壊れゆくブレイン(111)
ぼくは夢を見ていたのだろうか。
その世界はぼくの願望のあらわれでもあるのか、自分への挑戦でもあるのか、また最終確認でもあるのか、あらゆることが反対に起こっていた。それだからこそ、反対側から見ればいくつかのことは起こらないままでいた。
ぼくはラグビーをいまだにしていた。地方大会の最後の試合の前にぼくは指を骨折した。しかし、骨折と思っていたのは間違いで単なる打撲であった。翌朝には痛みもひき、皮膚のなかがいくらか青くなっているだけになった。ぼくは数日後にあった決勝でも何度かトライし、足先でも軽やかに楕円のボールを蹴って点数を入れる原動力になった。
ぼくは裕紀と喜びを分かち合い、その後はふたりだけで夜を過ごした。彼女の10代後半の身体はしなやかで、皮膚もなめらかであった。そして、全国大会に自分はいた。地響きのような歓声をききグラウンドに立つ。いつの間にかそれは両耳から消え、集中したぼくは縦横に走り回り、大活躍をする。新聞にぼくの名前が載り、数試合で負けたが、ぼくを出迎えてくれた地元のひとびとはぼくをスター扱いにした。そのなかに裕紀もいた。
雪代は大学を途中でやめ、東京でモデルの仕事に専念した。こちらに帰ってくることもなく、ぼくは彼女の存在を忘れる。10代の半ばに憧れていたただの女性として、ぼくは引き出しの奥に彼女を押し込め、そのまま時間が経つ。ぼくは地元の大学に行く。裕紀もそう遠くない場所にいる。ぼくらは同じ青春を共有している。だが、彼女はどうしても留学するということで、ここを離れる。ぼくらは、そのことでつまらない喧嘩をする。ぼくはその腹いせのように東京の会社に就職していた。
ぼくはそこで雪代とめぐり合う。もうぼくは彼女に対して憧れを感じ過ぎることはなくなっていた。地元の話で盛り上がり、ぼくらはお互い交際相手との縁が切れた瞬間なので付き合うことになった。それからその架空の物語はとんとん拍子にすすみ、結婚することになった。
ぼくらはついに幸せを手に入れる。子どもはできなかったが東京での暮らしに満足する。たまに帰省して田舎で正月を迎える。ぼくを奪ったというレッテルを貼られていない雪代は誰からも愛される。その反面、裕紀は自分の我を通しすぎたということで、ぼくの友人からは疎んじられていた。彼女も留学先で知り合った男性と結婚していた。ぼくは彼女を思い出すこともしない。それで、離婚したといううわさを聞きつけてもぼくのこころは動揺することもなかった。
ある日、幸せの崩壊がやって来る。雪代は大病を患う。ぼくは、その精神も身体もすべてこの地上に残ってほしいと願っていた。だが、ぼくの思いは軽やかにねじ伏せられ、雪代はこの世での歩みを止める。ぼくは、そこから立ち直ることができない。何人もの女性を代理としてつかう。ぼくはその身体に雪代自身を見つけ出そうとするも、その思いは虚しく消えるということを知っていた。だが、それでも中断することができない。仕事も棒に振り、成績もあがらない。
ある日、社長に呼びつけられ叱咤されて、いい加減うんざりしてそこを辞める。地元に戻り、新たな職を見つける。やはり、甥や姪と遊ぶ週末があるのだ。幼馴染みと友人でもあった裕紀とそこで再会する。ぼくは彼女の過去の選択に難癖をつけ、彼女の謝罪を求める。ただ、恨みでぼくはできあがっているのだ。それを無条件に受け入れる裕紀とぼくは交際をして、それから、再婚をしていた。
ぼくは裕紀が留学から戻ってくることをただ待っていれば良かったのだという単純な解決をそこであらためて知った。ぼくが今度は謝り、裕紀もそれを簡単に許す。
ぼくは裕紀の家族と正月や長期休暇を過ごし、避暑にも彼女の家族と出掛ける。そこに裕紀の姪がいる。名前は、美緒と言った。裕紀とそっくりで彼女に大変なついていた。ふたりは、芝生のうえで同じような大きな帽子を被り、なにか大切な話をしているようだった。みどりの葉っぱを通り過ぎる柔らかい日差しが彼女らをスポットライトのように照らしていた。
「美緒ちゃん、大人になったら何になるの?」と、ぼくは質問をする。
「裕紀ちゃんみたいに英語をしゃべって、通訳になるの。それで外国から来た映画にでるきれいな女のひとたちと仲良しになるんだ。いいでしょう?」
「おじさんも友だちの一員にしてくれる?」
「どうしようかな。ずっと、わたしと裕紀ちゃんに優しくしてくれたら、考えてもいいよ」
ぼくは裕紀といっしょに前の妻の墓の前に立つ。ぼくはあるときから悲しみの中枢を断ち切った。もう、そんな努力をしたことなども忘れてしまっていた。ただ、儀式のように、感情もなくそこに立っているだけだった。一年に一度しか思い出さない女性として、雪代は墓のなかに横たわっているのだ。
ぼくはラグビーのOBたちとたまに会った。その日は珍しく島本さんも参加して、ぼくは彼と酔っ払いながら青春を語り合う。意気投合をして、彼の家に無理やり連れて行かれて、そこに泊まった。翌朝、見知らぬ場所で起きた自分にうんざりしながらも奥さんは朝ごはんを作ってくれていた。これから、登校する娘は広美と言った。彼女はぼくに照れながら会釈して、セーラー服が似合う後ろ姿の残像を残し、玄関から消えた。
「お前も娘をつくれよ。生意気になるけど、可愛いもんだぞ」と、島本さんはぼくに語りかける。ぼくは味噌汁の旨さを味わいながら、ただ奥さんの手前、恐縮してうなずいた。
ぼくは、そこで目を覚ます。雪代がドアを開けて、ベッドのなかのぼくをのぞき込んでいた。
「起きないと、遅刻するよ。なんか、大事な仕事があるとか言ってなかったっけ?」
「うん、あるよ」ぼくは、目をこする。「全部、大事だよ。ぼくにとって」
雪代は首を傾げる。手にはお玉のようなものが握られていた。ぼくの指は毛布をしっかりと握っていた。なにも離さないと決意した意志がそれ自体にあるように。
ぼくは夢を見ていたのだろうか。
その世界はぼくの願望のあらわれでもあるのか、自分への挑戦でもあるのか、また最終確認でもあるのか、あらゆることが反対に起こっていた。それだからこそ、反対側から見ればいくつかのことは起こらないままでいた。
ぼくはラグビーをいまだにしていた。地方大会の最後の試合の前にぼくは指を骨折した。しかし、骨折と思っていたのは間違いで単なる打撲であった。翌朝には痛みもひき、皮膚のなかがいくらか青くなっているだけになった。ぼくは数日後にあった決勝でも何度かトライし、足先でも軽やかに楕円のボールを蹴って点数を入れる原動力になった。
ぼくは裕紀と喜びを分かち合い、その後はふたりだけで夜を過ごした。彼女の10代後半の身体はしなやかで、皮膚もなめらかであった。そして、全国大会に自分はいた。地響きのような歓声をききグラウンドに立つ。いつの間にかそれは両耳から消え、集中したぼくは縦横に走り回り、大活躍をする。新聞にぼくの名前が載り、数試合で負けたが、ぼくを出迎えてくれた地元のひとびとはぼくをスター扱いにした。そのなかに裕紀もいた。
雪代は大学を途中でやめ、東京でモデルの仕事に専念した。こちらに帰ってくることもなく、ぼくは彼女の存在を忘れる。10代の半ばに憧れていたただの女性として、ぼくは引き出しの奥に彼女を押し込め、そのまま時間が経つ。ぼくは地元の大学に行く。裕紀もそう遠くない場所にいる。ぼくらは同じ青春を共有している。だが、彼女はどうしても留学するということで、ここを離れる。ぼくらは、そのことでつまらない喧嘩をする。ぼくはその腹いせのように東京の会社に就職していた。
ぼくはそこで雪代とめぐり合う。もうぼくは彼女に対して憧れを感じ過ぎることはなくなっていた。地元の話で盛り上がり、ぼくらはお互い交際相手との縁が切れた瞬間なので付き合うことになった。それからその架空の物語はとんとん拍子にすすみ、結婚することになった。
ぼくらはついに幸せを手に入れる。子どもはできなかったが東京での暮らしに満足する。たまに帰省して田舎で正月を迎える。ぼくを奪ったというレッテルを貼られていない雪代は誰からも愛される。その反面、裕紀は自分の我を通しすぎたということで、ぼくの友人からは疎んじられていた。彼女も留学先で知り合った男性と結婚していた。ぼくは彼女を思い出すこともしない。それで、離婚したといううわさを聞きつけてもぼくのこころは動揺することもなかった。
ある日、幸せの崩壊がやって来る。雪代は大病を患う。ぼくは、その精神も身体もすべてこの地上に残ってほしいと願っていた。だが、ぼくの思いは軽やかにねじ伏せられ、雪代はこの世での歩みを止める。ぼくは、そこから立ち直ることができない。何人もの女性を代理としてつかう。ぼくはその身体に雪代自身を見つけ出そうとするも、その思いは虚しく消えるということを知っていた。だが、それでも中断することができない。仕事も棒に振り、成績もあがらない。
ある日、社長に呼びつけられ叱咤されて、いい加減うんざりしてそこを辞める。地元に戻り、新たな職を見つける。やはり、甥や姪と遊ぶ週末があるのだ。幼馴染みと友人でもあった裕紀とそこで再会する。ぼくは彼女の過去の選択に難癖をつけ、彼女の謝罪を求める。ただ、恨みでぼくはできあがっているのだ。それを無条件に受け入れる裕紀とぼくは交際をして、それから、再婚をしていた。
ぼくは裕紀が留学から戻ってくることをただ待っていれば良かったのだという単純な解決をそこであらためて知った。ぼくが今度は謝り、裕紀もそれを簡単に許す。
ぼくは裕紀の家族と正月や長期休暇を過ごし、避暑にも彼女の家族と出掛ける。そこに裕紀の姪がいる。名前は、美緒と言った。裕紀とそっくりで彼女に大変なついていた。ふたりは、芝生のうえで同じような大きな帽子を被り、なにか大切な話をしているようだった。みどりの葉っぱを通り過ぎる柔らかい日差しが彼女らをスポットライトのように照らしていた。
「美緒ちゃん、大人になったら何になるの?」と、ぼくは質問をする。
「裕紀ちゃんみたいに英語をしゃべって、通訳になるの。それで外国から来た映画にでるきれいな女のひとたちと仲良しになるんだ。いいでしょう?」
「おじさんも友だちの一員にしてくれる?」
「どうしようかな。ずっと、わたしと裕紀ちゃんに優しくしてくれたら、考えてもいいよ」
ぼくは裕紀といっしょに前の妻の墓の前に立つ。ぼくはあるときから悲しみの中枢を断ち切った。もう、そんな努力をしたことなども忘れてしまっていた。ただ、儀式のように、感情もなくそこに立っているだけだった。一年に一度しか思い出さない女性として、雪代は墓のなかに横たわっているのだ。
ぼくはラグビーのOBたちとたまに会った。その日は珍しく島本さんも参加して、ぼくは彼と酔っ払いながら青春を語り合う。意気投合をして、彼の家に無理やり連れて行かれて、そこに泊まった。翌朝、見知らぬ場所で起きた自分にうんざりしながらも奥さんは朝ごはんを作ってくれていた。これから、登校する娘は広美と言った。彼女はぼくに照れながら会釈して、セーラー服が似合う後ろ姿の残像を残し、玄関から消えた。
「お前も娘をつくれよ。生意気になるけど、可愛いもんだぞ」と、島本さんはぼくに語りかける。ぼくは味噌汁の旨さを味わいながら、ただ奥さんの手前、恐縮してうなずいた。
ぼくは、そこで目を覚ます。雪代がドアを開けて、ベッドのなかのぼくをのぞき込んでいた。
「起きないと、遅刻するよ。なんか、大事な仕事があるとか言ってなかったっけ?」
「うん、あるよ」ぼくは、目をこする。「全部、大事だよ。ぼくにとって」
雪代は首を傾げる。手にはお玉のようなものが握られていた。ぼくの指は毛布をしっかりと握っていた。なにも離さないと決意した意志がそれ自体にあるように。