爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(97)

2012年08月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(97)

「若い女性が必要だからって、上田さんの会社のイベントでちょっとだけ瑠美といっしょに働いた」
 広美が電話で告げた。ふたりとも大柄な女性で目立つ存在かもしれなかった。
「それで、なにに使うの?」
「夏休みに出掛ける費用にする。あと、おしいものを食べる」
「雪代のご飯、なつかしくない?」
「たまにはね」

 このようにたまに広美から電話がかかってきた。東京に用があり上京したまゆみとも会ったと言った。以前、まゆみは広美に勉強を教えてくれた。彼女の子どもの写真も撮ったので、今度送るとも言った。ホームシックになることもなく、また離れ過ぎてしまうようなこともなかった。適度な距離が保たれ、雪代がいなくてもぼくらは月に何度か話した。ぼくが東京にいるときにはあまり両親に連絡もしなかった。妹たちが近くにいるという安心感もあった。裕紀は既に両親を亡くしていた。そう考えるとぼくらの世界は狭かった。それゆえに密度が濃かったのかもしれない。

 雪代は娘に対して心配もないように振舞っていた。実際に心配もないのかもしれない。その女性同士の間柄はぼくには理解がむずかしかった。

 そんなことを話しながらぼくは友人の松田と酒を飲んでいた。

「まだ、サッカーを教えているの?」と、ぼくは訊く。学生時代、ぼくはそこで少年たちに囲まれて過ごした。自分ができなくなってからその座を彼にゆずった。
「もう動けないよ。今は、息子たちが教えている」彼は年若く父親になった。その息子も30に近くなっていた。そして子どもも産まれた。だから、彼は若いおじいちゃんでもあった。「東京にいるんだろう? 義理の娘」
「大学で勉強している。その後、どうするのかね」ぼくは自分自身に質問するように口にした。仕事を見つけ就職する。新たな家族をどこかで作る。ぼくと雪代はそのとき、どうなっているのだろう。

「子どもがまだ小さくて賑やかだったころがなつかしいな。いつか、ここから開放され静かになりたいとか思ってたけど、やっぱり、あのときがいちばんだよ」松田は満足そうに言った。だが、ぼくはその気持ちを共有することができなかった。
「うちは、もうちょっと大人になりつつあったからね」
「むずかしいお年頃」
「そうでもなかったけど」
「うちのやつは反抗したな。男の子なんて可愛くない生き物だよ。口数も少なくなるし」

 ぼくは似た状況でしか判断できない。甥は両親に言わないことでもぼくには相談した。地道な解決という範疇にいない自分は少し無責任でもあったのだろう。そうすると、広美の将来にも同じような態度で接するような気もした。
「突然だけど、ひろしは浮気ってした?」松田はまじめな表情のまま訊いた。
「それは、何度か」
「あんなにきれいな雪代さんがいるのに」
「正確には、一回目と二回目の間かもしれない」しかし、それは真実だけとも言えなかった。
「だったら、ぎりぎりセーフだ」
「かもな。松田は?」

「うちは、若いころの結婚で両親にもいっぱい心配かけたし。それに、あいつの若いときをたくさん犠牲にしちゃったので、なんとなく裏切れなくなった」
「誠実だな」
「誠実じゃないよ。普通、10代で子どもなんか産ませないから」
「チャンスは?」
「ないこともないけど、知らないフリをした」

「いろんな人生があるもんだな」ぼくらは笑い合った。自分は裕紀をも雪代もどちらも深く愛していたはずだった。それなのに、誠実さのかけらもない自分だったのだ。ぼくはゆり江のことを思い出し、笠原さんの白い身体も深く自分に刻み付けていた。だが、松田の人生は松田のもので、ぼくのもぼくの人生だった。「もう一回、高校のときに戻ったら?」ぼくは悪趣味にもその話をやめられなかった。

「また、同じだろう。息子はどこかで産まれなくちゃいけないし、孫を可愛がるおじいちゃんも楽しいもんだよ」
「広美に子どもがいつかできたら、オレもおじいちゃんなのかな?」
「そうだろ。他になにがある?」

 ぼくはビールを松田のグラスに注ぎ、返事をしぶった。そして、自分のグラスをあおった。まだ、ぼくらは若く可能性の道はいくつもある年代に戻ろうとした。だが、松田は直ぐにひとつの道を選んだ。それ以外は切り離し、最初からないものだと思っているようだった。ぼくの前には何人かの女性が表れた。ある女性を選ぶことによって選択の幅を狭めることを恐れた。だが、結果として選ぼうが選ぶまいが失われるときにには失われたのだ。もし、ゆり江という子を選んだ場合、裕紀もどこかで誰かと結婚して元気に暮らすことができたのだ、という可能性を信じようとした。だが、ぼくはそのことを決して知ることはない。若いときに留学したままぼくはその消息を知ることができない。雪代もどこかで別の人間と暮らしている。だが、彼女の夫は島本さんであるとしかぼくには思えない。ぼくはスポーツで負けた彼に復讐しようとしたのか。違う、ぼくの前に雪代は表れてしまったのだ。ぼくのこころにその姿は硬い一撃を加え、運命を粉々にした。それで、ゆり江の子の人生もひびが入る。

 自分は螺旋を作り、その中にみなを巻き込んだ。何人かをそれでも幸せにして、何人かを不幸の状態にとどめた。だが、酔った頭で考えすぎているだけなのだろう。ぼく自身にそんな力は内在されていない。そして、外に向かって発出されもしない。それぞれが選び取った人生で、ぼくはそれを傍観し、たまに関わっただけなのだ。それぐらいしか、いまの自分には答えが出せなかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(24)

2012年08月16日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(24)

 キッチンにある機械の電源が入り、洗剤と水の混合物が勝手に食器を洗っている。その仕組みは分からないながらも、ある労働からは確かに解放された。妻はその空いた時間を使いマニュキアを塗っている。その塗られた指の先に息を吐きかけ乾かそうとしていた。

「ママ、わたしにも塗って」と言って由美も両手を開き差し出した。
「いいよ。でも、お勉強もするのよ」娘も塗られた指先を見ている。妻は足の方も塗りだした。
「こんばんは」と言ってそこにとなりの家の高校生の久美子が玄関にあらわれた。由美が迎え入れると、彼女は台所で音をたてている機械を見つけた。

「あれ、買ったんですか? いいな」いつも自分がその仕事を任されているかのような表情だった。
「いいでしょう。労働は最小限に」ぼくは無論、文句も言えない。賛同もしない。彼女のボーナスは自動で汚れた食器を洗うことに使われ、ぼくら家族の夏の旅行の元手になった。誰も文句が言えない。

「久美ちゃん、これ見て」娘は爪を彼女に見せた。「久美ちゃんも塗る?」
「ダメダメ。わたし、毎日、がむしゃらに泳ぐから、直ぐに剥げちゃう」
「小麦色のマーメード」
「あなた、言うことが古いのよ」妻が皮肉そうな口振りで言う。「それで、久美ちゃん、どうしたの?」
「あ、これ」彼女は小さな箱を差し出す。「部活の合宿で出かけてたものですからお土産」
「ありがとう。悪いわね」それは地方の限定のお菓子のようだった。下にも別の箱があるようだった。そのまま久美子は居座り、お茶を飲み始める。ぼくはきれいになった皿を取り出し、戸棚にしまった。それも片付くと自分の部屋で物語のつづきを考えようとしていた。

 レナードはある湖でボートを漕いでいた。その前方にはマーガレットがいた。そう遠くない岸辺のあたりでマーガレットの母は座っていた。彼がマーガレットの肖像を描くようになってから次第に彼らは親しくなっていった。それで、今日はあまり市街から離れていないがきれいな場所がのぞめるところにピクニックにやって来た。湖には数艘のボートが浮かんでいたので、マーガレットは途端に乗りたくなった。もともとレナードもその操作に長けていたので、力も入れずに漕ぎ、直ぐに水深のあるところまで達した。マーガレットが下をのぞくと小さな気泡のようなものが水面に向かって浮かんできていた。透明度があり、深いところまで見えたが、生き物の気配はまったくなかった。その神秘的な色合いにマーガレットは魅せられていった。

「ここから、泳げます?」とレナードはナンシーが座っている付近を指差しそう訊いた。マーガレットは首を横に振る。泳げないわけではなかったが、いまこの状況では考えられない質問だった。

 レナードはオールを置き、手の平で水をすくった。それをこぼし、またすくった。最後にはいくらか濡れた手で首をぬぐった。ひやりとした冷たさが爽快な気持ちを呼び起こす。マーガレットも同じように水を手の平にのせた。気泡は手の中で直ぐになくなり、ただの水となった。

 しばらくしてからまたレナードはボートを漕ぐ。船着場のようなところでそれを返すと、貸主はにこやかに微笑んだ。眉間の中心がふくらんでいる特徴のある顔で、レナードはその顔を描いてみたくなる。

「ここ、静かでいいところでしょう?」
「ちょっと静か過ぎますね。夜など恐くなるような」マーガレットは想像をたくましくしてそう答えた。
「お泊りに?」湖の横には小さな建物があり、そこに宿泊設備もあるようだった。マーガレットはそこがその男性の持ち物なのだろうかと考えていた。
「いえ、夕方には帰ります」レナードはきっぱりとした声で言った。
「残念ですね。満月が池に浮かんで、きょうはきれいな景色がのぞめたのに」
 レナードはその幻想的な風景を空想する。湖面に風が吹き、黄金色の月が微妙に揺れながら楕円の反射をのこす。聞き慣れない動物の鳴き声が遠くでして、静けさをより増すような印象がする。

「パパ、食べる?」娘がドアを開けた。
「久美子ちゃんのおみやげだ」
「そう、おいしいよ」
 黄色い円の物体が皿にのっている。中はカスタード・クリームが入っているはずだ。ぼくはその味を思い浮かべる。ソフトな口触り。
「もう由美、食べたの?」
「食べて、歯もみがいた。もう寝るから」

 レナードは、薄く切られた肉を頬張る。適度な運動をしたためと新鮮な空気を吸った所為か、いつになく空腹を覚えていた。しかし、頭のなかにはふたつのことを思い浮かべていた。ボート屋の主人の顔と夜の湖面の美しさ。数時間後にはもう忘れてしまう内容かもしれない。だが、何十年後かにはふたたび思い出すような気もしていた。そのとき、それを絵にするかもしれない。新たな着眼点と未来の自分は思うが、それは忘れ去ってしまった過去の視線の名残りなのだ。そう考え、レナードは満足げに咀嚼している。そして、皿の上にはまだ好物がのっている。

「おいしかったでしょう?」妻が部屋に入ってきて皿を片付けた。もう片方の指先を眺め、また後ろ手にドアを閉め、返事もきかずに出て行ってしまった。
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