壊れゆくブレイン(89)
ぼくはまた仕事で東京に行った。そして、裕紀の叔母に会った。
「娘も東京の大学で勉強することになりました」との簡潔な報告をぼくは彼女にした。
「心配?」無限な喜びを恐れるかのように彼女は訊く。
「そうでもないですけど、そこでしか勉強できないタイプのものもありますし」
「家族を手に入れても、また直きに別れて生活するようになるんですね」
「多分、そういうことが生きるっていうことなんでしょうね。カプセルに閉じ込めておくわけにもいきませんしね。いくら楽しくても」だが、ぼくは裕紀との生活をそのような形態に閉じ込めようと考えていた。もちろん、いくつかのことは成功し、いくつかのことには失敗する。「でも、いまという現在に進行する生活があるのがいちばんです。離れていても、どこかで新たな生活を作り上げている」ぼくは自分のことを語りすぎているきらいがあって、恥ずかしくなった。「病気のほうは、もう良くなったんですか?」彼女は少し前まで容態をくずして入院していた。
「一進一退です。のこりのおやつをどうやって長持ちさせるのかを楽しむ子どものように」彼女は悲しく微笑む。「いつかなくなることは知っているのに」
ぼくは自分の過去に知り合ったひとびととの縁で彼女とこうしてたまに会った。その近すぎることもなく、遠くになりすぎることもない関係すら、永続ができるという信念をもっていた。だが、それもいずれ絶たれ、ぼくから消える。その前に、たくさんのことを話しておく必要がある。
「そうだ、裕紀の手紙を叔母さん、持ってますか?」
「どうして?」ぼくは、その理由が言えない。ただ、第六感が発達しているひとの言葉を鵜呑みにしているので、とそれは言うことになるからだ。
「ぼくは、ほとんど持っていないので、彼女がどのような気持ちでいたのか全然知らないから」
「わたしの家にもそんなにはない。あっても、それは感謝の言葉とかが書いてある短いもので、ひろしさんに敢えて読んでもらうような内容じゃない」
「そうですか」
「でも、そんなのはもういらないんじゃないかしら?」
「そうかもしれません」ぼくは時計を見る。仕事の約束があり、そこに間に合うように行くには、そろそろ出掛けなければならない。
ぼくは彼女と別れる。永遠というものは何一つないのだということを実感する。店の外から眺めると彼女はまだ椅子に座り、カップを握り締めていた。その様子はどこかで裕紀とよく似ていた。裕紀も多分、もっと年を取れば、ああいう横顔になっていたのだろう。当然、それはぼくが知りえない範疇の事柄なのだ。
そこから支社に戻り、仕事を片付けた。新たな見慣れない社員の顔を見て、ぼくは年度が入れ替わったのを知る。夕方までそのまま仕事を済ませ、ぼくの携帯電話が鳴る。それを机の上から取り上げると、広美の名前が明滅していた。ぼくは待ち合わせの場所を教えてもらい、定時に上がると、そこに向かった。
店は二階にあった。だが、外から窓を通して広美の姿が見えた。彼女を見る機会は減ったことによって、ぼくはよりその姿を客観視して見ることができた。すると、その姿は母親の雪代に似ていた。当然といえば、当然だった。ぼくは、こうしてその日、裕紀がなったであろう姿を彼女の叔母に発見し、雪代の若かった頃の様子をその娘に追い求めたのだった。
階段をのぼり店に入ると、瑠美も横にいた。
「親が行かなかったのに、引越しの準備とか後始末とか手伝ってもらって、ありがとう」と、ぼくは礼を述べた。彼女は素直に返答としてうなずいた。
「だから、今日は、おごってあげて」
「いいよ、もちろん」
ぼくは出張に来ると、会社の仲間か、もしくはひとりで夕飯を食べた。今回がはじめて広美といっしょの食事を共にすることになった。これがずっと続くことになるのか、やはり、彼女も自分だけの生活ができ、疎んじられてしまうのかは分からなかった。だが、今日は今日であればよいのだ。将来のことはぼくの頭から簡単に抜け出て、すべての考えを先延ばしにした。
「ママ、元気?」
「あのままだよ。ちょっとほっとしているけど。そうだ、部屋は片付いた?」
「たまに遊びに行きますけど、きれいですよ」瑠美が言った。
「家では、そんなに掃除をしなかったのに」
「してたよ。名誉毀損」ふたりは笑った。ぼくはビールを飲み、自分が若い女性たちを見守る立場が来るという自体に少し馴染めないことに気付いていた。そもそも、このふたりとは他人でずっと過ごす間柄でもあったのだ。雪代の娘として広美と付き合うことになり、その友人として若い女性がいた。裕紀の叔母も、はっきりと言えば他人だった。ぼくは、この日をそういう微細な糸で紡がれた関係を確かめるために東京に出て来たようだった。
「この前、写真を見たよ」
「これで撮った」と広美はバックからカメラを取り出した。それはずっしりと重そうな形状と黒光りする色を発していた。「センスがいいって」
「じゃあ、そのセンスの良さをこれからも発揮して、たくさん送ってきてよ」
「送ってあげなよ」と瑠美も同調してそれを促した。
ぼくはまた仕事で東京に行った。そして、裕紀の叔母に会った。
「娘も東京の大学で勉強することになりました」との簡潔な報告をぼくは彼女にした。
「心配?」無限な喜びを恐れるかのように彼女は訊く。
「そうでもないですけど、そこでしか勉強できないタイプのものもありますし」
「家族を手に入れても、また直きに別れて生活するようになるんですね」
「多分、そういうことが生きるっていうことなんでしょうね。カプセルに閉じ込めておくわけにもいきませんしね。いくら楽しくても」だが、ぼくは裕紀との生活をそのような形態に閉じ込めようと考えていた。もちろん、いくつかのことは成功し、いくつかのことには失敗する。「でも、いまという現在に進行する生活があるのがいちばんです。離れていても、どこかで新たな生活を作り上げている」ぼくは自分のことを語りすぎているきらいがあって、恥ずかしくなった。「病気のほうは、もう良くなったんですか?」彼女は少し前まで容態をくずして入院していた。
「一進一退です。のこりのおやつをどうやって長持ちさせるのかを楽しむ子どものように」彼女は悲しく微笑む。「いつかなくなることは知っているのに」
ぼくは自分の過去に知り合ったひとびととの縁で彼女とこうしてたまに会った。その近すぎることもなく、遠くになりすぎることもない関係すら、永続ができるという信念をもっていた。だが、それもいずれ絶たれ、ぼくから消える。その前に、たくさんのことを話しておく必要がある。
「そうだ、裕紀の手紙を叔母さん、持ってますか?」
「どうして?」ぼくは、その理由が言えない。ただ、第六感が発達しているひとの言葉を鵜呑みにしているので、とそれは言うことになるからだ。
「ぼくは、ほとんど持っていないので、彼女がどのような気持ちでいたのか全然知らないから」
「わたしの家にもそんなにはない。あっても、それは感謝の言葉とかが書いてある短いもので、ひろしさんに敢えて読んでもらうような内容じゃない」
「そうですか」
「でも、そんなのはもういらないんじゃないかしら?」
「そうかもしれません」ぼくは時計を見る。仕事の約束があり、そこに間に合うように行くには、そろそろ出掛けなければならない。
ぼくは彼女と別れる。永遠というものは何一つないのだということを実感する。店の外から眺めると彼女はまだ椅子に座り、カップを握り締めていた。その様子はどこかで裕紀とよく似ていた。裕紀も多分、もっと年を取れば、ああいう横顔になっていたのだろう。当然、それはぼくが知りえない範疇の事柄なのだ。
そこから支社に戻り、仕事を片付けた。新たな見慣れない社員の顔を見て、ぼくは年度が入れ替わったのを知る。夕方までそのまま仕事を済ませ、ぼくの携帯電話が鳴る。それを机の上から取り上げると、広美の名前が明滅していた。ぼくは待ち合わせの場所を教えてもらい、定時に上がると、そこに向かった。
店は二階にあった。だが、外から窓を通して広美の姿が見えた。彼女を見る機会は減ったことによって、ぼくはよりその姿を客観視して見ることができた。すると、その姿は母親の雪代に似ていた。当然といえば、当然だった。ぼくは、こうしてその日、裕紀がなったであろう姿を彼女の叔母に発見し、雪代の若かった頃の様子をその娘に追い求めたのだった。
階段をのぼり店に入ると、瑠美も横にいた。
「親が行かなかったのに、引越しの準備とか後始末とか手伝ってもらって、ありがとう」と、ぼくは礼を述べた。彼女は素直に返答としてうなずいた。
「だから、今日は、おごってあげて」
「いいよ、もちろん」
ぼくは出張に来ると、会社の仲間か、もしくはひとりで夕飯を食べた。今回がはじめて広美といっしょの食事を共にすることになった。これがずっと続くことになるのか、やはり、彼女も自分だけの生活ができ、疎んじられてしまうのかは分からなかった。だが、今日は今日であればよいのだ。将来のことはぼくの頭から簡単に抜け出て、すべての考えを先延ばしにした。
「ママ、元気?」
「あのままだよ。ちょっとほっとしているけど。そうだ、部屋は片付いた?」
「たまに遊びに行きますけど、きれいですよ」瑠美が言った。
「家では、そんなに掃除をしなかったのに」
「してたよ。名誉毀損」ふたりは笑った。ぼくはビールを飲み、自分が若い女性たちを見守る立場が来るという自体に少し馴染めないことに気付いていた。そもそも、このふたりとは他人でずっと過ごす間柄でもあったのだ。雪代の娘として広美と付き合うことになり、その友人として若い女性がいた。裕紀の叔母も、はっきりと言えば他人だった。ぼくは、この日をそういう微細な糸で紡がれた関係を確かめるために東京に出て来たようだった。
「この前、写真を見たよ」
「これで撮った」と広美はバックからカメラを取り出した。それはずっしりと重そうな形状と黒光りする色を発していた。「センスがいいって」
「じゃあ、そのセンスの良さをこれからも発揮して、たくさん送ってきてよ」
「送ってあげなよ」と瑠美も同調してそれを促した。