快気分析

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仕組みとアプローチ -  十勝岳で一時的な火山性地震の増加 1923年との比較

2018-06-12 08:10:05 | 地震 津波
 十勝岳で一時的な火山性地震の増加が有ったようです。
 過去の火山性活動についても合わせて次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://news.goo.ne.jp/article/tenkijp/nation/tenkijp-925.html

十勝岳で一時的な火山性地震の増加
16:09
十勝岳では、一時的な火山性地震の増加や継続時間の短い火山性微動が観測されています。気象台は今後の火山情報に注意するよう呼びかけています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8B%9D%E5%B2%B3

噴火史
安政噴火・明治噴火
十勝岳の噴火が歴史に登場するのは1857年(安政4年)のことである。この年、松田市太郎なる人物が石狩川水源踏査の帰途に十勝岳に登頂したとの記録があり、この中で硫気活動についても触れている。松浦武四郎は6月2日「山半腹にして火脈燃立て黒烟刺上るを見る」と記している。
1887年(明治20年)の噴火は黒煙を噴出し、周辺に降灰したと記録されている。
大正噴火
1923年、溶融硫黄の沼を出現させ活動を再開した。 1925年2月頃より小規模な噴火を繰り返していたが次第に活発化し、1926年5月からは小火口を形成するなど大規模な噴火が発生した。

(中略)

1983〜1987年
群発地震と小噴火を繰り返す。
1988〜89年噴火
1988年 群発地震を繰り返し、12月62-2火口から小噴火。
1989年 小噴火、群発地震の発生を繰り返す。火砕流、火砕サージ(火砕流の先端部で発生する高温ガス流、熱雲)の発生を確認。周辺140kmにわたり降灰。美瑛町、上富良野町の住民約300名が一時避難。3月以降、群発地震を伴いつつも噴火降活動は沈静化。
この噴火により1990年(平成2年)まで入山禁止となった。
1997年以降
空振を伴う火山性地震や噴気を観測するが激しい噴火活動は観察されていない。2004年2月と4月には有色噴煙や振幅の小さな火山性微動を観測。2012年8月および2013年6月には大正火口で発光現象が観察されている[12]。2014年12月、気象庁は噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引上げた[13]。

引用終了

 また関東大震災の1923年とその周辺年が出てきましたが、それ以外の期間でも火山性活動の活発化は少なくない点で霧島連山と同様です。
 1923年からの活発化は1887年以来のようですから、当時は36年ぶりの活発化だったと言う事になります。
 多少年数は違いますが、少なくとも20年以上のほぼ静穏期の後に活発化し始めた時に関東大震災が発生した事になり、今後もし2004年よりも活発化すれば、それは1997年以降のほぼ静穏期から約21年ぶりとなるわけでやや似る事になって来る、と言うのが気になります。
 現状では活発化確定とまでは行っていませんので今後の動向に注目と言う所でしょうか。
 ただ仮に活発化したとしてもサンプル数がたかだか2回では傾向確定とは行かないのかも知れません。

仕組みとアプローチ -  秀吉と毛利氏の和睦 そして「中国おお返し」

2018-06-12 00:54:10 | 明智光秀
 前回の記事で誤植が4箇所有りました。

 「これらの収益源を単純に秀吉一存で放棄した」
          ↓
 「これらの収益源を単純に秀吉の一存で放棄した」


 或いは現場の状況を正確に把握できる人物が秀吉の手先だったから」と言う事も感がえられて来ます。
          ↓
 或いは現場の状況を正確に把握できる人物が秀吉の手先だったから」と言う事も考えられて来ます。


 秀吉が何とか毛利氏にいくらかでも有利の信長に取り入る
          ↓
 秀吉が何とか毛利氏にいくらかでも有利に信長へ取り入る


 更には他の反信長勢力と共に信長打倒の一斉攻勢をかけた可能性はかけた可能性は十分有ったと考えています。
          ↓
 更には他の反信長勢力と共に信長打倒の一斉攻勢をかけた可能性は十分有ったと考えています。

 それぞれ上記のように訂正です。
 悪しからず。

 秀吉と毛利氏との和睦が当時においてすぐに公にされたような印象の表現が現在多いのですが、実際にはこの和睦が山崎の戦いの後など、「後になってから公開されたもの」、或いは「秀吉と毛利氏が後からデッチ上げたもの」と見ても良いのかも知れません。
 そして秀吉方の将兵も有る程度は実際に山崎の戦いの場所にまで移動はしたものの、少なからぬ割合は高松城の多少東のエリアに残っていたとも考えています。
 そしてトコロテンが押し出されるようにその東の宇喜多勢が東へ移動、更にその東で中立を保っていた筒井順慶、細川藤孝などの末端の足軽や雑兵、或いはフリーの傭兵、更には間接部門である武器や食料、衣類の調達運搬、陣の造営、宿の確保などを畿内で民衆などを募って確保した面も大きかったのかと思われます。(これだって兵力数にカウントされなくも有りません。)
 高松城開城と城主の切腹と言う事だけが表面的に誰の目にも明らかなだけで、人質の交換や和睦協定と言うのは秘密裏かそれに近いものであり、両者合意のものであればいつでも撤回できたと考えています。
 人質の交換は「相手と交渉の為に出向いている」と言う名目なら疑問は持たれないと考えられます。
 秀吉と毛利氏との和睦と言うものが実際には公開されていない仮密約であり、そして万が一の場合にはこの和睦を無かった事にする第2の密約であった、その為には有る程度の将兵は備中高松城のやや東から姫路城あたりまでに残しておかなければならない。なのでそれら真相を隠す為にも「中国おお返し」と言う名目が必要になった、と言う事なのかも知れません。
 秀吉が権力を握ってから情報操作で作られたのが「中国おお返し」だったのではないでしょうか。