快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀の山崎の戦いにおける敗因 火縄銃と馬防柵

2018-06-06 20:41:53 | 明智光秀
 明智光秀は火縄銃の名手だったと言うのが通説ですが、ならば山崎の戦いで明智方が馬防柵が多数構築してもいて良かったのでは無いか?と疑問に思う事が有り、そのあたりについて調べてみました。
 織田・徳川連合軍が馬防柵を使って長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で武田勝頼が率いる武田勢を大敗させたのが1575年ですから、明智光秀がそれをあまり使おうとしていなかったのは何故でしょうか。
 まず山崎の戦い当日は6月12日。梅雨入りしていた可能性が高く、火縄銃を使えなかった、或いは簡易屋根などを設置しても使いにくかった事が挙げられます。
 しかし当日の天気が雨かどうかはわからないわけで、一応は馬防柵をある程度構築していても良かったのではないか?とも考えてしまいました。
 ですが良く調べると、1582年当時は馬防柵と火縄銃を組み合わせた戦術はあまり決めてにはなっていなかったのではないか、と考えられる理由が有る事がわかりました。
 それはこれです。

引用開始(一部抜粋)
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F

竹束(たけたば)は日本の防具(盾)の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。

概要
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。

(中略)

防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。

引用終了

 相手が馬防柵を構築してるのがわかったなら、自軍は馬での突撃は止めて竹束に守られた足軽が進めば良い事になります。何も急ぐ事はない。特に兵力の差が大きい時は、となります。
 もしかすると弓矢に対しても同様かも知れません。
 火縄銃や弓矢があまり決め手にならない状況で、足軽主体の接近戦と言う戦闘になった場合は接近戦以外の場合に比べて兵力の差が更に大きく影響する事となったはずです。
 長篠の戦いで有効だったとされている戦法は、山崎の戦いでは既に通用していなかったと思われます。

仕組みとアプローチ -  明智光秀の悲運 イエズス会が光秀をサポートせず秀吉を押したと思われる背景

2018-06-06 07:58:47 | 明智光秀
 本能寺の変についてイエズス会がどれだけ直接間接で関与していたのか?と言うのは、例え怪しいと思う所が有っても確定までには至りません。
 ですが山崎の戦いについてはイエズス会が明智光秀を後方支援する事は無かった、その例が高山右近の秀吉方への寝返りです。
 では「イエズス会が明智光秀方から離反する方向だったのが何故なのか?」について考えて行きたいと思います。
 その一つは以前の記事でも書きましたが、実質キリシタン武将であり、信長が健在だった頃はそれを表に出せなかった織田信孝をイエズス会は擁立したかたはずだったと言う点です。
 では明智方が織田信孝を擁立できるのか?と言うとそれは無理だったはずです。
 いくら何でも主君殺し(に無理やりされてしまったのかも知れませんがそれは判らず仕舞い)の光秀が信長の跡継ぎを擁立するというのはおかしいし、他の重臣達もついて来ません。
 更に織田信孝に頼らす、光秀の当時は寄子だった高山右近がキリシタン武将の中心的存在だったとしてそれを擁立しようとしてもそれでは力不足。
 仮にでも織田信孝が光秀と組む事になったとして(それは有り得ない)、そうなると他の織田方重臣達は殆どが信雄の方に集中して付いてしまう事になり、いずれにしてもキリシタンでない信雄が跡継ぎで決着となります。
 こんな事になる方向にイエズス会が動くわけは有りません。
 もう一つ、明智光秀が仮に他の織田方を配して政権を握ったとした場合、その政権を後押しするのは織田信長と一線を画していた、上杉氏、北条氏、毛利氏、長宗我部 あたりになるはずですが、これら武将のどれもキリシタンでは有りません。
 キリシタン大名でない所か親キリシタンと言う程でもないのです。
 これはイエズス会にとっては不利な事となるわけでこんな方向にイエズス会がサポートするわけが有りません。
 一番確実なのは高山右近を信長の重臣だった誰かに付けてしまう事です。
 そこを秀吉が素早く見抜いて高山右近の親族である中川清秀との内誓書を1580年に交わしていたのか、それとも偶然に中川清秀と内誓書を交わしていた秀吉が中川清秀経由でたまたま高山右近を味方に出来たと言う強運によるものなのか、と言うのは今となっては定かでは有りません。
 しかし結果として秀吉は高山右近、中川清秀を明智方から寝返らせる事に成功し、表面上ではあっても織田信孝を擁立して実権を握りライバル達を服従させ、或いは淘汰して行ったのでした。
 秀吉がキリスト教支援方向だったのは明らかで、親キリシタン武将の宇喜多秀家を中国攻めで配下に入れ(宇喜多秀家の父である宇喜多直家が1582年2月1日に死去後はその妻、円融院を秀吉の側室にしたとも言われているのですが定かでない点も有り)、毛利輝元も1586年にキリスト教の布教を許可しています。
 個人的な見方かも知れませんが、宇喜多直家が1582年2月1日(本能寺の変の少し前です)に死去後、円融院が本当に秀吉の実質側室になっていたのだとすれば宇喜多秀家とは秀吉が縁戚関係になっていたわけで、これが秀吉にとって「イエズス会から支援を受けられる切符」となっていた可能性は十分有りだったかと考えています。