壊れゆくブレイン(110)
それぞれの人生がすすみつづけていた。ぼくだけが背中の痒みを忘れられないひとのように、たえず自分の過去を振り返っていた。爪で皮膚を掻いては傷口を開き、そして、作られたかさぶた自体にも愛着を感じていた。しかし、化膿することもない。そうなるには既に過去は遠過ぎた。
ぼくは会社の昼休みに外でラーメンを食べている。壁のうえのテレビのチャンネルは変わることなく、いつもの昼のニュースが流れていた。全国の放送が終わり、地方のローカルのニュースになった。どこかで火事があり、どこかで食中毒の疑いがあった。それから、ぼくは聞き覚えのある名前を耳にする。不正な資金を、とか、会社に流用、という言葉が使われていたと思う。そして、裕紀の兄がいる企業の名前が流れた。もともとが大きな会社を引き継いでいた。段々と日本の経済が傾きかけ、彼の会社も苦しい立場に追い込まれていったのだろう。だが、まだ疑いに過ぎなかった。ぼくは、美緒という彼の娘のことを考える。そして、彼女のもつ生真面目な雰囲気が消えないで残ってほしいと思っていた。それで、真相を知らないながらも、容疑が晴れることを切に願った。その願いは不謹慎なことにつながるのかもしれないし、正しいことなのかも確認できなかったのだが。
いつまでもニュースを見ているわけにはいかない。何人かが店の前で列をつくっていた。ぼくは食べ終わると直ぐにそこを後にした。だから、具体的なニュースの経緯はよく把握できないままだった。
それ以降、夜のニュースでも続報はなく、次の日には新聞にも載らなかった。立証できない事実があるのか、何かの根回しが裏であるのかは判断できない。それで、数日もするとぼくはそのことを忘れた。
それから何日かして、ぼくは噂を耳にする。裕紀の兄と周辺は不正を働いたこともなく、ただ、第三者がした罪を彼の名前に転嫁させて証拠を覆い尽くそうとしただけのようだった。だが、そういう不安定な要素が彼の周りにただよい出したということは否めないようだった。それと同様に、ぼくらの会社も景気の煽りを浴びていた。誰も、社長の名誉を汚すことは望んでいなかったので、危ない道は渡らなかったが、一歩間違えれば、自分たちも同じ立場にいるような危うさも確かにあったのだろう。
ぼくらは過去の繁栄も忘れるようになっていた。また、ある面では美化して懐かしむこともあるようだった。経済についての話だが、ぼくが裕紀のことを思い出すことと、それはよく似ていた。過去の輝かしき日々は美しいものだった。だが、ぼくらは節約の時代に入る。ぼくと雪代の毎日も高い頂上もなければ、崖の底にいるようなこともなかった。ただ、なだらなか道をきちんと靴底で確認するような日々だった。足元に咲いている小さな花を愛で、そのことを見つめ合いながら評価した。
「雪代の店は、大丈夫なの?」
「そこそこだよ。そんなに大きく儲けることもないけど。いまは、なんだか趣味みたいなものになってる。従業員の心配もあるけどね。ひろし君の会社は?」
「大量にリストラというほど、手広くやってないし。段々とスマートな会社に変わってきたから」
社長が亡くなった後に、会社は転換をせまられた。無駄なものは削ぎ取り、これから必要とするものに肉付けしていった。それで、大きな波にも転覆することはなく、足場をしっかりと固めていた。子どもの教育費もあと数年で終わる。人生に博打を感じることもなく、ただ家族通しで適度に遊ぶトランプのように小さな喜びや起伏があるぐらいの毎日だった。
そんなある夜、広美の部屋に置いてある聞かなくなったCDを雪代はかけはじめた。ぼくらに最先端の音楽は必要ではなく、そのような数週遅れの音楽がふたりのこころにぴたっとはまった。その若かったメンバーで構成されていたグループは早々に解散をしていた。グループが分解しても、そのような音楽が残っていることをマジックとも奇跡ともぼくは感じていたようだった。それは背中の痒みではなく、勝利の誇らしいゼッケンのようだった。
「いい曲なんだね」ぼくは音が途切れると、そう言った。
「もう一回だけ聴く?」
「うん。ぼくがやるよ」リモコンが手元になかったため、ぼくは機械の前まで行き、指先でボタンを押した。またモーターが回転する音が聞こえ、スピーカーから音が出た。何度も再生が簡単にできるものたち。ボタンひとつで、もう一度ぼくらの前に出現する。誰かが聞かなくなった音楽ですら力を及ぼすのだ。自分の思い出なら尚更そうだろう。
「何で、もって行かなかったんだろう?」雪代は疑問を発する。CDのケースの裏側を眺めながら。
「そういうのは、データで身近にほとんどあるんだろう」
「そうか。はじめて買ったレコードってなに?」
「なんだったろう、忘れたな。妹がいっぱい買ったのは、もうCDだったような気がするな」
「物にこそ思い出ってあると思わない? はじめてダウンロードした曲は、なんて質問、そんなの興醒めな感じね」
雪代がそう言う。すると二回目の再生も終わった。ぼくらはもうどちらも立ち上がらなかった。多分、ふたりとも頭のなかでむかしの音楽を鳴らしていたのだろう。それは無数にあり、しかし、本当の所、こころの奥にあるのは一曲か、二曲だけだったようにも感じていた。その数曲が、ぼくらの今後をいつまでも温めていくのだろう。
それぞれの人生がすすみつづけていた。ぼくだけが背中の痒みを忘れられないひとのように、たえず自分の過去を振り返っていた。爪で皮膚を掻いては傷口を開き、そして、作られたかさぶた自体にも愛着を感じていた。しかし、化膿することもない。そうなるには既に過去は遠過ぎた。
ぼくは会社の昼休みに外でラーメンを食べている。壁のうえのテレビのチャンネルは変わることなく、いつもの昼のニュースが流れていた。全国の放送が終わり、地方のローカルのニュースになった。どこかで火事があり、どこかで食中毒の疑いがあった。それから、ぼくは聞き覚えのある名前を耳にする。不正な資金を、とか、会社に流用、という言葉が使われていたと思う。そして、裕紀の兄がいる企業の名前が流れた。もともとが大きな会社を引き継いでいた。段々と日本の経済が傾きかけ、彼の会社も苦しい立場に追い込まれていったのだろう。だが、まだ疑いに過ぎなかった。ぼくは、美緒という彼の娘のことを考える。そして、彼女のもつ生真面目な雰囲気が消えないで残ってほしいと思っていた。それで、真相を知らないながらも、容疑が晴れることを切に願った。その願いは不謹慎なことにつながるのかもしれないし、正しいことなのかも確認できなかったのだが。
いつまでもニュースを見ているわけにはいかない。何人かが店の前で列をつくっていた。ぼくは食べ終わると直ぐにそこを後にした。だから、具体的なニュースの経緯はよく把握できないままだった。
それ以降、夜のニュースでも続報はなく、次の日には新聞にも載らなかった。立証できない事実があるのか、何かの根回しが裏であるのかは判断できない。それで、数日もするとぼくはそのことを忘れた。
それから何日かして、ぼくは噂を耳にする。裕紀の兄と周辺は不正を働いたこともなく、ただ、第三者がした罪を彼の名前に転嫁させて証拠を覆い尽くそうとしただけのようだった。だが、そういう不安定な要素が彼の周りにただよい出したということは否めないようだった。それと同様に、ぼくらの会社も景気の煽りを浴びていた。誰も、社長の名誉を汚すことは望んでいなかったので、危ない道は渡らなかったが、一歩間違えれば、自分たちも同じ立場にいるような危うさも確かにあったのだろう。
ぼくらは過去の繁栄も忘れるようになっていた。また、ある面では美化して懐かしむこともあるようだった。経済についての話だが、ぼくが裕紀のことを思い出すことと、それはよく似ていた。過去の輝かしき日々は美しいものだった。だが、ぼくらは節約の時代に入る。ぼくと雪代の毎日も高い頂上もなければ、崖の底にいるようなこともなかった。ただ、なだらなか道をきちんと靴底で確認するような日々だった。足元に咲いている小さな花を愛で、そのことを見つめ合いながら評価した。
「雪代の店は、大丈夫なの?」
「そこそこだよ。そんなに大きく儲けることもないけど。いまは、なんだか趣味みたいなものになってる。従業員の心配もあるけどね。ひろし君の会社は?」
「大量にリストラというほど、手広くやってないし。段々とスマートな会社に変わってきたから」
社長が亡くなった後に、会社は転換をせまられた。無駄なものは削ぎ取り、これから必要とするものに肉付けしていった。それで、大きな波にも転覆することはなく、足場をしっかりと固めていた。子どもの教育費もあと数年で終わる。人生に博打を感じることもなく、ただ家族通しで適度に遊ぶトランプのように小さな喜びや起伏があるぐらいの毎日だった。
そんなある夜、広美の部屋に置いてある聞かなくなったCDを雪代はかけはじめた。ぼくらに最先端の音楽は必要ではなく、そのような数週遅れの音楽がふたりのこころにぴたっとはまった。その若かったメンバーで構成されていたグループは早々に解散をしていた。グループが分解しても、そのような音楽が残っていることをマジックとも奇跡ともぼくは感じていたようだった。それは背中の痒みではなく、勝利の誇らしいゼッケンのようだった。
「いい曲なんだね」ぼくは音が途切れると、そう言った。
「もう一回だけ聴く?」
「うん。ぼくがやるよ」リモコンが手元になかったため、ぼくは機械の前まで行き、指先でボタンを押した。またモーターが回転する音が聞こえ、スピーカーから音が出た。何度も再生が簡単にできるものたち。ボタンひとつで、もう一度ぼくらの前に出現する。誰かが聞かなくなった音楽ですら力を及ぼすのだ。自分の思い出なら尚更そうだろう。
「何で、もって行かなかったんだろう?」雪代は疑問を発する。CDのケースの裏側を眺めながら。
「そういうのは、データで身近にほとんどあるんだろう」
「そうか。はじめて買ったレコードってなに?」
「なんだったろう、忘れたな。妹がいっぱい買ったのは、もうCDだったような気がするな」
「物にこそ思い出ってあると思わない? はじめてダウンロードした曲は、なんて質問、そんなの興醒めな感じね」
雪代がそう言う。すると二回目の再生も終わった。ぼくらはもうどちらも立ち上がらなかった。多分、ふたりとも頭のなかでむかしの音楽を鳴らしていたのだろう。それは無数にあり、しかし、本当の所、こころの奥にあるのは一曲か、二曲だけだったようにも感じていた。その数曲が、ぼくらの今後をいつまでも温めていくのだろう。