快気分析

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仕組みとアプローチ -  1605年の慶長地震の前に相模トラフでの地震は有ったのか?

2017-12-12 00:43:07 | 地震 津波
 南海トラフ津波地震と見なしている人も多いと言われる1605年の慶長地震ですが、その前に相模トラフ地震とも考えられるものが有ります。

引用開始 2件(一部抜粋)

http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm

1590(天正18)年
  1月10日 地震あり。(多聞院日記)
      春、浅間山噴火。(年代記)
 10月 2日 江戸で地震。16日にも地震。(家忠日記)
 11月22日 江戸で地震。(家忠日記)
(中略)
[
1601(慶長 6)年
  6月14日 地震あり。(義演准后日記)
 12月16日 上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津波あり。人畜死亡多数。
        (房総治乱記)(武江年表)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.80.9C.E5.AE.89.E5.9C.9F.E6.A1.83.E5.B1.B1.E6.99.82.E4.BB.A3

16世紀
1590年3月21日(天正18年2月16日) 安房で地震 - 2mの隆起あり。潮が引いて3キロの干潟が形成された。

引用終了

 1590年のものは地震は大した事が無かったようですが、「2mの隆起あり。潮が引いて3キロの干潟が形成された。」と言う事から、相模トラフがスロースリップに近いような状況となった「ややスロースリップ型地震」だったのではないかと考えています。
 1601年の方は相模トラフが大地震と共にプレート境界部の歪が解消された為に津波も起きたと言う事だと思います。
 「東北沖のプレート境界エリアでまず大地震か津波を伴うようなが発生し、その後に相模トラフでの同様なもの、その後に南海トラフなどフィリピン海プレートとユーラシアプレート境界部で同様なものが発生するパターンの割合が多い」と筆者は見るようになっていますが、ではこの1590年より前に東北沖で大地震が無かったのか?となると上記の引用資料では特に見当たりません。
 尚、ユーラシアプレートの一部をアムールプレートとして別と見る考え方も有るようなので、当ブログではユーラシアプレートを西暦2000年当時の定義とします。
 それで更に調べると次のような資料が見つかりました。

引用開始(一部抜粋)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23654930Y7A111C1CR0000/

ペルーから津波なかった? 16世紀の東北伝承1年ずれ
東大教授「転記ミス」
社会
2017/11/18 11:30
 16世紀末、ペルー沖太平洋のマグニチュード(M)8級地震で、東北地方に高さ約2メートルの津波が押し寄せた――。米海洋大気局(NOAA)など国際的に研究者が用いるデータベース上の津波が、実は文献の書き写しミスによる幻だったことが18日、佐竹健治東京大教授(地震学)の調査で分かった。
(中略)
 ペルー沖の地震は1586年7月9日に発生したが、85年に津波が来たという国内の伝承と誤って結び付けられていた。この津波は、遠方から日本に及ぶ「遠地津波」では最古の記録とされているという。
 佐竹氏は「誤った記録をそのまま受け継がないよう注意が必要だ」として、12月に米国で開かれる学会でデータベースの修正を訴える。
 宮城県が1903年にまとめた資料によると、同県戸倉村(現在の南三陸町)では、天正13年5月14日(1585年6月11日)に津波が来たとの言い伝えが残っていた。この言い伝えの正体は分かっていない。
 その後も津波が起きるたび、気象庁などが過去の津波をまとめて報告書にしたが、その際に宮城県の記録を誤って書き写したらしく、最終的には1960年の報告書で「天正14年5月14日」(1586年6月30日)と誤記。実際は1年以上のずれがあったが、1586年のペルー沖地震と時期が近いと誤解したらしく、報告書は言い伝えの津波と同じものである可能性を指摘していた。

引用終了

 この津波が本当に有ったとしたら、おそらく津波しか記録に無いようなスロースリップに近いものだったので地震は殆ど無く、津波だけが発生する「ややスロースリップ型の津波地震」だったのではないか、と考えています。
 そして東北沖、次に相模トラフ、そしてその次に南海トラフなどフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界付近と言う順番がこの頃もパターン通りであったとするとかなりの割合がこのパターンとなります。
 このパターン通りであるケースが殆どなのは同じ引用でわかります。、


引用開始 2件(一部抜粋)

http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm

1590(天正18)年
  1月10日 地震あり。(多聞院日記)
      春、浅間山噴火。(年代記)
 10月 2日 江戸で地震。16日にも地震。(家忠日記)
 11月22日 江戸で地震。(家忠日記)
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1601(慶長 6)年
  6月14日 地震あり。(義演准后日記)
 12月16日 上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津波あり。人畜死亡多数。
        (房総治乱記)(武江年表)
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1767(明和 4)年
  5月18日 江戸で地震。所々で破損。(談海続 8)
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1771(明和 8)年
  3月10日 琉球諸島で地震。揺れに比べ巨大な津波が八重山諸島を襲う。石垣島は島の4割が洗われ、また水納島は全滅。
        死者総数2548人とも。その後飢餓、疫病が頻発し、八重山地方の人口は激減、回復に150年間かかる。
        波高は記録によれば最高85.4mに達する。(日本被害地震総覧)
  5月 2日 江戸で大地震。(十三朝記聞 6)(地歴)(続王 9)
  6月 2日 江戸で大地震。(十三朝記聞 6)(地歴)(続王 9)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.80.9C.E5.AE.89.E5.9C.9F.E6.A1.83.E5.B1.B1.E6.99.82.E4.BB.A3

869年
7月9日(7月13日)(貞観11年5月26日夜) 貞観地震 - M 8.3〜8.6(Mw >8.7)、陸奥国地大震動、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1,000人(『日本三代実録』)。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される[注 6]。東北地方太平洋側で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補とされる[46][47]。

878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日) 相模・武蔵地震 - M 7.4、死者多数。京都でも揺れが感じられる(『日本三代実録』)。伊勢原断層の活動時期に合致するとする説と[48]、館山市の海岸で見出された900年頃と推定される津波堆積物から相模トラフのプレート境界地震とする説がある[49]。
880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日) 出雲で地震 - M 7(『日本三代実録』)。

886年6月29日(7月3日)(仁和2年5月24日) 伊豆諸島噴火。安房の国で降灰と地震(『日本三代実録』)。

887年
7月29日(8月2日)(仁和3年7月6日) 京都で地震 - M 6.5(『日本三代実録』)。越後西部で津波による溺死者は1000人にのぼったとされる※。
8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 信濃北部地震 ※ - 『扶桑略記』の山崩れ・洪水の記述から今村明恒が唱える。河内晋平が日付の誤記があり存在しない地震であると指摘し[50][51]、その見方が強い[52]。
8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震(南海トラフ全域が震源域とする説あり) - M 8〜8.5、五畿七道諸国大震、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり(『日本三代実録』)。南海道沖の地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東海道沖も震源域となった可能性あり。津波堆積物からM 9クラスであったとする説もある(津波堆積物は仁和地震と特定はされていない)[53]。

(中略)

1241年5月15日(5月22日)(仁治2年4月3日) 鎌倉で地震 - M 7、津波を伴い由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失。
1245年8月19日(8月26日)(寛元3年7月26日今夜五剋) 京都で震度 5以上、破損多し (理科年表では8月27日[注 7])
1257年10月2日(10月9日)(正嘉元年8月23日) 正嘉地震 - M 7〜7.5、関東南部に大きな被害。同日に三陸沿岸に津波襲来し野田海と久慈の海に津波(『岩手県沿岸大海嘯取調書』)※。
1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日) 鎌倉大地震(永仁鎌倉地震) - M 8クラスの相模トラフ巨大地震との説がある。建長寺などで火災発生、死者2万3,000人あまり、余震多発。
1299年5月25日(6月1日)(正安元年4月25日) 大阪・京都で震度 5以上、南禅寺金堂倒れる。

(中略)

1454年
12月12日(12月21日)(享徳3年11月23日夜半)享徳地震 - Mw >8.4[64]会津で強震、奥州海岸に大津波で人が多く流される。15世紀頃と見られる津波堆積物との関連性が指摘されている[65]。
12月29日(1455年1月7日)(享徳3年12月10日) - 鎌倉で余震とみられる大地震(『鎌倉大日記』)。

1474年終盤 - 1475年初頭(文明6年冬)京都で大地震[66]
1495年9月3日(9月12日)(明応4年8月15日) - 鎌倉大仏殿が津波で破壊されたと記録されている(『鎌倉大日記』[67])。この記録が明応7年の明応地震の混同として扱われて、「理科年表」には記載がない。地層[注 9]や史料[68]の調査から、相模トラフを震源とする関東地震の可能性が疑われている[69][70][71]。
1498年
6月30日(7月9日)(明応7年6月11日) 日向地震 ※ - M 7〜7.5、死者多数。同日、畿内でも地震。南海道沖の地震との説もある[72]が、史料の無理な解釈が含まれ、『九州軍記』の記述を話半分に聞けば九州付近で起こったスラブ内地震であるという解釈も可能[73]。『九州軍記』は後の創作である可能性が高く日向灘の震源は否定されるとの見方がある[74]。
9月11日(9月20日)(明応7年8月25日) 明応地震(東海道沖の巨大地震) - M 8.2〜8.4

(中略)

16世紀
1590年3月21日(天正18年2月16日) 安房で地震 - 2mの隆起あり。潮が引いて3キロの干潟が形成された。

(中略)

江戸時代(1603年頃 - 1868年頃)
17世紀前半・・津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM 8.6クラスの地震が発生したと推定されている。1611年または1635年説あり[76]。
1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(南海トラフ津波地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) - M 7.9〜8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万〜2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。

(中略)

1677年
4月13日(延宝5年3月12日) 延宝八戸沖地震 - 陸奥、陸中、八戸沖(青森県東方沖)で地震 - M 7 1⁄4〜8.0、津波あり、三陸沖北部の固有地震[88]。
11月4日(延宝5年10月9日) 延宝房総沖地震(延宝地震) - M 8.0前後(Mw 8.5)、死者500〜600人。福島県〜千葉県に津波(茨城県地方史上最大の津波被害[89])。
1678年10月2日(延宝6年8月17日) 宮城県北部沖で地震 - M 7.5前後、死者1人、東北地方の広範囲で被害。
1683年6月17日 - 10月20日(天和3年5月23日 - 9月1日) 日光地震 - 栃木県北部、日光付近で群発地震。規模の大きなものは、6月17日にM 6.0〜6.5、6月18日にM 6.5〜7.0、10月20日にM 7.0±1⁄4の地震が発生。10月20日の地震では、五十里村で生じた山崩れが川を塞いだために湖が生じた。関谷断層で発生した可能性が指摘されている[90]。

1686年

1月4日(貞享2年12月10日) 安芸・伊予で地震 - M 7.0〜7.4、広島県中西部を中心に被害、死者有り。
10月3日(貞享3年8月16日) 遠江・三河地震 - M 7.0±1⁄4又はM 6.6〜6.7[91]、死者多数。
1694年6月19日(元禄7年5月27日) 能代地震 - M 7.0、陸奥で山崩れなど。死者394人。
1696年11月25日(元禄9年11月1日) - M 6.5程度。石巻河口に津波、300隻をさらい、溺死者多数[92]。地震記事は未確認[77]。
1700年4月15日(元禄13年2月26日) 壱岐・対馬地震 - M 7.3、石垣・家屋倒壊。福岡・佐賀・長崎でも被害[93]。

18世紀
1703年
12月31日(元禄16年11月23日) 元禄地震(元禄関東地震) - M 8.1〜8.2(Mw 8.1〜8.5[94])、関東南部に津波。死者6,700人、潰家、流家約28000軒(『楽只堂年録』)(死者20万人とも『鸚鵡籠中記』)。
同日、豊後で地震 - M 6.5±1⁄4、元禄地震とほぼ同刻に発生。府内領で潰家273軒、死者1人、由布院でも潰家。

1704年5月27日(宝永元年4月24日) 羽後・陸奥で地震 - M 7.0±1⁄4、野代(現能代市周辺)の被害大。死者58人。十二湖を生じた。
1705年5月24日(宝永2年閏4月2日) 阿蘇山付近で地震 - 阿蘇坊で破損多く、死者があった。岡城の石垣が破損。
1707年
10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(南海トラフ全域が震源域) - M 8.4〜8.6(Mw 8.7[95]〜9.3[96][97])

(中略)

1763年
1月29日(宝暦12年12月16日) 宝暦八戸沖地震 - M 7.4〜7.9、津波あり。三陸沖北部の固有地震[88]。
3月11日(宝暦13年1月27日) 八戸東方沖で地震 - M 7.3、津波あり。宝暦八戸沖地震の最大余震[88]。
3月15日(宝暦13年2月1日) 青森県東方沖で地震 - M 7.0。宝暦八戸沖地震の余震[88]。

1766年3月8日(明和3年1月28日) 津軽地震 - M 6.9あるいはM 7 1⁄4±1⁄4、弘前城損壊など。死者約1,500人。津波が千葉県の銚子に届いたとの記録あり。
1769年8月28日(明和6年7月28日) 日向・豊後・肥後で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4、M 7.2[85]又はM 7.4[91]、大分城で被害多く、熊本領内でも被害有り。津波有り。
1771年4月24日(明和8年3月10日) 八重山地震(明和の大津波) - M 7.4〜8.0(Mt 8.5, Mw 8.7[100])、死者約12,000人。最大遡上高85m(日本記録『大波之時各村之形行書』)。安房まで津波の到達と記録あり。

(中略)

1782年8月23日(天明2年7月15日) 天明小田原地震 - M 7.0、住宅約800破損、小田原城損壊など。

(中略)

1835年7月20日(天保6年6月25日) 宮城県沖地震(仙台地震、天保大津波 ※) - M 7.0程度、死者多数。仙台城損壊、津波あり。
1839年5月1日(天保10年3月18日) 釧路・厚岸で地震 - M 7.0程度、国泰寺門前の石灯籠大破。津軽で強い揺れ。
1843年4月25日(天保14年3月26日) 天保十勝沖地震 - M 7.5〜8.0、死者46人。厚岸に津波。
1847年
5月8日(弘化4年3月24日) 善光寺地震(弘化大地震) - M 7.4。山崩れにより犀川の河道閉塞と閉塞部の決壊により洪水、死者約1万〜1万3,000人。
5月13日(弘化4年3月29日) 越後頸城郡(現在の新潟県上越市高田付近:高田平野東縁断層)を震源とする地震 - M 6 1⁄2±1⁄4、死者20人以上。善光寺地震の誘発地震。

19世紀後半
1853年3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震) - M 6.7±0.1、死者約20〜100人。
1854年
7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M 7 1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M 8.4 (Mw 8.6[109])、死者2,000〜3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M 8.4 (Mw 8.7[注 16])、死者1,000〜3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。

安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)。

(中略)

1896年(明治29年)
1月9日 茨城県沖で地震 - M 7.3 [114]。
6月15日 明治三陸地震(三陸沖地震) - M 8.2〜8.5(Ms 7.2〜7.9、Mw 8.5、Mt 8.6)、津波地震、死者・行方不明者2万1,959人。
6月16日 三陸沖で地震 - M 7.5 の地震が2回発生。明治三陸地震の最大余震[88]。
8月31日 陸羽地震 - M 7.2、一部地域で震度7相当と推定[115]。死者209人。

1897年(明治30年)
2月20日 宮城県沖地震(仙台沖地震[116]) - M 7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
8月5日 三陸沖で地震 - M 7.7(Mw 7.8)、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。

1898年(明治31年)
4月23日 宮城県沖で地震 - M 7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
9月1日 石垣島東方沖(多良間島沖)で地震 - M 7.0。

1899年(明治32年)
3月7日 紀伊大和地震 - M 7.0又はM 6.9[91]、木ノ本・尾鷲で死者7名、三重県を中心に近畿地方南部で被害。深さ40〜50kmのフィリピン海プレート内の地震[117]。
11月25日 日向灘で地震 - 3時34分にM 7.1、3時55分にM 6.9。

(中略)

1923年(大正12年)
6月2日 茨城県沖で地震 - Mj 7.1[4]、千葉県銚子市で最大震度 4。
7月13日 九州地方南東沖で地震 20時13分 - Mj 7.3[4] 深さ44km[4]。宮崎県宮崎市と鹿児島県鹿児島市で最大震度 4。
9月1日11時58分頃 関東地震(大正関東地震、関東大震災) - M 7.9(Ms 8.2、Mt 8.0、Mw 7.9〜8.0[121]Mw 8.2[94])

(中略)

1933年(昭和8年)
3月3日 昭和三陸地震(三陸沖地震) - Mj 8.1(Mw 8.4)、岩手県、宮城県、福島県、茨城県で最大震度 5。大津波が発生し、死者・行方不明者3,064人。アウターライズ地震。

(中略)

1944年(昭和19年)12月7日 東南海地震(昭和東南海地震) - 三重県沖、Mj 7.9(Mw 8.2)、静岡県御前崎市、三重県津市で最大震度 6。静岡県袋井市付近、愛知県西尾市の旧矢作川流域で震度7相当と推定[128]。死者・行方不明者1,223人、伊豆から紀伊にかけて津波。
1945年(昭和20年)
1月13日 三河地震 - Mj 6.8(Mw 6.6)、三重県津市で最大震度 5。愛知県の一部で最大震度7相当と推定[129]。死者・行方不明者2,306人、津波あり。
2月10日 青森県東方沖で地震 - Mj 7.1、青森県八戸市で最大震度 5。死者2人。

1946年(昭和21年)
12月21日4時19分頃 南海地震(昭和南海地震) - 和歌山県沖〜四国沖、Mj 8.0(Mw 8.4[130])、中部地方から九州地方にかけて最大震度 5。死者・行方不明者1,443人、房総から九州にかけて津波。

引用終了

 東北沖は北海道沖までも拡大、南海トラフは八重山エリアまで延長して解釈すればかなりの割合でこのパターンに該当します。
 場合によっては東北沖と相模トラフが交互に繰り返したり、同様に相模トラフと南海トラフ(八重山エリアまで延長して考える)も交互に繰り返す事も有るようですが、全体としては大体、パターン通りになっています。