壊れゆくブレイン(93)
久々に雪代は店の品物の買い付けに行ったため留守にしていた。ぼくは、家で本当のひとりになった。この状態を望んでいたようにも思えたし、まったく逆にこれだけは望んでいなかった立場に思えた。ぼくは暇を持て余すように古くなった雑誌をめくり、必要のないものをビニールの紐でくくり、一階にあるゴミ捨て場に運んだ。その横の塀の上には猫が不自然な姿勢で寝ていた。ぼくも真似るように部屋に戻り、ソファに転がってテレビを見た。それも、いつの間にか寝てしまったようで気付いた時には、首のまわりがすこしだけ痛んだ。
夕方になり、ひげを剃りきれいなシャツに着替え、カギをしめて家を出た。普段、あまり行くことのない数駅離れた場所の駅で電車を降り、駅前のぱっとしない飲食店に入り、瓶のビールを頼んだ。
あまり愛想の良くない店員がお盆の上にビールとグラスと僅かばかりのお新香を載せ、奥の厨房のひとと会話をやめずに運んできた。ぼくは、自分でビールを注ぎ、壁のうえのテレビを見た。地方の野球の予選だか、何かの試合が行われていた。ぼくは見るともなく見ていた。店内の客は数人居て、みな同じようなことをしていた。いや、同じように何もしていなかった。ただ、頭上のテレビを見たり、新聞の記事をビールを飲みながら読んでいた。テレビのなかでアナウンサーが声の調子をあげれば、記事から目を離しテレビを眺めていた。
みな同じ方向を向いて座っているので、入り口に近いぼくからは各自の背中だけが見えた。そのひとりが振り向いた。ぼくの顔を見たようにも思えたが、直ぐにまたその背中に戻った。しかし、気になるらしくもう一度振り向いた。
「近藤か? 近藤だろ?」
「はい」ぼくにはそれが誰だか見当がつかなかった。
「忘れたのかよ。大学でいっしょだった」彼は名前を名乗った。そして、学科も言った。ぼくは彼を知っているはずだった。しばらくすると、ぼくはその名前と印象をやっと思い出した。それで、共通する友人の名前を告げた。彼もその名前を聞くと、途端になつかしがった。
「でも、大学を途中で辞めて、東京に行ったと思ってましたけど」
「行った。でも、挫折して、親の家業を手伝った。それで、両親も死んで、いまは気楽に暮らしている」
その数語だけで彼の人生を表すことは不可能のようにも思えたが、またそれだけで充分事足りるようでもあった。それで身の回りのことに無関心なひとのような雰囲気も彼はあらわしていた。
「近藤は?」
「こっちの会社に入って、一時、東京にもいましたけど、またこっちに戻っています」
「結婚は?」
「してます」
「そうか、良かったな」そう言うと、彼は背中を向け、ぼくと会話した事実すらなかったように以前の状態にもどった。新聞を開き、たまにテレビを眺める。ぼくは一本のビールを開け、会計を済ませ外にでた。彼に挨拶すべきか迷ったが、トイレからなかなか出てこなかったので、そのままさっきの話で終わりになった。
ぼくは、それから用もなかったが誰か知った顔を見たく、いつものスポーツ・バーに向かった。そこまで歩きながら、電車を待ちながらも、ある人生を表すのに費やす必要のある言葉の量を考えていた。あの数語だけで彼の人生はすべて物語れるのだろうか。ならば、ぼくも同じだろうか。結婚という質問には、ぼくは二度という答えを準備していた。そこには義理の娘のことも話題にあげるべきだった。前妻の死というぼくにとっての大問題も彼にとってはもちろん関係のないことだった。恩を受けながらも返す機会のなかった社長のことも、ぼくにとってはいまだに心残りの事実だった。そう考えると、長い長い説明を要することになりそうな自分の人生が確かにあった。それはぼくにとって貴重でもあるが、また他人にとっては、どうでもいいことなのかもしれない。
「ひろしさん、今日は何にします? ちょっと、飲んでいるでしょう?」バーの店主はいつもの軽い口調でたずねた。
「ジン・トニックみたいなさっぱりしたものを」
「お、珍しい」と言って、彼は通る声で奥に注文を告げた。
「例えばさ、ぼくが死んで、そこに、通夜とか葬式に駆けつけてくれたとするじゃない?」
「急にどうしたんですか?」
「まあまあ。ぼくについて、それで、どんなことを思い出すと思う?」
「それは、サッカーを教えてくれた優しいお兄さんだったなとか、いつも、ぼくの店に娘と兄弟のように笑い合って、飲みに来てくれたなとか、女癖が良いんだか悪いんだか、それでも、なんだか素敵なひとと結婚したな、とかそんなことですかね」彼はいったん消え、グラスを持ってまたあらわれた。「真剣に人生を振り返ってみたくなりました?」
「そんなこともないよ。で、オレはどう君のことを思い出すだろうね?」
「思い出しませんよ」
「どうして?」
「だって、順番からいったら、ひろしさんのほうが先ですからね。ぼくは、泣いている広美ちゃんでも慰めています。きれいなハンカチをもって」彼はそれを握っているかのように手の平をひらひらさせ、笑って他のお客の注文を取りにいった。
順番からいったら裕紀はまだ死んでいなかった。島本さんもまだどこかで自分の道を歩んでいるはずだった。ゆり江も子どもの成長を暖かく見守る役目を全うするはずだった。ぼくは、やはり誰かを必要としていた。それでひとりでここに座っていることに窮屈さを感じ家に戻った。でも、たくさんの言葉を話したいけれども雪代はいなかった。その雪代のことについて、ぼくはどれくらいの量の言葉を使えば彼女を表現できるのだろう。美しさ、過ぎた年月の長さ。さっきの大学の友人は、誰の記憶を持ちつづけているのだろう。それは、ぼくに不安を与え、寂しさというものが忍び寄るのに抵抗する決意をくれた。
久々に雪代は店の品物の買い付けに行ったため留守にしていた。ぼくは、家で本当のひとりになった。この状態を望んでいたようにも思えたし、まったく逆にこれだけは望んでいなかった立場に思えた。ぼくは暇を持て余すように古くなった雑誌をめくり、必要のないものをビニールの紐でくくり、一階にあるゴミ捨て場に運んだ。その横の塀の上には猫が不自然な姿勢で寝ていた。ぼくも真似るように部屋に戻り、ソファに転がってテレビを見た。それも、いつの間にか寝てしまったようで気付いた時には、首のまわりがすこしだけ痛んだ。
夕方になり、ひげを剃りきれいなシャツに着替え、カギをしめて家を出た。普段、あまり行くことのない数駅離れた場所の駅で電車を降り、駅前のぱっとしない飲食店に入り、瓶のビールを頼んだ。
あまり愛想の良くない店員がお盆の上にビールとグラスと僅かばかりのお新香を載せ、奥の厨房のひとと会話をやめずに運んできた。ぼくは、自分でビールを注ぎ、壁のうえのテレビを見た。地方の野球の予選だか、何かの試合が行われていた。ぼくは見るともなく見ていた。店内の客は数人居て、みな同じようなことをしていた。いや、同じように何もしていなかった。ただ、頭上のテレビを見たり、新聞の記事をビールを飲みながら読んでいた。テレビのなかでアナウンサーが声の調子をあげれば、記事から目を離しテレビを眺めていた。
みな同じ方向を向いて座っているので、入り口に近いぼくからは各自の背中だけが見えた。そのひとりが振り向いた。ぼくの顔を見たようにも思えたが、直ぐにまたその背中に戻った。しかし、気になるらしくもう一度振り向いた。
「近藤か? 近藤だろ?」
「はい」ぼくにはそれが誰だか見当がつかなかった。
「忘れたのかよ。大学でいっしょだった」彼は名前を名乗った。そして、学科も言った。ぼくは彼を知っているはずだった。しばらくすると、ぼくはその名前と印象をやっと思い出した。それで、共通する友人の名前を告げた。彼もその名前を聞くと、途端になつかしがった。
「でも、大学を途中で辞めて、東京に行ったと思ってましたけど」
「行った。でも、挫折して、親の家業を手伝った。それで、両親も死んで、いまは気楽に暮らしている」
その数語だけで彼の人生を表すことは不可能のようにも思えたが、またそれだけで充分事足りるようでもあった。それで身の回りのことに無関心なひとのような雰囲気も彼はあらわしていた。
「近藤は?」
「こっちの会社に入って、一時、東京にもいましたけど、またこっちに戻っています」
「結婚は?」
「してます」
「そうか、良かったな」そう言うと、彼は背中を向け、ぼくと会話した事実すらなかったように以前の状態にもどった。新聞を開き、たまにテレビを眺める。ぼくは一本のビールを開け、会計を済ませ外にでた。彼に挨拶すべきか迷ったが、トイレからなかなか出てこなかったので、そのままさっきの話で終わりになった。
ぼくは、それから用もなかったが誰か知った顔を見たく、いつものスポーツ・バーに向かった。そこまで歩きながら、電車を待ちながらも、ある人生を表すのに費やす必要のある言葉の量を考えていた。あの数語だけで彼の人生はすべて物語れるのだろうか。ならば、ぼくも同じだろうか。結婚という質問には、ぼくは二度という答えを準備していた。そこには義理の娘のことも話題にあげるべきだった。前妻の死というぼくにとっての大問題も彼にとってはもちろん関係のないことだった。恩を受けながらも返す機会のなかった社長のことも、ぼくにとってはいまだに心残りの事実だった。そう考えると、長い長い説明を要することになりそうな自分の人生が確かにあった。それはぼくにとって貴重でもあるが、また他人にとっては、どうでもいいことなのかもしれない。
「ひろしさん、今日は何にします? ちょっと、飲んでいるでしょう?」バーの店主はいつもの軽い口調でたずねた。
「ジン・トニックみたいなさっぱりしたものを」
「お、珍しい」と言って、彼は通る声で奥に注文を告げた。
「例えばさ、ぼくが死んで、そこに、通夜とか葬式に駆けつけてくれたとするじゃない?」
「急にどうしたんですか?」
「まあまあ。ぼくについて、それで、どんなことを思い出すと思う?」
「それは、サッカーを教えてくれた優しいお兄さんだったなとか、いつも、ぼくの店に娘と兄弟のように笑い合って、飲みに来てくれたなとか、女癖が良いんだか悪いんだか、それでも、なんだか素敵なひとと結婚したな、とかそんなことですかね」彼はいったん消え、グラスを持ってまたあらわれた。「真剣に人生を振り返ってみたくなりました?」
「そんなこともないよ。で、オレはどう君のことを思い出すだろうね?」
「思い出しませんよ」
「どうして?」
「だって、順番からいったら、ひろしさんのほうが先ですからね。ぼくは、泣いている広美ちゃんでも慰めています。きれいなハンカチをもって」彼はそれを握っているかのように手の平をひらひらさせ、笑って他のお客の注文を取りにいった。
順番からいったら裕紀はまだ死んでいなかった。島本さんもまだどこかで自分の道を歩んでいるはずだった。ゆり江も子どもの成長を暖かく見守る役目を全うするはずだった。ぼくは、やはり誰かを必要としていた。それでひとりでここに座っていることに窮屈さを感じ家に戻った。でも、たくさんの言葉を話したいけれども雪代はいなかった。その雪代のことについて、ぼくはどれくらいの量の言葉を使えば彼女を表現できるのだろう。美しさ、過ぎた年月の長さ。さっきの大学の友人は、誰の記憶を持ちつづけているのだろう。それは、ぼくに不安を与え、寂しさというものが忍び寄るのに抵抗する決意をくれた。