爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(2)カフェ

2012年08月04日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角

(2)カフェ
 
 ぼくは、コーヒーを飲んでいる。

 日曜の2時。2時の待ち合わせ。その丁度午後の2時にウェイターはコーヒーを運んでくる。

 ぼくは思案をする。ユリシーズを書くジェームス・ジョイスのように。構想を練る創作者。結局、読み終えたことはないが。ある本を読み、それを忘れ、また読み直す。また忘れる。忘れるということが、いかに大切なことか。

 ぼくは奈美のことを忘れる。この20分でまた彼女の顔を作り直す。捜査のきっかけとしての表情。

 サルトルとボーヴォワールがカフェで談笑している。いや、議論をしている。そういう意味と位置づけとしてのカフェ。どちらの本も読破したことはない。書くという孤独な作業と、激論という相手が必要とされる行為。その区別を彼らは、どこで区分けしていたのだろう。カフェでも書く。ぼくは、ノートの切れ端に奈美の顔を描く。うまくない。

 ベートーベンは毎朝、コーヒーを飲み、自分の仕事である作曲に専念する。奈美はコーヒーを飲みながら、彼の曲を聴いていた。トントンと指先と爪でリズムをとる。首が自然に揺れる。ハミングする。彼女の中でどのような変化の一連の流れがあるのかは分からない。ただ何らしかの影響が与えられる。ぼくもそれを見て影響を受ける。この女性のこころをつかんでいるものは自分以外のものなのだ。多分だが、はっきりと。

 彼女のこころが占めているもの。それは自分ではない。

 となりの席に女性が座る。携帯電話の画面を見つめている。その女性のこころを占有しているもの。刺激を受けているもの。それは一体なんなのだろう?

 ぼくは本を開く。しおりを抜く。つづきがある。あの私たちの愛はいつから冷え込んできてしまったのかしら? ぼくはページを戻す。出会いがある。2度と経験しない愛だと思う。だが、燃え上がる状態はつづかず、主人公たちは疑問を感じる。ぼくはページを戻す。つづきがある。

 奈美はぼくが本気になった二人目の女性だった。あの気持ちを自分がもう一度味わうことなどないと否定したい気持ちと、それでも台風に呑まれるように自分の感情をコントロールできないもどかしさを同時に発見する。ぼくはコーヒーをもう一度、スプーンでかきまわす。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカで大人になったヌードルスは昨夜の恥を忘れるかのように執拗にカップのスプーンを回し続ける。

 黒い飲み物を口に入れる。店内の壁の時計が指しているのは2時12分。

 奈美はすると最寄りの地下鉄の駅に近付く電車に乗っているのかもしれない。となりの女性は雑誌を自分のカバンから取り出した。奈美も同じものを不定期だが買っていた。ぼくは置き去りのその雑誌をたまに開いて眺めた。だから、となりの女性がもっている興味がおぼろげながら分かるような気がした。大衆というものの興味を反映した内容が、色鮮やかなものとして売られている。それを持っている奈美の茶色く塗られた爪。

 ぼくは本に戻る。その作者はどこでそれを書いたのだろう。ウィーンにいると考える。カフェにいる。11月の木枯らしが吹く季節。夏に終わった恋。忙しさのうちにいて失恋の痛みなどないと疑うこともなかった気持ち。だが、作者はそこにひとりで座っていると、自分がいかに大きな過ちを犯してしまっていたかに気付く。冷え切ってしまうことなどなかった本物の奥底の感情。それをつかみきれなかった自分自身の失敗。相手の気持ち。それさえ分かれば、自分はどんなものでも犠牲にすると誓えるのに。

 ぼくは、コーヒーを飲み干す。となりの女性は雑誌を椅子に置き、奥に消えた。テーブルの上に置かれた携帯電話。それが突然に振動を起こし、コーヒーカップに触れた。皿とスプーンがぶつかり奇妙な音を発する。ぼくは奈美の表情のひとつを知り、動揺する。ぼくはそれほどまでにあいつを自分の奥にまで入れてしまっていたのだ。

「待った? ごめんね」
「そんなには」時計は2時21分。
「今日、それで何をする? そうか、あれだったよね」
「なにか、飲めば?」
「そうだよね、買ってくるよ。もう一杯、飲める?」
「うん」

 奈美ととなりに座っていた女性がすれ違う。同じ雑誌を読むふたり。ひとりはぼくに反響を起こし、ひとりは他人のままで終わる女性。その奈美の背中が注文している姿として鏡に映った。

 ぼくはカフェで哲学を論議する時代にも住んでいない。そもそも、必要としていないのかもしれない。ユリシーズをどうしても読み終えられなかった。ウィーンも知らない。しかし、この時代に生きていなければ彼女に会うこともなかったのだ。違う文明のなかで、違う時代にいるひとびと。同じコーヒーを飲むことを体験として共有しただけだ。奈美の両手には片方ずつコーヒーの受け皿がのっている。用心深そうに彼女は歩いている。彼女の頭を占めているのは、液体をこぼさないということで、一心にその作業に集中しているだけかもしれない。そこに、ぼくはどれほどのウェートを占めているのだろうか?

「熱いから、気をつけて」彼女はひとつをぼくに差し出す。いつの間にか、となりの女性は消えていた。名前も知らない。顔ももう思い出せない。サルトルという名前以上にぼくに影響を与えてくれなかった事柄。奈美は微笑む。嵐は終わり、次の嵐が待っている。そこに呑みこまれるぼくがいる。

壊れゆくブレイン(85)

2012年08月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(85)

 足音をバタバタとさせて朝の用意をする女性は家にはいなくなった。その彼女が発していたエネルギーがなくなると、ぼくらは、ぼくと雪代は何だかとても静かな生き物に思えて来た。お茶碗をコトリと静かに置き、冷蔵庫もそっと開いた。音楽も静かな音量で聴き、テレビ番組もニュースや感動を与えてくれるドキュメンタリー番組を多く見るようになった。だが、どちらも広美の名前をあえて出さなかった。出なくてもふたりのこころの中には大きくいるだろうとは理解できた。そして、そんな気分のときに思い出したかのように電話がかかってきた。

「大人って、手紙を書いてあげて愛情を示してあげられることなのかしら? ね」雪代はそう言った。自分の仕事上の帳簿をつけている最中だった。
「どうしたの、急に?」
「何だか、電話をしても何も残らないと思って」
「何か書いてあげたくなった?」
「そうでもないけど、ふと、手紙の束がたまって、ある日、東京の淋しい夜にでも読み返してもいいのかなって」
「そうだね。やってみれば」
「いやね、交代にだよ」
「ぼくも?」

「そうだよ、急にひとりで母親らしいことをするのも恥ずかしいから。同罪者」
「いいよ。やりなよ」ぼくは思案をした後、そう言った。「でも、最初は雪代だよ」
「うん」彼女はノートに何か書き込んでいる。癖のあるペンの持ち方。「明日、それ用の紙と封筒を買ってくる。切手も買い込む。で、交代に出す」
「コンピューターは駄目?」
「ダメダメ。手書き」

 ぼくは広美が住んでいる家のポストの形状を思い出していた。それは縦長のものだった。そこを彼女がダイアルを合わせ開くと、時折りぼくと雪代からの手紙が入っているのだ。それは好ましい情景に思えた。ぼくは、以前にそんなことをしたこともなかった。また、されたこともなかった。だが、気付かなかったり忘れてしまっただけなのだろうか? でも、自分がするということに少し興奮していた。決意こそが最初の興奮なのだ。

 翌日に宣言どおり雪代は便箋と封筒を買ってきた。それに見合った金額の切手もあった。ぼくらは夕飯を済ませ、そのものをにらむような形で見ていた。言ってはしまったものの何を書くかという段になると自分たちの手持ちの題材はまったくないようにも感じられた。無きに等しい、というのはこういう状態をいうのかと改めてぼくは思った。

「ひろし君が書いたのをわたしは読んでいいことにする?」
「良くないよ」
「なんで?」
「だって、広美に書くんだろう」
「じゃあ、わたしのも見せないから絶対に」彼女はふて腐れた真似をする。
「いいよ」
「夫の悪口も書いてあるよ」
「いいよ。たくさん書けば」
「たくさんはないよ」

 ぼくがシャワーを浴びて出てくると、雪代はペンを握り締め、空を見ていた。その空間に文字と思い出が浮かんでいるかのように。
「ねえ、最初に何を書くの? ヒントだけでも教えて」
「東京での暮らしはどうとか? 大学には慣れたとか、友だち百人できたとか。ぼくと広美が最初にあったとき、君はこうだったとか」
「そういうものか。わたしは病院で産まれたばかりの彼女を抱いた。夫は喜んでいた、無邪気にね。彼はラグビー・ボールを抱くように広美を抱いたっけ」
「島本さん?」
「うん。彼のお母さんも」
「広美は、あのお祖母ちゃんのこと、好きだったよね」
「そう。誰よりも広美に愛情をもっていた」
「じゃあ、そのお祖母ちゃんのことでも書けば?」
「そうだね。自分のことより、ちょっと書きやすいかも。それに、広美も大好きだったから」

 それから一時間ばかり広美はテーブルに向かい、指を動かしていた。そして、最後に「できた」と小さな声で呟き、すかさず封を閉じた。
「完成? フィニッシュ」
「うん。読ませないよ。切手も貼ったし、明日、出勤ついでにポストに入れる」
「何日後かして、彼女は喜ぶ」
「あの子、返事を書くかな?」
「さあ、書かないだろう。照れ臭がって」
「でも、こっちからは書き続け、送り続ける」
「一週間後ぐらいでいいのかな?」
「じゃあ、それぞれ月に2回だ」
「そういう計算だね」
「でも、話題なくならない?」
「何でもいいんじゃないの。月がきれいだったとか、花火を見たとか。何でも彼女はここを懐かしがるだろうから」ぼくも東京にいたときは、そうだった。

「そうだね、じゃあ、次はひろし君。でも、ちょっと読みたいな」雪代は自分の書いた手紙の封をきちんと抑えながらもそう言った。「わたしにも何か書いてくれない?」
「なんで。いっしょにいつもいるじゃないか」

 知り合いになった未来のとある出来事が分かるひとは、手紙の束のようなことを言っていた。それは、このことなのかとぼくは考える。しかし、それは裕紀が書いたものだったかもしれない。いずれにせよ、いつか、広美の部屋に手紙がたまることになる。それは、愛ということを書かなくても愛情のあらわれであり、愛着でもあり、離れても変わることのないつながりのようなものであった。書いて残すことによって、それは耳で伝えることから視線に訴える方法として送り続けられるのだ。その集積が、これからはじまろうとしていた。