壊れゆくブレイン(83)
東京の大学に行くことを結局は広美も決め、ぼくは連休に彼女の家を探しに東京に来た。仕事柄なのか自分では見ることもせず、ぼくにすべてを任せていた。大学に近い沿線で、友人の瑠美という子の家の2つ手前の駅に妥当なアパートがあった。アパートといってもオートロックがあり、採光も素晴らしく、商店街もそれなりに繁盛していた。ここならば、数年間住むのに困ることはないだろうと思っていた。そこは、場所も良かったが、ぼくにはもうひとつ思い出があった。
その思い出には裕紀がいた。瑠美という友人と新しいアパートの中間の駅に裕紀はひとりで住んでいた。そもそもは彼女の父が東京に居るときの仕事場だった。いまは誰の名義かも知らない。裕紀の兄が所有しているのだろう。もしかしたら壊されてマンションが立っているのかもしれない。
ぼくは契約を済ませ、その足で電気屋に寄った。いくつかの品物を予約して配達してもらう手続きも取った。それから、昼ごはんのためにある店に入った。ぼくと裕紀はデートの帰りにそこに入ったことがあった。まだ結婚前でぼくらの間には真剣味がありながらも、一度、ぼくは裕紀を捨てた過去というものを互いから除き取れないころでもあった。それも20年近く前の出来事だった。
ぼくはビールを頼み、奥で栓抜きの音がした。グラスとビールが運ばれ、ぼくは自分でそれを注いだ。それを運んできたのはある青年だったが、見覚えのある顔だった。この店の前でよく遊んでいた少年だったと思う。彼のその成長の度合いがぼくの過去の長さでもあった。また、裕紀を忘れ去らせることもできなかったぼくの月日の積み重ねでもあった。
ぼくは、ぼんやりと壁にかかったテレビを見ている。テレビの形もかわった。自分の内面だけがまだじくじくと湿り、変わらないでいるようだった。
ぼくは、そこからまた歩いた。冬はもう終わりに近づき、空気も緩む気配をみせていた。ぼくは上着のジッパーを下ろし、冷たい爽快な空気を頬や皮膚に感じた。それを何回ぐらい繰り返してきたのだろう。ぼくと裕紀の冬は、いっしょに過ごした冬は10回ぐらいだった。その短さをやはりいまでも残念に思っていた。
ぼくは、ある坂道の手前でたたずむ。そこは裕紀が住んでいた家の手前にある坂だった。ぼくは再会して交際をやり直した後、よくこの道まで見送りに来た。彼女のこころもぼくに対する信頼を取り戻し、ぼくのことをまた好きになってくれた。いや、彼女のこころでは継続していた問題であったのだ。ぼくの気の多さがただ彼女を遠去けたのだ。ぼくはその坂道の階段の一歩目を踏み出す。忘れていたと思っていた過去の日々がその足の裏を通してぼくの体内をさかのぼり全身で感じられた。彼女の無数の笑顔。悲しんだ顔。涙。疲れた表情。病気を告白したときのあの蒼白な顔。だが、ぼくは棺のなかの彼女を知らない。彼女の家族に敬遠され、そして、自暴自棄になっていた自分はそのことを経験し、通過しなかった。それゆえに、トンネルをくぐり抜けなかった自分は、まだ前に普段どおりの道が続いているという錯覚を抱きしめたままだったのだ。
半分ほど歩くと、その周辺の変化はまったくないことに気付いた。この隣の駅に広美が住むことになる。広美は裕紀の存在をどう受け止めているのか今更ながら心配になった。義理の父の愛したひとのひとり。そのもうひとりは自分の母だった。広美という独立した存在ながら、ぼくは彼女にも裕紀のその存在の素晴らしさの一部を受け継いで欲しいと思っていた。だが、それは無理な注文だった。
ぼくは歩き続け、裕紀が住んでいた家の前までたどり着いた。表札には同じ名前が残っていた。やはり、彼女の兄が相続しているのだろう。そもそも、裕紀が住んでいたときから兄のものだったのかもしれない。ぼくはその辺はいつも無頓着であった。裕紀のことだけにしか注意をはらってこなかった。ぼくは後部を振り返り、なつかしい風景を見た。ひとりの女性を愛し続けると宣言したことが思い出された。その思いは相手がいない以上、中断される運命になった。だが、それは相応しいことなのだろうか。見ていないものに信仰を抱くひともいた。だが、ずるい自分は肉体を持つ女性しか愛せないようだった。そういう身体を有した女性と再婚をして、その娘の家を見つけた。
また階段を逆に降りはじめた。君は、ぼくと会って幸せだったのだろうかと考えている。彼女の兄たちもぼくと裕紀が会ったことによって、命を縮めたと誤解しているようだった。その冷たい関係も、この寒さと同じように緩む段階に入りそうだったが、最初から関係というものが構築されていない以上、どこがゴールかも分からなかった。ただ、無関係のままの状態を継続し、ぼくのことを無闇に思い出さなくなったということで彼らの許しを得られるのだろう。そうなると、その許しは無意味だった。だが、許すとか許さないという関係はいまも過去の裕紀にとっても、無意味のようだとずっと階段の途中でも感じていた。
その足の運びに乗じた揺れで、新しいアパートのカギがズボンのポケットの中で金属的なこすれた音を発していた。君も同じように東京でひとりで住んでいた。ぼくは、留学先にいると思っていた。だが、どこかで会うようになっていたのだろう。広美も、雪代の娘として生まれ、その10年近く経ったあとに、ぼくと会うようになっていたのかもしれない。ぼくは、階段を降り切り、ふたたび頂上を見るように坂の上の裕紀がいた家を眺めた。プロポーズに応えてくれた彼女のはじめての表情をぼくは思い出し、あの嬉しい感情がよみがえるようだった。
東京の大学に行くことを結局は広美も決め、ぼくは連休に彼女の家を探しに東京に来た。仕事柄なのか自分では見ることもせず、ぼくにすべてを任せていた。大学に近い沿線で、友人の瑠美という子の家の2つ手前の駅に妥当なアパートがあった。アパートといってもオートロックがあり、採光も素晴らしく、商店街もそれなりに繁盛していた。ここならば、数年間住むのに困ることはないだろうと思っていた。そこは、場所も良かったが、ぼくにはもうひとつ思い出があった。
その思い出には裕紀がいた。瑠美という友人と新しいアパートの中間の駅に裕紀はひとりで住んでいた。そもそもは彼女の父が東京に居るときの仕事場だった。いまは誰の名義かも知らない。裕紀の兄が所有しているのだろう。もしかしたら壊されてマンションが立っているのかもしれない。
ぼくは契約を済ませ、その足で電気屋に寄った。いくつかの品物を予約して配達してもらう手続きも取った。それから、昼ごはんのためにある店に入った。ぼくと裕紀はデートの帰りにそこに入ったことがあった。まだ結婚前でぼくらの間には真剣味がありながらも、一度、ぼくは裕紀を捨てた過去というものを互いから除き取れないころでもあった。それも20年近く前の出来事だった。
ぼくはビールを頼み、奥で栓抜きの音がした。グラスとビールが運ばれ、ぼくは自分でそれを注いだ。それを運んできたのはある青年だったが、見覚えのある顔だった。この店の前でよく遊んでいた少年だったと思う。彼のその成長の度合いがぼくの過去の長さでもあった。また、裕紀を忘れ去らせることもできなかったぼくの月日の積み重ねでもあった。
ぼくは、ぼんやりと壁にかかったテレビを見ている。テレビの形もかわった。自分の内面だけがまだじくじくと湿り、変わらないでいるようだった。
ぼくは、そこからまた歩いた。冬はもう終わりに近づき、空気も緩む気配をみせていた。ぼくは上着のジッパーを下ろし、冷たい爽快な空気を頬や皮膚に感じた。それを何回ぐらい繰り返してきたのだろう。ぼくと裕紀の冬は、いっしょに過ごした冬は10回ぐらいだった。その短さをやはりいまでも残念に思っていた。
ぼくは、ある坂道の手前でたたずむ。そこは裕紀が住んでいた家の手前にある坂だった。ぼくは再会して交際をやり直した後、よくこの道まで見送りに来た。彼女のこころもぼくに対する信頼を取り戻し、ぼくのことをまた好きになってくれた。いや、彼女のこころでは継続していた問題であったのだ。ぼくの気の多さがただ彼女を遠去けたのだ。ぼくはその坂道の階段の一歩目を踏み出す。忘れていたと思っていた過去の日々がその足の裏を通してぼくの体内をさかのぼり全身で感じられた。彼女の無数の笑顔。悲しんだ顔。涙。疲れた表情。病気を告白したときのあの蒼白な顔。だが、ぼくは棺のなかの彼女を知らない。彼女の家族に敬遠され、そして、自暴自棄になっていた自分はそのことを経験し、通過しなかった。それゆえに、トンネルをくぐり抜けなかった自分は、まだ前に普段どおりの道が続いているという錯覚を抱きしめたままだったのだ。
半分ほど歩くと、その周辺の変化はまったくないことに気付いた。この隣の駅に広美が住むことになる。広美は裕紀の存在をどう受け止めているのか今更ながら心配になった。義理の父の愛したひとのひとり。そのもうひとりは自分の母だった。広美という独立した存在ながら、ぼくは彼女にも裕紀のその存在の素晴らしさの一部を受け継いで欲しいと思っていた。だが、それは無理な注文だった。
ぼくは歩き続け、裕紀が住んでいた家の前までたどり着いた。表札には同じ名前が残っていた。やはり、彼女の兄が相続しているのだろう。そもそも、裕紀が住んでいたときから兄のものだったのかもしれない。ぼくはその辺はいつも無頓着であった。裕紀のことだけにしか注意をはらってこなかった。ぼくは後部を振り返り、なつかしい風景を見た。ひとりの女性を愛し続けると宣言したことが思い出された。その思いは相手がいない以上、中断される運命になった。だが、それは相応しいことなのだろうか。見ていないものに信仰を抱くひともいた。だが、ずるい自分は肉体を持つ女性しか愛せないようだった。そういう身体を有した女性と再婚をして、その娘の家を見つけた。
また階段を逆に降りはじめた。君は、ぼくと会って幸せだったのだろうかと考えている。彼女の兄たちもぼくと裕紀が会ったことによって、命を縮めたと誤解しているようだった。その冷たい関係も、この寒さと同じように緩む段階に入りそうだったが、最初から関係というものが構築されていない以上、どこがゴールかも分からなかった。ただ、無関係のままの状態を継続し、ぼくのことを無闇に思い出さなくなったということで彼らの許しを得られるのだろう。そうなると、その許しは無意味だった。だが、許すとか許さないという関係はいまも過去の裕紀にとっても、無意味のようだとずっと階段の途中でも感じていた。
その足の運びに乗じた揺れで、新しいアパートのカギがズボンのポケットの中で金属的なこすれた音を発していた。君も同じように東京でひとりで住んでいた。ぼくは、留学先にいると思っていた。だが、どこかで会うようになっていたのだろう。広美も、雪代の娘として生まれ、その10年近く経ったあとに、ぼくと会うようになっていたのかもしれない。ぼくは、階段を降り切り、ふたたび頂上を見るように坂の上の裕紀がいた家を眺めた。プロポーズに応えてくれた彼女のはじめての表情をぼくは思い出し、あの嬉しい感情がよみがえるようだった。