爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(94)

2012年08月13日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(94)
 
「犬でも飼う?」ぼくと雪代は外を歩いていて、すれ違ったひとが連れていた犬が可愛かったため、彼女はそう口にした。でも、本物の願いでもないようだった。
「何かを育てたい症候群じゃないの?」ぼくはそのまま歩きながら言った。
「何それ?」怪訝な表情を彼女はする。
「広美がいなくなったことへの後遺症がでているんじゃないの」

「じゃあ、庭弄りでもしようかしら・・・」
「庭なんかないのに?」ぼくらはマンションの上階に住んでいた。
「どっかで借りて。菜園とか」
「なに作るの?」ぼくはその話題をもてあそんだ。
「ズッキーニとか。そうだ、買わなきゃ」育てることより手っ取り早い方法があった。雪代はスーパーでその青い匂いのするものを何本か手に持って比べていた。それを使って何が作られるのかをぼくは考えていた。

「直ぐに孫でもできるよ」
「まさか? 東京で会ったときに、そんな話がでたの?」雪代は重さと未来の味覚に納得したかのように野菜を買い物カゴに入れながら言った。
「でてないよ。ただの一般論」
「ひろし君も孫を抱くんだ。おじいちゃんだ。いつかだけどね」

 ぼくはその意見に不公平感をおぼえた。誰か小さな子をぼくは一から育て上げた経験がなかった。それで、自分にその役回りが与えられるのに、かすかな抵抗を感じたのだろう。そもそも、ぼくはおじいちゃんであるのか。それとも、もっと相応しいその役目の呼び名があるのだろうか。

 ぼくは裕紀との間にも、雪代との間にも子どもができなかった。不思議とその居心地が良かったこともあるが、ずっと裕紀にたいしては申し訳ない気持ちを抱きつづけていた。いまさら、ぼくだけが父親になって、最愛のものを抱いて満足しているということにやり切れなさがあったのだろう。それはぼくに対する不公平というより裕紀に対しての不公平でもあった。だが、いずれ孫ができる可能性は当然のことあるのだ。それでも、ぼくにとっては遺伝子的に無関係な存在である。愛情を注ぐことはできる。では、愛情と遺伝子ではどちらのほうが深いものを示せるのか、ぼくはその判断を慎重にしようとした。でも、当てのない未来のことは判断をする材料も乏しいものだったので直ぐに頭のすみに追いやった。

 ぼくらはスーパーを出て、いつもの店でコーヒーを飲んだ。もうその店にも30年近く通っていた。大きなスピーカーはずっと居場所を変えることなく、品の良い音を出していた。それは、主人の隠れた執念のようなものだった。ピアノの理想の音があり、いつも、合格点を越えている律儀でありまた反対に音楽が開放されるところでもあった。暑い夏も、冷たい木枯らしが吹く季節も、そこだけは常春のような音楽が放たれる安息地のような場所だった。もちろん、30年前はそんなことに気付きもしなかったのだが。

「ここで、そういえば、ひろし君、広美を抱いたね」
「柔らかい物体だった。その子とのちのち親密な関係を作るとも、あのときは全然思っていなかった」
「ただ泣いているだけ」
「あのときは大人しかったよ。会話はできなかったけど」
「言葉って、どこで覚えるんだろうね?」
「さあ。ずっと耳を澄ましているんだろうね。いつか、使える日を夢見て」

 ぼくは会話をしながらもピアノの音に耳を傾けていた。それを同じように自由自在に奏でたり、使えるまで訓練することを望んではいない。ためらいでもない。ただ、耳を傾けている。また、同時にこの前に会った大学がいっしょだったと漏らした男性のことも考えていた。彼に言葉は必要であるのか。ぼくと彼が使う言葉の数は違っている。耳に入ってくる他人の声の量も違う。ぼくらはその発する声の質や、微妙な感情の揺れや、高低を的確に判断する。言葉だけを覚えているのではない。その発した温か味も覚えこんでいるのだ。そのうちのひとりの数十年の声の蓄積が与えられたことにぼくはなぜだか感謝がしたかった。ひとりの声。思い出というものの形態のひとつの入り口と出口に声が関わっていた。

「お嬢さんは、東京に?」店主は会計のときに話しかける。彼も赤ん坊の姿の広美を記憶している。
「東京でしか習えないことがあるんですって。だから、いまはこうしてふたりで」
 雪代は言ったが、三人でこの店に来たのは、思い出すのが困難なほど遠い昔のようだった。
「大人になってくれるって、いいことですね。でも、一抹のさびしさもある」

 彼は代わらないコーヒーの味を維持しつづけている。音楽に求めているものも一定の水準で保っている。だが、ひとの成長を止める方法は知らないし、成長そのものを美しいこととして認識している。ぼくはその矛盾した考えに馴染もうとした。それは最初から矛盾ではないのかもしれない。明日も同じものを求めようとすることは貴重な変化でもあり、成長をも伴うものなのだろう。それで、ぼくはいつか孫と呼べるものを抱く。この店でまだ小さな広美を抱いたように。その姿は裕紀に対して不公平という感覚は与えそうもなかった。その選別や境界はどこにあるのかは分からない。ぼくの手にするものは、ぼくの手を通っていない。

「これ、持ってくれる?」とスーパーの袋を雪代は差し出した。ぼくは彼女からの荷物を預かり、家で彼女が調理する。ズッキーニという響きを楽しむかのようにぼくは口にした。まだ学生のころ、檸檬をどこかに故意に置き忘れるという内容が教科書に載っていた。それは洗練され垢抜けた言葉として若いこころに迫った。それと同じようにぼくは再度袋のなかの品の名前を口にした。
コメント
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