壊れゆくブレイン(100)
「美緒ちゃん、ごめん、美緒さんかな?」ぼくは駅の改札の横で生真面目に立ち尽くす少女を見つける。花柄のワンピース姿で。
「はい。わたしのこと、直ぐに分かりましたか?」
「だって、裕紀のことを知っているひとは、美緒さんと裕紀のことを結びつけて考えてしまうでしょう」
「そうですね。ずっと、そっくりと言われてましたから」
「ぼくのことは、分かった?」
「むかしの写真が何枚かありました。結婚したばかりの裕紀さんの写真が。大分前の」
「20年ぐらい前かな。15年ぐらいか。がっかりしない、いまのぼくは?」
「良く分からないです」と言って、下を向いた。
ぼくらはある店に入る。ぼくはコーヒーを頼み、彼女は紅茶を選んだ。ワンピースに合わせたような色のカップが彼女の前に置かれた。
「それで、ぼくを見つける必要があった?」
「これです」彼女はレンガのような大きさぐらいの手紙の束の固まりを置く。「全部、裕紀さんが父に送ったものです。わたしの父に」
「なにが書かれているの?」
「わたしの父が、近藤さんのことを避けていた。そのことを心配して、彼はそんな人間じゃないということを、この固まりを通して伝えたかったようです」
「君が、美緒ちゃんがそれを見つけた」
「そうです。わたし、おばさんのこと、裕紀さんのことを作文に書きました。それが賞をもらって、国語の先生に何か別のものを書いて、もっと大きなものにも挑んでみたら、と言われたんです」
「書くのが好きなんだ」ぼくの姪もそんなことを言っていた。
「その前のがこれです」彼女は、冊子をまたバックから取り出した。
「これ、うちにもあった」姪が貸してくれたものと同じだった。
「わたしも最近になって知りました。近藤さんの親戚のひとだって。名前が違うから」
「彼女も、姪のことだけど、裕紀のことが好きだった」
「わたしは、そのひとより裕紀さんのことを全然、知らない。原因は父にもあると思います」ぼくは、そのことについて責められる立場にいなかった。
「しかし、知らないひとに会うには決心がいったでしょう?」
「先生に新しいものを書くように勧められたときに、偶然これを発見したんです。先生にそのことを相談すると、その許される必要があるひとに会ってみれば、と言われました」
「簡単だね?」
「もっと違うことを書くには、調査も必要だと言われました。好奇心をもつこと。それに、何にせよ会ってみてもあなたの人生に損はないでしょう、とも言われました。その通りです」
「でも、自分の力だけで?」
「両親にも、それとなく近藤さんのことを訊きました。父は、あまり答えてくれませんでしたが、母は、それなら東京の叔母さんに訊いてみたらと言って電話番号を教えてくれました」
「あの叔母さんだよね」
「裕紀さんがそういう手紙を残すぐらい、心配してたんだ、とちょっと泣いていました」
「ずっと、ぼくらの味方だったから」
「話も聞き、近藤さんのことが少し分かりかけて、また、理不尽な扱いをされてきたようにも思えてきたんです」
ぼくは、中学生の放つ一本気と正義感とを感じ、胸が苦しんだ。その反面、ぼくの何が分かったのだろうという疑問も当然のところ、もった。もってはいけないと思いながらも、こころの底には抵抗する気持ちがあった。
「でも、ぼくが裕紀の家族と関係をもつことは、もうあまり必要ないかもしれないけど」その抵抗感がそういう発言として結実する。
「わたし、この手紙を読んで、裕紀さんのことを知りたくなりました。父は、幼い妹の時期のことぐらいしか知らない。そこで裕紀さんのことはストップしています。母は、もっと、根本的な意味でなにも知らない」
「そうだよね。ずっと離れていたから」
「いちばん、知っているのは、近藤さんですよね?」
はっきりとした断定的な意見とまっすぐな美緒の視線にぼくはたじろぐ。ぼくらの結婚生活は10年にも満たなかった。その間でひとりの女性の何を知り、何が漏れてしまったのかぼくは性急に見極め、区別しようとした。しかし、性急さがかえって邪魔をして、ぼくは判断を誤らすのかもしれない。ぼくは、しばらく彼女の断片を思い出す。断片のいくつかを組み合わせると、裕紀の総合体になるように思えたが、それはまた別の女性だった。別の女性であるならば、ぼくが過去に知った女性の情報のいくつかも混ざり合ってしまうという危険もあった。
「多分、そうだと思うけど・・・」それでも、そういう答えで煮え切らない自分の思いを表現した。美緒は、その曖昧な答えに少しがっかりしたような表情を見せた。「結婚していたぐらいだから。それに、彼女が結婚したのは、ぼくだけだったから」
だが、結婚しただけで何が分かるのだろう。それでは、ぼくは現在の妻の雪代のすべてをも知っているのか? ぼくが、いちばんの理解者なのか? という疑問も同時にもった。しかし、中学生の女性に言うべき発言でもない。幻想は幻想のままに横たえておくのだ。
「この手紙、どうされます?」彼女はレンガ大のものを指差す。
「やはり、それは君のお父さんに送ったものだから、ぼくは読むべきものじゃないと思うよ。そういうものが、こんなにも多くあると教えてくれただけで、とても、ありがたいことだから」それに、家で妻を前にそんなものを読むことは不可能だ、という気持ちもあった。だが、それを付け加えることはしなかった。「代わりに君の裕紀への気持ちを読むよ。そこに書いてあるんだろう?」
「ええ。最初のほうに」
「うちにもある。きっと読むよ」
ぼくらは、それでいったん別れる。また、駅前まで行き、ぼくは彼女を改札で見送る。美緒はきちんとしたお辞儀をした。ぼくは、それを見て裕紀を失った記憶と感情の追体験をする。いや、させられるのだ。ぼくのこころの一部が剥がされ、傷口が開くような錯覚があった。だが、その痛みは錯覚ではなく、本物の傷み以上に痛烈なものだった。
「美緒ちゃん、ごめん、美緒さんかな?」ぼくは駅の改札の横で生真面目に立ち尽くす少女を見つける。花柄のワンピース姿で。
「はい。わたしのこと、直ぐに分かりましたか?」
「だって、裕紀のことを知っているひとは、美緒さんと裕紀のことを結びつけて考えてしまうでしょう」
「そうですね。ずっと、そっくりと言われてましたから」
「ぼくのことは、分かった?」
「むかしの写真が何枚かありました。結婚したばかりの裕紀さんの写真が。大分前の」
「20年ぐらい前かな。15年ぐらいか。がっかりしない、いまのぼくは?」
「良く分からないです」と言って、下を向いた。
ぼくらはある店に入る。ぼくはコーヒーを頼み、彼女は紅茶を選んだ。ワンピースに合わせたような色のカップが彼女の前に置かれた。
「それで、ぼくを見つける必要があった?」
「これです」彼女はレンガのような大きさぐらいの手紙の束の固まりを置く。「全部、裕紀さんが父に送ったものです。わたしの父に」
「なにが書かれているの?」
「わたしの父が、近藤さんのことを避けていた。そのことを心配して、彼はそんな人間じゃないということを、この固まりを通して伝えたかったようです」
「君が、美緒ちゃんがそれを見つけた」
「そうです。わたし、おばさんのこと、裕紀さんのことを作文に書きました。それが賞をもらって、国語の先生に何か別のものを書いて、もっと大きなものにも挑んでみたら、と言われたんです」
「書くのが好きなんだ」ぼくの姪もそんなことを言っていた。
「その前のがこれです」彼女は、冊子をまたバックから取り出した。
「これ、うちにもあった」姪が貸してくれたものと同じだった。
「わたしも最近になって知りました。近藤さんの親戚のひとだって。名前が違うから」
「彼女も、姪のことだけど、裕紀のことが好きだった」
「わたしは、そのひとより裕紀さんのことを全然、知らない。原因は父にもあると思います」ぼくは、そのことについて責められる立場にいなかった。
「しかし、知らないひとに会うには決心がいったでしょう?」
「先生に新しいものを書くように勧められたときに、偶然これを発見したんです。先生にそのことを相談すると、その許される必要があるひとに会ってみれば、と言われました」
「簡単だね?」
「もっと違うことを書くには、調査も必要だと言われました。好奇心をもつこと。それに、何にせよ会ってみてもあなたの人生に損はないでしょう、とも言われました。その通りです」
「でも、自分の力だけで?」
「両親にも、それとなく近藤さんのことを訊きました。父は、あまり答えてくれませんでしたが、母は、それなら東京の叔母さんに訊いてみたらと言って電話番号を教えてくれました」
「あの叔母さんだよね」
「裕紀さんがそういう手紙を残すぐらい、心配してたんだ、とちょっと泣いていました」
「ずっと、ぼくらの味方だったから」
「話も聞き、近藤さんのことが少し分かりかけて、また、理不尽な扱いをされてきたようにも思えてきたんです」
ぼくは、中学生の放つ一本気と正義感とを感じ、胸が苦しんだ。その反面、ぼくの何が分かったのだろうという疑問も当然のところ、もった。もってはいけないと思いながらも、こころの底には抵抗する気持ちがあった。
「でも、ぼくが裕紀の家族と関係をもつことは、もうあまり必要ないかもしれないけど」その抵抗感がそういう発言として結実する。
「わたし、この手紙を読んで、裕紀さんのことを知りたくなりました。父は、幼い妹の時期のことぐらいしか知らない。そこで裕紀さんのことはストップしています。母は、もっと、根本的な意味でなにも知らない」
「そうだよね。ずっと離れていたから」
「いちばん、知っているのは、近藤さんですよね?」
はっきりとした断定的な意見とまっすぐな美緒の視線にぼくはたじろぐ。ぼくらの結婚生活は10年にも満たなかった。その間でひとりの女性の何を知り、何が漏れてしまったのかぼくは性急に見極め、区別しようとした。しかし、性急さがかえって邪魔をして、ぼくは判断を誤らすのかもしれない。ぼくは、しばらく彼女の断片を思い出す。断片のいくつかを組み合わせると、裕紀の総合体になるように思えたが、それはまた別の女性だった。別の女性であるならば、ぼくが過去に知った女性の情報のいくつかも混ざり合ってしまうという危険もあった。
「多分、そうだと思うけど・・・」それでも、そういう答えで煮え切らない自分の思いを表現した。美緒は、その曖昧な答えに少しがっかりしたような表情を見せた。「結婚していたぐらいだから。それに、彼女が結婚したのは、ぼくだけだったから」
だが、結婚しただけで何が分かるのだろう。それでは、ぼくは現在の妻の雪代のすべてをも知っているのか? ぼくが、いちばんの理解者なのか? という疑問も同時にもった。しかし、中学生の女性に言うべき発言でもない。幻想は幻想のままに横たえておくのだ。
「この手紙、どうされます?」彼女はレンガ大のものを指差す。
「やはり、それは君のお父さんに送ったものだから、ぼくは読むべきものじゃないと思うよ。そういうものが、こんなにも多くあると教えてくれただけで、とても、ありがたいことだから」それに、家で妻を前にそんなものを読むことは不可能だ、という気持ちもあった。だが、それを付け加えることはしなかった。「代わりに君の裕紀への気持ちを読むよ。そこに書いてあるんだろう?」
「ええ。最初のほうに」
「うちにもある。きっと読むよ」
ぼくらは、それでいったん別れる。また、駅前まで行き、ぼくは彼女を改札で見送る。美緒はきちんとしたお辞儀をした。ぼくは、それを見て裕紀を失った記憶と感情の追体験をする。いや、させられるのだ。ぼくのこころの一部が剥がされ、傷口が開くような錯覚があった。だが、その痛みは錯覚ではなく、本物の傷み以上に痛烈なものだった。