を集めて、手榴弾を一人2個ずつ渡し、1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。

 このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。

 「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。

(4)「集団自決」の状況について

 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて、「集団自決」が行われた。

 手榴弾は不発の物が多く、手榴弾による死傷者は多くなく、これが、悲惨な殺し合いの原因となった。

 肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。

 手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟か姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。

(5)「集団自決」後の状況について

 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬(き)り込みに行くというので、たとえ殺されも斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。

 斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、自決したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。

 その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。

 渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年二人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。

(6) 「集団自決」が起こった理由について

 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に、重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第―段階であった。

 3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなければならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。

 そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。

 赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。

2 教科書検定について

 これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書について、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない
                                ☆

 

集団自決の原告側証人のなかでも、目撃者というより「実行者」として代表的証人である金城氏の法廷証言とあって注目を浴びたが、やはり軍命があったという証言は皆無であった。 金城氏の証言については当日記でも数多く取り上げているが、今回は原告側代理人の徳永信一弁護士が完膚なきまで粉砕した解説文を以下に紹介します。

                              ☆



9月10日 金城重明証人尋問速報

冤罪訴訟原告弁護団 徳永信一弁護士より


《証言不適格の証人》

本日の証人尋問で明かになったことは、被告側の証人として法廷に立った金城重明氏が、そもそも渡嘉敷の集団自決が赤松隊長の命令によるものであることを証言するに相応しい証人ではなかったということ、すなわち証言適格のない証人であったということである。

金城重明氏は、法廷でも集団自決が軍命令によるものであることを主張し、その根拠として、(1)昭和20年3月20日に役場に17歳以下の少年が集められ兵器軍曹から手榴弾を渡され、その際に「米軍の上陸は必至である。1発は敵兵に投げ、1発は捕虜にならぬよう自決用に使え」と命じられたこと、(2)軍から自決命令が伝えられたらしいという噂があったこと、(3)村長が天皇陛下万歳を三唱したのは自決命令にほかならないこと、?

最も危険な場所である軍の西山陣地の近くに村民を集合させたのは、自決を命じるのと同じだ、といったことを挙げた。

なにか新しいことを証言するかも知れないと身構えていた弁護団にとっては、金城重明氏の証言が、これまでいろんなところで語ってきたことを整理しただけのものだったことに対して、なにやら肩すかしをくらったような感じがした。

命令が出たらしいという噂があったことを語るだけで隊長命令の存在を証言することができなかった金城重明氏は、しかし、反対尋問(原告側弁護士)によって、彼が軍命の根拠としていた(・文字が抜けている・)対し、重大な疑念を抱かせる結果になった。

《誰も貰わなかった手榴弾~20日交付説の虚妄》

まず、富山氏の3月20日手榴弾配布の命令説であるが、なによりも、当時16歳であった金城重明氏自身が、そうした命令を受けていないことを明確に語ったことは重大である。金城重明氏は、20日に役場に集められたこともなく、兵器軍曹から手榴弾を交付されることもなかった。もちろん「1発は自決のために使え」という命令も受けてなかったのである。金城重明氏の言い訳は、兵器軍曹から手榴弾を配られたのは渡嘉敷だけであり、阿波連には、手榴弾の配布はなかったということであった。それが軍の命令なのであれば、阿波連に伝えられないということがありえようか。

さて、それでは、渡嘉敷で手榴弾をもらったものがいるのかと聞けば、なんと、もらったものは誰も知らないというのである。与那嶺次郎氏、小嶺勇夫氏、安里広信氏ら渡嘉敷の同級生も、同級生で役場の職員だった吉川勇助氏も3月20日に手榴弾をもらっていない。当時14歳だった知人の金城武則氏も。では、金城重明氏はいつ誰から20日の手榴弾配布という話を聞いたのだろうか。その答えは、家永訴訟(1982年)の証人尋問の少し前に、安仁屋教授から富山新証言を教えてもらい、富山新順氏に連絡をとって会って聞いたというものだった。


曽野綾子氏は、家永訴訟で、その徹底的調査(1972年?)にもかかわらず20日の手榴弾交付の話は、誰からも聞いたことがないと証言し、その話に根本的疑問を呈していたが、その証言が裏付けられた形である。他方、金城重明氏が、なぜ富山新順氏の話を真実だと信じたのかは、全く不明のままだ。  

つづく
 

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コメント (6)

太平洋の奇跡サイパンの戦い

2011-02-15 20:41:54 | ★パンドラの箱訴訟

竹野内 豊
 『実在した大場大尉を演じるに当たり、サイパンの戦地を訪れたいと申し出た。「戦争を体験していない自分がどうやって兵士を演じられるのか。役作りのしようがなかった」。現地で見たのは、おびただしい弾痕、そして小さな洞窟だった。「本当に狭い所なんですが、そこに十数人が身を潜めていたと聞きました。その証拠に、地面が当時唯一の食料だったカタツムリの貝殻で、びっしりと覆われていた」。それを見た時、当時の人々の息づかいを感じたという。「胸を引き裂かれそうな気持ちになりました。この空気感を、スクリーンから伝えなきゃいけないと思った」

 兵士役の俳優たちとともに、軍事訓練も受けた。2週間の訓練だったが、他に仕事があって最後の3日間しか参加できなかった。「他の方々は、もう出来上がっていて、全然ついていけない。たった1日で声がかれてしまった。不安でしたが、やるしかなかった」。撮影中、平山監督からは「それじゃ武士に見えない」と声が飛んだ。「その都度、身が引き締まる思いでした。平山さんの厳しい指導がなければ、とてもじゃないけど演じきれなかった」』

ご参考
竹野内豊:「尊ぶという言葉を忘れないで」 映画「太平洋の奇跡」公開

唐沢寿明(タイでの撮影について映画パンフレットより)
  「やはり日本では戦場を体感して演技するのは難しいし、向こうへ
行くと弾は空砲ですけれども銃はすべて本物を使用しますから。
日本でモデルガンを遣うのとは迫力がまったく違って、撃つと体への
反動も凄いんです。乱射すると、銃の反動で体が負けそうになりましたよ。

本文

◎読売新聞/太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男―」主演 竹野内 豊

誇り高い兵の魂感じた

「現場からホテルへ帰る車に乗った瞬間に、みんな気を失ってしまうような過酷な撮影でした。でも、ラヨーンは狭い所なので、どこに行っても誰かと会って、自然に信頼関係ができたのは良かったです」=鈴木毅彦撮影
 日本軍玉砕後のサイパンで、少数の兵士と民間人を率いて最後まで米軍に立ち向かった大尉がいた。実話を基に描く戦争大作「太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男―」(平山秀幸監督)が公開中だ。主演は竹野内豊。戦場の兵士になりきる迫真の演技を見せた。(小梶勝男)

 撮影は、タイ・パタヤ湾近くの町ラヨーンにあるジャングルをサイパンに見立て、夏の2か月間、オールロケで行われた。「体感で40度以上、やけどしそうな暑さ。じっとしていてもどんどん体から水分が出て行った」。敵への総攻撃の場面では、脱水症状になった。「カットがかかっても立ち上がれない。体じゅうがつってしまって。でも、しょせんは疑似体験。実際は正面から実弾が飛んでくるわけで、それを想像すると、すべてを捨てなければ戦えないと思いました」


大場大尉(竹野内豊、右)は木谷曹長(山田孝之、左)らとともに、16か月もの間ジャングルに立てこもり、民間人を守りつつ米軍を翻弄する
 第2次大戦末期。大場栄大尉は、玉砕で上官を失った少数の兵士、そして民間人を指揮し、サイパン島最高峰のタッポーチョ山に潜んで米軍への抵抗を続ける。やがて米軍は彼を「フォックス」と呼び、畏敬の念を抱くようになる。

 実在した大場大尉を演じるに当たり、サイパンの戦地を訪れたいと申し出た。「戦争を体験していない自分がどうやって兵士を演じられるのか。役作りのしようがなかった」。現地で見たのは、おびただしい弾痕、そして小さな洞窟だった。「本当に狭い所なんですが、そこに十数人が身を潜めていたと聞きました。その証拠に、地面が当時唯一の食料だったカタツムリの貝殻で、びっしりと覆われていた」。それを見た時、当時の人々の息づかいを感じたという。「胸を引き裂かれそうな気持ちになりました。この空気感を、スクリーンから伝えなきゃいけないと思った」

 兵士役の俳優たちとともに、軍事訓練も受けた。2週間の訓練だったが、他に仕事があって最後の3日間しか参加できなかった。「他の方々は、もう出来上がっていて、全然ついていけない。たった1日で声がかれてしまった。不安でしたが、やるしかなかった」。撮影中、平山監督からは「それじゃ武士に見えない」と声が飛んだ。「その都度、身が引き締まる思いでした。平山さんの厳しい指導がなければ、とてもじゃないけど演じきれなかった」

 日本の敗戦を実感し、投降を呼びかけられながら、大場大尉たちはなぜ山を下りなかったのか。「撮影を終わった今も、当時の方々の誇り高い魂は、現代の我々ではとうてい理解できないと思います。でも、理解はできなくても、その魂は確かにそこにあったんだと、感じることはできました」

(2011年2月18日  読売新聞)

(サイパンのたたかい、Battle of Saipan)とは大東亜戦争(太平洋戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦い。ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する日本軍第43師団を潰滅させ、サイパン島を占領した。

http://eiga.com/news/20110214/25/竹野内豊主演「太平洋の奇跡」興収20億突破へ絶好の滑り出し

2011年2月14日 20:31
興行ランキング1位に登場した竹野内豊主演「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」 興行ランキング1位に登場した竹野内豊主演
「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」
(C)2011「太平洋の奇跡」製作委員会
[拡大画像]

[映画.com ニュース] 竹野内豊の主演映画「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」が、2月11日に全国300スクリーンで封切られ、公開3日間で観客動員33万1967人、興行収入約3億9045万円の大ヒットスタートを記録。国内興行ランキングに初登場で1位に君臨した。

同作は、日米開戦70年特別企画として元米海兵隊員ドン・ジョーンズが発表した「タッポーチョ『敵ながら天晴』大場隊の勇戦512日」(絶版)を映画化。太平洋戦争の激戦地サイパン島で、わずか47人の兵力で米軍4万5000人を神出鬼没な戦略で翻ろうし、畏敬の念を込めて“フォックス”と呼ばれた実在の人物・大場栄大尉と、米軍側のハーマン・ルイス大尉、双方の視点で描く。

パソコンと携帯を使ったアンケートによれば、客層は男女比62対38で男性が中心。年齢別では50代が最も高く32.2%、次いで40代の27%と、史実に基づくストーリーに共感を抱くシニア層が興行をリードする展開となった。男性を中心にしたシニア層からの厚い支持も奏功し、休日だけでなく平日の動員も期待できる息の長い興行が予想される。

平山秀幸監督とチェリン・グラック監督が共同でメガホンをとった同作は、すでに英国、アイルランド、ドイツ、オーストリア、スイスでの公開が決定している。さらにフランス、ベルギー、オランダなど多数の国と配給を交渉中。「日本人としての誇りを忘れてはならない」と強く訴えていた竹野内の願いが、実現する日はそう遠くない。

(映画.com速報)

 

Subject: マーチャンメルマガ「映画『太平洋の奇跡ーフォックスと呼ばれた男』を観て


2011年2月16日2時10分17秒 水曜日

「太平洋の奇跡ーフォックスと呼ばれた男」という映画を観た。アメリカとの戦争中激戦地の一つであったサイパン島で、たった47人の兵力で4万5千人もの米軍を翻弄した実在の人物、大場栄大尉を描いた作品である。米軍は大場大尉のことを畏敬の念を込めて「フォックス」と呼んでいたという。


 映画は物量豊富な米軍に対して貧弱な装備で壮絶な戦いを繰り広げる日本兵や貧しい生活をしている日本の民間人を描くと同時に、大場大尉の指揮官としての苦悩や的確な判断力、指導力を表現していた。サイパン島守備隊である第43師団が玉砕した後も大場隊はタッポーチョ山を拠点にゲリラ化し日本軍の降伏後も遊撃戦を展開、米軍の説得工作にも「上官の命令がない限り闘う」姿勢をくずさなかった。しかし、ついに1945年11月27日、天羽馬八陸軍少将の正式の降伏命令を受け投降することとなった。同年12月1日大場隊47名は戦死者に対し3発の弔銃を捧げ慰霊をした上で軍装を整え日章旗を掲げ隊列を組んで軍歌を歌いながら行進・下山し投降する姿に惚れ惚れするような日本人らしさを感じた。投降式典において大場大尉は投降の証として自身の日本刀を抜いてアメリカ軍に渡す、さぞや悔しかったろうと思うと、涙が溢れて止まらなかった。

 私は戦争を美化する気持ちなどさらさらないが、日本を守る、日本人を守るためにこんなに苦労して戦った先輩たちが居たことに、今に生きるわれわれは感謝し、子供たちに教えていかなければならないと思う。アメリカと戦争したことさえ知らない子供がいるというのは大人が悪い。調べると、大場大尉は復員後会社の社長や愛知県蒲郡市の市議会議員を務め平成4年に亡くなっておられる。

コメント

「海兵隊は方便」の余波

2011-02-15 06:25:19 | 普天間移設

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鳩山前首相の「海兵隊は方便」発言で躍り上がって喜んだ沖縄2紙も、一夜明けてよく考えてみたら、ルーピーの発言に一喜一憂する己の愚かさに気がついたようである。

昨日(14日)の沖縄タイムスは、一変して怒り心頭の記事満載! 一面と社会面トップで悪態つくだけではたりないのか社説とコラムまで動員して ルーピー首相を罵倒する記事。

ちなみに琉球新報も社説で万死に値する大罪」と最大級の鳩山批判をしているようだが、精神喪失状態の殺人が罪にならないのと同じように「ルーピー状態」の言動は大罪どころか罪にもならないのではないか。 

その証拠にあの国税庁さえ巨額脱税を訴追しなかったではないか。

それを大上段に構え、あれこれ大騒ぎする新聞の方がおかしいと思うのだが・・。

沖縄タイムス[大弦小弦](2011年2月14日)
2011年2月14日 09時28分      


 「政界の宇宙人」が本物の宇宙人に思えてきた。その言動に触れれば触れるほど、普通の人とは違う空気を吸っているように映る

▼鳩山由紀夫前首相。普天間飛行場移設問題のインタビューで、在沖米海兵隊の意義について「抑止力」という言葉を使ったのは「方便」だった、と答えた。県民へ説明するために後付けした理屈のようだ

▼ちょっと待ってくれ宇宙人、いや鳩山さん。普天間の県外国外移設が頓挫した揚げ句の説明にしては軽率すぎないか。かつての国のリーダーとは思えぬ思慮のなさ。基地の重圧に苦しむ県民の心を逆なでするもので、受け入れがたい

▼広辞苑によれば、「方便」は仏教に由来する言葉。「衆生を教え導く巧みな手段。真理に誘い入れるために仮に設けた教え」とある。しかし、世間ずれした宇宙感覚に、そんな深い意味が込められているとは仏様も思うまい

▼「うそも方便」のような知恵も感じられぬ単なる言い逃れだ。しかも普天間問題が袋小路に入り込んでいる時期に、「方便」を持ち出す無感覚。菅政権もさぞかし肝を冷やしているだろう

▼一問一答では、真摯(しんし)に受け答えしているようにも読めるが、過去と照らし合わせると、政治家としての不誠実さが透けて見える。もはや発する言葉が無重力状態である。あまりに軽く、遠い。(平良哲)

                                             ☆

沖縄タイムは一面、社会面トップだけでは飽き足らず、コラムや社説でも鳩山前首相に罵詈雑言を浴びせかけているが、それでも足りずに「海兵隊不要説」の仕掛け人とも言える屋良朝博論説委員兼編集委員が一面に登場し、「海兵隊『解』はある」という論考を掲載している。

ところがその何処を読んでもまともな「解」らしきものはなく、わずかにそれらしきものは次の二つの既述のみである。

(1)「海兵隊を運ぶ艦船は長崎県佐世保にある。地上・航空両部隊をセットで本土移転すればいいことだ。

(2)機動展開力に富む海兵隊が沖縄にこだわる必要はない。国外移転や部隊ローテーションを工夫するなどさまざまな検討が可能だ。

先ず(1)長崎県佐世保の艦船を利用する案だが、地政学的に言えばこれはあくまで朝鮮半島の有事を考えた場合に限定される。沖縄が一番懸念する台湾有事を視野に入れた場合長崎から出動するより沖縄から出動する方が有利であることは下記の地図で確認するまでもないだろう。

沖縄から台湾までの距離は鹿児島より近い。

中国が台湾併合のため有事を引き起こすという沖縄にとっては喫緊の想定も、中国を母国と慕う沖縄タイムスにとっては口が裂けても話題にできないのだろう。

(2)のローテーション説については、「日本の安全保障は日本全土で負担すべき」という説に従っているようだが、地政学的視点の欠如した噴飯ものの論である。

ちょうど一ヶ月前のコラムで沖縄タイムスはローテーション論と大同小異の「くじ引き移転説」を書いている。

  金口木舌 2011年1月13日 

 昨年10月に小欄で紹介したカタログ誌の「通販生活」(カタログハウス)。前号の「普天間基地はアメリカが引き取ってください」の文言が耳目を集めたが、今月発行の春号も目を引く
▼表紙には枕17個を積み上げた写真。同社の昨年売り上げ1位の商品だ。全国で人気なのに、わずか17個の購入だったのが宜野湾市。「安眠できる幸せとは、メディカル枕でも安眠できない沖縄県民の犠牲の上につくられていたのだった」と表紙は記す
▼「ゆえに通販生活としては、沖縄県民の『普天間県外移転要求』をつよく応援しないわけにはいかないのだ。普天間基地はアメリカに引き取ってもらおうよ。それがムリなら、クジ引きで本土の都道府県に移転しようよ
明快な主張は早くもメールやツイッターで反響を呼んでいる。「表紙がこれだけ話題になるのは今までにない」と編集部の平野裕二さん。「表紙から政治ネタなんて」という批判もあるが、「よくぞ書いてくれた」との評価が7割以上だ
▼同誌は時折、表紙で強いメッセージを発する。高浜原発の即時停止を求めたこともあった。「今後も何らかの形で沖縄の基地や日米安保問題を取り上げていきたい」と心強い
▼先日の来県で県外移設の再検討を拒んだ岡田克也民主党幹事長。枕を高くして眠れない実態を知るためにも、一度基地の周りで寝てみるといい。

                                                            ☆

 那覇から大阪、東京よりも中国の海軍基地の方が至近距離にある。

沖縄の地政学的位置を見れば「くじ引き分担論」がいかにばかげたまやかしであるかは自明である。

 

 【おまけ】

も考えずに発言する愚かな人物の発言で、新聞が三日も一面トップを飾るのもおかしなものだが、沖縄タイムスはルーピー首相に裏切られてのがよっぽど悔しいのか、「方便発言」の波紋がまだ続いている。 

本日(15日)の沖縄タイムスの大見出しはこれ。

★一面トップ

事、方便発言に困惑

二面トップ

方便発言に政界動揺

       ☆

 実に三日続きで一面トップが「方便」の記事

当初は「最低でも県外」を信じていたばかりに、可愛さあまって憎さ百倍という気持ちだろうが、

いい加減にして欲しいね。

 

                                                           ☆

 東條由布子憂国講演会のご案内

演題:語る「開戦前夜」

東條英機は戦犯なのか、昭和殉難者なのか。今だから語れる、家族のみが知る開戦を決断した祖父東條英機の知られざる真実。

講師プロフィール

東條英機の長男・英隆の長女。NPO法人環境保全機構理事長

日時:227日(日)

開場:1800  開演:1830

場所:県立博物館・美術館(博物館講座室)

入場料:1,000

主催:東條由布子講演会実行委員会

お問い合わせ:運営事務局 仲村雅巳 09019421675

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コメント (7)

日本一の無責任男!抑止力は方便だった

2011-02-13 15:01:48 | 普天間移設

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昨日の沖縄2紙の誇大報道には驚かされた。

驚いた理由は二つ。

先ず一つは普天間問題がまだ解決もしていないのに、自分の首相時代の言動を「嘘も方便」だったと暴露したこと。 しかもその暴露も、すべてか「官僚が悪い」と自分の無能ぶりは棚に上げ、全てが責任転嫁のオンパレード。 

首相経験者は辞めたら影響力を及ぼしてはいけないと言ったのはコロッと忘れて、いつまで影響力、いや害毒を撒き散らすのか、という驚き。

そしてもうひとつは、クルクル発言を変えていた「迷走男」の発言を、鬼の首ならぬ鳩の首でも取ったように大騒ぎする報道姿勢だ。

それがこれ。

 

 

「抑止力は方便」で狂喜乱舞したのは、沖縄タイムスも負けてはいない。

一面トップと社会面トップも含んで計四面を使って前首相の軽い発言に大喜びである。

鳩山氏「抑止力は方便」本紙インタビュー
辺野古回帰 理屈付け
普天間移設 戦略の欠如 陳謝
 沖縄タイムス 2011年2月13日

 【東京】鳩山由紀夫前首相は12日までに沖縄タイムス社のインタビューに応じ、米軍普天間飛行場の移設をめぐる政権時の取り組みや対米交渉の全容を語った。移設先を名護市辺野古と決めた理由に挙げた在沖海兵隊の抑止力について「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。方便と言われれば方便だった」と弁明し、抑止力論は「後付け」の説明だったことを明らかにした。

沖縄紙が「抑止力は方便」発言で欣喜雀躍する理由は、これで「海兵隊は抑止力にならない⇒県外・国外移設」と、前首相から言質を取ったことになるからだ。

しかし、いまごろ鳩山氏の発言を「海兵隊不要説」の補強にすること自体がおかしなこと。 

 そもそもこの男、総理を辞めたら次の選挙には出ないと言ってみたり、総理経験者が影響力を行使しすぎてはいけないと言ったかと思えば、その一方で世界を飛び回り国益を損なう約束を取り付けたり、ロシアを刺激し北方領土問題を悪化させたりと、影響どころか害毒を撒き散らしてている無責任男ではないのか。

しかも「抑止力は方便」発言も、質問されて思いついただけの確信の無い発言であるようだ。

 そのうちこんなことを言い出しかねない。

「『抑止力は方便』は、沖縄2紙に問い詰められたときに出た『嘘も方便』だった」と。

鳩山前首相一問一答 見通しなく「県外」発言  琉球新報 2011年2月13日      
 ―2009年衆院選で移設先は「最低でも県外」と発言した際の見通しは。
 「民主党は沖縄ビジョンの中で、過重な基地負担を強いられている沖縄の現実を考えた時に、県民の苦しみを軽減するために党として『最低でも県外』と決めてきた。鳩山個人の考えで勝手に発言したというより党代表として党の基本的考えを大いなる期待感を持って申し上げた。見通しがあって発言したというより、しなければならないという使命感の中で申し上げた。
しっかりと詰めがあったわけではない」
 ―首相就任後もなぜ「県外」が党内、閣内で浸透しなかったのか。
 「政権を取った後の難しさで、簡単じゃないとの思いから腰が引けた発想になった人も多かった。閣僚は今までの防衛、外務の発想があり、もともとの積み重ねの中で、国外は言うまでもなく県外も無理だという思いが政府内にまん延していたし、今でもしている。その発想に閣僚の考えが閉じ込められ、県外の主張は私を含め数人にとどまってしまった」
 ―当初、大きな問題になると考えていたのか。
 「最終的に首相を辞する大きなテーマになるとは予測していなかった」
(略)

◆密使、候補はいた
 ―味方はいたのか。
 「平野博文官房長官(当時)は(望みをかけた)徳之島をいろいろと模索してくれた。少なくとも1人はいた」
 ―密使を使う考えはあったのか。
 「やりたい発想はあり、やってくれそうな方もいて検討はしたが、非常に難しかった」
 
―県内移設理由として在沖米海兵隊の抑止力は唐突感があった。
 「徳之島も駄目で辺野古となった時、理屈付けをしなければならなかった。海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる。海兵隊自身の抑止力はどうかという話になると、抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った

◆オバマ大統領の手紙
 ―日米首脳会談での発言が物議を醸した。
 「沖縄県民に理解されながら、米国にも合意してもらえる案が必ず作れるという気持ちは持っており、私という人間を信じてくれという意味で『トラスト・ミー』という言葉を使った。昨年7月にオバマ米大統領から手書きのレターが来て『あなたは自分の言葉に忠実だった』と書かれていた。日米関係が大変毀損(きそん)したと(メディアに)書かれたが、少なくとも7月の段階ではそうではない」
 「残念ながら沖縄の皆さんに理解してもらえる案にはなっておらず申し訳なく思っている。政府と沖縄との信頼関係が大きく毀損したのは事実で本当に申し訳ない。大変残念だ」
 ―09年末までに一度、県内移設を決断したのではないか。
 「トラスト・ミーという言葉まで使い、県外移設のめどが立たない現実があった。一方で(09年12月段階で)最終的に昨年5月28日に発表したもの(沖縄の負担軽減策)と同じようなものが既に(了解を)取れていた。ここを前面に出し、沖縄の理解をいただき辺野古は仕方がないと感じた瞬間はなかったと言えばうそだ」
 「しかし仲井真弘多沖縄県知事の意向なども伺いながら、沖縄県民に対する裏切りで政治的に持たないと判断し決着時期を延期した」(略)

                                           ☆

新聞の見出しだけ見ると、鳩山前首相が、海兵隊の抑止力を否定しているように思えるが、一問一答を呼んでみると次のくだりでは必ずしも抑止力を否定しているわけではない。

海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる海兵隊自身の抑止力はどうかという話になると、抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った

まぁ、抑止力の意味をよく理解できていない人物の発言を言質と捉えて大騒ぎする新聞が可笑しいのだが、早速沖縄紙は左翼学者を登場させ「識者の意見」として「海兵隊不要論」をぶち上げている。

普天間問題が暗礁に乗り上げたままで、まだ何の解決策も見出せない状況で、まるで過去の歴史を回顧するように、こんな話をするなんて、自分が問題の火を点けた責任者であることは宇宙の彼方に忘れ去ってしまったようである。

今にして思えば、「抑止力」どころか「腹案」も方便だったし、

民主党のマニフェストそのものが、政権強奪のための嘘も方便」だったということになる。

 

                                       ☆

 

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沖縄紙が決して告知してくれない講演会のお知らせです。

軍人アレルギーの沖縄では、賛否がわかれる講演会かとは思いますが、「開戦前夜」興味のある方には大変参考になると思います。

大東亜戦争を検証頂くきっかけに出来ればと考えております。

                                                       ☆

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日時:227日(日)

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訴状の公開、言論封殺訴訟

2011-02-13 06:26:10 | ★パンドラの箱訴訟

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 「言論封殺訴訟」に対する国民の関心を喚起する目的で、訴状を以下に公開します。

                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
                         訴状

                                 平成23年(2011)1月31日

那覇地方裁判所   御中

                      原告訴訟代理人弁護士     徳永  信一

                      同                  中村  正彦

                      同                  上原 千可子

 

 

当事者の表示            別紙当事者目録記載のとおり

 

 

損害賠償等請求事件

 

             訴額         10,459,000円

             印紙              53,000円

 

 

                      請求の趣旨

1 被告は原告に対し、金10,459,000円及びこれに対する本状送達の日の翌日から完済まで年5分の割合による金品を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

との判決及び仮執行宣言を求める。

                     請求の原因

第1 当事者

1 原告は、那覇市在住のドキュメンタリー作家であるとともに沖縄戦記録フィルム1フィート運動を創始し、沖縄戦メモリアル運動を提唱し、平和の礎に結集させた市民運動家である。 著作に『沖縄戦アメリカ戦時記録』(1986年・三一書房)、『青い目が見た大琉球』(1987年・ニライ社)、『沖縄戦トップシークレット』(1955年・沖縄タイムス社)等の外、琉球新報及び沖縄タイムス紙上で発表してきた数々の沖縄戦を中心とした戦記物がある。

2 被告は、昭和24年(1949年)に新聞発行を目的として設立された株式会社であり、被告が発行している琉球新報は。、明治26年(1898年)に創刊された沖縄初の新聞『琉球新報』の伝統敬称をうたい、沖縄の地方紙として長年当地の販売シェアーを『沖縄タイムス』と二分している。 「不偏不党、報道の自由と公正を期す」ことを社是とし、健全なる世論を育成する」「沖縄の諸問題を解明し、経済の発展、文化の向上と民主福祉の充実に尽くす」こと等を編集綱領として掲げている。

第2  集団自決事件と原告との関わり

1 沖縄戦集団自決事件

太平洋戦争末期、昭和20年(1945年)3月下旬、アメリカ軍は慶良間諸島に侵攻し、海と空から爆撃を加えたうえで上陸を開始したところ、渡嘉敷島及び座間味島の村民の多数が手榴弾で集団自決するという事件が発生した。
この集団自決の原因をめぐり、戦後まもなく発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』では集団自決は赤松隊長と梅澤隊長が発した無慈悲な自決命令によるとされていることなどから、沖縄では集団自決が軍の命令によるとする軍命説が定説となっていた。
昭和46年(1971年)、曽野綾子が『ある神話の背景』において、渡嘉敷での軍命説が不確かな風聞の外に根拠のないことを明らかにして見直しの機運を作り、平成7年に宮城晴美が沖縄タイムス紙上で座間味島の集団自決が住民の申し出によるものであり、梅澤隊長による自決命令はなかったとする母・初枝の証言を公にしたことなどから、軍命説の誤りが決定的となった。
ところが、その後も岩波書店が発行する大江健三郎著『沖縄ノート』等の著作が、軍命説に則り赤松隊長らを極悪人として描いたまま販売され続けていたため、平成18年8月、梅澤元隊長本人及び赤松元隊長の遺族が原告となり、岩波書店と大江健三郎を被告として名誉毀損等に基づく損害賠償を求める裁判(沖縄集団自決冤罪訴訟)を提訴し、これを契機として平成19年春には教科書に書かれた軍命説の削除を求める教科書検定意見が出されたことから、未だ軍命説を信じていた沖縄世論は沸騰した。
平成19年12月、改めて調査を委託されていた専門家委員会は軍命説を事実とする根拠はないとする答申を出し、軍命説削除の検定意見は維持されることになった。 他方、沖縄集団自決冤罪訴訟は、一審、二審とも原告らの損害賠償請求は退けられたが、判決の理由において軍命説が事実であると認定することはできないことが確認されている(なお、同訴訟は最高裁に上告され、現在審議中である。)

2 『沖縄ショウダウン』

原告は昭和60年(1985年)に沖縄タイムスに連載された『沖縄戦日誌』でドキュメンタリー作家としてデビューし、綿密な取材と資料分析に基づく沖縄戦の実情を発表してきた。 慶良間諸島で発生した集団自決事件に関しては、ニューヨーク・タイムズに掲載されていた目撃証言を紹介したことを契機に関心を持つようになり、以後、アメリカ国会図書館の資料の調査やアメリカ兵の目撃証言等を踏まえてその実態の解明に取り組んできた。
平成8年(1996年)には、渡嘉敷島に参加して集団自決の惨状を目撃したグレン・シアレス伍長の手記をもとにした『沖縄ショウダウウン』を琉球新報紙上で13回にわたって連載し、「注・渡嘉敷島で何が起きたのか」の章では、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち
『おとな』になることだと信じる」として、平成7年(1955年)6月、座間味出身の宮城晴美が沖縄タイムス紙上の連載コラム『母の遺言』で「梅沢裕第一戦隊長は住民に自決命令を出したことはなく、

援護法の遺族年金を得るためには、梅沢さんの命令が不可欠だと村の有力者達から言われ、母宮城初枝はやむなくその手記で梅沢さんの自決命令を書いた」とこれまで軍命説の根拠とされていた母・初枝の手記が事実ではないことを告白したことを紹介し、「一人の人間をスケープゴート(犠牲)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。 筆者も長い間、『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭い去ることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実をしることができた。 今、筆者は読者と共に、一つの脱皮をして一つの大人になった気がする。 だが、真実を知るのがあまりにも遅すぎた。 赤松さんは帰らぬ人となってしまった。」と書いた。


第3   『パンドラの箱を開く時』の連載と掲載拒否

1 連載執筆の依頼

平成18年(2006年)1月、被告の編集局長は「君の書く千期ものはどんなものでも琉球新報に掲載するから書いてくれ」等と申し入れ、長期間の連載執筆を依頼した。
原告はこれを受諾し、数年間にわたってアメリカ国会図書館、沖縄県公文書館等で収集した資料をもとに、長編戦記物『戦争を生き残った者の記録』を執筆し、琉球新報紙上に150回にわたって連載された後、新連載となる『パンドラの箱を開く時』の構想を練り、原稿の執筆に取り掛かった。

2 『パンドラの箱を開く時』の連載開始

(1)平成19年(2007年)5月26日夕刊にて原告の新連載『パンドラの箱が開く時』が始まった。 初回「はじめに」では、新連載の全体構造が明らかにされている。 全体は三章からなる三部構成をとり、第一章「死ぬ時、生きる時』は、伊江島を取り上げる第一話、慶良間の集団自決の真相に迫る第2話、久米島戦を扱う第3話からなることが語られ、第2話は、「今、世間の注目を浴びている『集団自決』についてアメリカ兵の目撃者や事件の主人公たちの知られざる証言を基に事件の核心を突くものになるだろう。」と予告されていた。

(2)翌日から始まった第1話「みんないなくなったー伊江島戦』は、「数多くの住民が女子供まで先頭に参加し、死んでいった。 その凄惨な戦いを知ることは慶良間の『集団自決』を理解する重要な手がかりとなるだろう。」と位置づけられていたが、6月16日夕刊(第15回)で完結し、6月19日夕刊から第2話が始まる予定であった。 

3 掲載拒否と連載の中断

(1)6月15日、原告は、第2話「慶良間で何が起きたか」の導入部の原稿(連載5回分)を書き上げ、被告の担当記者にEメールで送信した。 その内容は、前記『沖縄ショウダウン』の「注・渡嘉敷で何が起きたか」を下敷きにしたものであり、第2話全体は第三戦隊陣中日記を織り込み、書き上げた導入部を含め50回の長編になる予定であった。

(2)ところが、6月18日、原告は担当記者から呼び出されて足を運んだ被告の会議室において、担当記者を含めた4人の編集委員から突然、第2話の掲載拒否を告げられた。 理由を問うても、「社の編集方針に反する」とか「君は既に同じことを書いている」というばかりであった。 憤慨した原告は猛烈に抗議したが容れられず、『パンドラの箱を開く時』の連載は中断された。

(3)連載中断の10月初旬、原告は当時の編集局長と会い、今後のことを協議したところ、編集長から「今日は、集団自決は軍の命令だとすることで社の方針が固まっているので耐えてくれ、また時期がくれば掲載するので、当面別の原稿と差し替えて連載を継続してほしい」と頼まれた。 
軍命説の記載を問題とすることを求める検定意見をめぐって沸騰した沖縄の世論を背景に、編集委員と原告の板ばさみになっていた編集局長の立場に配慮した原告は妥協することを決め、『パンドラの箱を明ける時』は、約4ヶ月間の中断を経て10月16日の夕刊から連載再開となった。

4  連載の終了

(1)再開された『パンドラの箱を開く時』は、平成19年(2007年)12月15日に第3話「久米島虐殺事件の真実」を終え、続いて第4話以降の連載が始まったが、平成20年(2007年)の春に編集局長が交代してしまい、「慶良間で何が起きたのか」の掲載のことはうやむやになり掲載拒否の事実だけが残った。

(2)平成20年(2008年)7月下旬、被告の編集委員からそろそろ『パンドラの箱を開く時』を終わるように示唆された原告は、第13話「最終章ーそして人生は続く」を執筆し、最後に赤松元隊長が渡嘉敷の警官だった比嘉喜順に宛てた手紙「(前略)何れにしても私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待して努力しております。 一日も早く沖縄の人々にも理解して頂き、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように次の世代が憎しみ会うことなく本土の人々と仲良くやってゆけることを祈ってやみません。」を紹介し、「これでパンドラの箱を閉じる。 パンドラの箱に残ったもの、それは人間の真実だ。」と書いて、読者に別れを告げた。

(3)しかしながら、被告の編集委員らは、原告に対し、またもや「社の編集方針」を理由にその削除を求めてきたが、原告が断固拒否したため、被告は原告の承諾なくこれをカットして連載を打ち切り、『パンドラの箱を開く時』は、未完のまま180回をもって連載を打ち切ることになった。

 

第4 被告の責任

1 本件連載執筆契約

被告は原告に対し、平成18年(2006年)1月、当時の編集局長を通じて琉球新報紙上に連載する目的で長期戦記物の執筆を依頼し、原告がこれを受諾したことをもって原告と被告の間において連載執筆に関する契約(以下「本件連載執筆契約」という。)が成立した。
同契約に基づき、原告は長期連載戦記物を琉球新報紙上に連載し、所定の原稿料を支払う債務を負うことになった。

2 掲載拒否及び原稿カットの違法性

本件連載執筆契約に基づき、原告は長編戦記物『パンドラの箱を開く時』の執筆を開始し、琉球新報平成19年(2007年)5月26日夕刊から連載が始まった。 
ところが、被告は原告から提出された5回分の原稿を含め第2話

『慶良間で何が起こったか」の掲載を拒否し、『パンドラの箱を開く時』は大幅な改編を余儀なくされた。 
さらに、被告は原告から提供された「最終章ーそして人生は続く」の181回目の原稿をカットし、『パンドラの箱を開く時』の連載は未完のまま終了した。

上記掲載拒否及び原稿カット(以下「本件掲載拒否等」という。)は、本件執筆契約違反であるとともに、原告の著作物『パンドラの箱を開く時』を大きく改変するものである点において著作者の同意なく著作物を改変することを禁じる著作権法20条1項に違反するものであり、「集団自決」の真相を内容とする原告の表現を封殺する点において国民の表現の自由を保障する憲法21条に違反する違法性を有している。

3 編集権の逸脱

被告は新聞発行にかかる編集県を有しており、作家に連載執筆を依頼した場合においても、誤記等の単純なミスを訂正したり、事実誤認や斎3社の名誉毀損乃至プライバシー侵害といった正当な理由をもって修正を求めることは認められたとしても、「社の編集方針」という漠然とした理由をもって「集団自決」の真相を事実に基づいて広く県民に伝えようとした原告の表現の自由を封殺することを画し、世論を恣意的に誘導することは、「不偏不党・公正な報道」と「健全な世論育成」をうたい「沖縄の諸問題の解決」を目指す自らの社是・綱領に違反するものであり、新聞社が有する正当な編集権を逸脱するものであることは明らかである。

4 法律構成

被告による本件掲載拒否等は、本件連載執筆契約に違反するものであるとともに、著作権法20条1項及び憲法21条に違反する違法な行為である。 よって被告は原告に対し、本件掲載拒否等に因って原告が蒙った損害につき、債務不履行責任を規定する民法415条及び不法行為責任を規定する同法709条に基づいて賠償する責任を負う。

1 逸失利益(原稿料)・・・・・ 459,000円

本件連載執筆契約に基づく原告の原稿料は連載1回分(約1800字)9000円であったところ、本件掲載拒否により、原告は担当記者にEメールで送信した連載5回分の原稿を含め50回をよていしていた第2話「慶良間で何が何が起きたのか」の原稿料450,000円及び第13話「最終章ーそして人生は続く」の181回の原稿料9,000円の支払いを受けることができなかったことに係る合計450,000円の損害を蒙った。

2 慰謝料 ・ ・ ・ ・ 10,000,000円

本掲載拒否等により、原告は慶良間の「集団自決」の真相を内容とする第2話「慶良間で何がおきたのか」を琉球新報紙上に連載することができなくなり、その著作『パンドラの箱を開けるとき』につき大幅な改変を余儀なくされたうえ、未完のまま終了させられた。

3 損害合計 ・ ・ ・ ・ 10,459,000円

 

第6 まとめ

よって、原告は被告に対し、本件連載執筆契約違反の債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき、金10,459,000円及びこれに対する本状通達の日の翌日から完済まで年5分の割合による金員の支払いを求める。

証拠方法  追って提出する。

 

                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

上原正稔さんの「言論封殺訴訟」を支持する方、

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【追記】

訴額に誤りがありましたので訂正しておきました。

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コメント (4)

言論封殺訴訟、頬被りを続ける沖縄マスコミ

2011-02-11 17:51:35 | ★パンドラの箱訴訟

 

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1月31日にドキュメンタリー作家の「上原正稔さんが琉球新報を相手に「言論封殺訴訟」を起し、同じ日の午後記者会見をした。 それ以来12日を経過するが、沖縄2紙は翌1日、訴訟の事実のみをベタ扱いで小さく報じただけで、ほとんど黙殺状態を続けている。

沖縄で最大の発行部数を誇り、沖縄では泣く子と新聞には勝てぬと言わしめるほどの権力を謳歌する琉球新報を、その新報に長期連載記事を書いていたドキュメンタリー作家が提訴するという前代未聞の出来事だが、これをを知る県民はほとんどいないというのはいかにも不自然だ。

先日、那覇の某居酒屋で行われた飲み会で、上原正稔さんの「言論封殺訴訟」を話題に出してみた。 参加者10人のうち、当日記を読んでいる一人を除いて他の9人は、 沖縄2紙のいずれかを購読しているにもかかわらず、「言論封殺訴訟」については初耳だと言った。

沖縄紙が無視する出来事は沖縄では存在しなかったも同然なのだ。

「言論封殺訴訟」は、新聞と執筆者の原稿料に関わる金銭トラブルという下世話な話ではない。

上原さんの「パンドラの箱を開ける時」が掲載されていた2007年の沖縄の状況は、教科書検定問題で沖縄の全マスコミが慶良間諸島の集団自決で「軍命説」を主張し、まるで集団発狂したかのように県民を扇動していた時期である。

そして集団自決の核心に触れる「慶良間で何が起きたか」を掲載する予定日の6月18日前後は、まさに沖縄2紙が歴史歪曲のために熱病に浮かれていた時期でもあった。

2007年当時の当日記を引用するとこんなのがあった。

<6月に入ってからのの沖縄タイムスの「集団自決」絡みの記事の露出度は実に凄まじい。

記事・特集はさておいても、社説だけでも16日までに4件も書くという異常ぶり。

半月で4件だから、およそ一週間に二つの集団自決についての社説を書いていることになる。

そんなに書く内容があるのか。

内容なんかどうでも良い。 

とにかく書き続けて“民意”を装うのが目的だから。

沖縄タイムスが煽る“民意”とは、こぐのを止めると倒れる自転車のようなもの。

沖縄タイムスはいつまでこぎ続けるのか。

沖縄タイムス<社説一覧>

2007年           タイトル

6月16日 【文科省意見書】「削除」の根拠が薄弱だ
6月15日 【「集団自決」修正】真実から目をそらすな
6月11日
【検定撤回決議】歴史の事実を直視せよ
6月 4日
【「集団自決」と軍命】「魂の叫び」に応えたい
  

5月 2日 【「集団自決」調査】住民証言が軍関与裏付け

4月 1日 【「集団自決」検定】歴史の事実を踏まえよ >

 

こんな風に沖縄2紙がタッグを組んで県民を扇動していた真っ只中の6月18日が、問題の「慶良間で何が起きたか」が掲載される予定日だった。

 上原さんの原稿は、綿密な現地調査および米軍側の史料の検証の結果として沖縄2紙が主張する「軍命説」を真っ向から否定するものであった。

これを事前に知った新報側が掲載日の前日(6月18日)になって突然上原さんを呼び付けて掲載中止を、一方的に言い渡したというのだ。

原稿の掲載予定日の19日、沖縄タイムスの一面トップは、次の記事が大きく掲載され、読者の目を奪っていた。

沖縄タイムス 2007年6月18日(月) 夕刊 1面  
 
自民、意見書案合意へ/「集団自決」修正撤回
 高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定の撤回などを求める意見書への賛成方針を決めた県議会最大会派の自民党は十八日、議員総会を開き、文教厚生委員会の前島明男委員長から提示された意見書案を協議、合意する方針を決定した。
 一方、野党側は「集団自決」の軍命に対する意見書案の見解で、「沖縄戦の史実を自ら否定する表現になっている」と反発。野党会派は十八日午後に対応を協議し、独自の意見書案を提示する構え。文厚委員会は意見書案をめぐり、与野党の激しい議論が予想される。

 文厚委員会で可決された後、代表質問が始まる二十六日の本会議冒頭で可決される見通しだ。

 意見書案は、「集団自決」の軍命について「県内のほとんどの資料が灰じんに帰し、今後文書的な証拠が出る可能性は極めて乏しく、事実の検証は厳しい状況」と指摘。

 投降が許されなかった極限状態にあったとした上で、「軍しか持ち得ない手りゅう弾が配られ、多くの住民が自決に追いやられたこと多くの証言から紛れもない事実」とし、「今回の修正は到底容認できない」と検定意見の撤回、記述の回復を要請している。

 だが、野党側は「軍命については生き証人がいる。『検証が厳しい』とするのは、沖縄戦の史実を自ら否定している」「軍の命令なくして、起こり得なかったのは事実」と委員長案を批判した。

 自民の伊波常洋政調会長は「合意できるぎりぎりの線。意見書合意に向けて譲れない」と強調。前島委員長も「全会派が折り合いがつけられる内容を検討した。決裂させるわけにはいかない」と述べた。


     ◇     ◇     ◇     
本部議会決議


 【本部】教科書検定で沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に日本軍が関与したとする記述が高校の歴史教科書から削除された問題で、本部町議会(小浜利秀議長)は十八日開幕した六月定例会冒頭、検定意見の撤回を求める意見書を全会一致で可決した。

 意見書では「係争中の裁判を理由にし、かつ一方の当事者の主張のみを取り上げることは、文科省自らが課す検定基準を逸脱するばかりか体験者の証言や沖縄戦の実相を再び否定しようとするもの」として、文科省の検定意見を批判している。あて先は内閣総理大臣、文部科学大臣、沖縄担当大臣。

                      ◇   

 集団自決問題では「軍命令あり派」が唯一証拠とすることは住民が自決した「手りゅう弾」の存在である。

記事では、住民が手りゅう弾を所持していた事実だけで鬼の首でも取ったように「軍命説」の根拠にしているが、金城重明氏の証言でも明らかなように、手りゅう弾で自決した人は少数派であり、、鎌、鍬、棍棒などの農具で自決をしている。 大部分の人は手りゅう弾配布のことさえもも知らなかったのだ。 座間味島の場合などは手りゅう弾で死んだ人はたった一人に過ぎず、それも他人の手りゅう弾の誤爆という不幸な事故であった。

こんな状況で「手りゅう弾軍命説」が後付のでっち上げであることは自明である。

◆唯一の「証拠」は手りゅう弾

上記記事でも「軍しか持ち得ない手りゅう弾が配られ、多くの住民が自決に追いやられたこと多くの証言から紛れもない事実」だとして、手りゅう弾を「軍命説」の証拠としている。

厳しい軍管理下にある筈の手榴弾が住民の手にあったことは軍がそれで自決を命じたことと同じという三段論法だ。

手りゅう弾について証言をしたのは当時の村の職員だった富山(新城)真順さんである。
   
富山証言に登場する手榴弾(しゅりゅうだん)の配布については、既に作家、曽野綾子氏が著書『ある神話の背景』の中で、赤松嘉次元隊長に尋ねている。
自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね
 曽野氏の質問に対して、赤松氏はこう答えている。
 「
手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」
(世界日報 6月16日付本文より)

≪(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありま
すが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。
3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。≫(
沖縄集団自決冤罪訴訟・準備書面)                                                            

                                                         ☆

読者は既にお気づきの通り上原さんの「言論封殺訴訟」は、連載継続中の原稿の一方的掲載拒否に関する表現の自由を謳っているが、訴訟の本質は沖縄戦の最中慶良間諸島で起きた集団自決の軍命の有無に関わる歴史歪曲の問題であり、さらには歪曲された歴史が歴史教科書に掲載されるかどうかという重大な意義を持つ訴訟である。

表面上の原稿料支払いの問題であれば、沖縄の学者たちが示すように、容易に自説を曲げ新聞側に土下座すれば解決することである。

だが怪人上原正稔さんは他の似非文化人や似非大学教授のように自説を曲げてまで新聞側に媚びることを拒否しているのだ。 

琉球新報にとってはまことに始末に困る人物である。

今後も歴史歪曲では共犯関係にある沖縄2紙は、「言論封殺訴訟」に関してはできるだけ頬被りの姿勢を貫くだろう。

なぜならば裁判の過程を詳細に報道すればするほど、これまで沖縄2紙が歴史の歪曲・捏造をして県民を愚弄してきた事実が明るみに出るからである。

 

【予告】

県民の関心を喚起する意味で、明日、「言論封殺訴訟」の「訴状」の全文を掲載する予定です。

 

                                                       ★

 

沖縄紙が決して告知してくれない講演会の告知依頼がありました。

軍人アレルギーの沖縄では、賛否がわかれる講演会かとは思いますが、大東亜戦争を検証頂くきっかけに出来ればと考えております。

                                                       ☆

 東條由布子憂国講演会のご案内

演題:語る「開戦前夜」

東條英機は戦犯なのか、昭和殉難者なのか。今だから語れる、家族のみが知る開戦を決断した祖父東條英機の知られざる真実。

講師プロフィール

東條英機の長男・英隆の長女。NPO法人環境保全機構理事長

日時:227日(日)

開場:1800  開演:1830

場所:県立博物館・美術館(博物館講座室)

入場料:1,000

主催:東條由布子講演会実行委員会

お問い合わせ:運営事務局 仲村雅巳 09019421675

 

 

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コメント (4)

新燃岳噴火!入山規制区域に侵入相次ぐ

2011-02-11 06:51:07 | 県知事選

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天災は忘れた頃にやってくる。

新燃岳の噴火は、20年前の雲仙普賢岳の災害を

想いださせる。

だが、雲仙普賢岳の災害は、

天災ではなかった。

傲慢なマスコミがもたらした

人災であった。

 

入山規制区域に侵入相次ぐ…新燃岳半径4キロ圏
 
バリケードを越えて火口方面に向かう男性(5日、鹿児島県霧島市で) 鹿児島、宮崎県境の霧島連山・新燃岳の周辺で、「近くで写真を撮りたい」などとして観光客が、火口から半径4キロ圏の入山規制区域に侵入するケースが相次いでいる。

 「やっぱり、迫力ある姿を見たいでしょう」。火口から南に約5キロの鹿児島県霧島市の市道。通行止めのバリケードの奥から現れた48歳と39歳の男性2人に悪びれる様子はなかった。

 別の中年男性も「今は火山活動も落ち着いているように見える。近づいても大丈夫だと思う」と話した。同市消防局の後庵(ごあん)博文局長は「観光客を見かけて注意したが、危険性をわかっていなかった」と心配する。

 空気振動を伴う爆発的噴火が起きた今月1日、火口から南西約3・2キロの杉林に縦70センチ、横50センチの噴石が落下。直径6メートル、深さ2・5メートルの大きな穴が開いた。県と市は同日、規制区域を2キロ圏から4キロ圏に拡大。県道と市道の計3か所にバリケードと看板を設置している。

 しかし、規制に法的拘束力はなく、大規模噴火時の危険性から、市はこの3か所に職員を配置していない。後庵局長は「軽率な行動で被害に遭えば、多くの人に迷惑をかけることを考えてほしい」と訴えている。

(2011年2月9日03時04分  読売新聞)

                                                                                                         ☆

最近、以前に書いた「雲仙普賢岳」」関連の記事へのアクセスが常にベスト3に入っている。

新燃岳の噴火で20年前の雲仙普賢岳を思い出すのはわかる。

が、20年前の出来事を「天災」と捉える人人は多くいても、「人災」と捉える人は少ない。

相も変わらず立ち入り規制地域進入する人が出てくるのは、雲仙普賢岳の教訓を忘れるというより、最初から知らない人が多いからだ。

ふた昔の年月の経過は、当時の現役記者たちを現場の第一線から退かしめた。 毎年雲仙普賢岳災害の6月3日になって各紙に回想記事が掲載されるが、現役の第一線記者は、当時まだ物心のつく前であった。

だが、新燃岳の噴火で立ち入り禁止地域に進入するものが出てくる最大の理由は、マスコミが雲仙普賢岳災害の真相に頬被りをし、自分たちが引き起こした人災について反省する報道をしないからだ。

したがって、雲仙普賢岳の回想記事には、「天災」ではなく過熱した取材合戦で、「定点」を超えた報道陣を救出するため、多くの消防団員、警察官が犠牲者になった「人災」であると明記する自己反省の記事はほとんど無い。

新燃岳の不届きもの達は雲仙普賢岳災害の真相は人災であるということを知らされていないのだ。

例えばこの記事がそれだ。

「災害雲仙・普賢岳:大火砕流19年、慰霊の祈り 長崎・島原

犠牲者追悼之碑」に花を供え、手を合わせる遺族たち(写真省略)=長崎県島原市で2010年6月3日、加古信志撮影 死者・行方不明者43人を出した長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流から19年となる3日、被災地の同県島原市で追悼行事があった。市はこの日を「いのりの日」と定め、終日慰霊の思いに包まれる。

 普賢岳は90年11月17日に噴火。大火砕流で91年6月3日に43人、93年6月23日にも1人の犠牲者が出た。周辺は今も立ち入り禁止状態が続いている。

 午前8時半、市は仁田団地第一公園の「災害犠牲者追悼之碑」前に献花所を設置。遺族や横田修一郎市長、市民らが次々に白菊を手向け、犠牲者の冥福を祈った。

 市内の小中学校で災害を語り継ぐ行事もあり、高野(こうや)小では、島原市の保育士、大山秀樹さん(29)が当時の思い出を話した。【古賀亮至】

                        ◇

亡くなったほとんどの犠牲者は人災、それもマスコミ報道陣の傲慢な態度がもたらした人災であったという事実に触れ、それを反省する記事は皆無である。

記事は、「普賢岳は90年11月17日に噴火。大火砕流で91年6月3日に43人、93年6月23日にも1人の犠牲者が出た」と、淡々と記述されている。

だが、実際は亡くなった村の消防団員や警官などのほとんどが、立ち入り禁止されている地域に無謀にも立ち入ったマスコミ報道陣を救出するため、やむなく「定点」以内に踏み込んで、火砕流の犠牲者になった人たちである。

つまり報道陣をすくために犠牲になった人たちなのだが、記事には一行の反省も記されていない。

当時の取材狂想劇に加わったNHKも、「消防団員や報道関係者など、あわせて43人が犠牲になりました。と一言の反省も示さず報じている。

反省なき祈り、雲仙・普賢岳:大火砕流19...

 

雲仙普賢岳の災害ほどマスコミの傲慢さを露にした人災を、筆者は寡聞にして知らない。

 

【おまけ】

参考エントリー:

マスコミが報じない「雲仙・普賢岳噴火災害...

 マスコミが犯人の長崎・雲仙普賢岳噴火災害

浅間の噴火 雲仙・普賢岳の教訓を忘れるな...

 


 

2月11日(木) 建国記念日の行事 案内

1、     沖縄県護国神社 紀元祭

祭典:午前10時より 紅白まんじゅう贈呈

祭典終了後 宮司講和「祝おう建国の理想 創ろう誇り高き日本」

玉ぐし料

 

2、 日本の建国を奉祝する沖縄県民の集い 主催:日本会議沖縄県本部

  会場:パシフィックホテル沖縄 万座の間

  開場:13:00  開演:13:30

  記念講演「世界と日本の誇り 沖縄」 講師:椛島有三日本会議事務総長

  入場無料

 

3、日本の建国を奉祝する県民の集い   主催:国旗国歌推進沖縄県民会議

  会場:宜野湾市 フェスト-ネ(ラウンドワン隣り)

  開場:13:30  開演:14:00

  記念講演 講師:國場幸之助 元沖縄県議会議員

  入場料:千円

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コメント (3)

酔った米兵の事件事故相次ぐ???

2011-02-10 07:28:13 | ★米兵事件

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沖縄の新聞が米軍基地無用論を説くのは日常茶飯事で、取り立てて珍しいことではないが、ここ一週間の「米軍関連報道」は、東スポも真っ青の捏造・歪曲記事のオンパレード。

これには勘弁してほしいよ、タイムスさん、ともいいたくなる。

中国船の領海侵犯が続いているというのに、数年前の無灯火で電波妨害等をする不審船を「米艦船以外に考えられない」と報道したりで、これではヤクザの言いがかりといったらヤクザに失礼に当たる。 いくらヤクザでも四年前の出来事で言いがかりをつけるのはきついはずだ。

どうやらこの「反米軍報道」は、軍転協の要請行動を援護射撃をしているつもりらしい。

軍転協が政府に「普天間」県外移設を要望 首相「負担軽減に努める」
沖縄タイムス  2011年2月8日 20時03分       

 【東京】県と基地所在27市町村長でつくる県軍用地転用促進・基地問題協議会(軍転協=会長・仲井真弘多知事)は8日、官邸に菅直人首相、枝野幸男官房長官兼沖縄担当相を訪ね、米軍普天間飛行場を名護市辺野古に移設する日米共同声明を見直し、県外移設に取り組むことなど7項目を要請した。菅首相は普天間問題に直接言及せず、要請全般について「沖縄の負担軽減に努める」と述べるにとどめたという。軍転協が普天間の県外移設を求めたのは初めて。

 要請は仲井真知事を団長に稲嶺進名護市長、安里猛宜野湾市長ら基地を抱える11市町村の首長が同行。菅首相、枝野氏をはじめ、北沢俊美防衛相、前原誠司外相、民主党の岡田克也幹事長、ルース米駐日大使に要請した。

                                                            ☆

昨年11月の県知事選では、敵味方に分かれて戦った仲井真県知事と稲嶺名護市長、安里宜野湾市長ら一行が今度は呉越同舟で東京で要請行動。 政府要人は昨年暮れから年明けにかけて政府要人が次々と沖縄を訪れ、そのたびに知事は政府に対し、公約である「県外の要請」を行ってきた。 

もちろん県知事選では稲嶺名護市長と安里宜野湾市長は仲井真県知事の対立候補であった伊波洋一前宜野湾市長を応援し仲井真県知事とは戦った。 稲嶺、安里両市長は「国外移設」の伊波候補を支援したが、仲井真候補は選挙直前になって、従来の「県外がベストだが県内も容認」から「県外を(政府に)要請する」に変更した。 

その意味からすると今回の「運転協」(代表・仲井真県知事)の政府への要請は、仲井真知事の公約を見事に実現したことになる。 

その一方で同じ「軍転協」の稲嶺名護市長は、公約の「国外移設」は未だに実現できず普天間基地は現状のままに固定化される可能性が大きいのは皮肉なものである。

「軍転協」の政府への要請行動に呼応するように、これまで「県外・国外」を扇動した沖縄マスコミが、この数日、米軍基地が有害無益であることを喧伝する記事を書き続けている例を列挙する。 

 

                                       ☆

酔った米兵の事件事故相次ぐ

沖縄の酒酔い運転は、全国でも群を抜いて多く、毎年全国一であることは夙に知られたことでありる。

沖縄人の酒酔い運転は多すぎて記事にもならないので、報道するのは本土土スポーツ紙という有様である。⇒沖縄で無免許や酒酔い運転の4人を逮捕

そんな状況で米兵の酒酔い運転の逮捕劇を過大に報じるのは、それだけ米兵の酒酔い運転は少ないということになりはしないか。

有力情報得られず 北谷米兵殺人 沖縄署、血痕鑑定急ぐ

最近では新聞は見出ししか読まない人も増えているというが、この見出しなどは米兵が殺人犯ともとられかねない。犯人は米兵か沖縄人か目下のところ不明である。

 

米兵による強姦事事件でも起きてほしい・・・と、そのようにも見える沖縄マスコミの報道だが、皮肉なことに今朝の沖縄社会面には小さな「ベタ記事」で、「強姦致傷被告に懲役6年 那覇地裁」とあり、昨日(9日)の沖縄タイムスの社会面にもベタ記事で、本島内の中学教師(33)が女性とにわいせつ行為をし、県条青少年反故育成例違反容疑で起訴された記事が出ているが、教師の特権なのか名前は伏せられている。 一昨年沖縄紙でおきた「米兵女子中学生暴行事件」を思い出すが、結果的には不良米兵と不良中学生との「ナンパトラブル」(痴話げんか?)だったのを、いきなり米兵による「拉致事件」として大騒ぎし、一面、社会面トップで連日特集記事を書くのはもちろん、号外まで出す有様だった。 当時、暴行事件で号外がでるなんて聞いたことが無い、と驚いたものである。

この事件は容疑者の米兵を拘留期限一杯に延長で捜査の結果、「被害者」の女子中学生が売春行為で補導された経歴を週刊誌に暴露されたこともあって不起訴にされたことは記憶に新しい。

ところで、酒酔い運転もそうだが、婦女暴行事件もマスコミが喧伝するほど沖縄の米兵の起こす割合は多いのか。

こんな皮肉な記事があった。

010年 性犯罪3年連続減 県内、過去10年で最少

琉球新報2011年2月7日      

過去10年の性犯罪認知件数
 昨年までに県内の違法風俗店の摘発が強化されたことでインターネットの書き込みや月刊大衆娯楽雑誌などで「性犯罪が増える」と根拠のない中傷があったが、覆す結果となっている。
 宜野湾署と沖縄署によると11年2月現在、売春などを行う違法風俗店の摘発を強化した宜野湾市真栄原の通称「新町」は約110店余あったが常時開く店舗はなくなり、ほぼ壊滅状態。約200店といわれた沖縄市美里の通称「吉原」も約20~30店に減少している。
 摘発強化の中、インターネットの掲示板や雑誌などで「新町復活してほしい」「全国的に有名でお金落とす観光客いるのに」などの声や「新町、吉原無くなって性犯罪増えるだろな」と事件が増えるとの書き込みもあった。しかし、県警がまとめた女性を狙った性犯罪の認知件数の内訳は、強姦が10件で前年比3件減、強制わいせつは60件で前年比6件減少した。
 新町と吉原の環境浄化には市民のパトロールも貢献。現在も活動を続ける宜野湾市女性団体連絡協議会の本永静江会長は「事件などが減って良かった」と成果を喜んだ。
 店舗型の違法風俗店取り締まりが強化された一方で売春行為の潜在化が指摘されており、出会い系サイトを悪用した少女買春や人身売買的な被害が増加する懸念もある。県警生活保安課は「生活環境を乱す風俗犯の取り締まりは継続する。今後さらに力を入れていく」と警戒を強めている。(仲村良太)

                                                         ☆

沖縄における強姦・強制わいせつ等の重大性犯罪の「認知数」が三年連続減っているとの報道だが、それにしても強姦と強制わいせつが年間に70件もあるのには驚いた。

これでは四日に一件は重大性犯罪が起きている(認知されている)ことになるが、沖縄人が犯した犯罪の場合、前述の中学教師の犯罪の例のように名前も記しなかったり、目立たないベタ記事扱いにしているので県民が気がつかないだけの話である。

「米兵女子中学生暴行事件」といい「無灯火不審船は米艦船」といい、デタラメ記事で読者を愚弄しておきながら一行の「訂正記事」もない。

これでは良識ある読者が新聞離れを起こすのも無理は無い。

 

【付記】 書き漏らしたが、昨日の沖縄タイムスの社会面下部の目立たない場所に「タクシー運転手ひき逃げの容疑」というベタ記事がある。 「ひき逃げ」といえば、米兵が起こして社会面トップで数日間大騒ぎした異常な報道を想いだす。

異常な報道の詳細は毎度、沖縄タイムスのダブスタ報道!

                                                        ★


 

2月11日(木) 建国記念日の行事 案内

1、     沖縄県護国神社 紀元祭

祭典:午前10時より 紅白まんじゅう贈呈

祭典終了後 宮司講和「祝おう建国の理想 創ろう誇り高き日本」

玉ぐし料

 

2、 日本の建国を奉祝する沖縄県民の集い 主催:日本会議沖縄県本部

  会場:パシフィックホテル沖縄 万座の間

  開場:13:00  開演:13:30

  記念講演「世界と日本の誇り 沖縄」 講師:椛島有三日本会議事務総長

  入場無料

 

3、日本の建国を奉祝する県民の集い   主催:国旗国歌推進沖縄県民会議

  会場:宜野湾市 フェスト-ネ(ラウンドワン隣り)

  開場:13:30  開演:14:00

  記念講演 講師:國場幸之助 元沖縄県議会議員

  入場料:千円

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コメント (2)

数字に弱い理系首相、国会で経済学の聴講?

2011-02-09 06:40:00 | 県知事選

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涼太さんのコメントです。


狼魔人様

今日の国会中継を聞いていましたが、もうどうしようもないですね。
管総理は、野党自民党の質問にまともに答えることが出来ません。茂木、棚橋、小泉進次郎議員が質問していましたが、子供手当て、高速無料、基礎年金の税負担、ガソリン暫定税率、何を質問されても努力しますの一点張りです。
これでは、棚橋議員でなくても
「勘弁してくださいよ。あなた方はマニフェストやりますと言って票を貰った。努力します。出来なかったらごめんなさいで済む問題ではない。これでは何の当ても無く国外、県外と言った鳩山元総理と同じだ。」は当たり前です。
この期に及んでは民主党の存在自体が国難です。
茂木、棚橋議員が仰るように国の骨格を成す基本の支出は削って、ばら撒きだけの予算を組んでいます。本来は基本の支出をまず捻出して尚余裕があれば、ばら撒きをやっても構いませんが、民主党の予算案は本末転倒です。
これでは、国民のために審議に協力するべきだと抱き付かれても迷惑な話でしょう。 
 
空き缶は、子供手当ての一部地方負担に関しても、扶養控除、配偶者控除の廃止で地方の税収も増えるので負担の押し付けでは無いと強弁していましたが、小泉議員が仰るように、全額国がやりますと言ったことをやらないから、地方が反発するは当たり前です。
選挙前はあれもやります。これもやります。日本はバラ色です。と言いながら何一つ出来ないから国民の信を失っているのです。
私は、民主党が拘る基礎年金の全額税負担も、子供手当て、選挙権と同じように年金未加入の在日への配慮だと思っています。いくら金があっても足りません。 
 
                                                   ☆

話は一時横道にそれるが、本日のテーマは昨日の国会の質疑応答についてである。

 

「高等数学を操る政治家は常人の考えもつかない優れた政策を考えることができる」。

こんな妄信をする人物がいる。

言論封殺魔こと佐藤優氏のことである

この人物、保守をを標榜しながら、何故か沖縄では左翼の支持が絶大である。

沖縄の左翼は佐藤氏の「半分は沖縄の血が流れている」の一言に容易に誑かされているのだろう。

2009年1月9日付け沖縄タイムスの 「迷走『普天間』」というインタビュー記事で、佐藤優氏が当時の鳩山首相に対して次のように声援を送っていた。

鳩山由紀夫首相が移設先の結論を5月まで先延ばししたことにメディアや専門家の批判が集まっているが、あれは立派な決断だ。 鳩山さんは普天間問題に関しては全くぶれていない。 メディアが「ぶれている」と書くのは、四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)しかできないからだ。 日米合意は辺野古移設だが、鳩山首相は総選挙で「県外・国外」を」公約した。 足して2で割ると、辺野古への微調整だろうと、鳩山さんはこういう計算をしない。 彼は東大工学部で偏微分方程式(未知の関数を含んだ微分方程式)を毎日、解いていた。 その中の大きな変数が「沖縄の思い」ということだ。 沖縄が黙れば変数は小さくなり、声が大きくなれば変数も大きくなる。 沖縄を主体とした方程式を作っていた。>(沖縄タイムス2010年1月9日「民意を見極めている首相」より)

おそらく佐藤氏は理数系に劣等感を持っていると思われ、その結果、理数系首相に過大な期待を賭けている節がこの文章から垣間見れる。

結局、鳩山首相は佐藤氏の期待を裏切って偏微分方程式で解決などほど遠く、「腹案」どころか脳ミソ空っぽのルーピーであることを世界に晒したことは周知のこと。

さて、鳩山前首相と同じ理系出身の菅首相、昨日の衆院予算委員会で自民党議員に「数字を提示して」の集中攻撃に、まともに答えられず数字に強いはずの理系首相の弱点を晒した。

衆院予算委 マニフェスト財源問題集中審議 野党から厳しい追及続く  FNNニュース

国会では、衆議院予算委員会で、マニフェストの財源問題についての集中審議が行われていて、野党から、民主党のマニフェストは破たんしているなどと、厳しい追及が続いている。
自民党の茂木敏充議員が、マニフェストの達成率などを、次々に数値を挙げて追及したのに対し菅首相は抽象論に終始し、委員長から「総理は数字を挙げて答えるように」と注意される場面もあった。
菅首相は「(マニフェストのうち)中には、どうしても難しいもの(もある)、それらをきちっと国民の皆さんにお伝えしたい」と述べた。
自民党の茂木議員は「苦しくなると逃げる。こういう『逃げ菅』というのは、やめていただきたい」と述べた。
また茂木氏が、「マニフェストは破たんしている」として、解散総選挙を迫ったのに対し、菅首相は、「解散はまったく考えていない」と応じた。
一方、与謝野経済財政担当相は、答弁の中で、消費税を増税した際の使い道について、「子育ては当然入る」と述べ、子ども手当が含まれるとの認識を示した。
これに先立ち、新党日本の田中康夫代表は、前原外相が7日、北方領土返還に「政治生命を懸ける」と発言したことを取り上げ、「任期中に実現するという覚悟がないと、『口先番長』などと言われ、政治不信が高まる」とけん制した。
与野党連携のめども立たず、「3月危機」が現実味を帯びる中、野党だけでなく、与党の政権を見る目も厳しくなりつつある。

                                                        ☆

昨日の衆院予算委員会での茂木議員と官首相との質疑応答。

茂木氏の数字を提示した質問に対して首相は「逃げ菅」のすりかえ答弁で終始した。 挙句の果てに茂木氏の経済学講義を国会で拝聴するような失態を見せ、経済に「疎い首相」であることを国民の前に晒した。

それにしても菅首相は東工大の理学部出身で数字には強いはずなのだが、その理系首相が具体的数字を避け、抽象論に走るのを見ると、理工系は首相には向かないということか。 

鳩山前首相も東大の物理学科卒だし、そういえば、オウム真理教に入った連中には理工系が多かった。 理工系出身の議員というものは、机上の計算はできても実際の問題に遭遇すると応用が分からず原理主義に走ろうとする。 若い頃オウム真理教に遭遇していたら菅首相も鳩山前首相もオウム真理教の大幹部になっていた可能性もある。 

虐殺王・ポルポトもプノンペン工科大学卒の理工系だと聞くが、フランス留学時代に共産主義に出合って政治に興味を持ち権力闘争に走ったという。  その結果が世界にも類を見ない大虐殺劇となるのだから、理数系の政治家が権力を持つとろくなことは無い。

 実態経済の数字を見ても理解できず、国会質疑で質問者から経済学の講義を受ける首相や、机上の偏微分方程式で外交を計算しようとする愚かな前首相は、

とっとと日本の政界から消えてほしい。

 それが日本の一番の国益であることを彼らの方程式ではわからないのだから始末に終えない

3月危機といわれているが、昨日の首相の国会答弁から判断すると、「今年の秋の折り返し点」までは何を言われても「カエルの面に小便」で、石にかじりついてでも首相の椅子にしがみつくというのが現在の首相の本音と見た。

                                       ☆
 

2月11日(木) 建国記念日の行事 案内

1、     沖縄県護国神社 紀元祭

祭典:午前10時より 紅白まんじゅう贈呈

祭典終了後 宮司講和「祝おう建国の理想 創ろう誇り高き日本」

玉ぐし料

 

2、 日本の建国を奉祝する沖縄県民の集い 主催:日本会議沖縄県本部

  会場:パシフィックホテル沖縄 万座の間

  開場:13:00  開演:13:30

  記念講演「世界と日本の誇り 沖縄」 講師:椛島有三日本会議事務総長

  入場無料

 

3、日本の建国を奉祝する県民の集い   主催:国旗国歌推進沖縄県民会議

  会場:宜野湾市 フェスト-ネ(ラウンドワン隣り)

  開場:13:30  開演:14:00

  記念講演 講師:國場幸之助 元沖縄県議会議員

  入場料:千円

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コメント (5)

三月危機!巨大ブーメランが解散へ追い込む!

2011-02-08 08:10:01 | 県知事選

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与謝野氏を閣僚に引きこんで内閣の再生を図ったが、世論の批判をまともにを受けた菅首相。

何を血迷ったのか、今度はあの柳沢元厚労大臣を、政府の「社会保障改革に関する集中検討会議」の有識者委員に引っ張り込んだ。

民主党は、野党だった07年、厚労相だった柳沢氏の「女性は産む機械」発言を問題視し、不信任決議案を提出し、審議拒否をした。

厚生大臣としての見識を不信任決議し、審議拒否したた民主党が、今度は民主党政府の有識者会議の主要メンバーになる。 

これはブラックユーモアー以外の何物でもない。

それとも、三月危機を目前にし、首相の椅子にしがみつきたい菅首相の断末魔の足掻きなのか。

 ⇒[産む機械」批判から4年後…検討会議に柳沢元厚労相 

いずれにせよ民主党内閣に政権統治能力が無いことだけは明らかだ。

 

「3月危機」が現実味 退陣か、解散か
2011.2.6 23:40
 愛知県知事選、名古屋市長選で民主党が惨敗を喫したことにより、菅直人首相の一層の求心力低下は避けられない。もっとも「危機」を扇動しているのは民主党の小沢一郎元代表だ。

 「予算関連法案が通らなければ大変なことになる。解散はある。しっかり準備しておけ!」

 2月初め、地方から東京に戻る機中で同席した若手議員に「3月解散」を予言した。「関連法案と引き換えに首相のクビを差し出せばよいではないですか」と問われると「菅さんは辞めない」と断じた。

 平成23年度予算が年度内成立しても関連法案の特例公債法案が成立しなければ財源確保できない。子ども手当法案が不成立ならば支給は滞る。ところが、自民、公明両党などは4月の統一地方選を見据え、関連法案を「人質」に内閣総辞職を迫る公算が大きい。拒否するならば衆院解散しかない。

 小沢氏は2日の鹿児島市の会合でも「4月の統一地方選に向け、公明党は本気で民主党と戦おうとしている」とあおった。政治資金規正法違反の罪で強制起訴された1月31日夜も「特例公債法案が通らないと大変なことになる。何があってもいいように準備しないといけないぞ」と側近にハッパをかけた。

 「危機」をにらむ議員がもう一人。「ポスト菅」候補の前原誠司外相だ。

 「政権交代して1年6カ月がたつ。いつ解散があってもおかしくない」

 1月27日、自らのグループ「凌雲会」の会合で警戒警報を発し、側近たちを驚かせた。小沢と前原の両氏は党内で最も距離がある2人だが、現状認識はくしくも一致する。

 「危機」は2つの要因がからみつつ進行する。

 一つは予算関連法案。成立には公明党などの協力で参院で可決するか、社民党などの協力で衆院で3分の2以上の賛成で再議決するしかない。首相はどちらを選択するか決めかねるどころか、事態を甘く見ていた。

 「今まで国会でいかに野党の嫌がらせで重要法案が通らなかったか、パネルにまとめろ!」

 通常国会召集直後の1月下旬、首相はある首相補佐官にこう命じた。こうした好戦的な態度が野党との距離をいたずらに広げてしまった感は否めない。

 もう一つの要因は4月の統一地方選だ。首相は昨年7月の参院選大敗後、同10月の衆院北海道5区補選など大きな選挙で連敗してきた。愛知の惨敗は「選挙に勝てない政権」という評価の決定打となる。小沢氏のお膝元の岩手県陸前高田市でも6日、民主推薦候補が敗れた。「菅首相で統一地方選を戦えない」との声はますます高まるに違いない。

 政権中枢もようやく危機感を抱き始めた。6日午前、岡田克也幹事長、仙谷由人代表代行、安住淳国対委員長らが首相公邸に入った。「予算関連法案は厳しい」と安住氏は首相に現状を率直に伝え、関連法案が成立しない場合のシミュレーションを行った。その中に「首相退陣」や「衆院解散」の選択肢は含まれていたのか

 6日夜、寺田学首相補佐官が首相公邸を訪れ愛知惨敗を伝えたが、首相は黙ったままだった。「3月危機」の足音が日増しに高まってきた。(船津寛)

                                                                                   ☆

 

思考停止のいや、思考能力は元々無い空き缶首相は、ついにこんなことを口走った。

「今まで国会でいかに野党の嫌がらせで重要法案が通らなかったか、パネルにまとめろ!」

空き缶首相には、この一言が唸りを上げたブーメランとなって自身を襲うことも考えきれないのだろう。

早速ネットには「民主党 野党時代の審議拒否の歴史」が拡散されている模様。

【民主党】野党時代も審議拒否。与党になっても審議拒否。民主党の酷い審議拒否の歴史
398 :名無しさん@十周年: 2011/01/26(水) 15:54:09 ID:znOV0Fph0

●本当にあった民主の審議拒否

・日銀総裁が気に入らないから審議拒否
・参院で負けたから審議拒否
・解散しないなら審議拒否
・定額給付金が気に入らないから審議拒否
・中川が変な会見したから審議拒否
・失言した厚労相の辞任を要求して審議拒否
・談合疑惑がある防衛事務次官の証人喚問を要求して審議拒否
・イージス艦漁船衝突事故の真相究明を要求して審議拒否
・早期解散を要求して審議拒否
・解散の日程決まったから審議拒否
・なんとなく審議拒否
・自分で出した法案を審議拒否

 

安倍内閣時代
・大臣が子供を産む機械などと発言をしたから辞任しろと審議拒否⇒柳沢厚労大臣のことですよ!
・憲法改正のために必要な国民投票法で民主案を飲んだら審議拒否
・民主党が出した教育基本法改正案を自民党が丸呑みしたら審議拒否
・参院選で勝った民主党の要求どおりに解散しないから審議拒否

福田内閣時代
・参院選で負けたのに首のすげ替えで福田に変わった
 民意を問わないで首をすげ替えたのは民意に反しているから審議拒否
・日銀総裁人事が気に入らないと審議拒否
・イージス艦と漁船の衝突事故の真相究明がされるまで認めないと審議拒否
・後期高齢者医療制度を廃止しない事、
 ガソリンの暫定税率を復活させた事を理由に問責可決→問責したのだからと以降審議拒否

麻生内閣時代
・民意を問わずに首相が替わることは許されない。解散しないから審議拒否
・定額給付金を撤回しないから審議拒否
・麻生が補正予算案を臨時国会に出してこないから審議拒否

 

403 :名無しさん@十周年: 2011/01/26(水) 15:55:31 ID:lOOBk3Fi0

■中川昭一酩酊会見

中川が謝罪するまで審議拒否
 ↓
中川謝罪
 ↓
中川が辞任しないから審議拒否
 ↓
中川「来年度予算が成立したら辞任する」
 ↓
今すぐに辞任しないから審議拒否
 ↓
中川昭一辞任
 ↓
中川の辞任について首相が謝罪するまで審議拒否
 ↓
麻生謝罪
 ↓
麻生内閣が予算案を撤回するまで審議拒
 ↓
予算案撤回
 ↓
民主「このとおり麻生内閣は無責任だ。政権担当能力はない。だから審議拒否」
 ↓
民主「麻生が衆院を解散しない」事を理由として麻生太郎問責決議可決

・麻生首相が衆院解散を決めたので審議拒否

 

407 :名無しさん@十周年: 2011/01/26(水) 15:56:25 ID:3CA9fHsC0

■鳩山内閣時代

野党が臨時国会の時間が足りないと会期延長による審議時間確保を要求
 ↓
民主党これを拒否。

自民「子ども手当は審議時間が足りないからちゃんと審議すべき」
 ↓
民主、参院選前にお金を配るために審議拒否、強行採決

自民「公務員制度改革法案に1回だけたった数時間で採決はおかしい。ちゃんと審議すべき」
 ↓
民主、審議拒否して強行採決

 

■菅内閣時代

・国会会期中にも関わらず民主党議員の多くが選挙運動で地元へ
 与党少数とみて自民が問責決議案提出。
  ↓
民主「問責可決が回避できないので国会開催拒否」
  ↓
野党「閉会手続きすら無いのはおかしい、理事懇談会で調整しよう」
  ↓
民主、理事懇も理事会の開催も拒否。

政権交代後は与党になったにもかかわらず、民主党は審議拒否をした。
そして強行採決。自民党の強行採決は民主党が審議拒否をして会期一杯まで
審議に応じるように説得して、それでも出てこないので強行採決をした。

国会に出した法案は会期を過ぎて決まらないものはだめになってしまうものも
あるので(関連法案などが決まらないと法的根拠の無い中途半端なものに
なってしまうことがある)強行採決せざるを得なかった。

それにより、中小企業への支援が出来たりした。
しかし、強行採決をしたとたんにマスコミ、民主共に「横暴の極みだ」とか
独裁だとか批判していた。

 

巨大ブーメランを拡散して、民主党政権を解散に追い込みましょう!

                                       ☆

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コメント (4)

沖縄タイムスの与太記事!

2011-02-07 06:54:52 | 未分類

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石原昌光さんのコメントです。(記事部分は筆者が着色)

支那タイムスのオウンゴールか?不審船団は黄色艦隊??? 石原昌光

狼魔人さま、こんにちは
スレ違いですが、コメントさせて下さい。
2/4日付け沖縄タイムス最終面にこんな記事がありました。

米艦船が航行妨害か
07年南北大東ー那覇定期便無灯火で2時間

4年前の2007年2月、南北大東島から那覇に向かっていた定期貨物船が米軍の可能性もある艦船に約2時間にわたって航行を妨害されていたことが3日までに分かった。
同日開かれた軍転協総会で、北大東村の宮城光正村長が報告し、安全航行の阻害要因になっている米軍の提供水域の返還を訴えた。
(一面参照)
航行妨害があったのは07年2月22日午後9時すぎ。大東海運の「だいとう」の高良船長(39)はレーダーに映る船影で軍艦とみられる艦隊に気付いた。前方に目を凝らすと月明かりでうっすらと船影が見えた。
通常、夜間航行時は航海灯をつけるが、光は見当たらなかった。「何かおかしい」と思った直後、軍艦らしき艦船は左右前方から「だいとう」の前に回り込んできたり、追尾を繰り返すなど航路妨害を加えた。
さらに、艦船は航路上の前方でいきなり停泊。艦船を避けるために針路を変更しようとすると再び動き、前方を通過。一番近い時で2キロ余りしか離れていなかった。前方8キロで停泊した際には妨害電波が発信され、海上保安庁との連絡手段は閉ざされた。
高良船長は「船は時速30キロ近く出るので、無灯火は非常に危険。当時、20人以上の客がいた。位置的に衛星電話もつながらず不安と恐怖でいっぱいだった。民間船への妨害は許されない」と憤る。
大東海運が海上保安庁を通じて、関係機関に問い合わせたが「海上自衛隊からは訓練していないと回答があったが、米軍から訓練していたかどうかの明確な返答はなかった」という。

この記事を読んで、私は即座に違和感を持ちました。
軍事には素人同然の私ですが、この不審船団の異常な行動は米軍の仕業とはとても思えません
どうして、米艦船が提供水域内で、
①無灯火で航行し
②「だいとう」の航路を妨害し、あわや衝突しそうになる程に追尾・接近を繰り返し
③妨害電波を発してまで、「だいとう」の通信を妨害したのか?
米軍がどうして同盟国の民間船舶にここまで危険な事をしたのか、まったく理解できないのです。
次に2/5日付けの沖縄タイムス最終面の記事を参照します。

米海軍は関与否定
南北大東の定期船妨害
2007年、南北大東島から那覇に向かっていた定期貨物船が艦船に航行を妨害された問題で、沖縄防衛局は4日、当時、在沖米海軍から関与を否定する回答を得ていたと説明した。沖縄タイムスの取材に答えた。
同局によると、妨害行為が発生した07年2月22日
の翌23日、定期貨物船を運航する大東海運は進路妨害や追尾、妨害電波発信などの行為を受けた当時の那覇防衛施設局に報告した。
同局は同日、在沖米艦隊活動司令部(嘉手納基地)に問い合わせ、同年3月27日「海軍の軍艦は航海に関する厳重な規律を守っており、照会のあった操縦などを行うことは、いかなる状況においてもない」との回答を受けた。同局は結果を北大東村と県に伝えた。
北大東村の宮城光正村長は4日、「その報告は聞いたが、訓練海域近くでの出来事であり、普通に考えれば米軍しかいない。どこの船かの特定はできないが、やってないと言われてもそうですか、とすんなり受け入れられるものではない」と話した。

自分で、「米艦船に民間船が妨害された!」と確たる証拠もなく、軍転協総会のような公式の場で発言しておきながら、防衛局から、「米軍の関与は無い」と通知されると、「やってないと言われても信用できるか!」と居直る宮城北大東島村長、、、
であれば、どうして4年前に徹底した調査を防衛局なり米軍なりに要請しなかったのか?
4年間も重要事件を放置しておいて、今年、軍転協総会が行われるや、すでに4年前に米軍に関与を否定された事件を、恰も米軍が行ったように
話すという神経、、、とても公人に相応しい人物とは思えない。
♪踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損々、、、
米軍が公式に関与を否定した今、では不審船団はどこの艦隊だったのかという疑問が残る。
そもそもこの事件、宮城村長がご丁寧に軍転協総会で取り上げなければ、闇に葬られていた事件なのである。
アホ踊りをした村長に、見るアホウの支那タイムスが食い付き、反米ネタになると記事にした。
断定はしないが、
①無灯火
②民間船の航路妨害、接近・追尾・あわやの衝突
③妨害電波の発信
これらは、その海域にいてはいけない艦船が行う行為そのものではないか?
「だいとう」の航路を妨害したのは、米艦船ではなく、支那の黄色艦隊(チールークァンタイ)ではなかったか?
もしそうなら、支那タイムスは藪を突付いてとんだ化け物を呼び出した事になる。
まさに支那タイムスのGJ!オウンゴールである。
私の読みが当たっていれば、支那タイムスにおいてこの航路妨害事件は無かった事にされる可能性が高いので記録としてコメしておきます。
長文失礼しました。

                                                                                          ☆

このところ上原正稔さんのt琉球新報に対する「言論封殺訴訟」の関連記事が続いているが、実は筆者も沖縄タイムスのこの歪曲記事は追々アップする予定で切り抜きだけはしておいた。

石原昌光さんが見事に一刀両断の上、微塵切りにまでされているので、これ以上は蛇足として読んでいただきたい。

沖縄タイムスは、自社史にまた一つ捏造・歪曲の記録を書き加えることになった。

沖縄タイムスの捏造・歪曲記事は、最近の例を挙げただけでも「金武町米軍流弾事件」「米兵女子中学生暴行事件」等々と枚挙に暇がないほどだが、それにしても性懲りもなくよくやってくれるものだ。

上記5日の記事にある「一面参照」というのは一面左トップの次の記事である。

普天間飛行場

軍運転協、県外移設要請へ

嘉手納以南先行返還も 知事ら7日上京 

つまり沖縄タイムスは四年前の賞味期限の切れた曖昧な出来事を引っ張り出して、米軍基地は沖縄には有害無益であることを印象付けるため三段抜きの大見出しで県民を愚弄したのである。

話を持ち出したのは大東村長のようだが、「反戦平和」を唱えると免罪符が貰えると思った村長が与太話を持ち出し、これに沖縄タイムスが食いついたという構図だろう。

これを本気でスクープと思ったとしたら大笑いだし、事実歪曲は『鉄の暴風』以来のタイムス記者の伝統と感心もする。

ちなみに「軍運転協」とは「県と基地所在37市町村長でつくる県軍用地転用促進・基地問題競技会」という長ったらしい名前のことであり会長は仲井真県知事が就任している。

北大東村長は「普通に考えれば米軍しかいない。」と惚けたことを言っているが、それこそ普通に考えれば中国船しか考えられないだろう。 村長は、取材記者の表情から空気を読んで常識外れの発言を自らしたのか、それとも強いられたのか。

石原さんが解説するように、日米安保条約の下にある米艦船がこんな危険行為(①無灯火、②民間船の航路妨害、接近・追尾・あわやの衝突、③妨害電波の発信)をして航行する理由は何も無い。

それにしても二日にわたる不審船の記事で、常識ある読者なら即座に思い浮かぶ「中国」という単語が一回も出てこないのは、さすが沖縄タイムスの面目躍如である。 

やはり沖縄タイムスは、中国を母国と考えているのだろう。

 

ここでも石原昌光さん、快刀乱麻の大活躍です ⇒祖国は中国!沖縄タイムスのアイデンティティ

                                     ☆


2月11日(木) 建国記念日の行事 案内

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  会場:パシフィックホテル沖縄 万座の間

  開場:13:00  開演:13:30

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3、日本の建国を奉祝する県民の集い   主催:国旗国歌推進沖縄県民会議

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  開場:13:30  開演:14:00

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開店休業の1フィート運動!上原さんを報じたOTVがFNSドキュメンタリー大賞

2011-02-06 07:58:39 | ★パンドラの箱訴訟

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OTVが特別賞受賞 FNSドキュメンタリー大賞  琉球新報2005年12月17日      
 沖縄テレビ放送の「むかし むかし この島で」(山里孫存ディレクター、2005年10月10日放送)が16日、第14回FNSドキュメンタリー大賞で、上位6作品に選ばれ、特別賞を受賞した。
 「むかし―」は、米国公文書館から沖縄戦に関する記録フィルムを取り寄せ、全県民に見てもらい映像の特定をすることで、沖縄戦の真実に迫ろうというドキュメンタリー作家、上原正稔さんの活動を取り上げたもの。

 山里ディレクターは「戦後60年スペシャルで作った沖縄の60年前の映像と、今を結びつける作品が全国で評価されて素直にうれしい。取材を通して戦争が昔の話ではなく、今につながることを実感した」と話した。

                                                                 ☆

新聞社が記事にするかどうかを決めるとき金科玉条のように持ち出す言葉が「編集権」である。 公平な報道を謳っている新聞社が、偏向報道を指摘されると、「編集権」を盾に公平を強弁するのが新聞社の常である。

だが一般の読者投稿ならともかく、上原正稔さんといえば沖縄戦記の研究では沖縄マスコミガこぞってその実績を認める専門家であり、2006年に琉球新報社が長期連載企画の依頼をしたときも、前年までの上原さんの輝かしい沖縄戦記研究の実績を見込んで依頼していることは上記新報記事から容易に判断できる。

その頃上原さんは米公文書館から取り寄せた沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映会を頻繁に行っており、上原さんを追い出した「1フィートの会」は事実上開店休業の状態であった。

上原さんが創始した1フィート運動を沖縄の左翼勢力が卑劣な手段で乗っ取ったことは前に述べたが、頭でっかちで実行力の伴わない彼らを尻目に、上原さんは個人で未公開の沖縄戦フィルムを次々と発掘し、中でも白旗を掲げて投降する幼い少女の姿は、多くの出版物で紹介され感動を呼んだことは記憶に新しい。 だが、左翼勢力は上原さんが発掘した「白旗の少女」を歪曲し卑劣にも「残虐非道な日本軍」の物語に捏造したこと記憶に新しい。

テレビ東京が「白旗の少女」を放映

次に上原さんの活躍を報じる琉球新報記事をもうひとつ紹介するが、この記事にも既に「パンドラの箱を開けるとき」のタイトルが見えるが、琉球新報は「パンドラの箱」の意味が分からないままに、上原さんに原稿を依頼したのだろうか。

 「もう一度家族抱きしめたい」 沖縄戦フィルム上映会

琉球新報2005年8月2日      

家族の姿を映像や写真で確認した山城ミエさん(左)、山城栄子さん(左から2人目)、山城信一さん(同4人目)=1日夜、那覇市のてんぶす那覇
 沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映が1日から那覇市のてんぶす那覇で始まり、家族や親族十数人が避難壕から救い出され、寄り添う姿をフィルムに映る本人らが確認した。うるま市石川山城の山城ミエさん(76)、またいとこの山城栄子さん(73)、おいの山城信一さん(60)らがフィルムで60年前の家族らと“対面”。「生き残ったことは幸せだが、目の前で死んだ家族もいる。もう一度抱きしめたい」と目頭を押さえた。

 壕から出る信一さんと信一さんを抱く母トミ子さん(戦後死去)の様子はこれまでも展示、上映されていたものの、親子の所在は分からなかった。6月に信一さんが名乗り出て同22日付琉球新報朝刊で紹介された。
 記事を見たフィルム制作者のドキュメンタリー作家の上原正稔さん(62)が「パンドラの箱を開けるとき」で同一場面を確認。「信一さんの後に壕を出る人々は家族かもしれない」と信一さんに呼び掛け、壕に一緒にいたミエさんや栄子さんらが上映会に訪れた。映像は1945年4月初旬、米軍が撮影した。
 食い入るように見つめていたミエさんは「山城集落外れ、『長道原』の壕に隠れていた。手りゅう弾を投げ込まれ、信一の母方の祖母が犠牲になった直後、信一の泣き声を聞いた米兵が住民だと知り、出て来るように手招きした。乳飲み子だった信一が家族の命をつないでくれた」と振り返った。他界した父母らが映る場面には、栄子さんと一緒に指で差しながら家族の名前をつぶやいた。
 家族を確認した3人は「戦死した家族や既に他界した家族らも天国からこのフィルムを見てくれたと思う。戦争の苦しみは二度と子どもたちに与えてはいけない」と話した。

                                                                 ☆

 上原さんの八面六臂の活躍には、琉球新報の紙面批評記事を書いていた「反戦平和活動家」の久場由紀子氏でさえも「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである」と脱帽する有様であった。

 『琉球新報』紙面批評-2004年1~2月分 

琉球新報
10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。

                                     ☆

1フィート運動を乗っ取っては見たものの、イデオロギーだけで無能な左翼学者は、上原さんの仕事を真似ることさえできず、開店休業の状態。

再生を図る」とは、現在は死んだも同然だということになる。 

語るに落ちるとはまさにこのことである。



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コメント (2)

赤松隊長と食料を分け合う、続・安里巡査の証言、

2011-02-05 06:40:06 | ★パンドラの箱訴訟

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涼太さんのコメントです。

沖縄の左翼系のブログには、上原さんが裏切ったとの書き込みもあります。
沖縄の馬鹿な極左団体の強弁で、すっかり沖縄への信頼は失われてしまいました。その象徴が偽11万集会への世論の反応です。
それを、差別と言うなら私達ヤマトンチュは一向に構いいません。人権団体などにも言えますが、差別だと言う前に、その原因の一端が自分たちにもあるのです。
上原さんは、失われた沖縄への信頼を取り戻す大きな仕事をしているのです。
沖縄を裏切ったは当たらないと思います。
そんな事を言う人間のほうが馬鹿なのです。

かくいう筆者も集団自決論争で沖縄2紙に異論を唱えたため裏切り者と何度も罵倒された経験を持ちます。 なかでも芥川賞作家で沖縄の知識人と新聞が看做している目取真俊氏に奸漢と罵られたのには呆れを通り越して失笑した。

「沖縄人なら集団自決に関し新聞と異なる意見を吐くはずが無い」というのが筆者が裏切り者の呼ばわりされる理由だというから、沖縄人になるためには「言論全体主義」に甘んじなければならぬことになる。 こんな理屈で沖縄人を規定するとは、これほど沖縄人を馬鹿にした話は無い。そういえば同じ理屈で、筆者を偽沖縄人呼ばわりする愚かな差別主義者もいるが、馬鹿馬鹿しくて相手にする気もない(爆)。

上原さんが裏切り者といわれるのが琉球新報の言論封殺に抗議したためだとしたら、沖縄で裏切り者と呼ばれる事は言論封殺に抗議するサムライを意味し、名誉ある称号だと光栄に思わなければならぬ。 

西郷隆盛は「命も要らず、名も要らず、官位も要らぬ人は始末に困るものなり」との言葉を残したが、地位と名誉欲のため新聞が流布する「通説」に平伏す卑怯者が多い沖縄の知識人のなかで、上原さんのような人は沖縄のマスコミにとって最も始末に困る種類の人物であろう。

昨日にひき続き安里巡査の証言の後半部分を引用する。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する様が描かれ、集団自決の革新に触れる部分です。 

琉球新報が「社の方針と違う」として、掲載拒否したのもむべなるかな、である。 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。

 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 
このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。
 
空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った
りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 
渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。
 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて筆者がくどくど説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性にかける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに年金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

 

 【 付記】

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コメント (8)

安里巡査の証言、言論封殺訴訟

2011-02-04 08:34:10 | ★パンドラの箱訴訟

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安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人だと思われるが、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場するが、地元マスコミにその名を見ることはなかった。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

上原正稔さんが琉球新報を相手に起こした「言論封殺訴訟」の訴因の一つに、著者の同意なく一方的に原稿の重要部分を削除した事実を挙げている。 上原さんの被った損害の法律構成については、追々訴状より抜粋して紹介の予定であるが、突然掲載中止になった日の前日、掲載内容の予告をしておきながら、突然当日の掲載中止を強行するという新報の異常な行動は一体何を意味するのか。

削除し封殺した部分には、沖縄マスコミや識者たちが封印しておきたい真実が記されていたからである。

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

安里巡査の証言を2回にわたって紹介します。

 安里(比嘉)喜順氏の証言-1
 
 沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。

 渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

 

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事実隠蔽に狂奔、琉球新報の事実捏造体質!

2011-02-03 07:19:23 | ★パンドラの箱訴訟

 

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 琉球新報が上原さんの原稿掲載を拒否した2007年6月19日当時の沖縄の状況はどのようなものであったか。

先ず同年3月、高校歴史教科書の文科省検定意見で、沖縄戦慶良間諸島の集団自決は軍の命令で行われたという記述が削除された。 これに反発する沖縄2紙は、連日のように県民を扇動するキャンペーンを張った。 こんな雰囲気のなか、上原さんの「パンドラの箱が開く時」の掲載日予定日の19日の紙面にはこんな記事が掲載さてれている。


検定撤回、国に要請を 県議会へ決議文提出   

仲里議長に決議文を手渡す高嶋教授(左)=19日午後、県議会議長室

 「6・9沖縄戦の歴史歪曲(わいきょく)を許さない!沖縄県民大会」の実行委員会代表ら7人は19日午後、県議会を訪れ、仲里利信議長に大会決議文を手渡し、「集団自決」から日本軍の関与を修正・削除した高校教科書の検定意見撤回を国に要請するよう求めた。
 仲里議長は「本日の文教厚生委員会で(意見書を)検討する。漠然とした表現があるかもしれないが、全会一致で国に撤回を要請していきたい」と答えた。
 
実行委の高嶋伸欣琉大教授は、9日の県民大会を踏まえ「県民の声は検定意見の撤回を求めている。県民の代表として、県議会でぜひ検討していただきたい」と要請した。
 決議文では「沖縄戦の集団死・『集団自決』が『軍による強制・強要・命令・誘導』で引き起こされたことは否定できない事実」「県民の90%以上が削除・修正に反対している」と文科省を批判。「沖縄戦の実相」を子どもたちに伝えるために、沖縄戦「集団自決」に関する教科書検定意見をただちに撤回することを求めている。
 この後、実行委代表らは県庁で記者会見し、15日の東京での文部科学省への要請行動などについて報告した。

(琉球新報 6/19 16:22)

                                            ◇

最初の県民大会は800名前後の参加者しかいなかった。 主催者側は県議会に決議採択を求め、県民の扇動を目論んだ。 そして結局は9月25日の「11万人集会」に向かって狂ったように県民を扇動していくことになる。

同じ日(19日)の沖縄タイムスの朝刊一面にはこんな記事が。

  
軍命めぐり与野党対立/「集団自決」意見書案
  自民の伊波常洋政調会長側は「合意できるぎりぎりの線。容易には譲れない」と述べた。前島委員長も「全会派が一致できる内容を示した。決裂させるわけにはいかない」と述べた。

 護憲ネットの狩俣信子氏は「到底受け入れられない。訴えが弱く、文科省寄りだ」と批判。野党案を作成した前田政明氏(共産)は「軍命は多くの人々が証言している。最も重要な点をあいまいにするのは許されない」と主張した。(2007年6月19日(火) 沖縄タイムス朝刊1面より抜粋)

                            

結局こうなってしまったようだ。⇒与野党が合意 可決へ/「集団自決」意見書 

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今回の上原さんの提訴は、琉球新報が上原さんの沖縄戦研究の実績を認め執筆依頼したのだが、連載途中で出された「教科書検定意見」に対する県民の反発に阿(おもね)った新報が、真実の追究は二の次にして原稿を一方的に削除したことに対してである。

新報側が上原さんに原稿を依頼し、途中で一方的に掲載拒否を言い渡し、提出済みの原稿まで一方的に削除する経緯を訴状から引用する。

第3   『パンドラの箱を開く時』の連載と掲載拒否

1 連載執筆の依頼

平成18年(2006年)1月、被告の編集局長は「君の書く千期ものはどんなものでも琉球新報に掲載するから書いてくれ」等と申し入れ、長期間の連載執筆を依頼した。
原告はこれを受諾し、数年間にわたってアメリカ国会図書館、沖縄県公文書館等で収集した資料をもとに、長編戦記物『戦争を生き残った者の記録』を執筆し、琉球新報紙上に150回にわたって連載された後、新連載となる『パンドラの箱を開く時』の構想を練り、原稿の執筆に取り掛かった。

2 『パンドラの箱を開く時』の連載開始

(1)平成19年(2007年)5月26日夕刊にて原告の新連載『パンドラの箱が開く時』が始まった。 初回「はじめに」では、新連載の全体構造が明らかにされている。 全体は三章からなる三部構成をとり、第一章「死ぬ時、生きる時』は、伊江島を取り上げる第一話、慶良間の集団自決の真相に迫る第2話、久米島戦を扱う第3話からなることが語られ、第2話は、「今、世間の注目を浴びている『集団自決』についてアメリカ兵の目撃者や事件の主人公たちの知られざる証言を基に事件の核心を突くものになるだろう。」と予告されていた。

(2)翌日から始まった第1話「みんないなくなったー伊江島戦』は、「数多くの住民が女子供まで先頭に参加し、死んでいった。 その凄惨な戦いを知ることは慶良間の『集団自決』を理解する重要な手がかりとなるだろう。」と位置づけられていたが、6月16日夕刊(第15回)で完結し、6月19日夕刊から第2話が始まる予定であった。 

3 掲載拒否と連載の中断

(1)6月15日、原告は、第2話「慶良間で何が起きたか」の導入部の原稿(連載5回分)を書き上げ、被告の担当記者にEメールで送信した。 その内容は、前記『沖縄ショウダウン』の「注・渡嘉敷で何が起きたか」を下敷きにしたものであり、第2話全体は第三戦隊陣中日記を織り込み、書き上げた導入部を含め50回の長編になる予定であった。

(2)ところが、6月18日、原告は担当記者から呼び出されて足を運んだ被告の会議室において、担当記者を含めた4人の編集委員から突然、第2話の掲載拒否を告げられた。 理由を問うても、「社の編集方針に反する」とか「君は既に同じことを書いている」というばかりであった。 憤慨した原告は猛烈に抗議したが容れられず、『パンドラの箱を開く時』の連載は中断された。

(3)連載中断の10月初旬、原告は当時の編集局長と会い、今後のことを協議したところ、編集長から「今日は、集団自決は軍の命令だとすることで社の方針が固まっているので耐えてくれ、また時期がくれば掲載するので、当面別の原稿と差し替えて連載を継続してほしい」と頼まれた。 
軍命説の記載を問題とすることを求める検定意見をめぐって沸騰した沖縄の世論を背景に、編集委員と原告の板ばさみになっていた編集局長の立場に配慮した原告は妥協することを決め、『パンドラの箱を明ける時』は、約4ヶ月間の中断を経て10月16日の夕刊から連載再開となった。

4  連載の終了

(1)再開された『パンドラの箱を開く時』は、平成19年(2007年)12月15日に第3話「久米島虐殺事件の真実」を終え、続いて第4話以降の連載が始まったが、平成20年(2007年)の春に編集局長が交代してしまい、「慶良間で何が起きたのか」の掲載のことはうやむやになり掲載拒否の事実だけが残った。

(2)平成20年(2008年)7月下旬、被告の編集委員からそろそろ『パンドラの箱を開く時』を終わるように示唆された原告は、第13話「最終章ーそして人生は続く」を執筆し、最後に赤松元隊長が渡嘉敷の警官だった比嘉喜順に宛てた手紙「(前略)何れにしても私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待して努力しております。 一日も早く沖縄の人々にも理解して頂き、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように次の世代が憎しみ会うことなく本土の人々と仲良くやってゆけることを祈って」やみません。」を紹介し、「これでパンドラの箱を閉じる。 パンドラの箱に残ったもの、それは」人間の真実だ。」と書いて、読者に別れを告げた。

(3)しかしながら、被告の編集委員らは、原告に対し、またもや「社の編集方針」を理由にその削除を求めてきたが、原告が断固拒否したため、被告は原告の承諾なくこれをカットしして連載を打ち切り、『パンドラの箱を開く時』は、未完のまま180回をもって連載を打ち切ることになった。(訴状より)

 

ちなみにここに登場する比嘉喜順さんは元渡嘉敷島の安里巡査のことで、戦後比嘉家の養子になり姓を比嘉に変えている。 比嘉さんは、戦後も沖縄に住んでおり、渡嘉敷島の集団自決を目撃した生き証人であるにもかかわらず、沖縄のマスコミで比嘉さんに取材したものは一人もいなかったという。

沖縄のマスコミが比嘉さんの取材を避けた理由はなにか。  比嘉さんが集団自決の「不都合な事実」を知っているからである。

比嘉さんは2009年に亡くなっているが、上原さんの原稿が削除された2007年当時は未だご健在であった。

琉球新報が比嘉喜順さんが登場するくだりを一方的に削除した理由は、比嘉さんの名が新聞に登場し、沖縄戦の研究者が取材に訪れるのを避ける目的があったと推測できる。

「パンドラの箱を開けること」は、琉球新報にとっては何としてでも避けたいことだった。

 

★比嘉喜順さん(安里巡査)については次のエントリーを参照:

安里巡査はご存命 反対証言は取材しない地元マスコミ

重要証言者の死

NHKに翻弄された証言者の晩年!

 

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コメント (9)