壊れゆくブレイン(88)
ぼくは外回りのために車を運転していた。となりには後輩の女性がいた。数年前に結婚をして彼女と夫の間には男の子がいた。
「それで、東京の娘から写真が送られてくることになったんだ。一応、親らしくその写真を収めるべく、アルバムを買いに行って、商店街のはずれにある写真館に行ったら、みんな、きちんと何かの記念日には写真を撮っているんだね。それで、そういうのって、したことある?」
「ありますよ、うちにも。それに私の両親がそういうことに対して律儀なもんだから、私が子どものころもよくしました」ぼくは背伸びした少女時代の彼女を思い浮かべる。
「そう」ぼくは、前を見ている。晴れていて強い日差しの一日だった。
「しませんか?」
「うちは再婚で、その子はぼくが結婚したときに10才ぐらいにもうなっていたから、そういう大きなイベントごとは済ませてしまってきたんだろうね」
「それで、今更?」
「することもなく、次は大学卒業とか、結婚とかぐらい。もう小さな子でもない」
「憧れているんですか?」
「何となくね。みんな、ちょっと華やいで、それでも、かしこまった表情もして。前を見て」
「でも、自然な表情がいちばんじゃないですか?」
「そういうのは、いつでも撮れるから」そういいながらも、それは恒常的なものではないのかもしれないと気付いた。ぼくらは、そこで車から降り、あるビルのオーナーにあった。いささか建物は古びてきて、リフォームが必要なようだった。話は長引いたが間もなく用件は済んだ。次回に会って提案する内容をぼくらは社にもどってするだろう。その前にぼくらは昼飯を外で食べ、その店のある商店街の一角からまた駐車場まで歩いた。
「ほら、こういう写真だよ」その駐車場のそばに先程話していたと同じような店舗があった。
「ありますね。赤ちゃんが抱っこされている。お宮参りですかね。こっちは花嫁さん。それにしても花嫁っていうのは、いつでも、いいもんですね。和装にしろ、洋装にしろ」彼女は、ショーウィンドウのなかを左右に見ながら自分のときを思い出しているかのように懐かしそうに言った。「中も入ってみます? 新しいアルバムを買うとか」
「まだ、全然つかってないけど」しかし、彼女の後ろ姿はもう扉を開いて中に入りかけていた。
「面接のときも、こういうところできちんと写真を撮ってもらえるんだね」
「そういうのが入用なんですか?」店主らしきひとが店の奥からでてきた。
「そうでもないんですけどね。家族写真にこちらの先輩が興味をもって・・・」
だが直ぐに、ぼくはそのようなものに興味など持たなかった方が良いことを知る。その一枚にゆり江という過去に知った女性が写っていた。横には当然のこと男性がいた。もちろん夫だろう。清潔そうな印象の男だった。彼女の膝には赤ん坊がいた。まだ個性など垣間見られない無邪気な存在。そこには確かな暖かさの余韻と前兆があった。ぼくは、その前で気付かずにしばらく立ち止まって凝視していたらしい。
「どうかされました? ねえ、近藤さん」
「いや、知り合いに似ていたもんで」
「幸せそうですね」
「そう見えるね」
「違うんですか?」
「いろいろあるからね、そのひとだったら」
ぼくは無造作にアルバムをつかみ、それを袋に入れてもらった。ぼくは、最初からこのようなものを買わなければ良かったのだ。広美の同級生のいる店で世間話をして帰ってくればよかったのだ。
ぼくと彼女は車に乗り込み、ぼくは無言で車を走らせた。音が無かったのはその車内だけで、ぼくの頭の中ではいろいろなことが目まぐるしく動き回っていた。
ゆり江という女性はその何年後かに、あの子どもを水の事故で失った。そのことを暗示させたり予感させたりするものは写真にはまったくなかった。未来が尊いものだということを信頼しきっている三人がいた。それがある日、突然に潰える。ぼくは自分の周囲に不幸をただばら撒くだけの存在に思えた。その子の死とぼくには無論のこと直接には関係なかったが、なぜだか、ぼくは自分が果たしたであろう負の役割を結び付けたかった。誰かが死んで悲しむのは自分だけでよかったのだ。それをあのゆり江には与えてはならなかったのだ。ふたりの不幸な男女は、自分の妻が亡くなったときに抱き合い、結果として、自分の子どもが亡くなったことを忘れるためにまた抱き合った。だが、そんなものは簡単に消えてくれるものではなく、より一層、その行為が無残なものを鮮明にさせた。
「やはり、知り合いでした?」
「多分ね」
「何か、不幸があったんですか?」
「あの女性、ぼくの妹と同級生だった」ほんとうは、ぼくの方と後年、親密になったのだが。「あの抱っこしている子は川かどこかで水の事故にあった」
「ひどい」と言って、まるで自分のことのように彼女は呆然とした。ぼくは、あの写真が記念として残されるべきだったのか、何もない世界の方が良かったのか判断しようとしたが、それを決定するのは無責任でもあり、未来を冒涜するようなものでもあったのだ。明日、ぼくらは何が待っているのかも知らない。ただ、写真を残して満足すべき対象を保存という状態に近づけることだけを憧れているのかもしれない。ぼくは、広美が送ってきた写真を通して、過去に連れ戻された。その過去は未来に爪あとを残すことをずっと待ち侘び、望んでいた。
ぼくは外回りのために車を運転していた。となりには後輩の女性がいた。数年前に結婚をして彼女と夫の間には男の子がいた。
「それで、東京の娘から写真が送られてくることになったんだ。一応、親らしくその写真を収めるべく、アルバムを買いに行って、商店街のはずれにある写真館に行ったら、みんな、きちんと何かの記念日には写真を撮っているんだね。それで、そういうのって、したことある?」
「ありますよ、うちにも。それに私の両親がそういうことに対して律儀なもんだから、私が子どものころもよくしました」ぼくは背伸びした少女時代の彼女を思い浮かべる。
「そう」ぼくは、前を見ている。晴れていて強い日差しの一日だった。
「しませんか?」
「うちは再婚で、その子はぼくが結婚したときに10才ぐらいにもうなっていたから、そういう大きなイベントごとは済ませてしまってきたんだろうね」
「それで、今更?」
「することもなく、次は大学卒業とか、結婚とかぐらい。もう小さな子でもない」
「憧れているんですか?」
「何となくね。みんな、ちょっと華やいで、それでも、かしこまった表情もして。前を見て」
「でも、自然な表情がいちばんじゃないですか?」
「そういうのは、いつでも撮れるから」そういいながらも、それは恒常的なものではないのかもしれないと気付いた。ぼくらは、そこで車から降り、あるビルのオーナーにあった。いささか建物は古びてきて、リフォームが必要なようだった。話は長引いたが間もなく用件は済んだ。次回に会って提案する内容をぼくらは社にもどってするだろう。その前にぼくらは昼飯を外で食べ、その店のある商店街の一角からまた駐車場まで歩いた。
「ほら、こういう写真だよ」その駐車場のそばに先程話していたと同じような店舗があった。
「ありますね。赤ちゃんが抱っこされている。お宮参りですかね。こっちは花嫁さん。それにしても花嫁っていうのは、いつでも、いいもんですね。和装にしろ、洋装にしろ」彼女は、ショーウィンドウのなかを左右に見ながら自分のときを思い出しているかのように懐かしそうに言った。「中も入ってみます? 新しいアルバムを買うとか」
「まだ、全然つかってないけど」しかし、彼女の後ろ姿はもう扉を開いて中に入りかけていた。
「面接のときも、こういうところできちんと写真を撮ってもらえるんだね」
「そういうのが入用なんですか?」店主らしきひとが店の奥からでてきた。
「そうでもないんですけどね。家族写真にこちらの先輩が興味をもって・・・」
だが直ぐに、ぼくはそのようなものに興味など持たなかった方が良いことを知る。その一枚にゆり江という過去に知った女性が写っていた。横には当然のこと男性がいた。もちろん夫だろう。清潔そうな印象の男だった。彼女の膝には赤ん坊がいた。まだ個性など垣間見られない無邪気な存在。そこには確かな暖かさの余韻と前兆があった。ぼくは、その前で気付かずにしばらく立ち止まって凝視していたらしい。
「どうかされました? ねえ、近藤さん」
「いや、知り合いに似ていたもんで」
「幸せそうですね」
「そう見えるね」
「違うんですか?」
「いろいろあるからね、そのひとだったら」
ぼくは無造作にアルバムをつかみ、それを袋に入れてもらった。ぼくは、最初からこのようなものを買わなければ良かったのだ。広美の同級生のいる店で世間話をして帰ってくればよかったのだ。
ぼくと彼女は車に乗り込み、ぼくは無言で車を走らせた。音が無かったのはその車内だけで、ぼくの頭の中ではいろいろなことが目まぐるしく動き回っていた。
ゆり江という女性はその何年後かに、あの子どもを水の事故で失った。そのことを暗示させたり予感させたりするものは写真にはまったくなかった。未来が尊いものだということを信頼しきっている三人がいた。それがある日、突然に潰える。ぼくは自分の周囲に不幸をただばら撒くだけの存在に思えた。その子の死とぼくには無論のこと直接には関係なかったが、なぜだか、ぼくは自分が果たしたであろう負の役割を結び付けたかった。誰かが死んで悲しむのは自分だけでよかったのだ。それをあのゆり江には与えてはならなかったのだ。ふたりの不幸な男女は、自分の妻が亡くなったときに抱き合い、結果として、自分の子どもが亡くなったことを忘れるためにまた抱き合った。だが、そんなものは簡単に消えてくれるものではなく、より一層、その行為が無残なものを鮮明にさせた。
「やはり、知り合いでした?」
「多分ね」
「何か、不幸があったんですか?」
「あの女性、ぼくの妹と同級生だった」ほんとうは、ぼくの方と後年、親密になったのだが。「あの抱っこしている子は川かどこかで水の事故にあった」
「ひどい」と言って、まるで自分のことのように彼女は呆然とした。ぼくは、あの写真が記念として残されるべきだったのか、何もない世界の方が良かったのか判断しようとしたが、それを決定するのは無責任でもあり、未来を冒涜するようなものでもあったのだ。明日、ぼくらは何が待っているのかも知らない。ただ、写真を残して満足すべき対象を保存という状態に近づけることだけを憧れているのかもしれない。ぼくは、広美が送ってきた写真を通して、過去に連れ戻された。その過去は未来に爪あとを残すことをずっと待ち侘び、望んでいた。