快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 信長の首をイエズス会に横取りされてしまったというアクシデント発生の仮説

2017-12-05 20:55:17 | 地震 津波
 以前の記事で本能寺の変の時に、もう助からないと悟った信長が残された子や家臣の為に、遺体が決してわからないように処理するように指示した可能性を書きましたが、前回の記事で弥助が信長の首を持って脱出した説も有る事を考えると、家臣達が信長の遺体処理に失敗した場合はこの弥助が信長の首を持って脱出した可能性も考えられるようになって来ました。
 何故弥助がそうする必要が有るのか? それはイエズス会にとっては明智光秀らの明智勢も消えて欲しかったと考えられるからです。
 各グループから見て、信長や明智勢はどう考えられていたのかを、筆者なりのまとめて見ました。

 イエズス会・・・・・・・織田信長と信忠にはいなくなって欲しいが信孝が隠れキリシタン武将だったので生き残って欲しいし、その路線なら織田氏が存続したても良い。(織田軍による毛利氏討伐で石見銀山ゲット。イエズス会、スペインに有利になる可能性が高い)
明智氏には特にキリシタンでもないし、石見銀山を奪われたくないので消えて欲しい。

 毛利氏・・・・・・・織田全体に消えて欲しいし、明智方にも消えて欲しい。
 少なくとも織田信長と織田信忠が討たれれば跡目争いや家臣同士の内紛で毛利攻めどころではなくってくれる。
仮に明智氏が織田勢に勝っても石見銀山を明智氏が狙うと危い。

 朝廷・・・・・・・公家衆の内で一定割合は石見銀山が毛利氏の管理のままでいて欲しいので織田氏には消えて欲しい。
暦の問題も有って織田氏、特に信長には消えて欲しい。
明智氏には石見銀山確保次第だが、わからない内は毛利氏もままでいた方が良いので、どちらかと言えば明智氏にも消えて欲しい。

 足利義昭・・・・・・・旧室町幕府家臣が政権を取って復活したいので、織田氏には消えて欲しい。
毛利氏は擁護してくれているので歓迎。
明智光秀にはどちらとも言えないが、明智氏に関係が深い武将や明智家臣団やには尊属して欲しい。
明智光秀に近い細川藤孝は無論、明智家臣団にも旧室町幕府奉公衆がいたし、斉藤利三は石谷頼辰の弟、石谷氏は石谷光政、石谷頼辰が旧室町幕府奉公衆。

 以上から、信長にも明智勢に消えて欲しかったのは、イエズス会、毛利氏、公家の少なくとも一部、となって来るはずです。
 だとすれば、信長の首を隠して見つからないようにしてしまえば、光秀には不利となる事を考え、その為に宣教師らへ届けるようにイエズス会から弥助へ指示が出ていたのかも知れません。
 デスマスクと言う奇異なものを作成したのは、何となく外国系に考え方にも思えます。
 本能寺が明智軍に包囲されていたにもかかわらず、長身でアフリカ系の目立つ容姿である弥助が何故か二条城まで行けた、と言うのも少し謎めいています。
 おそらく途中に宣教師、その他の所に隠れ移りながら移動したのではないでしょうか。
 弥助は信長の首をまずイエズス会の誰かに届け、その後に宣教師、キリシタン武人、商人、公家に一部などがの所に隠れながら二条城まで行けたのではないでしょうか。
 明智光秀はこうしたアクシデントを想定出来なかったのかも知れません。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 変の当日に本能寺に宿泊していたのは博多商人でもあり茶人でもあった2人と弥助

2017-12-05 00:45:31 | 地震 津波
 前日の茶会に招かれていたのが島井宗質と神屋宗湛のようですが、この2人とも遅くまでいた為に本能寺に宿泊いしていた、と言う史料が有るようです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.kyushu-sanpo.jp/rekishi/episode/katatsuki/r-katatsuki-3.html

天正10年(1582)6月1日(昼まで激しい雨、夕方小雨、夜止んだ。)
 博多の豪商島井宗室と神屋宗湛(そうたん)の来訪。
 島井宗室は信長に「楢柴肩衝」を献上するために来訪を約束していた。
 信長はそのため茶会と道具揃えを行った。
 来訪した二人は茶会で遅くなり本能寺に泊まった。
 (以上は、神屋家の「由緒書」に記されている。)

(「御茶湯道具目録」の内容)
 信長は道具揃えのため茶器の名品を持参した。
 茶会と名物茶器揃えのため、本能寺に秘蔵の茶器38種を持ってきた。
 九十九髪(つくも)茄子、珠光小茄子、円座肩衝、勢高肩衝、紹鴎白天目、貨狄(かてき)舟の花入れ、などの秘蔵品ばかりだった。(38種の一覧が記録されている。)
 安土城にはまだ200点を越す、信長が集めた名物茶道具が秘蔵されていた。
 (以上は「御茶湯道具目録」に記されている。)

6月2日未明 本能寺の変
 明智軍の襲撃で目が覚めた二人は博多から持参した「楢柴肩衝」を持って逃げた。
 また、宗湛は牧谿(もっけい)の「遠浦帰帆(えんぽきはん)図」をとっさの機転で持ち出した。(神屋家「由緒書」による)
 一方、島井宗室は宝物の「弘法大師真蹟千字文」を持ち出したといわれている。

引用終了

 公家達は帰ったのに茶人2人は「来訪した二人は茶会で遅くなり本能寺に泊まった。」と言うのは、宿が遠かったのでしょうか?
 どうも公家達が帰った後に石見銀山関連や海運関連の事など、毛利氏討伐後のあれこれを、大陸攻略計画と合わせて話合っていたのではないか?とも考えられるのですが、今となってはわかりません。
 そして弥助ですが、アフリカ系の人で元々イエズス会が連れて来たようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9

弥助[1](やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷。戦国大名・織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた黒人侍として伝えらている[2]。
(中略)
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という[7]。
(中略)
信長のデスマスク
愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されている[21](信長であるという確証はない)。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する[22]西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。

家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレ[18]の聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた[7][11]。現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもないが、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であろうとの好意的な解釈を主張している[10]。

引用終了

 「信長の首が見つからなければ明智光秀は不利になる」、と言う考え方ならば結果的にイエズス会の望み通りになったと言う事になります。、
 弥助が本当に信長の首を持ち出したのか? そしてそれがイエズス会の指示で動いたいたのかどうか? と言うのはわかりません。
 そして島井宗室も神屋宗湛もキリシタン大名の最たる存在と言っても良い大友氏に関係が深い人達です。
 ならば「本能寺の変はやはりイエズス会が主体だったのか?」と言うと、筆者はそこまではどうか、微妙な所です。
 信長からの宣教師達への処刑命令などは特に無かったのですが、以前に記事にしたように高山右近が信長に宣教師らを皆殺しをする旨の脅迫を受けた経緯が有ります。
 既にイエズス会も信長を危険視し始めていたようなので、直接襲撃に参加しなかったとしても襲撃に有効な情報を斉藤利三らへ提供していた可能性は有っても自然かと考えられます。
 ただ当時、前日の茶会で数十名の公家達と茶人がいたのですから、本物の信長が少なくとも日中には本能寺にいて、更に茶人2人が宿泊する、と言うのであれば信長が本能寺を夜に出る事はまず有りえない、つまり信長が翌日朝までは確実にいる、と言う事は外部の多くの人がわかってしまっていたのではないでしょうか?
 と言うのならば、それは「信長が迂闊にも自らのセキュリティ面で致命傷となるセッティングしてしまった事に等しい」、と考えています。
 6月1日の夜は今日のような満月ではなく、新月でした。