爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(87)

2012年08月06日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(87)

「上田さんと智美さんに会って、いらなくなったカメラを貰った。それで撮った写真を送るね」と、広美が電話で言う。そもそも、そのふたりともぼくの若いころからの友人だった。幼馴染みとラグビー部の先輩。ぼくは、やはり女性がひとりで東京で生活することにうっすらとだが心配をしていたのだろう。それで、彼らに、遠巻きながら面倒を見てもらうことにした。彼らも結局、自分との子どもに縁がなく、ふたりで暮らしていた。

 何日か経ち、その写真が届く。期間が空いてもぼくらの友情はさびれることはなかったが、それと同じ理由で、年月のあいた分だけ、彼らの容貌の変化が目立った。多分、ぼくの写真や実物を見るようなことがあれば、向こうも同様に思うのだろう。

「瑠美ちゃんの写真もあるんだね」ぼくらは半分ずつ分けて雪代と見ていた。雪代の手にした方にその写真もあるらしかった。「この子は、広美と比べると大人の雰囲気が随分とあるのね」

 ぼくは自分の分を見終え、雪代の見ていた半分を交換して受け取った。広美の住んでいるアパートの周辺の景色もある。上田さんがいる。そして、瑠美という女性は、公園のようなところでしゃがんで猫を撫でていた。彼女は振り返り、背中越しにカメラを見つめていた。ぼくはその風景から、近辺を歩いていた裕紀との日々も思い出すことになった。

「彼らは、面倒見が良さそうでよかった」雪代が写真の束の2つを重ね合わせ、テーブルに置いた。「カメラも貰っちゃって」
「たくさん、あるからいいんだよ。そういう仕事をしているんだから」
「これで、たまに映像も見られることになった」
「また、来週にはぼくも東京に行くよ」
「会うのって、照れ臭い?」
「なんで?」
「わたし、何だか毎日会っていないと思うと、自分の娘でも気恥ずかしくなる」
「そういうものかね」
「何となくだけど」
「アルバムでも買って、きちんと保管しておこうか」

「そうだね、部屋も空いていることだし」ぼくの過去のある一時期の10年間ぐらいの写真は実家にあるはずだった。ぼくは、まだ一度もそれを開いていないことに気付く。生々しすぎた思い出もいつか風化し、枯れ切った葉っぱを踏みつけるような無頓着な気持ちで、それを再び開く機会がくるのかを、ぼくはそこで考えていた。ぼくは年を取り、ある女性は絶対にあのとき以上の年齢になることはなかった。それが喜ばしいことか悲しむべきことかは考えないようにした。

 ぼくは翌日に写真館に寄る。何かの記念日に撮ったであろうかしこまった写真が入り口の横のガラスのなかにも、店内にも飾られていた。そのお店で対応してくれたのは広美の友だちだった。

「こんにちは。これ、いくらかな?」ぼくは、ひとつのシンプルな装飾のアルバムを手にとって、訊いた。
「こんにちは」彼女は値段を言った。「わたしのこと、覚えてますか? 何度か、お宅にもお邪魔させてもらいました」
「もちろん、広美と楽しそうにしゃべってたから。ここ、君のうち?」
「両親が夕飯を食べているので、それで店番を頼まれてます。広美、元気ですか?」
「東京の写真を送ってきてね。それで、どこかできちんと保管したいなと思っていたから」
「そう、わたしも見たいな」しかし、それを見せる方法をぼくは直ぐには思いつかない。
「夏休みにでも、あの子が戻ってきたら、また遊びに来なよ」
「そうですね。連絡します」ぼくは、その代金を払った。「ありがとうございます」と彼女は言った。きちんと客商売に順応した表情をしていた。奥では彼女の両親が食事をしていると言っていたが、その様子はまったく感じられなかった。

 ぼくは店をでて、それが入った大きな袋をぶら提げて外を歩いた。五月の爽やかな陽気がぼくを自然に快活にした。どこまでも歩けそうだったが、直きに家に着いた。
「早速だけど、これ、買ってきた」ぼくはアルバムを見せる。「その店に、広美の友だちがいたよ」
「ああ、あそこ」雪代はその子の名前を言った。「わたしの店のそばの洋食屋さんでもバイトをはじめたのよ。わたしがお昼に行ったら、愛想良く笑ってくれた」
「ひとと接するのが苦じゃないんだ」
「うちに来ても、いつも賑やかだったから」
「でも、あと何年もしたら分からなくなるね。大人になれば」

 雪代は写真の入れる順番を決めるようにテーブルの上に広げていた。その様子を見ながら、ぼくは雪代が東京にいて彼女が載っている雑誌をこちらで眺めていた自分を思い出していた。その誇らしい気持ちと、自分の愛すべきひとが遠くに行くような不安感もあった。誰かがその一瞬を記録して保存する。だが、たくさんの保存されなかった顔や仕種や感情が山ほど各自の人間にはあるのだ。それを全部覚えてしまうほど人間には時間も視線も許されておらず、その一部を、切取られた一片を懐かしむしか方法がないのだ、という少しあきらめの気持ちがぼくにはあった。でも、その一部ですら美しいのだ。順番はなんとなく決まり、それは薄いビニールのなかにしまわれた。彼女は、これからも写真を送ってくるのだろうか。そのまだ空いている部分には、どんな表情が待っているのだろうか。ぼくは、その空白の重みにも似たものを感じ、新しいものが生まれるという単純な喜びを経験していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする