爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(4)試着室

2012年08月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(4)試着室
 
 ぼくは、試着室で洋服を試している奈美を待っている。

 彼女は試着室のなかに数着の洋服を持ち込んだ。いくつかのカラーがぼくの目の前を素通りする。ぼくはそれを合図にそこから離れ、噴水のある広場に向かった。その付近では子どもたちがソフト・クリームを食べている。白もあれば、ピンクのソフト・クリームもあった。ぼくはその味を思い出す。ぼくは横で紙コップに注がれたビールを飲んでいた。

 ぼくらは前日、奈美の部屋で映画を見ていた。映画の登場人物は当然のこと洋服を着ている。それは流行の最先端を行くべき使命を与えられたような映画だった。それゆえに会話は浮ついたもので、地に足が着いたものには感じられなかった。しかし、色の使い方は見事であった。ぼくは同じような色彩の洪水をこの場所でも感じている。ぼくは奈美が寝てしまった後にひとりで白黒の映画をみた。主人公は肺病にかかっているひとのような咳をして、暗い眼をしていた。

 ぼくもいつの間にかそのまま寝てしまい、朝になるとシャワーを浴びて、昨日と同じ格好の洋服に袖を通した。奈美は洗濯をしていた。それから、クローゼットを開け、きょう着るべき服を選んでいた。普段は職場への通勤に見合う落ち着いた色とデザインの服を着ていたが、休日は異なっていた。12色の色鉛筆と、24色の色鉛筆ぐらいの差があった。きょうは後者だ。

 彼女は手早く料理を作る。赤いパプリカ。緑のアボカド。黄色いコーヒーのカップ。青い皿。ぼくは白黒の世界を忘れる。部屋を出ると、となりの新婚夫妻がぼくらに会釈した。ぼくも見慣れない彼らに同じような態度で接した。ぼくらは似た年代でありながら、責任感というところでは雲泥の差があるようだった。階段を降り、駅に向かって歩く。軽い登り坂は満腹の腹を適度に揺する。たくさん寝たはずなのに、ぼくはあくびをする。

 駅で電車を待つ。
「普段は、学生がたくさん乗っているんだよ。満員。さっきのとなりの旦那さんもその学校の先生」
「え、挨拶したひと?」
「そう。お勉強ができそうな顔をしてたでしょう?」

 ぼくはその短い邂逅であった数秒では瞬時の判断ができなかった。ただ、失礼にあたらないぐらいに見ただけだった。それに、奈美の評判もあった。見知らぬ男が日曜の朝に部屋からでてきたということが、減点にならないといいのだが。

 ぼくらは到着した電車に乗り込む。閑散としている車内。そこから数駅で大きな駅につながる。その間の駅では乗客は増えることもなく、急激に減ることもなかった。ただ、一定の人数を満たすことが厳守されているようだった。先ほどの夫婦のうわさ話をききながらターミナル駅に着いた。そこで、どっとひとが降り、そのまま折り返して行き先が変わる役目を果たす電車を待っていた大勢のお客さんが折り返す電車に乗った。

 ぼくらは小物を見たり、靴屋に入ったりした。太陽は居場所をはっきりさせないようにそっと自然な暖かさを加え、吹き抜ける風も自分の仕事をたまに思い出すぐらいののどかな日だった。

 それも奈美がデパートに入ると、風向きは変わる。穏やかさは大気の不安定に移り、足元をくすぐる海の波もホースで水を撒かれるような形をとる。
「これ、可愛くない?」
「同じようなの着ていなかったっけ? この前」
「あれは、ここが・・・」彼女はその説明を丹念にする。ぼくはその違いがまるっきり分からない。それで、洋服が何着か奈美の腕のなかで抱かれる。店員は忍び足をしていたように背後に近付いた。

「お似合いになると思いますよ。どうぞ、よろしかったら」店員は、試着室を指差す。ぼくには数分間の待機時間ができる。それで、ビールを飲みながら噴水を見ていた。別の子がソフト・クリームを買ってもらい不器用に舐めていた。落っことしてしまうようなヒヤヒヤさせる気持ちをぼくは何度か経験し、案の定、その通りになった。落とした本人は泣き、その母は怒る。だが、あまりにも泣き止まないので今度はなだめる。ぼくは自分のビールの紙コップが空になったので席をたつ。席といっても噴水の縁にある模造の大理石のような固い石段だったのだが。

 ぼくは奈美が消えた試着室のある店に向かった。彼女がレジでお金をはらっているタイミングであった。それから振り返り、嬉しそうな顔でいくつかの角張った袋をぶら提げて歩いてきた。

「買うつもりはなかったんだけど、見ているうちについつい。迷って、買おうか思案して、やっと買いに来て、来週には、もうなかったというのは嫌だからね」
 彼女の一連のこころの動きは分かる。ぼくも迷わずにビールを飲んでいた。およそ費やした時間は20分弱。また、そこを通りかかる。噴水は同じように水を上方に向けていた。さっきのソフト・クリームを落とした子はいなかった。奈美は、そのことをまったく知らない。

「わたしも、アイス食べたくなった。買ってくる。いる?」
「いらない。落としちゃダメだよ」
「落とすわけないじゃない、子どもじゃないんだから。あ、これ、ちょっと持ってて」買ったばかりの洋服が入っている袋をぼくは手渡された。ぼくは奈美が選ぶ味を予測する。多分、あれ。中の店員は背中を向け、手を回しているらしい様子が分かる。奈美はいくらか背伸びをして、待ちどうしそうにそれを眺めていた。
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壊れゆくブレイン(106)

2012年08月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(106)

「ごめん、もう絵本なんか読む年代ではないと思うけど、美緒さんにしてあげられることって、これぐらいだと思って」ぼくは再び美緒という少女と対面していた。自分から会いたかった訳でもない。ただ、裕紀のことについて知りたいという希望をひとつぐらいは叶えてあげたいという親切心のあらわれだった。その親切さは無償の気持ちから出た訳でもないのだろう。それは打算でもあるようだった。

「随分と古い本のようですね」彼女は磨り減った角を手の平でさすった。
「新品を買えれば良かったんだけど、絶版みたいなので手に入らなかった」彼女はそれでという顔をした。わたしが手にしているこれは一体なんなのだろう?
「どこかに、残っていたんですか?」
「まあ由来はともかくとして、その本が作られた際に若いときの裕紀が関わったようなので、君にも差し上げようと思った」

 ぼくは若い裕紀といま言った。その若いという言葉が、なぜ使われたのか考えていた。美緒という女性と比較したらその言葉を用いなかったはずだ。当時の裕紀はぼくが知っている範囲での裕紀として若かったのか。いまのぼくの年齢からすると、当然、若いままだ。彼女は年を加えることを金輪際、放棄しているのだ。

「もともとは外国のひとが書いた本なんだ」
「そうみたいだね。ぼくは子どもを育てなかったから、そういうのを読んであげる機会ももたなかった」
「うちにはたくさん本があるんですけど、これは貴重ですね。大切にします」
「本を読むのが好き?」
「ええ」彼女はためらうように頷いた。「裕紀さんも好きですか?」
 彼女は、過去形をここでは使うべきだった。好きだったんですか?

「うん、たくさんの本を読んでいたよ。でも、ぼくがいちばん影響を受けたのは、クラシックの音楽だよ。いまでも曲名はいっさい知らないけど、ふとどこかできれいなメロディーにぶつかると、ああ、裕紀もこれを聴いていたなとしみじみと思う」なぜ、ぼくは自分の思い出を切り売りしているのだろう。この少女に伝えるべき何かをぼくは内蔵しているのか。それを、どこかで裕紀は求めているのだろうか。顔の相似が自然とぼくを饒舌にさせた。多分、ぼくは裕紀とこのように途絶えることなく、ずっと話しつづけていたかったのだろう。その願いは、あの病院の一室で終わる。裕紀は何かに反応することはない。ぼくが発する言葉にもしない。たくさんの感受性に恵まれたこころを置き去りにした。

「共有した時間があった?」
「若い女性が、そういう感じ方をするのって、特殊だと思うけどね」
「近藤さんは、わたしの父を恨んでいますか?」唐突に彼女は言った。
「もう過ぎたことだし、でも、恨む必要なんかどこにある。ぼくが、もっと気をつけていれば病気だって早期に発見できたかもしれないのは事実だしね。それを怠たったのはほかでもないぼくだよ。自分自身」ぼくは、許されなかった感情を美緒に告げ、彼女から許しを得ようとしているように思えた。そのような要望を受け入れられるような年代ではない。ただ、裕紀の膝にすがりつき甘えるような年頃でもあるのだ。ぼくもできるなら、同じようにしたかったのだが。
「父と母に近藤さんと会うことを言いました。うちの両親は、もう悪い感情をもっていないようでした」
「じゃあ、あの手紙の内容はいまになって効をそうしたんだ」
「だといいんですけど・・・」
「不満みたいにきこえるね」

「もっと早くするべきでした。ごめんなさい。もう手遅れになってしまうほど、時間が経ってしまいました」彼女はまた本を撫でた。その手付きは、この本ぐらい古びてしまったという風にも感じられた。
「いちばん喜んでくれるひとは、もういないからね」
「東京の叔母さんがいます」
「そうか、言ったんだ」

「喜んでくれましたけど、また、体調がよくなくって、とても、心配です。いま、入院しています」
「そうなんだ。また、お見舞いに行かなくちゃ」ぼくはあの病院が苦手だった。そこに足を踏み入れることは苦痛に近いものだった。だが、ぼくはその苦さも甘んじて受け入れなければならない。
「叔母さんも手紙のことを言うと驚いていました。それで、とても喜んでいました。優しいゆうちゃんがすることらしいって」
「原因をつくったのは、ぼくだけど」
「いいえ、その原因をつくったのは、わたしの父ですよ」頑固そうに美緒はきっぱりと言った。そういう真摯な表情をすると、より一層裕紀に似てきた。「あれがなかったら、もっとわたしの家にも近寄りやすくって、遠慮することもなく、みんな来られたのに」

「それは理想論だよ。ああいうことをしていたらって考えない方がいいよ。ぼくもそれで随分と苦しんだんだから。これでもね」それで一生を棒に振る直前までいったとは言えなかった。ただ、その純粋さが恐く、自分が大してその純粋さを所有していない事実も恐ろしかった。ぼくらはそれから程なくして別れ、本の分だけぼくの荷物は軽くなった。同じぐらいのこころの晴れなかった部分も軽やかになったような気がした。裕紀は亡くなってもまだぼくに尽くそうとしていた。それに報いる方法がひとつとしてないことを残念に思う。やはり、生きている間に、あのとき以上に懸命に優しくしていればよかったのだ。そのことを十年も前の自分は知ろうともしなかった。
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