元禄地震が発生したのは1703年12月31日ですが、この地震の震源域と思われる相模トラフ関連で、どうやら関東大震災と似たエリアで津波地震が有ったように解釈できる記録が有ります。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
1694(元禄 7)年
(中略)
7月 2日 小田原で津波。人家多数水没。(続史愚抄65)
7月10日 蔵王噴火。宮城方へも硫黄水が流出し被害多数。(山形県史 2)
1695(元禄 8)年
2月21日 京で地震。(続史愚抄65)
3月 2日 伊豆大島噴火。(続史愚抄65)
1696(元禄 9)年
1月 津軽藩領で伝染病が流行し、数万人の死者を出す。(青森県史 2)
6月19日 22日にかけて江戸で大地震。(年代著聞集 8)(武江年表 3)(十三朝記聞 3)
(和漢合運指掌図 4)(時雨迺袖)(続史愚抄65)
6月30日 江戸で地震。(日本災異誌)
6月 磐城小名浜で地震。津波などにより2450人が死亡。
1697(元禄10)年
8月 1日 京暴寒。人厚衣を着る。(続史愚抄65)
10月 7日 江戸で地震。(続史愚抄)
10月12日 関東で地震。鎌倉八幡鳥居など多数倒壊。日光へ使者を出す。
(元和日記)(萬年記 5)(徳川十五代史 9)(常憲院殿御実記34)
10月13日 江戸で地震。(和漢合運指掌図)
1698(元禄11)年
1月 4日 京で地震。(続史愚抄65)
6月23日 京で地震。(続史愚抄65)
1699(元禄12)年
2月 肥前で海嘯。300余戸流出し、千余人が死亡。(日本災異誌)
9月11日 京で大地震。(続史愚抄66)
12月25日 青森で地震。(青森県史 4)
1700(元禄13)年
2月12日 肥前いざないで大波。山崩れなどで600戸損壊。千余人が死亡。(年代著聞集 8)
2月27日 対馬で大地震。(日本災異誌)
この年、富士山が噴火する。(日本災異誌)
(中略)
1703(元禄16)年
4月22日 関東で大地震。
7月22日 関東で大地震。
11月23日 関東で大地震。武蔵、相模、阿波、上総で津波。房総南部などでは震度7に達したとみられ、東海道宿場も壊滅。
各地で数千人が死亡。伊豆大島の波浮池は決壊して海につながり波浮入江になる。28日にも地震。
(折たく芝の記)(常憲院御日記48)(柳営年表)(萬年記 5)(徳川十五代史 9)(続日本王代一覧 5)
(大地震暦年考)(和漢合運 4)(泰平年表)(十三朝記聞 3)(近世風俗見聞集)(時雨迺袖)(武江年表)
(談海続編 1)(土佐群書類従88,89)(窓の須佐美 2)(続史愚抄66)(御日記279)(伊豆七島志上)
(甲子夜話続編58)(野史纂略 6)(一話一言補遺 1)
引用終了
1694年7月に小田原で津波が有ったと言うのは、地震が殆ど気になる程のものではないものの、相模トラフのプレート境界関連の津波型地震だったのではないかと思われます。
そして1697年10月にはこの隣接部分で同様に地震が発生し、今度は地震が大きかったものの津波は無く、その後に富士山が1700年に噴火。
そして1703年に更に相模トラフの内の残った南東部分が弾けて元禄大地震となったと言うプロセスだったように考えられます。
これらの一連の地震の前、1677年には延宝房総沖地震が有りましたが、これは相模トラフではなく茨城沖あたりの日本海溝関連のプレート境界型地震だったと見る向きが多いようです。
これらの流れを見ると、次の様な状況が想定出来るのではないでしょうか。
まず三陸、東北沖でプレート境界型の大地震が発生、これが1611年の慶長三陸地震 で、この時に滑り残った南側の茨城沖でプレート境界型の大地震が発生、これが1677年の延宝房総沖地震で、それにより突っかえ棒が外れて今度は太平洋プレートが北米プレートの南端部分を押す力がまともにかかるようになり、まず相模トラフの北西部分が弾けてそれが1694年7月の小田原における津波地震となり、その後に隣接する南東部分が弾けて1697年の地震、そして更に1703年の元禄大地震となった、と言う順だったかと思われます。
尚、相模トラフの北西端やその延長上は1633年の寛永小田原地震などで既に歪は解消されていた為、1694年の地震は津波が有った程度で済んだものと思われますが、データは曖昧な部分も有るのであまりはっきりとは言えない部分も有ります。
この状況は明治三陸地震が1897年に発生してから、1909年3月に千葉県房総半島沖で地震(最大のものはM7.5)が発生し、それから1923年の関東大震災となった順番と比べると、類似点と相違点が有るのがわかりますが、いずれも相模トラフ関連のプレート境界型地震につながった事に変わりは無いようです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
1694(元禄 7)年
(中略)
7月 2日 小田原で津波。人家多数水没。(続史愚抄65)
7月10日 蔵王噴火。宮城方へも硫黄水が流出し被害多数。(山形県史 2)
1695(元禄 8)年
2月21日 京で地震。(続史愚抄65)
3月 2日 伊豆大島噴火。(続史愚抄65)
1696(元禄 9)年
1月 津軽藩領で伝染病が流行し、数万人の死者を出す。(青森県史 2)
6月19日 22日にかけて江戸で大地震。(年代著聞集 8)(武江年表 3)(十三朝記聞 3)
(和漢合運指掌図 4)(時雨迺袖)(続史愚抄65)
6月30日 江戸で地震。(日本災異誌)
6月 磐城小名浜で地震。津波などにより2450人が死亡。
1697(元禄10)年
8月 1日 京暴寒。人厚衣を着る。(続史愚抄65)
10月 7日 江戸で地震。(続史愚抄)
10月12日 関東で地震。鎌倉八幡鳥居など多数倒壊。日光へ使者を出す。
(元和日記)(萬年記 5)(徳川十五代史 9)(常憲院殿御実記34)
10月13日 江戸で地震。(和漢合運指掌図)
1698(元禄11)年
1月 4日 京で地震。(続史愚抄65)
6月23日 京で地震。(続史愚抄65)
1699(元禄12)年
2月 肥前で海嘯。300余戸流出し、千余人が死亡。(日本災異誌)
9月11日 京で大地震。(続史愚抄66)
12月25日 青森で地震。(青森県史 4)
1700(元禄13)年
2月12日 肥前いざないで大波。山崩れなどで600戸損壊。千余人が死亡。(年代著聞集 8)
2月27日 対馬で大地震。(日本災異誌)
この年、富士山が噴火する。(日本災異誌)
(中略)
1703(元禄16)年
4月22日 関東で大地震。
7月22日 関東で大地震。
11月23日 関東で大地震。武蔵、相模、阿波、上総で津波。房総南部などでは震度7に達したとみられ、東海道宿場も壊滅。
各地で数千人が死亡。伊豆大島の波浮池は決壊して海につながり波浮入江になる。28日にも地震。
(折たく芝の記)(常憲院御日記48)(柳営年表)(萬年記 5)(徳川十五代史 9)(続日本王代一覧 5)
(大地震暦年考)(和漢合運 4)(泰平年表)(十三朝記聞 3)(近世風俗見聞集)(時雨迺袖)(武江年表)
(談海続編 1)(土佐群書類従88,89)(窓の須佐美 2)(続史愚抄66)(御日記279)(伊豆七島志上)
(甲子夜話続編58)(野史纂略 6)(一話一言補遺 1)
引用終了
1694年7月に小田原で津波が有ったと言うのは、地震が殆ど気になる程のものではないものの、相模トラフのプレート境界関連の津波型地震だったのではないかと思われます。
そして1697年10月にはこの隣接部分で同様に地震が発生し、今度は地震が大きかったものの津波は無く、その後に富士山が1700年に噴火。
そして1703年に更に相模トラフの内の残った南東部分が弾けて元禄大地震となったと言うプロセスだったように考えられます。
これらの一連の地震の前、1677年には延宝房総沖地震が有りましたが、これは相模トラフではなく茨城沖あたりの日本海溝関連のプレート境界型地震だったと見る向きが多いようです。
これらの流れを見ると、次の様な状況が想定出来るのではないでしょうか。
まず三陸、東北沖でプレート境界型の大地震が発生、これが1611年の慶長三陸地震 で、この時に滑り残った南側の茨城沖でプレート境界型の大地震が発生、これが1677年の延宝房総沖地震で、それにより突っかえ棒が外れて今度は太平洋プレートが北米プレートの南端部分を押す力がまともにかかるようになり、まず相模トラフの北西部分が弾けてそれが1694年7月の小田原における津波地震となり、その後に隣接する南東部分が弾けて1697年の地震、そして更に1703年の元禄大地震となった、と言う順だったかと思われます。
尚、相模トラフの北西端やその延長上は1633年の寛永小田原地震などで既に歪は解消されていた為、1694年の地震は津波が有った程度で済んだものと思われますが、データは曖昧な部分も有るのであまりはっきりとは言えない部分も有ります。
この状況は明治三陸地震が1897年に発生してから、1909年3月に千葉県房総半島沖で地震(最大のものはM7.5)が発生し、それから1923年の関東大震災となった順番と比べると、類似点と相違点が有るのがわかりますが、いずれも相模トラフ関連のプレート境界型地震につながった事に変わりは無いようです。