壊れゆくブレイン(103)
広美と瑠美はそれぞれリュックを背負って旅行に出かけた。もっと華やいだ場所もあると思うが、海沿いまで電車で行き、小さなフェリーに乗って、数日間をこれまた小さな島で過ごすそうである。特にこれといって決まった予定があるわけではなく、広美は趣味にしはじめたカメラを持っており、舞台に憧れる瑠美は、「感性を磨く」という漠然とした希望しかもっていないようだ。ただ、仲の良いふたりが、その親密さを増すために選んだ土地がそこだったのだろう。そこに、ぼくは単純だが美しい若さを感じた。
ぼくは便が良い駅まで車で送った。彼女らはそこで降り、両手を振って屋根のあるところに消えた。ぼくはそのように同性とふたりで旅をした経験がないことに気付いた。ぼくは大学に入る前に雪代と交際をはじめ、しばらくして同棲することになった。年上だった彼女は翌年からもう働き、普通の青年がする貧乏旅行やバイクでのツーリングなどしたこともなかった。彼女のふところは潤い、ぼくもバイトで貯めたお金を彼女との時間のために充てた。
ぼくらは親の拘束下にいないということで自由であり、いつもいっしょにいられるという逆の意味での不自由もあった。そのため、ぼくらは親の心配をかけているということに対しても無頓着であり、もし、仮に広美が同じような生活をしていたら、ぼくらは許さなかったかもしれない。虫の良い話でもあるが、事実はそういうものであり、ぼくらも年を取ったということらしかった。世間の目を恐れなかったふたりは親の役目を与えられ、過剰になることはなかったが、どこかで制限も求めていた。
ぼくは一日働き、家に戻ってきた。まだ、車の中は若い女性の匂いがするようだった。
「気付いたけど、ぼくも、あのように友人同士で、旅行とかしておけば良かったなとか思った」
「後悔してるの?」
「違うけど。いや、そういう意味では後悔している。やり残しているというニュアンスに近いね」
「若くして、同棲しちゃったもんね。でも、東京に、わたしがいるときは、自由もあったでしょう」
「そういえば、あったね」
「やっぱり、ひろし君は若い女の子と楽しんでたんだよ。何があっても」
「かなり、断定的だね」
「証拠でもあげようか?」
「いや、いいよ」ぼくの浮ついた気持ちはどこかで消えた。いや、沈静化した。だが、空想はやめられなかった。しかし、段々と、ぼくの考えは移り変わっていく。夜、そんなに広くない部屋で枕を並べ、自分の将来について話す。応援があったり、自分に足りないものを指摘されたりする。笑い合い、いつの間にかとなりで寝息を立てている友人においていかれた不安感のため自分も寝ようとするが、いつになく目が冴えている。ぼくは、そのような過去の一日があったようなおぼろげな空想を楽しみ終えた。
「なんか、眠れない。さっきのコーヒーのせいかな。となりに入っていい」雪代はぼくの軽い布団をめくる。
「どうしたの?」そう言いながらもぼくは暗い室内のため彼女の顔色などは見てとることができなかった。
「わたしがひろし君の青春を味気ないものにしたみたいで、さっきのこと憤慨している」
「あれ以上のもの、ぼくは得られなかった。その当時の男の子なんて、雪代みたいな女性と付き合えた喜びしか感じていない生き物だよ」
「ならいいけど」
「ぼくが喜んだことも、憂いているときも話したいのは正直に雪代だけだった」
「そう、ありがとう。むかし、若いときはあの小さなアパートでこうして抱き合ったね」
「うん。何日かすると、雪代は東京にまた帰った」
「ベランダから見送ってくれたね」
「そうだった」ぼくらは追憶の映像に彩られた中で、間もなく眠ってしまったようだ。あれが、ぼくの10代の終わりと20代の前半だった。ぼくはその関係の永続性を信じながらも、いつの日か、別れが待ち受けていることを知らなかった。ぼくが今度は東京に転勤して、そこで裕紀と会うことなどもより困難な予想だった。でも、いまではみなすべて起きてしまった事柄なのだ。
翌々日の夕方晩く、広美と瑠美が帰ってきた。玄関に置かれたスニーカーは汚れ、彼女たちはいくらか日焼けをしたようだった。
「どうだった? 楽しかった」雪代がたずねると、彼女たちは答えもせずにお互いの視線を合わせて笑った。それが何よりも正確な解答だった。「お腹、空いたでしょう? ご飯をいっぱい炊くって、なんだか幸せなことなのね」と言って、炊飯器のふたを開いた。湯気がのぼり、おいしそうな匂いが部屋に充満した。ぼくも空腹を感じる。それに似たものを感じるという方が正しいようだ。ぼくは先ずビールを飲みだす。
彼女たちはテーブルで忙しなくご飯を食べた。それから風呂に入って、広美のパジャマをふたりで着てアイスを食べていた。ぼくと雪代はただ旅館がいっしょになったひとたちを見るように、横でふたりで話した。今日の洗いものは広美たちがした。彼女たちがそれも終え、部屋に引き上げるとやっと落ち着いた心地になった。
その翌日、彼女たちが東京に戻ってしまうと、安堵というより、もっと深い淋しさのようなものを感じた。ぼくは大学に入ると直ぐに雪代と暮らした。自分の母も同じような心細さを感じていたかもしれないということを今頃になって知るのだった。
広美と瑠美はそれぞれリュックを背負って旅行に出かけた。もっと華やいだ場所もあると思うが、海沿いまで電車で行き、小さなフェリーに乗って、数日間をこれまた小さな島で過ごすそうである。特にこれといって決まった予定があるわけではなく、広美は趣味にしはじめたカメラを持っており、舞台に憧れる瑠美は、「感性を磨く」という漠然とした希望しかもっていないようだ。ただ、仲の良いふたりが、その親密さを増すために選んだ土地がそこだったのだろう。そこに、ぼくは単純だが美しい若さを感じた。
ぼくは便が良い駅まで車で送った。彼女らはそこで降り、両手を振って屋根のあるところに消えた。ぼくはそのように同性とふたりで旅をした経験がないことに気付いた。ぼくは大学に入る前に雪代と交際をはじめ、しばらくして同棲することになった。年上だった彼女は翌年からもう働き、普通の青年がする貧乏旅行やバイクでのツーリングなどしたこともなかった。彼女のふところは潤い、ぼくもバイトで貯めたお金を彼女との時間のために充てた。
ぼくらは親の拘束下にいないということで自由であり、いつもいっしょにいられるという逆の意味での不自由もあった。そのため、ぼくらは親の心配をかけているということに対しても無頓着であり、もし、仮に広美が同じような生活をしていたら、ぼくらは許さなかったかもしれない。虫の良い話でもあるが、事実はそういうものであり、ぼくらも年を取ったということらしかった。世間の目を恐れなかったふたりは親の役目を与えられ、過剰になることはなかったが、どこかで制限も求めていた。
ぼくは一日働き、家に戻ってきた。まだ、車の中は若い女性の匂いがするようだった。
「気付いたけど、ぼくも、あのように友人同士で、旅行とかしておけば良かったなとか思った」
「後悔してるの?」
「違うけど。いや、そういう意味では後悔している。やり残しているというニュアンスに近いね」
「若くして、同棲しちゃったもんね。でも、東京に、わたしがいるときは、自由もあったでしょう」
「そういえば、あったね」
「やっぱり、ひろし君は若い女の子と楽しんでたんだよ。何があっても」
「かなり、断定的だね」
「証拠でもあげようか?」
「いや、いいよ」ぼくの浮ついた気持ちはどこかで消えた。いや、沈静化した。だが、空想はやめられなかった。しかし、段々と、ぼくの考えは移り変わっていく。夜、そんなに広くない部屋で枕を並べ、自分の将来について話す。応援があったり、自分に足りないものを指摘されたりする。笑い合い、いつの間にかとなりで寝息を立てている友人においていかれた不安感のため自分も寝ようとするが、いつになく目が冴えている。ぼくは、そのような過去の一日があったようなおぼろげな空想を楽しみ終えた。
「なんか、眠れない。さっきのコーヒーのせいかな。となりに入っていい」雪代はぼくの軽い布団をめくる。
「どうしたの?」そう言いながらもぼくは暗い室内のため彼女の顔色などは見てとることができなかった。
「わたしがひろし君の青春を味気ないものにしたみたいで、さっきのこと憤慨している」
「あれ以上のもの、ぼくは得られなかった。その当時の男の子なんて、雪代みたいな女性と付き合えた喜びしか感じていない生き物だよ」
「ならいいけど」
「ぼくが喜んだことも、憂いているときも話したいのは正直に雪代だけだった」
「そう、ありがとう。むかし、若いときはあの小さなアパートでこうして抱き合ったね」
「うん。何日かすると、雪代は東京にまた帰った」
「ベランダから見送ってくれたね」
「そうだった」ぼくらは追憶の映像に彩られた中で、間もなく眠ってしまったようだ。あれが、ぼくの10代の終わりと20代の前半だった。ぼくはその関係の永続性を信じながらも、いつの日か、別れが待ち受けていることを知らなかった。ぼくが今度は東京に転勤して、そこで裕紀と会うことなどもより困難な予想だった。でも、いまではみなすべて起きてしまった事柄なのだ。
翌々日の夕方晩く、広美と瑠美が帰ってきた。玄関に置かれたスニーカーは汚れ、彼女たちはいくらか日焼けをしたようだった。
「どうだった? 楽しかった」雪代がたずねると、彼女たちは答えもせずにお互いの視線を合わせて笑った。それが何よりも正確な解答だった。「お腹、空いたでしょう? ご飯をいっぱい炊くって、なんだか幸せなことなのね」と言って、炊飯器のふたを開いた。湯気がのぼり、おいしそうな匂いが部屋に充満した。ぼくも空腹を感じる。それに似たものを感じるという方が正しいようだ。ぼくは先ずビールを飲みだす。
彼女たちはテーブルで忙しなくご飯を食べた。それから風呂に入って、広美のパジャマをふたりで着てアイスを食べていた。ぼくと雪代はただ旅館がいっしょになったひとたちを見るように、横でふたりで話した。今日の洗いものは広美たちがした。彼女たちがそれも終え、部屋に引き上げるとやっと落ち着いた心地になった。
その翌日、彼女たちが東京に戻ってしまうと、安堵というより、もっと深い淋しさのようなものを感じた。ぼくは大学に入ると直ぐに雪代と暮らした。自分の母も同じような心細さを感じていたかもしれないということを今頃になって知るのだった。