爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(101)

2012年08月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(101)

 ぼくは自宅で姪から借りた冊子を手に取った。パラパラとページをめくり、美緒の名前を探した。それは直ぐに見つかった。ぼくはソファのうえに身体を横たえ、行儀悪い読み方だなと思いながらも、その体勢こそがいまはいちばんしっくりしているようにも感じた。だが、ぼくは読み始めることをしなかった。起き直して、冷蔵庫の前まで行き、ビールを取り出し、ひと口飲んで、またさっきの姿勢にもどった。頭上にはきちんと印刷された文があり、横のテーブルには缶のビールがあった。だが、きれいな印刷された文字で読むより、ぼくは美緒の手書きの文字でも読みたかった。さまざまな難癖を見つけては、ぼくはその作業を先延ばしにしようとしていたのかもしれない。だが、それもついには終わり、ぼくは最初から読み出した。

「家族のアルバムを見ることは誰しもの楽しみかもしれません。わたしにとってもそうでした。両親は几帳面にわたしの成長の記録を残してくれました。赤ちゃんの髪が伸び、可愛らしいリボンがつけられます。自分のだけではなく、家族の分も見せてもらいました。すると、たまにしか会わない親戚のひとの顔も段々と覚えるようになりました。幼いわたしは両親にひとりひとりの名前をたずね、来年のお正月や夏休みに会ったときは、きちんと彼らの名前を呼んで挨拶しようとこころに誓いました。

 ひとりの女性がいます。そのひとは父の妹でした。わたしがそのひとのことを訊こうとすると、両親は困ったような様子を浮かべます。あとで分かることですが、彼女は若いときに病気で亡くなってしまったようです。わたしも何度か会ったそうですが、残念ながらそのときの記憶があまりありません。

 その女性の名前ももちろん覚えましたが挨拶することは当然できません。だけど、他のひとがその名前を口にするのが自然と耳に入ってきます。彼女の名前はわたしと結びつけるのに好都合のようでした。なぜならわたしたちの外見はとても似ているらしいのです。

 わたしも大きくなり、自分の写真も増えました。髪形もかわり、洋服も徐々に大人に近いものを着るようになります。そのような時期にふと古い写真を見ると、わたしは彼女に近い容貌をしていることに指摘されなくても気付きました。わたしはそれを恐れるようになります。彼女に似れば似るほど、わたしは彼女と同じような短い人生しか待っていないのではないかという恐れでした。ひとは何かを学ぶときにはお手本が必要になります。良い見本は、悪い模倣になることはなく、良い本質を受け継ぐようになると思います。わたしの叔母のことを誰しもが誉めました。そのころの自分は反対にいたずらばかりを繰り返す子どもでした。だから、その女性の前例を見習う自分は、彼女の辛いところだけを引き継ぎ、若くして病気になるのだ、という幼いこころを不安に陥れるほどの心配に囚われていきました。

 ある日、わたしはそのことを母に告げます。あなたは、あなたというひとつの存在なのだから、全部、誰かと同じ人生を歩むことはないとはっきりと言ってくれました。また手足の長さがそれぞれひとりひとり違うように、同じことはしたくてもかえってできないものだとも説明してくれました。そういう視点で写真を見ると、わたしと叔母の差異も目につくようになります。唇の形も違いますし、目のまわりの表情も異なっています。しかし、それはパーツの問題であって、全体から受ける印象は相変わらず似ていたままでした。

 わたしはさらに成長をつづけます。叔母の変化はこれ以上、アルバムに加わることはないのです。わたしは考え方自体を転換させようと思いました。彼女は幸せな結婚をしたとも聞きました。若いときに両親を亡くす不幸もありましたが、わたしの両親は元気でいろいろなことを応援してくれています。留学したことが生かされ英語にも堪能で、東京できちんと働いていたようです。わたしは悪い前例をすべて忘れてしまい、彼女の良い模範となるべく長所を見つけようと決心しました。同じように英語を学び、同じように仕事でも誇りをもって頑張るのだ。でも、なるべくなら、彼女みたいなひとから英語を教わりたかったな、と弱気になることもあります。それで、これからもいまはいないのですが、彼女の良かったところをほかのひとにも訊きまわり、良い前例の確かな証拠を収集したいです。それで、いつかわたしに似ていると言われるかもしれない女の子たちの見本になれるような女性に自分もなりたいと思います。」

 ぼくは一度読み、さらにビールを飲み、また二度読んだ。

 しばらくひとりで天井を見上げていた。裕紀の美点をぼくは知っている。それを知らずに終わる人々が世界のほとんどなのだということも大人の理性で知っている。だが、それを真摯に知りたいという気持ちをもっている少女がいたことにも驚いている。ぼくの姪もそういう気持ちをもっていた。その若いふたりは自分の未来を恐れていた。だが、恐れる必要などまったくないのだとぼくは言ってあげたい。でも、それは言葉として期待に応えられるほど伝わってくれないのかもしれない。自分でただ勝ち取るしか方法はないのだろう。ぼくが、あの裕紀を失ったばかりの日々から抜け出せたように。

「前例を恐れない」という題名だった。ぼくはその冊子を閉じ、自分の部屋の机に置く。ぼくは美緒という女性が大人になったときのことを考える。いつか恋をする。信頼の置けない自分みたいなひとに会わないことを願う。病気などしない健康な身体をもっていることも望んだ。しかし、そこまでだった。裕紀の未来が停まったように、美緒という女性が白髪になったり、腰を曲げて歩くということは想像できない。実際、そうなるにはあまりにも未来は長過ぎた。また反対にあまりにも人生は早過ぎ、疾走する馬を捕まえられないような不安感もぼくに与えた。

流求と覚醒の街角(3)駅

2012年08月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(3)駅

 ぼくは駅にいる。

 毎日、大勢のひとびとを目的地に連れて行くべき起点となり、帰るべき家への経由地となる駅。ぼくは会社の仲間が京都駅と品川駅が似ていると言ったことを思い出している。駅という目的柄、同じような形状や構造が求められるのではないかと、単純に、ぼくはその発言の趣旨を捉えていた。ぼくは待ち合わせのために、そこにいる。不特定多数のひとがそこを通り、ぼくはそのうちのひとりと約束がある。そのこと自体を奇跡と認識する。奇跡を起こすために、もう数十分だけ先延ばしにするだけの余裕が必要となる。

 駅にいる。ぼくは過去に大好きになった女性がいた。そのひと以上にぼくは誰かを愛せないと決めていた。オルセーという名前の美術館にいっしょにいる。そこは、もともとは駅舎だったらしい。電車は大勢のひとびとを運ぶ。用途のために車両は延びる必要があり、その耐用に間に合わない施設がある。オルセーも同じような運命に遭う。結果として美術館として再利用され、再利用のほうにぼくらはより親しみを感じる。

 その女性が、「男と女」というフランス映画を教えてくれた。駅にいる女性。レースをする男性が車で戸惑いながらもそこに駆けつける。ダバ・ダバ・ダ。ぼくは、ひとり誰にも聞こえないようにメロディーを口ずさむ。お互いが傷を抱えながらも新たな生活と喜びを模索する映画だった。初恋など結局はひとつの通過駅に過ぎないのだとあらかじめ示されたのだ。ぼくとその最初の女性にとっても。

 ソフィア・ローレンは列車で、いなくなった夫を求めてさすらう。ひまわり畑。ヘンリー・マンシーニの美しすぎる音楽。彼女は映画をよく観た。ぼくは、彼女の部屋で古い映画のコレクションをいっしょに楽しむ。

 「さよなら子供たち」という映画もそこにある。列車はどこからかひとを運び、どこかへひとを連れ去ってしまう。行く先がもう戻れない場所だってあったのだ、過去には。ある人種には。

 電車が何台か停まり、その度にひとびとを改札口から吐き出す。また一段落すると、同じように一群のひとびとを送り出す。家が待っており、家族がいる。ひとり暮らしのひとは、自分のしたかった趣味のために、我が家へ戻る。その通過点としての駅。

 ぼくは志賀直哉という小説家が残したものの中で、駅で主人公に女性を蹴らせるという場面があったことを思い出している。それを、あんまりだと思いながらもリアルに感じていた過去のことを、不思議といまよみがえらせていた。電車に乗ろうとしながら、それを拒否する主人公。なぜ、それをいま思い出す必要があったのだろう。ぼくはただ来ない女性を待っているだけなのに。

 駅の時計はどこよりも正確だ。それは何人ものひとの動きに関係する。会社に遅れればあるひとの効率が奪われ、待ち合わせに遅れれば信用にも関わる。しかし、奈美はまだ来ない。

 ぼくは「天国と地獄」という黒澤映画まで思い出している。走り行く列車の窓の隙間からその用途のために加工された薄いカバンを誘拐犯に渡す身代金をつめこみ投げ落とす。列車は走りつつ、その行方を追わない。緊迫した白黒の場面。ひとを運ぶためのものが、そのカバンがある地点から動かないということのために使われる。次に移動するのは拾ったものが足でそのカバンを安全なところに運び去るためだ。

 ぼくは待っている。何度かひとの群れを眺めた。
「ごめん、待った?」奈美があらわれる。それを待ち望んでいたのだということを忘れている。ぼくは自分の過去に知った風景や記憶をさぐることを目的としはじめていた。
「ちょっとだけね」
「今日、給料日だったんで、お金をおろすため銀行に寄ったら、長蛇の列ができていた。でも、長蛇の列ってなに?」
「順番待ちの列かな」ぼくはひとの列が曲りくねっていることを思い浮かべる。
「ごめん、なにかおごるね」

 ぼくらは駅の中を去る。だいたいだが必ず階段があり、そこをエスカレーターで降りる。飲食店がある。携帯ショップがある。洋服屋や花屋もあった。ぼくらはひとつの飲食店に入るのだろう。昼からもう6時間ほど経っている。ぼくは腕時計を見ると、それは7時28分を告げていた。

「駅について考えていたんだ」ぼくはエスカレーターを降りた地点で、横に並びなおした奈美に言った。
「時刻表とか切符の値段とか? ダイヤ改正?」
「堅苦しい響きだな。違うよ。駅を舞台にした映画とか本の話題として。何かある?」
「お母さんに連れて行ってもらった、大好きな俳優さんのモンゴメリー・クリフトの駅で別れる話。多分、母もそういう経験があるのかもしれないのね。随分と感情移入してたもん。となりで大人しく観ていた子どもの自分が気付くぐらいだから」
「ローマのテルミニ駅。終着駅。ヴィットリオ・デ・シーカ監督。なんだ、ひまわりもか」
「え、あれも、そうなの?」
「そうすると駅が好きなのかな」

 ぼくらは終着駅にたどりつく。象徴的に。でも、それはもちろん始発駅であることを同時に意味する。ひとつの恋が終わった。ぼくは、それを終着だと決め付けていた。どこにも動けない自分がいる。だが、あらたに列車は動き出す。それが連れて行く場所は分からないながらも、乗り込んでしまった以上、道中を楽しみ、窓外の景色を堪能しようとしていた。奈美はぼくの腕にからみつく。
「ここの、お店どう?」と彼女が訊く。ひまわりのような笑顔。象徴的に。