壊れゆくブレイン(91)
ぼくと雪代は潮のにおいのする町で早起きして、朝市のなかを歩いている。新鮮な魚が横たわり、獲れたての野菜が無造作に並べられていた。昨日は海まで足をのばし、きれいな夕日を見た。大きな赤い球体が海のうえを占領し、それから名残惜しそうに消えた。ぼくは自然の壮大さを思い、自分のちっぽけさを恥じた。ぼくは、何一つ自分の意志で動かすことなどできないという類いのちっぽけさだ。
となりにいる女性の気持ちも、ぼくには分からなくなるような錯覚を抱く。はじめから分からなかったのか、それとも、いまこの瞬間だけ他人のような気がしたのか、それすらも不明であった。
「いつも、小さな一室で洋服を売ってきた」
「うん。仕事のことなら」
「それをずっとしたかったんだけど、それがずっとこんなに長く続くとも思っていなかった」
「裁量があったんだろう」
「好きだったけど、娘のこともあった。あの子を大きくする必要もあったから」
「結果として、大きくなった」
「もっと開放感があると思っていたけど、やはり、どこかで心配だし、まだまだ大人になるまで待たなければならないのかも」
「なんとか、うまくやるだろう。雪代の娘なんだから」
水平線から色が消え、ぼくらは少し涼しくなった戸外から車に戻った。
「ああいう大きなものを見ると時間の観念が狂って、なんとなく会えなくなってしまったひととかのことを思い出すね」雪代はそう発言したが、前を見て運転しているぼくには彼女の表情までは分からなかった。
「例えば?」
「さあ、特にはいないんだけど。言えなかった感謝の言葉とかを言えば良かったなとか、すごく単純なことで」
「島本さんとか?」ぼくは彼女の前の夫の名前をだす。
「ぜんぜん。彼は颯爽と消えるということを運命付けられたひとだから」
「そういうもんかね」しかし、ぼくも彼に対して同じような印象を持ち続けていた。生きるという毎日の事務的な作業にもっとも似つかわしくないひととして。
「いない?」
「いるとは思うけど」ぼくは運転の集中を途切れさせないようにしていた。
「あのひとは? もう10年も前になるんだね。酔っ払って、絡んできたひろし君。あのときに少し嫉妬した。もし、わたしと別れたら、彼はあれぐらい悲しむのだろうかって? どうだったと思う?」
「ぼくは一回、雪代と別れているよ。そのときの荒れ様もひどかった」だが、実際には思い出せなかった。それに多分していなかった。もっと深い部分での落ち込みだった。すると、外に向かって荒れたりするのは、あれはポーズなのだろうか。ひとが悲しんだときの最後に結晶として小さな粒のように残るのは、静かに沈んでいくことなのか。
それから20分ほど運転するとホテルに着いた。ぼくらは交互に大浴場に行き、それぞれの汗を流した。夕飯は広間だがきちんと区割りされた席で夕飯を食べた。ぼくに、このような穏やかな時期が来るとも思っていなかった。大人になり、自分で稼ぎ、愛すべきひととそこにいた。ぼくらの若さの一部は消滅し、お互いを労わるような気持ちにもなっていた。子どもももうそばにはいない。あくせく何かを求める必要もない。その場所でぼくはそんなことをためらいもなく、とりとめもなく考えていた。
ぼくは雪代という女性と知り合ってから30年近くが経った。その関係もこんなに長くつづくとも思っていなかった。それを望んでいたのかも分からない。ただ結果として、ぼくらは自分の家から離れた場所で、他人から見たら夫婦以外の何者でもない姿と形として、ここにいる。ぼくは先ほど言った雪代の言葉を思い出していた。会えなくなっても感謝の言葉を伝えたいひと。それは、その30年前の雪代に対して、大きなものを背負わせてしまってすなまかった、というようなセリフをあげ、ぼく自身には辛らつなことを経験しながらも、こうした穏やかな日が来るのだから一日一日をしっかりと生き延びてほしい、そのような安心感を与えることばを残したかった。だが、そのどちらもできない。自分たちは現在を中心に生きることしかできず、ただ、思い出すことと後悔を混ぜた過去しか手に入れることはできないのだ。だが、それでも雪代を前にして薄いウイスキーを飲みながら、そう考えているのは悪いことではなかった。
それで、夜も終わり朝になった。ぼくらはひとがまばらな朝市をのんびりと歩いている。なにかを猛烈に欲しないという気持ちを体現しているような気持ちだった。だが、雪代は職場の仲間にお土産を買う算段をしていた。それに連られ、ぼくも何人かの顔を思い浮かべる。最近は実家にも寄り付いていなかった。彼らもぼくらの気持ちを、自分の子どもが旅立ったという経験からくるしとやかな暴風のあとのような気持ちを味わっていたのだ。ぼくは彼らにも伝えられなかった言葉があるのか確かめるように思案していた。勝手に女性と過ごした大学生の時代があり、東京で以前の恋人をこれまた勝手に結婚相手に決めていた。自分の都合で大きくなりかけた少女を持つ女性と再婚した。彼らは、それでもぼくを否定しなかった。それは無責任によるものなのだろうか、それとも、自分の息子を信じていたからなのだろうか。ぼくは歩きながらお土産になるべき品物を手に取り、その両親の気持ちの重さのようにそれを軽く揺すっていた。
ぼくと雪代は潮のにおいのする町で早起きして、朝市のなかを歩いている。新鮮な魚が横たわり、獲れたての野菜が無造作に並べられていた。昨日は海まで足をのばし、きれいな夕日を見た。大きな赤い球体が海のうえを占領し、それから名残惜しそうに消えた。ぼくは自然の壮大さを思い、自分のちっぽけさを恥じた。ぼくは、何一つ自分の意志で動かすことなどできないという類いのちっぽけさだ。
となりにいる女性の気持ちも、ぼくには分からなくなるような錯覚を抱く。はじめから分からなかったのか、それとも、いまこの瞬間だけ他人のような気がしたのか、それすらも不明であった。
「いつも、小さな一室で洋服を売ってきた」
「うん。仕事のことなら」
「それをずっとしたかったんだけど、それがずっとこんなに長く続くとも思っていなかった」
「裁量があったんだろう」
「好きだったけど、娘のこともあった。あの子を大きくする必要もあったから」
「結果として、大きくなった」
「もっと開放感があると思っていたけど、やはり、どこかで心配だし、まだまだ大人になるまで待たなければならないのかも」
「なんとか、うまくやるだろう。雪代の娘なんだから」
水平線から色が消え、ぼくらは少し涼しくなった戸外から車に戻った。
「ああいう大きなものを見ると時間の観念が狂って、なんとなく会えなくなってしまったひととかのことを思い出すね」雪代はそう発言したが、前を見て運転しているぼくには彼女の表情までは分からなかった。
「例えば?」
「さあ、特にはいないんだけど。言えなかった感謝の言葉とかを言えば良かったなとか、すごく単純なことで」
「島本さんとか?」ぼくは彼女の前の夫の名前をだす。
「ぜんぜん。彼は颯爽と消えるということを運命付けられたひとだから」
「そういうもんかね」しかし、ぼくも彼に対して同じような印象を持ち続けていた。生きるという毎日の事務的な作業にもっとも似つかわしくないひととして。
「いない?」
「いるとは思うけど」ぼくは運転の集中を途切れさせないようにしていた。
「あのひとは? もう10年も前になるんだね。酔っ払って、絡んできたひろし君。あのときに少し嫉妬した。もし、わたしと別れたら、彼はあれぐらい悲しむのだろうかって? どうだったと思う?」
「ぼくは一回、雪代と別れているよ。そのときの荒れ様もひどかった」だが、実際には思い出せなかった。それに多分していなかった。もっと深い部分での落ち込みだった。すると、外に向かって荒れたりするのは、あれはポーズなのだろうか。ひとが悲しんだときの最後に結晶として小さな粒のように残るのは、静かに沈んでいくことなのか。
それから20分ほど運転するとホテルに着いた。ぼくらは交互に大浴場に行き、それぞれの汗を流した。夕飯は広間だがきちんと区割りされた席で夕飯を食べた。ぼくに、このような穏やかな時期が来るとも思っていなかった。大人になり、自分で稼ぎ、愛すべきひととそこにいた。ぼくらの若さの一部は消滅し、お互いを労わるような気持ちにもなっていた。子どもももうそばにはいない。あくせく何かを求める必要もない。その場所でぼくはそんなことをためらいもなく、とりとめもなく考えていた。
ぼくは雪代という女性と知り合ってから30年近くが経った。その関係もこんなに長くつづくとも思っていなかった。それを望んでいたのかも分からない。ただ結果として、ぼくらは自分の家から離れた場所で、他人から見たら夫婦以外の何者でもない姿と形として、ここにいる。ぼくは先ほど言った雪代の言葉を思い出していた。会えなくなっても感謝の言葉を伝えたいひと。それは、その30年前の雪代に対して、大きなものを背負わせてしまってすなまかった、というようなセリフをあげ、ぼく自身には辛らつなことを経験しながらも、こうした穏やかな日が来るのだから一日一日をしっかりと生き延びてほしい、そのような安心感を与えることばを残したかった。だが、そのどちらもできない。自分たちは現在を中心に生きることしかできず、ただ、思い出すことと後悔を混ぜた過去しか手に入れることはできないのだ。だが、それでも雪代を前にして薄いウイスキーを飲みながら、そう考えているのは悪いことではなかった。
それで、夜も終わり朝になった。ぼくらはひとがまばらな朝市をのんびりと歩いている。なにかを猛烈に欲しないという気持ちを体現しているような気持ちだった。だが、雪代は職場の仲間にお土産を買う算段をしていた。それに連られ、ぼくも何人かの顔を思い浮かべる。最近は実家にも寄り付いていなかった。彼らもぼくらの気持ちを、自分の子どもが旅立ったという経験からくるしとやかな暴風のあとのような気持ちを味わっていたのだ。ぼくは彼らにも伝えられなかった言葉があるのか確かめるように思案していた。勝手に女性と過ごした大学生の時代があり、東京で以前の恋人をこれまた勝手に結婚相手に決めていた。自分の都合で大きくなりかけた少女を持つ女性と再婚した。彼らは、それでもぼくを否定しなかった。それは無責任によるものなのだろうか、それとも、自分の息子を信じていたからなのだろうか。ぼくは歩きながらお土産になるべき品物を手に取り、その両親の気持ちの重さのようにそれを軽く揺すっていた。