壊れゆくブレイン(92)
ぼくは実家にお土産を持っていく。その家の2階の一室でぼくは大人になるまで生活していた。勉強をして、憧れていた女性のことを考えていた。疲れたラグビーのあとの肉体を横たえ、疲れを取り除きまた登校した。そこをある日去り、自分の生活を作った。横の妹の部屋も同じ経緯をたどった。ぼくはいまの自分が住んでいる家の広美の部屋のことを同時に思い浮かべた。主人は消え、その名残りだけがある。ぼくは2階にあがり、使っていた机を見る。勉強をした内容はすっかりと消えていたが、あの日に眠いさ中ラジオを聴き、頑張ったことだけはよみがえって来るようだった。ついでに隣の部屋も覗く。そこには裕紀に似た少女の絵がいまでも掛けられている。縁があって、ぼくとあまり離れないところで存在する少女。
ぼくは下に戻り、リビングのテーブルを前に座って世間話をはじめた。
「姪っ子に、会ったよ。この前、本屋の中で」
「大人びた雰囲気になったでしょう?」ぼくの母は嬉しそうに言った。
「うん、あの子だけ、ぼくらと隔絶しているようなね」
「お勉強もできて。でも、運動会の前はいつも泣きべそをかいていた」
「長所もあれば、短所もあるよ」
「ひろしのところの子は、東京になれたか?」父も口を挟む。
「なれたみたいだよ。こっちに住んでいたときの親友が前に東京に引っ越して、その子が役立ってくれているみたいだから」
「そうなのか。良かったな」
ぼくは東京に出たときに、やはり、裕紀を見つけたということが今更ながらおおきな好結果を生んだことを知る。ひとは友人やそばにいてくれるひとが必要なのだ。ぼくは、その前に自分から彼女と縁を切ったので、虫が良すぎる話でもあったが、あの東京でひとりでさ迷っていたら、数々の悩みが襲い、ぼくを打ちのめしたかもしれない。
「家は楽になった?」
「ご飯の炊く量が減ったと言って雪代が嘆いていた、この前」
「わたしたちも、あなたと美紀が居なくなったときは、そうだった。それに見て、いまはこんな小さな炊飯器」そこにある白い物体を母は指差した。その物体の大きさそのものが、ひとが成長の過程を終えたことの証しになった。あとは現状維持。「でも、ふたりで旅行に行く余裕もできて良かったじゃない」
「そうだね。まだまだお金はかかるけど」
「正直にきくけど、ほんとうの父親が別にいるっていうことは気にならなかったの?」と、母は長年の疑問であったらしく意を決したように訊く。
「とくには。こういうもんだと思っていた」
「あのひとのこと、お前はむかしから気にいったんだもんな。その気持ちの結集がそういうもんだよ、という簡単な言葉で表すしかできないもんだ」父が正直になにを言いたいのかは分からなかった。ただ、ぼくらの選択は選択という意味合いだけで機能して、ゴールを見据えてなにかを決断することがいかに難しいかを物語っているようだった。
「良い奥さんだった?」
「まだ終わってないよ」
「裕紀ちゃんは、良い奥さんだった?」
「あいつは、出来すぎてたから。ぼくみたいなものには貴重すぎて、ちょうど良いタイミングで取り上げられたんだろう」
「可愛い子だった。正直に言うと、美紀より、美紀の子どもたちより好きだった」と、母は妹の名前まで持ち出してそう言った。それが本音であったのか、ただのお世辞にすぎないのかぼくには判断できない。ひとは失ったものに対してより一層、愛着があるものだ。だが、根が正直にできている人間なので、リアルな言葉としてぼくの胸に響いた。
「まだ、裕紀と暮らしていた時期の写真とかって、残っているのかな」
「倉庫に入ったままだよ。見たいの?」
「ううん、そのままでいい」封印された記憶たち。ぼくにとってはエジプトの王様の墓よりそれは神秘的なものとして接触を避けるべきものなのだ。いつか、それを開くことになるのだろうか? それは、別の人間の役目かもしれなかった。姪? それとも、また相応しい第三者がどこかにいるのだろうか。
父は爪を切り始めた。その先端に残っている思い出を切り離すような感じをぼくは受けていた。ぼくが裕紀と暮らしていたころの爪も髪の毛も生え変わったため、物質的な意味ではぼくには残っていない。だが、精神の奥底はなにも変わっていなかった。
「そろそろ、帰るよ」ぼくが帰る場所はひとつだった。両親はぼくが大学にいるときは雪代のことを理解してはくれなかった。だが、ぼくをどん底という場所から、嵐が巻き起こる中から救い出してくれたのは彼女だということをいまの両親は知っていた。それを認めるために、ぼくは深い底に落ちることが必要だった。その原因を作ったのは裕紀の死であり、雪代がぼくの伴侶として釣り合いが取れていたのを決定したのも、そこから抜け出してくれたことだった。ぼくにどのような形式であれ同情を寄せ続けた両親を不憫に思い、ぼくは家をあとにする。そして、陽光のなか、ぼくは死と生存というささやかな境目を行き来する自分を想像した。
「お母さんたち、喜んでくれた?」
家に帰ると、雪代がたずねた。生命の側にいる住民。大病もしなかった健康なる肉体。艶やかな髪。ぼくはそれを眺める。
「うん、喜んでた」ぼくは横目で広美が使っていた部屋を眺め、実家の自分の部屋を思い出した。深夜のラジオはぼくの勉強のお供であり、また足を引っ張る誘惑でもあった。雪代も若いぼくにとって誘惑だった。だが、今となってみれば、連れ添った間柄がつづく限り、無二の伴走者でもあることにも気付いていた。
ぼくは実家にお土産を持っていく。その家の2階の一室でぼくは大人になるまで生活していた。勉強をして、憧れていた女性のことを考えていた。疲れたラグビーのあとの肉体を横たえ、疲れを取り除きまた登校した。そこをある日去り、自分の生活を作った。横の妹の部屋も同じ経緯をたどった。ぼくはいまの自分が住んでいる家の広美の部屋のことを同時に思い浮かべた。主人は消え、その名残りだけがある。ぼくは2階にあがり、使っていた机を見る。勉強をした内容はすっかりと消えていたが、あの日に眠いさ中ラジオを聴き、頑張ったことだけはよみがえって来るようだった。ついでに隣の部屋も覗く。そこには裕紀に似た少女の絵がいまでも掛けられている。縁があって、ぼくとあまり離れないところで存在する少女。
ぼくは下に戻り、リビングのテーブルを前に座って世間話をはじめた。
「姪っ子に、会ったよ。この前、本屋の中で」
「大人びた雰囲気になったでしょう?」ぼくの母は嬉しそうに言った。
「うん、あの子だけ、ぼくらと隔絶しているようなね」
「お勉強もできて。でも、運動会の前はいつも泣きべそをかいていた」
「長所もあれば、短所もあるよ」
「ひろしのところの子は、東京になれたか?」父も口を挟む。
「なれたみたいだよ。こっちに住んでいたときの親友が前に東京に引っ越して、その子が役立ってくれているみたいだから」
「そうなのか。良かったな」
ぼくは東京に出たときに、やはり、裕紀を見つけたということが今更ながらおおきな好結果を生んだことを知る。ひとは友人やそばにいてくれるひとが必要なのだ。ぼくは、その前に自分から彼女と縁を切ったので、虫が良すぎる話でもあったが、あの東京でひとりでさ迷っていたら、数々の悩みが襲い、ぼくを打ちのめしたかもしれない。
「家は楽になった?」
「ご飯の炊く量が減ったと言って雪代が嘆いていた、この前」
「わたしたちも、あなたと美紀が居なくなったときは、そうだった。それに見て、いまはこんな小さな炊飯器」そこにある白い物体を母は指差した。その物体の大きさそのものが、ひとが成長の過程を終えたことの証しになった。あとは現状維持。「でも、ふたりで旅行に行く余裕もできて良かったじゃない」
「そうだね。まだまだお金はかかるけど」
「正直にきくけど、ほんとうの父親が別にいるっていうことは気にならなかったの?」と、母は長年の疑問であったらしく意を決したように訊く。
「とくには。こういうもんだと思っていた」
「あのひとのこと、お前はむかしから気にいったんだもんな。その気持ちの結集がそういうもんだよ、という簡単な言葉で表すしかできないもんだ」父が正直になにを言いたいのかは分からなかった。ただ、ぼくらの選択は選択という意味合いだけで機能して、ゴールを見据えてなにかを決断することがいかに難しいかを物語っているようだった。
「良い奥さんだった?」
「まだ終わってないよ」
「裕紀ちゃんは、良い奥さんだった?」
「あいつは、出来すぎてたから。ぼくみたいなものには貴重すぎて、ちょうど良いタイミングで取り上げられたんだろう」
「可愛い子だった。正直に言うと、美紀より、美紀の子どもたちより好きだった」と、母は妹の名前まで持ち出してそう言った。それが本音であったのか、ただのお世辞にすぎないのかぼくには判断できない。ひとは失ったものに対してより一層、愛着があるものだ。だが、根が正直にできている人間なので、リアルな言葉としてぼくの胸に響いた。
「まだ、裕紀と暮らしていた時期の写真とかって、残っているのかな」
「倉庫に入ったままだよ。見たいの?」
「ううん、そのままでいい」封印された記憶たち。ぼくにとってはエジプトの王様の墓よりそれは神秘的なものとして接触を避けるべきものなのだ。いつか、それを開くことになるのだろうか? それは、別の人間の役目かもしれなかった。姪? それとも、また相応しい第三者がどこかにいるのだろうか。
父は爪を切り始めた。その先端に残っている思い出を切り離すような感じをぼくは受けていた。ぼくが裕紀と暮らしていたころの爪も髪の毛も生え変わったため、物質的な意味ではぼくには残っていない。だが、精神の奥底はなにも変わっていなかった。
「そろそろ、帰るよ」ぼくが帰る場所はひとつだった。両親はぼくが大学にいるときは雪代のことを理解してはくれなかった。だが、ぼくをどん底という場所から、嵐が巻き起こる中から救い出してくれたのは彼女だということをいまの両親は知っていた。それを認めるために、ぼくは深い底に落ちることが必要だった。その原因を作ったのは裕紀の死であり、雪代がぼくの伴侶として釣り合いが取れていたのを決定したのも、そこから抜け出してくれたことだった。ぼくにどのような形式であれ同情を寄せ続けた両親を不憫に思い、ぼくは家をあとにする。そして、陽光のなか、ぼくは死と生存というささやかな境目を行き来する自分を想像した。
「お母さんたち、喜んでくれた?」
家に帰ると、雪代がたずねた。生命の側にいる住民。大病もしなかった健康なる肉体。艶やかな髪。ぼくはそれを眺める。
「うん、喜んでた」ぼくは横目で広美が使っていた部屋を眺め、実家の自分の部屋を思い出した。深夜のラジオはぼくの勉強のお供であり、また足を引っ張る誘惑でもあった。雪代も若いぼくにとって誘惑だった。だが、今となってみれば、連れ添った間柄がつづく限り、無二の伴走者でもあることにも気付いていた。