夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(25)
「由美ちゃん、スカートのお尻の部分が真っ黒だよ。ママに怒られない?」いつものファミリー・レストランに入ると、児玉さんが娘に声をかける。
「すべり台、さっき、してたから。でも、いいの。パパが新しい洗濯機を買ってくれるから」
ぼくは、飲みかけのビールを吹き出しそうになる。
「ほんとうですか? 川島先生、お金持ち」
「違うよ。この前、食器洗浄機を買ったばかりだから。そんな余裕はまったくない」ぼくは鼻のしたの泡をぬぐう。「由美、なにかを買うときは、その前に労働という貴いことをして、ある程度のお金をためて、それからお買い物するんだよ」ぼくは噛んでふくめるように由美をさとす。
「でも、何回かに分けて払う仕方もあるって、ママが言ってた」
「よくない考えだね。由美もいつか大きくなったら、きちんと毎日、働くことになるんだよ」
「学校に行かないの?」
「学校を卒業してから」
しかし、それはずっと先の話だ。娘が大きくなるまでに途方もない費用がかかる。スカートは小さくなり、新たなものが必要になる。学費もそれなりにかかる。そのようなことを考えながら、ある夕方、なにもかも忘れるようにビールを飲んでいる。ぼくは、それでも新たな物語にせっつかれている。登場人物は、自分たちの行動が書かれるのをじっと待っている。撹拌する洗濯機の中味のようにもつれあいながら。
「大学を卒業したら、どうするの?」マーガレットは、未来を漠然と思いながらケンに訊く。
「地元にもどって、就職口を探すよ。それとも、もっと全然誰も知らないところに行って働いてみるのもいいかもね。それで?」
「わたしは母がいるからな」
「なにか決まっているの?」
「父の知り合いが弁護士事務所をしていて、そこのお手伝いとか」まだ均等に女性が男性と肩を並べて働くという時代でもなかった。しかし、そういうものが徐々に古びた考えになるということも予感させる時代でもあった。変化に対応することは容易ではなく、逆に、そんなに難しいことが要求されているわけでもない。
家事に便利な品物が作られ、それによってみなが楽になるのかと思いきや、ひとはまだもっと忙しい環境に身を置いた。その忙しく振舞う日々で大切なものも置き去りにされていく。
「ここは、勉強するためだけの土地だから、快適でもいつか抜け出ないといけない」
ケンの気持ちも変わる。ここに入って、それこそたくさんのものを学ぼうとした思いはこなれていき、一年が過ぎ、二年目も通り越し、段々と終わりが見えるようになる。そこに焦りと満足があり、その間を揺れ動く。じっとしないところ、一定の場所に足場を見出せないところが人間の美点でもあり、欠点でもあるものだとケンは実感していた。その通り過ぎてしまう時間のなかで、何かを必死に捉まえるという作業も求められていた。ケンはマーガレットを失いたくはなかった。だが、流れ行く時間のほうが大きく、そこにのまれてしまうのも小さな人間には相応しいとも思った。
「パパ、帰ろうか?」
「うん。その前にジョンの餌を買わないと」
「先生、お帰りですか?」児玉さんが客との応対をしながら、ぼくらを見送った。
「洗濯機のために、お金を稼がないと。物語を必要としているひとなんて、そんなに見当たらないけどね」
「それでも、貴いことですから。では、また。由美ちゃんもバイバイ」
「パパ、貴いって、なんのこと?」ぼくらは店から出て階段を降りている。
「貴重なこと。価値のあるもの」
「価値って?」
「ものの値打ち。ダイヤモンドみたいなものかな。小さくても、高価で貴重なもの」
「パパのお仕事が?」
「違うよ。何かをはじめたことを、あきらめないで、それに向かってすすむ態度が貴重。その結果は二の次」うん? そうなのか? そう思いながらもぼくの手には犬の餌分だけの荷物が増え、汗をかきながら傾かない陽のなかを伸びるふたつの大小の影に向かって歩いた。
「汚れたんで、シャワーを浴びちゃおうか?」
ぼくらは熱い湯で身体も頭も洗う。その後、脱いだ衣服や由美のスカートも洗濯機に放り込み、洗剤をいれて回転させた。ぼくは夕方も終わるころにそれをベランダに干している。乾いたほうを由美は小さな手で畳んでいた。
「これが、証拠隠滅。スカートもきれいになったし。由美も勉強しておいで。パパも、もう少しお仕事するから」
マーガレットにはもっと安定した場所があるのかもしれない。それは就職というものではなく、結婚という立場に身を置くことなのだろう。ケンは勉強を終え、疲れた目でぼんやりと窓外を見ながら、そう思っていた。自分が安定した地位につけるには数年先のことなのだろう。その数年で人生は決まってしまう危うさもあった。
「パパが由美のスカートを洗ってくれて証拠隠滅してくれた」妻が玄関に入ると、由美がそう言って迎えていた。「ママ、雨降ってるの?」
「そうよ、由美の嫌いな雷も遠くで鳴っている」彼女の髪は濡れていた。ぼくは急いでベランダに行くと、そこには濡れた衣類が吊るされていた。「パパたちは、この音、気付かなかったのかしら?」
「パパのお仕事はダイヤモンドぐらいに貴重だから」と、由美は覚えたての言葉を使う。
「そうなんだ。あまりにも小さくて、パパの貴重さにうっかりして気付かなかった」と妻は自分の肩のあたりをタオルで拭き、満足そうにそう言った。
「由美ちゃん、スカートのお尻の部分が真っ黒だよ。ママに怒られない?」いつものファミリー・レストランに入ると、児玉さんが娘に声をかける。
「すべり台、さっき、してたから。でも、いいの。パパが新しい洗濯機を買ってくれるから」
ぼくは、飲みかけのビールを吹き出しそうになる。
「ほんとうですか? 川島先生、お金持ち」
「違うよ。この前、食器洗浄機を買ったばかりだから。そんな余裕はまったくない」ぼくは鼻のしたの泡をぬぐう。「由美、なにかを買うときは、その前に労働という貴いことをして、ある程度のお金をためて、それからお買い物するんだよ」ぼくは噛んでふくめるように由美をさとす。
「でも、何回かに分けて払う仕方もあるって、ママが言ってた」
「よくない考えだね。由美もいつか大きくなったら、きちんと毎日、働くことになるんだよ」
「学校に行かないの?」
「学校を卒業してから」
しかし、それはずっと先の話だ。娘が大きくなるまでに途方もない費用がかかる。スカートは小さくなり、新たなものが必要になる。学費もそれなりにかかる。そのようなことを考えながら、ある夕方、なにもかも忘れるようにビールを飲んでいる。ぼくは、それでも新たな物語にせっつかれている。登場人物は、自分たちの行動が書かれるのをじっと待っている。撹拌する洗濯機の中味のようにもつれあいながら。
「大学を卒業したら、どうするの?」マーガレットは、未来を漠然と思いながらケンに訊く。
「地元にもどって、就職口を探すよ。それとも、もっと全然誰も知らないところに行って働いてみるのもいいかもね。それで?」
「わたしは母がいるからな」
「なにか決まっているの?」
「父の知り合いが弁護士事務所をしていて、そこのお手伝いとか」まだ均等に女性が男性と肩を並べて働くという時代でもなかった。しかし、そういうものが徐々に古びた考えになるということも予感させる時代でもあった。変化に対応することは容易ではなく、逆に、そんなに難しいことが要求されているわけでもない。
家事に便利な品物が作られ、それによってみなが楽になるのかと思いきや、ひとはまだもっと忙しい環境に身を置いた。その忙しく振舞う日々で大切なものも置き去りにされていく。
「ここは、勉強するためだけの土地だから、快適でもいつか抜け出ないといけない」
ケンの気持ちも変わる。ここに入って、それこそたくさんのものを学ぼうとした思いはこなれていき、一年が過ぎ、二年目も通り越し、段々と終わりが見えるようになる。そこに焦りと満足があり、その間を揺れ動く。じっとしないところ、一定の場所に足場を見出せないところが人間の美点でもあり、欠点でもあるものだとケンは実感していた。その通り過ぎてしまう時間のなかで、何かを必死に捉まえるという作業も求められていた。ケンはマーガレットを失いたくはなかった。だが、流れ行く時間のほうが大きく、そこにのまれてしまうのも小さな人間には相応しいとも思った。
「パパ、帰ろうか?」
「うん。その前にジョンの餌を買わないと」
「先生、お帰りですか?」児玉さんが客との応対をしながら、ぼくらを見送った。
「洗濯機のために、お金を稼がないと。物語を必要としているひとなんて、そんなに見当たらないけどね」
「それでも、貴いことですから。では、また。由美ちゃんもバイバイ」
「パパ、貴いって、なんのこと?」ぼくらは店から出て階段を降りている。
「貴重なこと。価値のあるもの」
「価値って?」
「ものの値打ち。ダイヤモンドみたいなものかな。小さくても、高価で貴重なもの」
「パパのお仕事が?」
「違うよ。何かをはじめたことを、あきらめないで、それに向かってすすむ態度が貴重。その結果は二の次」うん? そうなのか? そう思いながらもぼくの手には犬の餌分だけの荷物が増え、汗をかきながら傾かない陽のなかを伸びるふたつの大小の影に向かって歩いた。
「汚れたんで、シャワーを浴びちゃおうか?」
ぼくらは熱い湯で身体も頭も洗う。その後、脱いだ衣服や由美のスカートも洗濯機に放り込み、洗剤をいれて回転させた。ぼくは夕方も終わるころにそれをベランダに干している。乾いたほうを由美は小さな手で畳んでいた。
「これが、証拠隠滅。スカートもきれいになったし。由美も勉強しておいで。パパも、もう少しお仕事するから」
マーガレットにはもっと安定した場所があるのかもしれない。それは就職というものではなく、結婚という立場に身を置くことなのだろう。ケンは勉強を終え、疲れた目でぼんやりと窓外を見ながら、そう思っていた。自分が安定した地位につけるには数年先のことなのだろう。その数年で人生は決まってしまう危うさもあった。
「パパが由美のスカートを洗ってくれて証拠隠滅してくれた」妻が玄関に入ると、由美がそう言って迎えていた。「ママ、雨降ってるの?」
「そうよ、由美の嫌いな雷も遠くで鳴っている」彼女の髪は濡れていた。ぼくは急いでベランダに行くと、そこには濡れた衣類が吊るされていた。「パパたちは、この音、気付かなかったのかしら?」
「パパのお仕事はダイヤモンドぐらいに貴重だから」と、由美は覚えたての言葉を使う。
「そうなんだ。あまりにも小さくて、パパの貴重さにうっかりして気付かなかった」と妻は自分の肩のあたりをタオルで拭き、満足そうにそう言った。