爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(99)

2012年08月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(99)

「きょう、本当に驚いた。突然、店に誰が来たと思う?」
 雪代は自分の荷物を肩からおろすのも忘れたように、ぼくにたずねる。
「分かんないよ。さっぱり、見当もつかない」ヒントもなければその唐突な質問には答えることができなかった。
「教えないよ」
「なんだよ」
「あの子にそっくりだった。むかしのことを許さない、そんなことを言われるのかと少しドキドキした」
「あの子?」
「ひろし君のまえの奥さん。あの子」
「似ているひとがいるんだ」
「あの子にお兄さんがいたんでしょう? そのひとの娘だと言ってたよ」

 ぼくは思い出す。裕紀の叔母が一度、写真を見せてくれたはずだ。ぼくはすっかりそのことを忘れていた。いや、町で一度似ている少女を見かけたこともあったはずだ。だが、それはぼくの幻想と判断しても大して問題はないとも考えていたのだ。
「それで、ただ服を買いに来たの?」
「違う。用があるみたいだった、ひろし君に」
「ぼくに? その子も恨んでるのかな」
「作文だかに、あの子の思い出を書いたみたい。それで参考にひろし君にも会いたいみたいだったよ」
「恨んでるのかな?」

「2回も言ったよ。そんな風には見えなかった。ルーツ探しでもするんでしょう。多感なころだから」
「彼女のルーツでもないし、先祖でもない」
「自分の親類のことを知りたくなる年頃なんじゃない。携帯番号をもう教えちゃったよ」
「誰の?」
「誰のって、ひろし君のに決まっているじゃない」
「ぼくの? 軽率じゃない」
「大丈夫だよ。刺される訳じゃないんだから」雪代はそこで安心させるかのように笑った。「でも、びっくりするよ。ほんとにそっくりなんだから。中学生なんだからね、好きになっちゃ駄目だよ」そして、また笑った。

 ぼくは不安にかられる。だが、反対に興味も湧いていた。わざわざ、雪代の店まで行き、あとで聞くと、それしかぼくにつながる方法がないらしかったのだが、両親も頼らずに、ぼくの現在の動向を手繰り寄せる。それで、雪代の店が見つかる。再婚相手として雪代が表れる。そこは少女の無鉄砲のような気持ちで、勇気をだして行ってみたのだろう。だが、今更ぼくはなにかをむしかえされることが単純に恐かった。自分では裕紀のことを考えつづけていたにせよだ。しかし、その日にぼくの携帯電話は知らない番号からの着信を告げなかった。

 次の日も電話はなかった。ぼくの方は彼女の連絡先を知らない。それに、ぼく側から何かを問いただすという必要も感じていなかった。その子が会いたいと言ってきたのだ。だが、若い女性の心変わりなどよくあることだった。雪代をただ驚かせて終わる。それでも、充分ぼくの興味を惹いたので、終わりでも良かった。

 それから一週間ばかり経ち、次第にそのことを忘れる。ぼくは毎日、普通に働き頭を占有することはたくさんあった。雪代もあれ以降、何も訊かなかった。電話があったのか訊くこともなく、また店にあらわれたということも告げなかった。
 だが、ある日、ぼくの電話がなる。知らない番号。ぼくは躊躇しながらも出る。

 ある女性のか細い声が聞こえ、自分の名を名乗った。そして、「奥さんのお店に突然行ってしまって、すいませんでした」と、その事実を詫びた。それしか、たどる方法はなく、また直接に会うより、誰かを経由したほうが良いとも思ったので、と付け足した。

「うん、分かったけど、何か用件があるんだよね?」
「はい。この前、家の倉庫を掃除していたら、手紙の束が見つかりました」
「誰のですか?」
「全部、裕紀さんから出されていました」
「君にかな?」
「いえ、わたしの父に」
「お兄さん」
「はい」
「それにぼくが関係あったりするのかな? すると」
「それを会って話してほしいと思っているんです」彼女の口振りからすると、ぼくが断ることも念頭にあるようだった。怒られ、過去のことは忘れたと拒絶される心配も含んでいるようだった。

「ぼくにも見せる?」
「はい」
「持ち出して、怒られない?」
「そこに、置きっ放しになっているぐらいだから、父ももう忘れていると思います」
「君のお父さんと、つまり、裕紀のお兄さんとぼくとは、あまり、何というか、親しい関係はないもんだからね。それに、君も関わることもないと思うけど」
「迷惑ですか?」
「そんなことはない。君の興味もあるかもしれないけど、ぼくにも興味があるからね。裕紀が何か残す必要があったのだとしたら、いまでも理解してあげたいと思っている」
「ありがとうございます。それでは」

 ぼくらは約束の時間を決める。日曜の午後。ぼくははじめて裕紀とデートした日を思い出した。その年代に近い姪が、ぼくと隔絶した世界に存在していたのだ。ぼくと彼女の父はずっと疎遠な関係を築いていた。それが決壊することはないと思っていたし、一度、和解するような機会があったが、お互いが歩み寄ることをしなかった。どちらにしろ、その関係を望んでいた裕紀はもういなかったのだ。彼女が喜ばないのであれば、ぼくと彼らとの関係が親しくなることなど、無意味だったのだ。
「あの子から連絡が会ったよ」
「会うの?」雪代が目を上げてたずねた。
「そういうことになった」
「防弾チョッキでも着ていった方がいいんじゃない。いや、許されないのはわたしの方か」雪代はあくまでもその話題をお茶らけた内容にしたいようだった。