家康がイエズス会と裏取引をしていたのか・・・・・と言ってもそれは光秀亡き後事です。
2016年9月16日の記事、サブタイトル「関ヶ原の戦い 二度死にかけた島津義弘」で書いたのですが島津義弘は元々は東軍に与するつもりで伏見城に来たのに、入城を断られ、その内に西軍に加担させられる事にない、あげく西軍として関ヶ原にいて、実際には西軍方の戦闘に参加しなかったにもかかわらず、西軍が敗戦確実となった時に、命からがら逃げ延びます。
しかし島津義弘が伏見城に来たのに、入城を断られるなどと言う事は家康が予め指示していたから以外には有り得ません。
当時、少しでも味方を作れるかと言うのが重要な課題だったからです。
このように経緯についてやや違和感が有るのと、更には「島津の退き口」などまでして逃げ帰る島津義弘らを井伊直政や本多忠勝らが不自然と思えるような執念で追っています。
井伊直政はこの時に受けた銃創がもとで暫く後に落命とも言われているのが定説です。
もう勝負はついているのに、何でリスクをとってまでこのような追撃をしたのでしょうか。
これが何を意味するかと言うと、こうです。
「家康は関ヶ原の戦いでイエズス会との裏取引を行って有利に誘導した。その裏取引の材料の一つは反キリシタン大名である島津氏にはある程度の討伐すべきであった為、討伐の姿勢をリスク度外視でするしかなかった」と言う事かと考えています。
「イエズス会は禁教令を徹底した秀吉とその家臣ら(キリシタンであった小西行長らをも含む)を見放し、家康にシフトし始めた。家康もそれに応じ、うまく利用して関ヶ原で勝利を得た。がしかし狸爺である家康は心底からスペイン・ポルトガル勢に従属しようなどとはさらさら考えていなかった。がそれは当時表面には出さなかった。そして後にイギリス、オランダなどのプロデスタント系キリスト教勢力が強くなって来たのを利用して大坂の陣ではこれら勢力から優秀な大砲を手に入れて豊臣方の篭る大坂城に砲撃を行って勝利した」。
大坂の陣関連については以前の記事で書いた通りです。
2016年9月16日の記事、サブタイトル「関ヶ原の戦い 二度死にかけた島津義弘」で書いたのですが島津義弘は元々は東軍に与するつもりで伏見城に来たのに、入城を断られ、その内に西軍に加担させられる事にない、あげく西軍として関ヶ原にいて、実際には西軍方の戦闘に参加しなかったにもかかわらず、西軍が敗戦確実となった時に、命からがら逃げ延びます。
しかし島津義弘が伏見城に来たのに、入城を断られるなどと言う事は家康が予め指示していたから以外には有り得ません。
当時、少しでも味方を作れるかと言うのが重要な課題だったからです。
このように経緯についてやや違和感が有るのと、更には「島津の退き口」などまでして逃げ帰る島津義弘らを井伊直政や本多忠勝らが不自然と思えるような執念で追っています。
井伊直政はこの時に受けた銃創がもとで暫く後に落命とも言われているのが定説です。
もう勝負はついているのに、何でリスクをとってまでこのような追撃をしたのでしょうか。
これが何を意味するかと言うと、こうです。
「家康は関ヶ原の戦いでイエズス会との裏取引を行って有利に誘導した。その裏取引の材料の一つは反キリシタン大名である島津氏にはある程度の討伐すべきであった為、討伐の姿勢をリスク度外視でするしかなかった」と言う事かと考えています。
「イエズス会は禁教令を徹底した秀吉とその家臣ら(キリシタンであった小西行長らをも含む)を見放し、家康にシフトし始めた。家康もそれに応じ、うまく利用して関ヶ原で勝利を得た。がしかし狸爺である家康は心底からスペイン・ポルトガル勢に従属しようなどとはさらさら考えていなかった。がそれは当時表面には出さなかった。そして後にイギリス、オランダなどのプロデスタント系キリスト教勢力が強くなって来たのを利用して大坂の陣ではこれら勢力から優秀な大砲を手に入れて豊臣方の篭る大坂城に砲撃を行って勝利した」。
大坂の陣関連については以前の記事で書いた通りです。