爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(25)

2012年08月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(25)

「由美ちゃん、スカートのお尻の部分が真っ黒だよ。ママに怒られない?」いつものファミリー・レストランに入ると、児玉さんが娘に声をかける。
「すべり台、さっき、してたから。でも、いいの。パパが新しい洗濯機を買ってくれるから」
 ぼくは、飲みかけのビールを吹き出しそうになる。
「ほんとうですか? 川島先生、お金持ち」

「違うよ。この前、食器洗浄機を買ったばかりだから。そんな余裕はまったくない」ぼくは鼻のしたの泡をぬぐう。「由美、なにかを買うときは、その前に労働という貴いことをして、ある程度のお金をためて、それからお買い物するんだよ」ぼくは噛んでふくめるように由美をさとす。
「でも、何回かに分けて払う仕方もあるって、ママが言ってた」
「よくない考えだね。由美もいつか大きくなったら、きちんと毎日、働くことになるんだよ」
「学校に行かないの?」
「学校を卒業してから」

 しかし、それはずっと先の話だ。娘が大きくなるまでに途方もない費用がかかる。スカートは小さくなり、新たなものが必要になる。学費もそれなりにかかる。そのようなことを考えながら、ある夕方、なにもかも忘れるようにビールを飲んでいる。ぼくは、それでも新たな物語にせっつかれている。登場人物は、自分たちの行動が書かれるのをじっと待っている。撹拌する洗濯機の中味のようにもつれあいながら。

「大学を卒業したら、どうするの?」マーガレットは、未来を漠然と思いながらケンに訊く。
「地元にもどって、就職口を探すよ。それとも、もっと全然誰も知らないところに行って働いてみるのもいいかもね。それで?」
「わたしは母がいるからな」
「なにか決まっているの?」

「父の知り合いが弁護士事務所をしていて、そこのお手伝いとか」まだ均等に女性が男性と肩を並べて働くという時代でもなかった。しかし、そういうものが徐々に古びた考えになるということも予感させる時代でもあった。変化に対応することは容易ではなく、逆に、そんなに難しいことが要求されているわけでもない。
 家事に便利な品物が作られ、それによってみなが楽になるのかと思いきや、ひとはまだもっと忙しい環境に身を置いた。その忙しく振舞う日々で大切なものも置き去りにされていく。
「ここは、勉強するためだけの土地だから、快適でもいつか抜け出ないといけない」

 ケンの気持ちも変わる。ここに入って、それこそたくさんのものを学ぼうとした思いはこなれていき、一年が過ぎ、二年目も通り越し、段々と終わりが見えるようになる。そこに焦りと満足があり、その間を揺れ動く。じっとしないところ、一定の場所に足場を見出せないところが人間の美点でもあり、欠点でもあるものだとケンは実感していた。その通り過ぎてしまう時間のなかで、何かを必死に捉まえるという作業も求められていた。ケンはマーガレットを失いたくはなかった。だが、流れ行く時間のほうが大きく、そこにのまれてしまうのも小さな人間には相応しいとも思った。

「パパ、帰ろうか?」
「うん。その前にジョンの餌を買わないと」
「先生、お帰りですか?」児玉さんが客との応対をしながら、ぼくらを見送った。
「洗濯機のために、お金を稼がないと。物語を必要としているひとなんて、そんなに見当たらないけどね」
「それでも、貴いことですから。では、また。由美ちゃんもバイバイ」
「パパ、貴いって、なんのこと?」ぼくらは店から出て階段を降りている。

「貴重なこと。価値のあるもの」
「価値って?」
「ものの値打ち。ダイヤモンドみたいなものかな。小さくても、高価で貴重なもの」
「パパのお仕事が?」
「違うよ。何かをはじめたことを、あきらめないで、それに向かってすすむ態度が貴重。その結果は二の次」うん? そうなのか? そう思いながらもぼくの手には犬の餌分だけの荷物が増え、汗をかきながら傾かない陽のなかを伸びるふたつの大小の影に向かって歩いた。

「汚れたんで、シャワーを浴びちゃおうか?」

 ぼくらは熱い湯で身体も頭も洗う。その後、脱いだ衣服や由美のスカートも洗濯機に放り込み、洗剤をいれて回転させた。ぼくは夕方も終わるころにそれをベランダに干している。乾いたほうを由美は小さな手で畳んでいた。
「これが、証拠隠滅。スカートもきれいになったし。由美も勉強しておいで。パパも、もう少しお仕事するから」

 マーガレットにはもっと安定した場所があるのかもしれない。それは就職というものではなく、結婚という立場に身を置くことなのだろう。ケンは勉強を終え、疲れた目でぼんやりと窓外を見ながら、そう思っていた。自分が安定した地位につけるには数年先のことなのだろう。その数年で人生は決まってしまう危うさもあった。

「パパが由美のスカートを洗ってくれて証拠隠滅してくれた」妻が玄関に入ると、由美がそう言って迎えていた。「ママ、雨降ってるの?」
「そうよ、由美の嫌いな雷も遠くで鳴っている」彼女の髪は濡れていた。ぼくは急いでベランダに行くと、そこには濡れた衣類が吊るされていた。「パパたちは、この音、気付かなかったのかしら?」
「パパのお仕事はダイヤモンドぐらいに貴重だから」と、由美は覚えたての言葉を使う。
「そうなんだ。あまりにも小さくて、パパの貴重さにうっかりして気付かなかった」と妻は自分の肩のあたりをタオルで拭き、満足そうにそう言った。
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壊れゆくブレイン(105)

2012年08月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(105)

 ぼくは、姪に電話をする。こういう本があるんだけど、それを取り寄せたりすることが可能かどうかの質問をするために。彼女は本屋でバイトをしており、そのお陰で都合が良かった。
「残念ながら、絶版。良い本なんだけどね。そもそも、そんなに流通しなかったよ」
「そうなんだ。惜しいな」
「でも、うちに2冊あるんだ」
「どうして?」
「子どものときに裕紀ちゃんがくれた。最初は1冊だけだったけど、わたしが泣いて、奪い合いになるのが嫌で。そうしたら、もう1冊くれたんだ」

 ぼくはその過去の情景をまったく思い出せないでいる。
「2冊か・・・」
「どうしても、必要なの?」
「どうしてもって訳じゃないんだけどね」
「お兄ちゃんのは、もう必要ないと思うよ。そんなにメルヘンチックな人間じゃないから」
「そう」
「それを、誰に上げるの? そのプレゼントに見合うかどうかによる」
「プレゼントかどうか、言ってないよ」
「でも、誰かに上げるんでしょう?」彼女の勘の良さに当惑しながらも、彼女ぐらいの年齢のひとに対して自分が真実を告げるかどうかの問題になった。真実に耐え得る年代にもう達しているのだろうか。だが、なぜ、やましくもないことを誤魔化す必要がでてくるのだろう。

「そうなんだ。なんの約束もないんだけどね」ぼくは、でもまだためらう。姪はそのまま質問も加えず、じっと受話器の向こうで待っていた。「裕紀にはお兄さんがいて、そのひとには娘がいたんだ。この前、ひょんなことからぼくらは会ったんだ」
「わたしも、知ってる」ぼくはなぜだか唖然とする。世の中はぼくの関知しないところで動いているのだろうか。
「どうして?」
「おじさん、なんか、きょう、疑問ばっかりだね」彼女は、そこで小声で笑う。「だって、この前読んでくれるって渡したものに、その子のも載っていたから。はじめは知らなかったけど、わたしたち、市役所みたいなところに呼ばれて、賞状をもらった。図書券もだけど。そこで、会った」

「そうなんだ。じゃあ、裕紀に似ていることも知っているんだ」
「おじさん。ごめんなさい。わたし、あのときまだ子どもだったから、段々といまでは裕紀ちゃんの顔を思い出せなくなっている。写真を見直して、似ていることは分かったけど」

「そうなんだね。大分前のことになってしまったんだね」ぼくはただ残念で、無性にやり切れなかった。「ごめん、話の続きで、あの子はぼくと裕紀のお兄さんが親しくなかったんで、まあぼくの所為で自分の叔母である裕紀の思い出をあまりもっていない。いや、皆無に近いと思う。でも、いろいろと知りたがっていた。それで、その本に裕紀が関わっているということを最近になって知って、できれば、買ってプレゼントしたいと思っていたんだ」

「優しいんだね、おじさん。でも、最近になって知ったと言ったの」
「残念ながら」
「良い本なのに。妻の仕事を知らない夫」
「みんな、そうなるんだよ」そして、後悔するんだよ、とどうしても付け加えたかったが、未練がましかったのでやめた。
「ひとつならいいよ」
「ほんとに? くれる?」
「いいよ。今度、持って行く。でも、おじさんに貸しがひとつ」
「うん、何か叶えてあげるよ」

「ありがとう。じゃあ、その日に」姪は予定を決め、ぼくは手近のカレンダーに丸を書き込み、そこに姪の名前も記した。ぼくはなぜそんなことをすすんでしているのだろうか。ぼくこそが、裕紀がぼくのために自分の兄との和解のために手紙を大量に送っていたことへの借りがあった。それは、結果として実らなかったが、した行為を無下にすることはできなかった。過去の忘れられていた箱が開かれると、そこには愛の記念の結晶が詰まっていたのだ。ぼくはその箱の中味を知った。内容は読まなかったが、彼女の肉体の苦しみだけではなく、ぼくは精神的なダメージも加えていたのだというショックがあった。それもまた自分は知らない。知らないことに満足と誇りがあるぐらい、自分は愚かだった。その償いのために、ぼくは美緒という少女に優しく接しようとしているのだろう。本を渡して。自分はその存在をつい先日まで知らなかったにせよ。

「なにか、いいことがあった?」雪代は、怪訝な様子と、興味があることを兼ね備えた表情をしていた。
「ううん、別に」
「そう。でも、楽しそうだよ」
「うん。姪に頼んだら、入手困難な本が手に入りそうになってね」ぼくは、そこまでは告げる。「ところで、雪代の知らない面って、まだまだ、たくさんあるのかな?」

「急にどうしたの。このままだよ。夜中、こっそり起きて、ひろし君の寝顔をじっと見て、微笑むということもしてないよ」つまらなそうな表情で雪代は雑誌を閉じた。「ひろし君こそ、秘密があるんじゃない」
「人間なんて、どこかに秘密がある生き物だよ」
「一般論で、誤魔化した」

「今度、本を家まで持ってきてくれるって。いなかったら、受け取ってくれる? 多分、いるけど」
「そう。若い女の子と夕飯、いっしょに食べたいな」
「あいつ、あんまり食べないよ。それで、身体も細いまま」裕紀の顔すら思い出せなくなった女性。それは当然か。まだ小さなうちに別れてしまったんだ。ぼくは、広美も死別した実の父の島本さんの顔を忘れてしまったのかが気になった。そして、数ヶ月、別のところで暮らしているぼくの顔すら忘れてしまうのだろうかという心配と焦燥を感じていた。
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