明智光秀は火縄銃の名手だったと言うのが通説ですが、ならば山崎の戦いで明智方が馬防柵が多数構築してもいて良かったのでは無いか?と疑問に思う事が有り、そのあたりについて調べてみました。
織田・徳川連合軍が馬防柵を使って長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で武田勝頼が率いる武田勢を大敗させたのが1575年ですから、明智光秀がそれをあまり使おうとしていなかったのは何故でしょうか。
まず山崎の戦い当日は6月12日。梅雨入りしていた可能性が高く、火縄銃を使えなかった、或いは簡易屋根などを設置しても使いにくかった事が挙げられます。
しかし当日の天気が雨かどうかはわからないわけで、一応は馬防柵をある程度構築していても良かったのではないか?とも考えてしまいました。
ですが良く調べると、1582年当時は馬防柵と火縄銃を組み合わせた戦術はあまり決めてにはなっていなかったのではないか、と考えられる理由が有る事がわかりました。
それはこれです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
竹束(たけたば)は日本の防具(盾)の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
概要
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
(中略)
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。
引用終了
相手が馬防柵を構築してるのがわかったなら、自軍は馬での突撃は止めて竹束に守られた足軽が進めば良い事になります。何も急ぐ事はない。特に兵力の差が大きい時は、となります。
もしかすると弓矢に対しても同様かも知れません。
火縄銃や弓矢があまり決め手にならない状況で、足軽主体の接近戦と言う戦闘になった場合は接近戦以外の場合に比べて兵力の差が更に大きく影響する事となったはずです。
長篠の戦いで有効だったとされている戦法は、山崎の戦いでは既に通用していなかったと思われます。
織田・徳川連合軍が馬防柵を使って長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で武田勝頼が率いる武田勢を大敗させたのが1575年ですから、明智光秀がそれをあまり使おうとしていなかったのは何故でしょうか。
まず山崎の戦い当日は6月12日。梅雨入りしていた可能性が高く、火縄銃を使えなかった、或いは簡易屋根などを設置しても使いにくかった事が挙げられます。
しかし当日の天気が雨かどうかはわからないわけで、一応は馬防柵をある程度構築していても良かったのではないか?とも考えてしまいました。
ですが良く調べると、1582年当時は馬防柵と火縄銃を組み合わせた戦術はあまり決めてにはなっていなかったのではないか、と考えられる理由が有る事がわかりました。
それはこれです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
竹束(たけたば)は日本の防具(盾)の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
概要
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
(中略)
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。
引用終了
相手が馬防柵を構築してるのがわかったなら、自軍は馬での突撃は止めて竹束に守られた足軽が進めば良い事になります。何も急ぐ事はない。特に兵力の差が大きい時は、となります。
もしかすると弓矢に対しても同様かも知れません。
火縄銃や弓矢があまり決め手にならない状況で、足軽主体の接近戦と言う戦闘になった場合は接近戦以外の場合に比べて兵力の差が更に大きく影響する事となったはずです。
長篠の戦いで有効だったとされている戦法は、山崎の戦いでは既に通用していなかったと思われます。