壊れゆくブレイン(97)
「若い女性が必要だからって、上田さんの会社のイベントでちょっとだけ瑠美といっしょに働いた」
広美が電話で告げた。ふたりとも大柄な女性で目立つ存在かもしれなかった。
「それで、なにに使うの?」
「夏休みに出掛ける費用にする。あと、おしいものを食べる」
「雪代のご飯、なつかしくない?」
「たまにはね」
このようにたまに広美から電話がかかってきた。東京に用があり上京したまゆみとも会ったと言った。以前、まゆみは広美に勉強を教えてくれた。彼女の子どもの写真も撮ったので、今度送るとも言った。ホームシックになることもなく、また離れ過ぎてしまうようなこともなかった。適度な距離が保たれ、雪代がいなくてもぼくらは月に何度か話した。ぼくが東京にいるときにはあまり両親に連絡もしなかった。妹たちが近くにいるという安心感もあった。裕紀は既に両親を亡くしていた。そう考えるとぼくらの世界は狭かった。それゆえに密度が濃かったのかもしれない。
雪代は娘に対して心配もないように振舞っていた。実際に心配もないのかもしれない。その女性同士の間柄はぼくには理解がむずかしかった。
そんなことを話しながらぼくは友人の松田と酒を飲んでいた。
「まだ、サッカーを教えているの?」と、ぼくは訊く。学生時代、ぼくはそこで少年たちに囲まれて過ごした。自分ができなくなってからその座を彼にゆずった。
「もう動けないよ。今は、息子たちが教えている」彼は年若く父親になった。その息子も30に近くなっていた。そして子どもも産まれた。だから、彼は若いおじいちゃんでもあった。「東京にいるんだろう? 義理の娘」
「大学で勉強している。その後、どうするのかね」ぼくは自分自身に質問するように口にした。仕事を見つけ就職する。新たな家族をどこかで作る。ぼくと雪代はそのとき、どうなっているのだろう。
「子どもがまだ小さくて賑やかだったころがなつかしいな。いつか、ここから開放され静かになりたいとか思ってたけど、やっぱり、あのときがいちばんだよ」松田は満足そうに言った。だが、ぼくはその気持ちを共有することができなかった。
「うちは、もうちょっと大人になりつつあったからね」
「むずかしいお年頃」
「そうでもなかったけど」
「うちのやつは反抗したな。男の子なんて可愛くない生き物だよ。口数も少なくなるし」
ぼくは似た状況でしか判断できない。甥は両親に言わないことでもぼくには相談した。地道な解決という範疇にいない自分は少し無責任でもあったのだろう。そうすると、広美の将来にも同じような態度で接するような気もした。
「突然だけど、ひろしは浮気ってした?」松田はまじめな表情のまま訊いた。
「それは、何度か」
「あんなにきれいな雪代さんがいるのに」
「正確には、一回目と二回目の間かもしれない」しかし、それは真実だけとも言えなかった。
「だったら、ぎりぎりセーフだ」
「かもな。松田は?」
「うちは、若いころの結婚で両親にもいっぱい心配かけたし。それに、あいつの若いときをたくさん犠牲にしちゃったので、なんとなく裏切れなくなった」
「誠実だな」
「誠実じゃないよ。普通、10代で子どもなんか産ませないから」
「チャンスは?」
「ないこともないけど、知らないフリをした」
「いろんな人生があるもんだな」ぼくらは笑い合った。自分は裕紀をも雪代もどちらも深く愛していたはずだった。それなのに、誠実さのかけらもない自分だったのだ。ぼくはゆり江のことを思い出し、笠原さんの白い身体も深く自分に刻み付けていた。だが、松田の人生は松田のもので、ぼくのもぼくの人生だった。「もう一回、高校のときに戻ったら?」ぼくは悪趣味にもその話をやめられなかった。
「また、同じだろう。息子はどこかで産まれなくちゃいけないし、孫を可愛がるおじいちゃんも楽しいもんだよ」
「広美に子どもがいつかできたら、オレもおじいちゃんなのかな?」
「そうだろ。他になにがある?」
ぼくはビールを松田のグラスに注ぎ、返事をしぶった。そして、自分のグラスをあおった。まだ、ぼくらは若く可能性の道はいくつもある年代に戻ろうとした。だが、松田は直ぐにひとつの道を選んだ。それ以外は切り離し、最初からないものだと思っているようだった。ぼくの前には何人かの女性が表れた。ある女性を選ぶことによって選択の幅を狭めることを恐れた。だが、結果として選ぼうが選ぶまいが失われるときにには失われたのだ。もし、ゆり江という子を選んだ場合、裕紀もどこかで誰かと結婚して元気に暮らすことができたのだ、という可能性を信じようとした。だが、ぼくはそのことを決して知ることはない。若いときに留学したままぼくはその消息を知ることができない。雪代もどこかで別の人間と暮らしている。だが、彼女の夫は島本さんであるとしかぼくには思えない。ぼくはスポーツで負けた彼に復讐しようとしたのか。違う、ぼくの前に雪代は表れてしまったのだ。ぼくのこころにその姿は硬い一撃を加え、運命を粉々にした。それで、ゆり江の子の人生もひびが入る。
自分は螺旋を作り、その中にみなを巻き込んだ。何人かをそれでも幸せにして、何人かを不幸の状態にとどめた。だが、酔った頭で考えすぎているだけなのだろう。ぼく自身にそんな力は内在されていない。そして、外に向かって発出されもしない。それぞれが選び取った人生で、ぼくはそれを傍観し、たまに関わっただけなのだ。それぐらいしか、いまの自分には答えが出せなかった。
「若い女性が必要だからって、上田さんの会社のイベントでちょっとだけ瑠美といっしょに働いた」
広美が電話で告げた。ふたりとも大柄な女性で目立つ存在かもしれなかった。
「それで、なにに使うの?」
「夏休みに出掛ける費用にする。あと、おしいものを食べる」
「雪代のご飯、なつかしくない?」
「たまにはね」
このようにたまに広美から電話がかかってきた。東京に用があり上京したまゆみとも会ったと言った。以前、まゆみは広美に勉強を教えてくれた。彼女の子どもの写真も撮ったので、今度送るとも言った。ホームシックになることもなく、また離れ過ぎてしまうようなこともなかった。適度な距離が保たれ、雪代がいなくてもぼくらは月に何度か話した。ぼくが東京にいるときにはあまり両親に連絡もしなかった。妹たちが近くにいるという安心感もあった。裕紀は既に両親を亡くしていた。そう考えるとぼくらの世界は狭かった。それゆえに密度が濃かったのかもしれない。
雪代は娘に対して心配もないように振舞っていた。実際に心配もないのかもしれない。その女性同士の間柄はぼくには理解がむずかしかった。
そんなことを話しながらぼくは友人の松田と酒を飲んでいた。
「まだ、サッカーを教えているの?」と、ぼくは訊く。学生時代、ぼくはそこで少年たちに囲まれて過ごした。自分ができなくなってからその座を彼にゆずった。
「もう動けないよ。今は、息子たちが教えている」彼は年若く父親になった。その息子も30に近くなっていた。そして子どもも産まれた。だから、彼は若いおじいちゃんでもあった。「東京にいるんだろう? 義理の娘」
「大学で勉強している。その後、どうするのかね」ぼくは自分自身に質問するように口にした。仕事を見つけ就職する。新たな家族をどこかで作る。ぼくと雪代はそのとき、どうなっているのだろう。
「子どもがまだ小さくて賑やかだったころがなつかしいな。いつか、ここから開放され静かになりたいとか思ってたけど、やっぱり、あのときがいちばんだよ」松田は満足そうに言った。だが、ぼくはその気持ちを共有することができなかった。
「うちは、もうちょっと大人になりつつあったからね」
「むずかしいお年頃」
「そうでもなかったけど」
「うちのやつは反抗したな。男の子なんて可愛くない生き物だよ。口数も少なくなるし」
ぼくは似た状況でしか判断できない。甥は両親に言わないことでもぼくには相談した。地道な解決という範疇にいない自分は少し無責任でもあったのだろう。そうすると、広美の将来にも同じような態度で接するような気もした。
「突然だけど、ひろしは浮気ってした?」松田はまじめな表情のまま訊いた。
「それは、何度か」
「あんなにきれいな雪代さんがいるのに」
「正確には、一回目と二回目の間かもしれない」しかし、それは真実だけとも言えなかった。
「だったら、ぎりぎりセーフだ」
「かもな。松田は?」
「うちは、若いころの結婚で両親にもいっぱい心配かけたし。それに、あいつの若いときをたくさん犠牲にしちゃったので、なんとなく裏切れなくなった」
「誠実だな」
「誠実じゃないよ。普通、10代で子どもなんか産ませないから」
「チャンスは?」
「ないこともないけど、知らないフリをした」
「いろんな人生があるもんだな」ぼくらは笑い合った。自分は裕紀をも雪代もどちらも深く愛していたはずだった。それなのに、誠実さのかけらもない自分だったのだ。ぼくはゆり江のことを思い出し、笠原さんの白い身体も深く自分に刻み付けていた。だが、松田の人生は松田のもので、ぼくのもぼくの人生だった。「もう一回、高校のときに戻ったら?」ぼくは悪趣味にもその話をやめられなかった。
「また、同じだろう。息子はどこかで産まれなくちゃいけないし、孫を可愛がるおじいちゃんも楽しいもんだよ」
「広美に子どもがいつかできたら、オレもおじいちゃんなのかな?」
「そうだろ。他になにがある?」
ぼくはビールを松田のグラスに注ぎ、返事をしぶった。そして、自分のグラスをあおった。まだ、ぼくらは若く可能性の道はいくつもある年代に戻ろうとした。だが、松田は直ぐにひとつの道を選んだ。それ以外は切り離し、最初からないものだと思っているようだった。ぼくの前には何人かの女性が表れた。ある女性を選ぶことによって選択の幅を狭めることを恐れた。だが、結果として選ぼうが選ぶまいが失われるときにには失われたのだ。もし、ゆり江という子を選んだ場合、裕紀もどこかで誰かと結婚して元気に暮らすことができたのだ、という可能性を信じようとした。だが、ぼくはそのことを決して知ることはない。若いときに留学したままぼくはその消息を知ることができない。雪代もどこかで別の人間と暮らしている。だが、彼女の夫は島本さんであるとしかぼくには思えない。ぼくはスポーツで負けた彼に復讐しようとしたのか。違う、ぼくの前に雪代は表れてしまったのだ。ぼくのこころにその姿は硬い一撃を加え、運命を粉々にした。それで、ゆり江の子の人生もひびが入る。
自分は螺旋を作り、その中にみなを巻き込んだ。何人かをそれでも幸せにして、何人かを不幸の状態にとどめた。だが、酔った頭で考えすぎているだけなのだろう。ぼく自身にそんな力は内在されていない。そして、外に向かって発出されもしない。それぞれが選び取った人生で、ぼくはそれを傍観し、たまに関わっただけなのだ。それぐらいしか、いまの自分には答えが出せなかった。