爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(104)

2012年08月23日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(104)

 ぼくの甥と瑠美という女性は結局、会わなかった。ぼくは彼らを結び合わせる必然性をもっていないが、関心はあった。関心はあっても、具体的なことはほどこさなかった。興味はありながらも、それに対しての打つ手はなにひとつしなかった。ぼくは、言葉に惑わされている。

 ある女性は、ぼくの妻の死をあらかじめ知っていた。口には出さなかったが、それを予見していた。ぼくは彼女を失った後に田舎に戻り、ある少女と交友関係ができるとも言った。親しくなったその少女は、雪代の娘として目の前にあらわれた。漠然とした言葉の数々がぼくの足取りの前に置かれていた。しかし、もうそのひとと会うことはないだろう。東京の支社に行っても、彼女はもういなかった。そのそばのマンションから、どこかに引っ越していた。ぼくが、そのひとを必要としなくなったということをそれは意味していたのだろうか。ならば、ぼくは、最初から必要ともしていない。ただ、彼女が散歩をさせていた犬が可愛かったので話すようになっただけだ。

 そのひとが、最後にぼくの甥と瑠美という女性がいずれ結婚するのだ、と残して去った。最後の置手紙のようにそれはぼくの胸にしまわれていた。どこかで会い、互いに好意をもたなければならない。そのことが今回は先延ばしにされた。いや、ただぼくが知らないだけなのだろうか。

 また、東京に出張がある。ぼくは広美にも瑠美にも会った。だが、自然と夜は都会の片隅にひとりで埋没することを今回は望んだ。ぼくが裕紀と結婚していた当時によく行った店をのぞこうと思っていた。なぜ、今頃になってそのような気持ちになったのだろう。多分、遠くで美緒という少女が関係しているのだ。それは無意識の領域というより、はっきりと主張をつづけていた。それを自分は敢えて無視するような形をとった。無視してもかくれんぼの下手な子どものようにその姿は明らかだった。

 ぼくが店に入ると、なかの店員は見覚えのあるひとだ、という表情を作った。だが、それを思い出せないという様子もしていた。ぼくは名乗ることもせず、奥の椅子にすわった。最初に出たひとの奥さんである店の別のひとが注文を訊きに来た際に、ぼくの身元はばれる。

「お久し振りですね? お仕事で?」ここにもうぼくが住んでいないことも認識しているようだ。
「ええ、仕事です。月に一度、東京に出て来ます」それからぼくは食べたい料理の名を伝え、彼女は小さな紙にペンで記し、奥に消える。そのまま10分近くぼくはなにもしないで、空想のとりこになる。本ももっていなかった。新聞も手元にない。その店はテレビも置いていない。静かにどちらの趣味か分からないながらシャンソンのような音楽が流れているだけだった。

 ぼくはひとりでいる。帰る家も近所にはなく、いまはやぼったいビジネス・ホテルがあるのみだ。これがぼくの連れて来られた場所だった。

 ぼくの前には架空の裕紀がいる。来年は、あれとあれをしよう、と彼女は言うはずだった。ぼくは休暇の申請をして、その予定を生み出す。実現化させるように、小さな障害を取り除く。だが、もちろん彼女にはもう要求がない。要求こそが生きている証なのだろうと思う。ぼくの食欲のように。
「グラタンです。以前もよく召し上がられた・・・」
「覚えてますか?」
「もちろんです。奥さんも好きだった」

 彼女の思い出をもっているひとがまだいた。美緒という女性は裕紀の思い出を集めたいと言っていた。その思いは些細な収穫しか得ないのだ。まるで砂金や砂鉄ぐらいの分量しか。その言葉だけでは重要な意味をなさない。グラタンが好き、ということに一体、どれほどの個性が詰まっているのだろう。それは虚しいものだった。ぼくらがそのときに交わした会話や、いくつかの表情や、触れてしまった指の感触や温かみが伴わなければ、それは何の意味もなさないのだろう。解釈を付け加えることもできない。その虚しさを追うために、ぼくはきょうここで座っていたのだろうか。

「これなんですけど・・・」店のひとがなにかをもってきた。「探したら、ありました。奥さんがお仕事の関係の方とお見えになって、外国の絵本を翻訳したとかで、ひとつうちの子にくれました。それが、まだ残っていました」
 ぼくはそれを受け取る。だが、何も覚えていなかった。
「ぜんぜん、知らないけど」その本の間に裕紀の筆跡で、その子どものものであろう名前と幼稚園に入園しておめでとうという文字が書かれたメモが挟まれていた。ぼくは痕跡を追い求めるのだ。
「大切にして読んでたんですけど、いまは、すっかり大人になって」
「そうなんだ。これ、まだ、どこかで売っているのかな・・・」
「さあ、どうなんでしょう。でも、奥さんの名前は載っていないみたいですね」

 それがどういう経緯のためなのかぼくは知らない。そもそも、そういう仕事をしていたことも知らなかった。ぼくは言葉の無意味さをなげいたが、いっしょに暮らしていても、目の前にいたはずなのに何も知らなかったことをまた気付かされた。それで、食後のコーヒーを飲み終え、ホテルに帰るのにもためらい、ぼくはその絵本をパラパラとめくる。裕紀が生み出した文字。それは裕紀の声がきこえてきそうな表現だった。ぼくはその題をメモにとり、もし売っていれば美緒にプレゼントしたいと思った。それぐらいが、彼女にできる最善のことで、それ以上の深入りをぼくはしないよう自分の気持ちに柵を作った。
コメント
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