流求と覚醒の街角
(2)カフェ
ぼくは、コーヒーを飲んでいる。
日曜の2時。2時の待ち合わせ。その丁度午後の2時にウェイターはコーヒーを運んでくる。
ぼくは思案をする。ユリシーズを書くジェームス・ジョイスのように。構想を練る創作者。結局、読み終えたことはないが。ある本を読み、それを忘れ、また読み直す。また忘れる。忘れるということが、いかに大切なことか。
ぼくは奈美のことを忘れる。この20分でまた彼女の顔を作り直す。捜査のきっかけとしての表情。
サルトルとボーヴォワールがカフェで談笑している。いや、議論をしている。そういう意味と位置づけとしてのカフェ。どちらの本も読破したことはない。書くという孤独な作業と、激論という相手が必要とされる行為。その区別を彼らは、どこで区分けしていたのだろう。カフェでも書く。ぼくは、ノートの切れ端に奈美の顔を描く。うまくない。
ベートーベンは毎朝、コーヒーを飲み、自分の仕事である作曲に専念する。奈美はコーヒーを飲みながら、彼の曲を聴いていた。トントンと指先と爪でリズムをとる。首が自然に揺れる。ハミングする。彼女の中でどのような変化の一連の流れがあるのかは分からない。ただ何らしかの影響が与えられる。ぼくもそれを見て影響を受ける。この女性のこころをつかんでいるものは自分以外のものなのだ。多分だが、はっきりと。
彼女のこころが占めているもの。それは自分ではない。
となりの席に女性が座る。携帯電話の画面を見つめている。その女性のこころを占有しているもの。刺激を受けているもの。それは一体なんなのだろう?
ぼくは本を開く。しおりを抜く。つづきがある。あの私たちの愛はいつから冷え込んできてしまったのかしら? ぼくはページを戻す。出会いがある。2度と経験しない愛だと思う。だが、燃え上がる状態はつづかず、主人公たちは疑問を感じる。ぼくはページを戻す。つづきがある。
奈美はぼくが本気になった二人目の女性だった。あの気持ちを自分がもう一度味わうことなどないと否定したい気持ちと、それでも台風に呑まれるように自分の感情をコントロールできないもどかしさを同時に発見する。ぼくはコーヒーをもう一度、スプーンでかきまわす。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカで大人になったヌードルスは昨夜の恥を忘れるかのように執拗にカップのスプーンを回し続ける。
黒い飲み物を口に入れる。店内の壁の時計が指しているのは2時12分。
奈美はすると最寄りの地下鉄の駅に近付く電車に乗っているのかもしれない。となりの女性は雑誌を自分のカバンから取り出した。奈美も同じものを不定期だが買っていた。ぼくは置き去りのその雑誌をたまに開いて眺めた。だから、となりの女性がもっている興味がおぼろげながら分かるような気がした。大衆というものの興味を反映した内容が、色鮮やかなものとして売られている。それを持っている奈美の茶色く塗られた爪。
ぼくは本に戻る。その作者はどこでそれを書いたのだろう。ウィーンにいると考える。カフェにいる。11月の木枯らしが吹く季節。夏に終わった恋。忙しさのうちにいて失恋の痛みなどないと疑うこともなかった気持ち。だが、作者はそこにひとりで座っていると、自分がいかに大きな過ちを犯してしまっていたかに気付く。冷え切ってしまうことなどなかった本物の奥底の感情。それをつかみきれなかった自分自身の失敗。相手の気持ち。それさえ分かれば、自分はどんなものでも犠牲にすると誓えるのに。
ぼくは、コーヒーを飲み干す。となりの女性は雑誌を椅子に置き、奥に消えた。テーブルの上に置かれた携帯電話。それが突然に振動を起こし、コーヒーカップに触れた。皿とスプーンがぶつかり奇妙な音を発する。ぼくは奈美の表情のひとつを知り、動揺する。ぼくはそれほどまでにあいつを自分の奥にまで入れてしまっていたのだ。
「待った? ごめんね」
「そんなには」時計は2時21分。
「今日、それで何をする? そうか、あれだったよね」
「なにか、飲めば?」
「そうだよね、買ってくるよ。もう一杯、飲める?」
「うん」
奈美ととなりに座っていた女性がすれ違う。同じ雑誌を読むふたり。ひとりはぼくに反響を起こし、ひとりは他人のままで終わる女性。その奈美の背中が注文している姿として鏡に映った。
ぼくはカフェで哲学を論議する時代にも住んでいない。そもそも、必要としていないのかもしれない。ユリシーズをどうしても読み終えられなかった。ウィーンも知らない。しかし、この時代に生きていなければ彼女に会うこともなかったのだ。違う文明のなかで、違う時代にいるひとびと。同じコーヒーを飲むことを体験として共有しただけだ。奈美の両手には片方ずつコーヒーの受け皿がのっている。用心深そうに彼女は歩いている。彼女の頭を占めているのは、液体をこぼさないということで、一心にその作業に集中しているだけかもしれない。そこに、ぼくはどれほどのウェートを占めているのだろうか?
「熱いから、気をつけて」彼女はひとつをぼくに差し出す。いつの間にか、となりの女性は消えていた。名前も知らない。顔ももう思い出せない。サルトルという名前以上にぼくに影響を与えてくれなかった事柄。奈美は微笑む。嵐は終わり、次の嵐が待っている。そこに呑みこまれるぼくがいる。
(2)カフェ
ぼくは、コーヒーを飲んでいる。
日曜の2時。2時の待ち合わせ。その丁度午後の2時にウェイターはコーヒーを運んでくる。
ぼくは思案をする。ユリシーズを書くジェームス・ジョイスのように。構想を練る創作者。結局、読み終えたことはないが。ある本を読み、それを忘れ、また読み直す。また忘れる。忘れるということが、いかに大切なことか。
ぼくは奈美のことを忘れる。この20分でまた彼女の顔を作り直す。捜査のきっかけとしての表情。
サルトルとボーヴォワールがカフェで談笑している。いや、議論をしている。そういう意味と位置づけとしてのカフェ。どちらの本も読破したことはない。書くという孤独な作業と、激論という相手が必要とされる行為。その区別を彼らは、どこで区分けしていたのだろう。カフェでも書く。ぼくは、ノートの切れ端に奈美の顔を描く。うまくない。
ベートーベンは毎朝、コーヒーを飲み、自分の仕事である作曲に専念する。奈美はコーヒーを飲みながら、彼の曲を聴いていた。トントンと指先と爪でリズムをとる。首が自然に揺れる。ハミングする。彼女の中でどのような変化の一連の流れがあるのかは分からない。ただ何らしかの影響が与えられる。ぼくもそれを見て影響を受ける。この女性のこころをつかんでいるものは自分以外のものなのだ。多分だが、はっきりと。
彼女のこころが占めているもの。それは自分ではない。
となりの席に女性が座る。携帯電話の画面を見つめている。その女性のこころを占有しているもの。刺激を受けているもの。それは一体なんなのだろう?
ぼくは本を開く。しおりを抜く。つづきがある。あの私たちの愛はいつから冷え込んできてしまったのかしら? ぼくはページを戻す。出会いがある。2度と経験しない愛だと思う。だが、燃え上がる状態はつづかず、主人公たちは疑問を感じる。ぼくはページを戻す。つづきがある。
奈美はぼくが本気になった二人目の女性だった。あの気持ちを自分がもう一度味わうことなどないと否定したい気持ちと、それでも台風に呑まれるように自分の感情をコントロールできないもどかしさを同時に発見する。ぼくはコーヒーをもう一度、スプーンでかきまわす。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカで大人になったヌードルスは昨夜の恥を忘れるかのように執拗にカップのスプーンを回し続ける。
黒い飲み物を口に入れる。店内の壁の時計が指しているのは2時12分。
奈美はすると最寄りの地下鉄の駅に近付く電車に乗っているのかもしれない。となりの女性は雑誌を自分のカバンから取り出した。奈美も同じものを不定期だが買っていた。ぼくは置き去りのその雑誌をたまに開いて眺めた。だから、となりの女性がもっている興味がおぼろげながら分かるような気がした。大衆というものの興味を反映した内容が、色鮮やかなものとして売られている。それを持っている奈美の茶色く塗られた爪。
ぼくは本に戻る。その作者はどこでそれを書いたのだろう。ウィーンにいると考える。カフェにいる。11月の木枯らしが吹く季節。夏に終わった恋。忙しさのうちにいて失恋の痛みなどないと疑うこともなかった気持ち。だが、作者はそこにひとりで座っていると、自分がいかに大きな過ちを犯してしまっていたかに気付く。冷え切ってしまうことなどなかった本物の奥底の感情。それをつかみきれなかった自分自身の失敗。相手の気持ち。それさえ分かれば、自分はどんなものでも犠牲にすると誓えるのに。
ぼくは、コーヒーを飲み干す。となりの女性は雑誌を椅子に置き、奥に消えた。テーブルの上に置かれた携帯電話。それが突然に振動を起こし、コーヒーカップに触れた。皿とスプーンがぶつかり奇妙な音を発する。ぼくは奈美の表情のひとつを知り、動揺する。ぼくはそれほどまでにあいつを自分の奥にまで入れてしまっていたのだ。
「待った? ごめんね」
「そんなには」時計は2時21分。
「今日、それで何をする? そうか、あれだったよね」
「なにか、飲めば?」
「そうだよね、買ってくるよ。もう一杯、飲める?」
「うん」
奈美ととなりに座っていた女性がすれ違う。同じ雑誌を読むふたり。ひとりはぼくに反響を起こし、ひとりは他人のままで終わる女性。その奈美の背中が注文している姿として鏡に映った。
ぼくはカフェで哲学を論議する時代にも住んでいない。そもそも、必要としていないのかもしれない。ユリシーズをどうしても読み終えられなかった。ウィーンも知らない。しかし、この時代に生きていなければ彼女に会うこともなかったのだ。違う文明のなかで、違う時代にいるひとびと。同じコーヒーを飲むことを体験として共有しただけだ。奈美の両手には片方ずつコーヒーの受け皿がのっている。用心深そうに彼女は歩いている。彼女の頭を占めているのは、液体をこぼさないということで、一心にその作業に集中しているだけかもしれない。そこに、ぼくはどれほどのウェートを占めているのだろうか?
「熱いから、気をつけて」彼女はひとつをぼくに差し出す。いつの間にか、となりの女性は消えていた。名前も知らない。顔ももう思い出せない。サルトルという名前以上にぼくに影響を与えてくれなかった事柄。奈美は微笑む。嵐は終わり、次の嵐が待っている。そこに呑みこまれるぼくがいる。