爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(83)

2012年08月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(83)

 東京の大学に行くことを結局は広美も決め、ぼくは連休に彼女の家を探しに東京に来た。仕事柄なのか自分では見ることもせず、ぼくにすべてを任せていた。大学に近い沿線で、友人の瑠美という子の家の2つ手前の駅に妥当なアパートがあった。アパートといってもオートロックがあり、採光も素晴らしく、商店街もそれなりに繁盛していた。ここならば、数年間住むのに困ることはないだろうと思っていた。そこは、場所も良かったが、ぼくにはもうひとつ思い出があった。

 その思い出には裕紀がいた。瑠美という友人と新しいアパートの中間の駅に裕紀はひとりで住んでいた。そもそもは彼女の父が東京に居るときの仕事場だった。いまは誰の名義かも知らない。裕紀の兄が所有しているのだろう。もしかしたら壊されてマンションが立っているのかもしれない。

 ぼくは契約を済ませ、その足で電気屋に寄った。いくつかの品物を予約して配達してもらう手続きも取った。それから、昼ごはんのためにある店に入った。ぼくと裕紀はデートの帰りにそこに入ったことがあった。まだ結婚前でぼくらの間には真剣味がありながらも、一度、ぼくは裕紀を捨てた過去というものを互いから除き取れないころでもあった。それも20年近く前の出来事だった。

 ぼくはビールを頼み、奥で栓抜きの音がした。グラスとビールが運ばれ、ぼくは自分でそれを注いだ。それを運んできたのはある青年だったが、見覚えのある顔だった。この店の前でよく遊んでいた少年だったと思う。彼のその成長の度合いがぼくの過去の長さでもあった。また、裕紀を忘れ去らせることもできなかったぼくの月日の積み重ねでもあった。

 ぼくは、ぼんやりと壁にかかったテレビを見ている。テレビの形もかわった。自分の内面だけがまだじくじくと湿り、変わらないでいるようだった。

 ぼくは、そこからまた歩いた。冬はもう終わりに近づき、空気も緩む気配をみせていた。ぼくは上着のジッパーを下ろし、冷たい爽快な空気を頬や皮膚に感じた。それを何回ぐらい繰り返してきたのだろう。ぼくと裕紀の冬は、いっしょに過ごした冬は10回ぐらいだった。その短さをやはりいまでも残念に思っていた。

 ぼくは、ある坂道の手前でたたずむ。そこは裕紀が住んでいた家の手前にある坂だった。ぼくは再会して交際をやり直した後、よくこの道まで見送りに来た。彼女のこころもぼくに対する信頼を取り戻し、ぼくのことをまた好きになってくれた。いや、彼女のこころでは継続していた問題であったのだ。ぼくの気の多さがただ彼女を遠去けたのだ。ぼくはその坂道の階段の一歩目を踏み出す。忘れていたと思っていた過去の日々がその足の裏を通してぼくの体内をさかのぼり全身で感じられた。彼女の無数の笑顔。悲しんだ顔。涙。疲れた表情。病気を告白したときのあの蒼白な顔。だが、ぼくは棺のなかの彼女を知らない。彼女の家族に敬遠され、そして、自暴自棄になっていた自分はそのことを経験し、通過しなかった。それゆえに、トンネルをくぐり抜けなかった自分は、まだ前に普段どおりの道が続いているという錯覚を抱きしめたままだったのだ。

 半分ほど歩くと、その周辺の変化はまったくないことに気付いた。この隣の駅に広美が住むことになる。広美は裕紀の存在をどう受け止めているのか今更ながら心配になった。義理の父の愛したひとのひとり。そのもうひとりは自分の母だった。広美という独立した存在ながら、ぼくは彼女にも裕紀のその存在の素晴らしさの一部を受け継いで欲しいと思っていた。だが、それは無理な注文だった。

 ぼくは歩き続け、裕紀が住んでいた家の前までたどり着いた。表札には同じ名前が残っていた。やはり、彼女の兄が相続しているのだろう。そもそも、裕紀が住んでいたときから兄のものだったのかもしれない。ぼくはその辺はいつも無頓着であった。裕紀のことだけにしか注意をはらってこなかった。ぼくは後部を振り返り、なつかしい風景を見た。ひとりの女性を愛し続けると宣言したことが思い出された。その思いは相手がいない以上、中断される運命になった。だが、それは相応しいことなのだろうか。見ていないものに信仰を抱くひともいた。だが、ずるい自分は肉体を持つ女性しか愛せないようだった。そういう身体を有した女性と再婚をして、その娘の家を見つけた。

 また階段を逆に降りはじめた。君は、ぼくと会って幸せだったのだろうかと考えている。彼女の兄たちもぼくと裕紀が会ったことによって、命を縮めたと誤解しているようだった。その冷たい関係も、この寒さと同じように緩む段階に入りそうだったが、最初から関係というものが構築されていない以上、どこがゴールかも分からなかった。ただ、無関係のままの状態を継続し、ぼくのことを無闇に思い出さなくなったということで彼らの許しを得られるのだろう。そうなると、その許しは無意味だった。だが、許すとか許さないという関係はいまも過去の裕紀にとっても、無意味のようだとずっと階段の途中でも感じていた。

 その足の運びに乗じた揺れで、新しいアパートのカギがズボンのポケットの中で金属的なこすれた音を発していた。君も同じように東京でひとりで住んでいた。ぼくは、留学先にいると思っていた。だが、どこかで会うようになっていたのだろう。広美も、雪代の娘として生まれ、その10年近く経ったあとに、ぼくと会うようになっていたのかもしれない。ぼくは、階段を降り切り、ふたたび頂上を見るように坂の上の裕紀がいた家を眺めた。プロポーズに応えてくれた彼女のはじめての表情をぼくは思い出し、あの嬉しい感情がよみがえるようだった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(21)

2012年08月01日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(21)

 翌朝、ぼくは先生になるため、ひげをきれいに剃り上げ、パリッとした半袖のシャツを着ている。しかし、靴は汚いスニーカーが玄関にあるだけだった。横には妻の高価そうなハイヒール。そこに由美がやってきた。

「わたし、見送る」といってサンダルを履いた。
 となりの玄関には久美子がいた。また泳ぎに行くのだろう。小麦色のマーメード。
「久美ちゃん、うちのパパね、アルツハイマーという病気になったの」真剣味を帯びた表情で由美がそっと言った。「昨日もアサリのからまで食べようとしていたから」
「ほんとうですか?」彼女は心配そうな顔付きをする。
「嘘だよ。昨日、その言葉を覚えたばっかりなんで使いたいだけだよ。信じないで」信じるわけないか?
「本人には自覚がないんだって、ママが言ってた。久美ちゃんのことも、いつか忘れちゃうから」その話題を娘は長引かせたいらしい。

「覚えてるよ。まだ、小さいときにビニールのプールに浸かっていたことも」
「また、その話を持ち出す。やめてください」彼女は不愉快そうな顔をした。「でも、お仕事のなさり過ぎですかね。あんまり、根をつめないでくださいね」
「パパは、そんなに仕事をしてないよ」由美は、もう話題に飽きたのか自分の朝顔の成長を見つめた。
 30代も半ばの男性が、根をつめすぎるなと高校生の女性に言われた。逆の立場ならありえる。あんまり、勉強をし過ぎると身体に毒だよ、とでもいうように。

 マーガレットはケンが勉強に夢中になっていることを知っていた。物理というものに捉われたらしく、その過程と結果に熱中している。それで息抜きも必要だよ、ということで自転車で近くの森まで行った。籐で編まれたバックにはサンドイッチが入っていた。ケンはそれを食べながらも自分の勉強の成果を熱心に話している。それは、大体が教授の受け売りだった。マーガレットも同じようなことを聞いて知っていた。だが、それは良い指導者にめぐり合い、その存在を認められて、追いつこうという過程の物語でもあるようだった。あとは、先生の背中に追いつき、追い抜くという問題が残っている。だが、最初のきっかけを作り、それに着火させるという人生での出会いという良い摩擦も必要だった。

「それでは、宿題だった夏休みの思い出というテーマで何人かに発表してもらいます。ぼくは自分で書かないで、よく書かれているマラマッドのサマーズ・リーディングというものを代わりに読みますね。ここには期待を受けた青年のある決意が表明されています。秋に収穫があるんでしょうか」

 ぼくは、自分の声に酔い痴れ、クラスの中を歩き回りながら読んでいる。文章というのはなにを書いても自由なのだが、この青年期を終えようとしているころの甘い決意は、何よりも文章に向いている気がした。

 それから、3人の生徒が代わる代わるに読んだ。残りの生徒の分は提出してもらい、あとは来週までにぼくが自宅で読む。それでバッグは重いものになった。

「ひとの真似というものをぼくはいちばん憎みます」とぼくは言う。
「先生のも誰かのに似ていませんか?」狭山という若い男性が皆にきこえるように言う。彼の文章のあら捜しを帰ってから直ぐにしたい。
「誰でも最初は真似からスタートする。早くそこを抜け出てください、と、言いたかったんですね」と、ぼくは自己弁護を余儀なくされた。うん。

 クラスも終わり、ぼくはここを提供している市の職員との打ち合わせがあった。その前に児玉さんが相談にのってくれと頼んできたので、打ち合わせ後に約束をした。

「うちもきちんとアンケートを取っていて、なんだかこのクラスが評判もよくて、来期の予算とかの配分とかでもつづけていいという確約をもらったので、またどうかな? ということを頼みに来た」彼はもともと学生時代の友だちだった。そう言われてみると悪い気もしない。自分は机の前に座り、頭脳と指先を動かすだけの作業があるばかりだ。たまに、ひとに接するのも悪くないとも思っていた。多少の摩擦があったとしても。でも、即答は避け、返事を先送りした。「それでも、大体は更新なんだろう?」まるで、ぼくが頼んでいるようなことになった。

 次は、ロビーで児玉さんが待っている。彼女はぼくにコーヒーを買ってくれた。なかなか裕福なひとなのだ。銀行員の夫が残した蓄えが充分にあるのだろう。手付かずの財宝。それで、新たな小説が生まれないだろうか?
「なんだか、書くことに対して行き詰ってしまって」

「でも、児玉さんが送った人生をぼくはまるっきり知らない。自分で打破しないことには、それは歴史に埋もれたままになる」それでも、いいのか?
「娘とのエピソードがいまいち盛り上がってくれないので。そもそも彼女に対して、わたしは愛情を持っていたのかしら? 普通の母親並みに」
「それは娘さんと話しあった方がいいんじゃないですか? ママのこと、こんなに好きだった、という話がたくさんあるかもしれませんから」そのエピソードなら自分も欲しかった。

 ケンは物理の問題に夢中になっていた。解けない問題があるということと、それがいずれ自分の手によって開示されるのだという興奮があった。マーガレットとの関係もそれに似た入り口にあったのかもしれない。ぼくは歩きながら来年の自分について考えていた。娘が2年生になるというぐらいしか自分にとって確かなものはなかった。マラマッドぐらいの優れたものを自分は書けるのだろうか? それとも、紹介するだけで終わるのだろうか? 夏の昼間、暑さとカバンの重みでぼくはぐったりとしてきた。