前回の記事を書いた後、更に調べていたら、本能寺の変前日にあたる6月1日の茶会には神屋宗湛も招かれていたとの資料が神屋家の「由緒書」に書かれているそうです。
その神屋宗湛ですが、
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B1%8B%E5%AE%97%E6%B9%9B
神屋宗湛
神屋 宗湛(かみや そうたん、天文20年1月1日(1551年2月6日) - 寛永12年10月28日(1635年12月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての博多商人、茶人。神屋氏の第6代当主。出家前の諱は貞清。「神谷」は誤り。島井宗室・大賀宗九とともに「博多の三傑」と呼ばれる。
生涯
天文20年(1551年)、博多の豪商神屋家5代当主・神屋紹策の子として誕生。 神屋氏は代々博多の貿易商人の家であり、曽祖父の神屋寿貞は石見銀山を発見し、日本への灰吹法導入によって本格的開発に携わった人物であった。
天正10年(1582年)、同じ博多豪商の島井宗室と共に上洛し、時の天下人・織田信長に安土城にて謁見した。信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、豪商としての地位をさらに極めようとした。同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去後、天正14年(1586年)、再度上洛して今度は畿内の諸大名や堺の大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。
引用終了
また出ました、石見銀山。
神屋宗湛は石見銀山を発見し、銀の精錬技術導入にかかわっていた中心人物の家系なわけで、当然、石見銀山の当時の産出量や莫大な利益なども大体のところは掴んでいたものと考えられます。
そうした石見銀山に詳しい商人であり茶人であった神屋宗湛を茶会に招いたと言う事は、やはり仮に毛利氏攻略が成功し石見銀山が信長の手に入った場合の利益配分(朝廷と織田氏との配分比)についての話が出た可能性も有ったように思えます。
そして当日、日食が起きた事がほぼわかったとしたら信長の主張していた三島暦の方が正しいとなり、「朝廷への利益配分を(日食が起きなかった場合よりは)減らす圧力の材料にやがてなるのではないか?」と公家達は思い始めたと考えています。
その銀ですが、当時は明朝の通貨が銀であり、そのかなりの割合を日本の銀に依存していた事は以前に記事の引用で書きました。
信長が明朝征服を計画していたのなら、まず通貨の原料を武器にする事は十分考えられます。
石見は銀産出で重要な拠点であるし、出雲も交通上はより重要な場所になるはずです。
光秀が出雲、石見に国替えする予定を信長に言われたのは、別に左遷ではないと筆者は見ています。
その神屋宗湛ですが、
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B1%8B%E5%AE%97%E6%B9%9B
神屋宗湛
神屋 宗湛(かみや そうたん、天文20年1月1日(1551年2月6日) - 寛永12年10月28日(1635年12月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての博多商人、茶人。神屋氏の第6代当主。出家前の諱は貞清。「神谷」は誤り。島井宗室・大賀宗九とともに「博多の三傑」と呼ばれる。
生涯
天文20年(1551年)、博多の豪商神屋家5代当主・神屋紹策の子として誕生。 神屋氏は代々博多の貿易商人の家であり、曽祖父の神屋寿貞は石見銀山を発見し、日本への灰吹法導入によって本格的開発に携わった人物であった。
天正10年(1582年)、同じ博多豪商の島井宗室と共に上洛し、時の天下人・織田信長に安土城にて謁見した。信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、豪商としての地位をさらに極めようとした。同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去後、天正14年(1586年)、再度上洛して今度は畿内の諸大名や堺の大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。
引用終了
また出ました、石見銀山。
神屋宗湛は石見銀山を発見し、銀の精錬技術導入にかかわっていた中心人物の家系なわけで、当然、石見銀山の当時の産出量や莫大な利益なども大体のところは掴んでいたものと考えられます。
そうした石見銀山に詳しい商人であり茶人であった神屋宗湛を茶会に招いたと言う事は、やはり仮に毛利氏攻略が成功し石見銀山が信長の手に入った場合の利益配分(朝廷と織田氏との配分比)についての話が出た可能性も有ったように思えます。
そして当日、日食が起きた事がほぼわかったとしたら信長の主張していた三島暦の方が正しいとなり、「朝廷への利益配分を(日食が起きなかった場合よりは)減らす圧力の材料にやがてなるのではないか?」と公家達は思い始めたと考えています。
その銀ですが、当時は明朝の通貨が銀であり、そのかなりの割合を日本の銀に依存していた事は以前に記事の引用で書きました。
信長が明朝征服を計画していたのなら、まず通貨の原料を武器にする事は十分考えられます。
石見は銀産出で重要な拠点であるし、出雲も交通上はより重要な場所になるはずです。
光秀が出雲、石見に国替えする予定を信長に言われたのは、別に左遷ではないと筆者は見ています。