爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(23)

2012年08月15日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(23)

「由美ちゃん、犬、撫でてもいい?」
 公園にいると、由美の友だちがそう訊ねた。
「いいよ。いいよね、ジョン?」と娘は犬にも訊いた。その返答はないが、頭を差し出すようにいくらかジョンは下を向き、撫でられやすそうな体勢をとった。
「由美ちゃん、宿題してる?」
「してるよ、パパが手伝ってくれてる」
「いつも?」
「いつもだよ」
「毎日?」
「毎日だよ。お昼寝のあとか前かは違うけど」
「お仕事は?」

 小さな子どもでももつ疑問。お爺さんは芝刈りに、お婆さんは洗濯に。両親は会社へ。満員電車に揺られ。由美は概要を簡単に説明している。
「それで、おうちで仕事をしているの」
「そうなんだ、いいな」横目で友だちはぼくをちらっと見る。ぼくは夏休みの宿題にうなされる夢をしばしば見る。それは大量の白い紙をただ文字で埋めるというものに、いつの間にか変化している。ぼくは強迫観念のようにそこに似顔絵を描いて誤魔化そうとする。読者はそれでも待っていて、文字が書かれていないことに腹を立て、ぼくを斧のようなものを持って追いかける。ひとりがふたりになり、それは次第に群集となって化けた。それで、悲鳴をあげて昼寝から起きる。娘は自分で髪を結い、宿題をはじめている。

「パパ、夢?」という簡単な4つの言葉で質問をつくりあげた。
「由美の父親は、心臓の鼓動を早めさせてしまうほどの恐ろしい夢から開放され、安堵の吐息をついた」
「え、なに?」
「ううん。麦茶飲む?」

 ぼくはキッチンでグラスを麦茶で満たす。犬のジョンは玄関の横で、眠りながら小さな吠え声を出していた。飼い主に似る動物。

 ケンも甘い夢を見ている。自分の仕事が評価され、タキシード姿で壇上に向かう。「自分の研究を陰で支えてくれた妻に感謝します」と言って、そして、客席を見る。そこにはきれいなドレスを着たマーガレットがいる。彼は賞金を受け取り、銀行に預けに行く。そこにはエドワードがいて、カウンターの向こうでお札を数えている。集中できないひとのようにエドワードはこちらを見ている。見る理由があるのだ。ケンの後ろにはマーガレットがいるのだ。ケンは大金ときれいな妻を手にしている。勝者の喜び。だが、夢はいずれ覚めるようにできている。

「なんだ、夢か」ケンは身体を伸ばしながら、そう言った。だが、その夢を見た理由がなんとなく分かるような気がした。先日、友人たちとパブに行き、少し酔った足取りでマーガレットの家の前を通りかかった。その玄関からエドワードが出てきて、マーガレットと母もその後ろに顔を見せた。マーガレットはエドワードの上着に糸屑でも付いていたのか右手の指先で取り除いた。それをすぼめた唇でふっと吹き、どこかに飛ばした。女性ふたりはケンの姿に気付かないようだったが、エドワードはこちらをちらりと見た。週末の夕方に大騒ぎする若者を嫌悪するような目付きで。彼にはそういう親しい間柄のひとはあまり居なかった。嫌悪する理由は、またうらやましいことへの裏返しの視線ともなった。だが、エドワードは自分の下宿に戻り、角のパブの前で同じような学生が騒いでいる様子がしたので窓から顔をのぞかせ、小さな舌打ちをした。自分は家でくつろぎ、今日のマーガレットの表情を思い出したかったのだ。それが破られたことが小さな舌打ちとなってあらわれた。

 由美が勉強をしている内容を覗き込んだ。小さな図形がふたつ描かれ、上に描かれた物体の展開されたときの図として、どちらが正しいのかというそれは問題だった。
「パパ、これ、どっちだと思う?」
「そういうのは、家にいるときは遠回りだけど出来そうなことをしなくちゃ。ここに紙があるから作ってあげる。学校じゃだめだよ」

 ぼくはハサミと固めの紙を取り出し、図を見比べ切り出した。器用そうに振舞ったが、少し切られた紙はいびつになった。答えは出たが、ぼくらは紙を切るという作業に集中する。

「サイコロを作れる?」ぼくは提案をする。由美は作り出す。それはただの四角い紙を6つ寄せ集めただけのものになった。ぼくは展開図を紙に描き、のしりろも付けた。違う色で円をいくつか切取り、できた四角い箱に貼り付けた。そして、仕事のことを忘れた。

 由美はそれを寝ているジョンに投げつけた。驚いた犬は彼女に駆け寄った。そのままその四角いサイコロは玄関に放って置かれ、帰ってきた妻の怒りを誘引させる。

 エドワードは仕事に行き、実家から送金されたお金を引き出すケンを見つける。彼は、そのような愛情の深い両親をもっていなかった。そのことが自分に卑屈さに近い陰を落とす遠いきっかけのようにも感じていた。自分は温かな家族を作る必要があるのだと仕事中も昼休みにも思う。そこには、いつもマーガレットがいた。当のマーガレットは、このふたりの愛の象徴であることに気付いていなかった。いまはキッチンで洗ったばかりの皿を拭いていた。あまりにも上の空で拭いていたため、ひとつを床に落とし甲高い大きな音を立てた。

「食器洗浄機があると便利だと思わない?」と食後に妻が言う。
「わたし、電気屋さんとお友だちになった。エアコン直してもらったときに」と、由美も口添えをした。ぼくは多分、また読者に追いかけられる夢を見るのだろう。

壊れゆくブレイン(96)

2012年08月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(96)

 ぼくは本を片手に公園に出向く。以前は大きな工場があったが、どこかに移転したのか数年前までは空き地になっていたのを整備して、住民の憩いの場に変貌した。だが、ぼくらはそこに林立する煙突を目印にして、子どものころに遊びに行ったのだ。いまはその姿はない。ここで遊んでいるひとたちの大半はそのことを記憶にも留めていないはずだ。それが良いことなのか悪いことなのか判断に迷ったが、すべての記憶は更新されてこそ意味があるのだ、ということでむりやりに納得しようとした。

 それはこの土地の経済の成り立ちが変わりつつあることの証しのようだった。住民の働く姿も変わっていく。華やかな店も増え、雪代の店はその町並みの変わりようにも対処し繁盛していた。浮き沈みとよくいうが、大きく沈んだことはないらしかった。だが、彼女はあと数年ということを口にするようになった。それが本気なのか分からないが、第二の人生というものも考えたいらしい。ぼくらは、そういう入り口を見据える年齢になったのかもしれない。ぼくは会社員なのでそれをまっとうすることを望んでいたが、彼女は自分の判断でものを動かせる立場にいた。それに、ぼくより数歳上だった。その立っている地点の違いが、思慮深くさせるのかもしれない。

 ぼくは本を開く。以前、何度か読みかけようとした本だった。裕紀が面白い本だといって勧めてくれた。だが、それはもう意に反して手元にはなかった。ぼくは妹の家に電話して、姪にその本の在庫を訊いた。彼女は本屋さんでアルバイトをはじめていた。そこにはなかったが、良い本なので取り寄せてくれると言ったので、ぼくはそれを頼んだ。

「読んだことあるんだ?」ぼくは感心したようにたずねる。彼女は当然だという意味合いの言葉をのべた。それから数日してまた電話があったので、ぼくは仕事の帰りに受け取りに行った。レジで彼女は自分の文章が載った冊子もくれた。思ったよりそれは分厚かった。高校生の書く文章がどの程度のクオリティを持つものかぼくは理解できなかったが、「読むよ」と言ってそれももらった。

 しかし、ぼくはまだ読んでいなかった。自分が仕事で書くお礼や義務的なお詫びの文。報告がメインであるメールの文章。そういうものはこころをあまり打たず、事務的な意味合いで伝わればいいだけだった。そこに感情などは必要もなく、入り込ませることも敢えて避けた。だが、それは当然のこと、こころを磨耗させ、すり減らせることが多々あった。意図しなくても、疲れることがあるのだ。

 本は素直に視線のなかにも、こころのなかにもなかなか入ってくれなかった。それで、ぼくはまた本を閉じる。裕紀が、「面白いから、ひろし君も読んで」と言った表情が思い浮かぶ。姪も、「考えさせられる本」と言った。そのふたりは交遊を深められる可能性があったはずだ。もし、大人通しとして会話をしたら、そこに意気投合があらわれ、また非対立的な議論も行われたはずだ。姪は裕紀の半分の年齢になると言った。ひとりはこれから大人になり、ひとりはある一定以上の年齢にはならない。なぜなら、奪われたのだ。ぼくから奪われ、たくさんの可能性のある存在自体を奪われた。だが、ぼくはもうそういう考え方をしない方が良いのかもしれない。ぼくにはこころの平和があった方が望ましいし、彼女にも安らかな状態が似つかわしい。死というものからも遠ざけられ、ただたまに記憶にのぼるような存在に。だが、それもぼくの深いところの感情が決して許さなかったのだが。

「誰に教わったのかしらね。この子、才能あるよ」と、雪代は机に置きっぱなしの冊子を取り上げ、姪のものが書かれたページを開き、そう感嘆の声をあげた。「ひろし君も、わたしに手紙を書いてくれればいいのに」
「そう」でも、ぼくは読まなかった。なぜか、分からない。ただ、いつかそれに見合う日が来るような気がしていた。どんな内容が書かれているのかさえ知らなかったのだが。

 それが、昨夜のことだ。雪代は働き、ぼくは休日の太陽をのどかに感じていた。煙突から吐かれるいまから考えればいくらか汚い煙もなつかしかった。いまはそれもなく、青い空に、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。それらは動くことすら忘れたように、同じ状態を保っていた。同じ状態に挑むという反抗的な態度ではない。ただ、動かないことを決めたのだ。無心に。

 動くことをやめた裕紀の身体。病院のベッドに横たわる姿。それも反抗的ではなかった。ねじが回転を止める。背中にその動作を規定するねじでもあれば、ぼくは懸命に回し続けたい。でも、それはぼくの範疇の仕事ではない。そう考えていると、ぼくの足元にサッカーボールぐらいの大きさのビニールのボールが転がってきた。ぼくは転がり続けるのを停めるように、手で受け止めた。それを拾い、小さな子に投げ返した。動くもの。止める作業。この場所では与えられた動作だった。ぼくはそれからゆっくりと本を閉じ、空腹を覚えたため、飲食店をいくつか思い出す。ぼくは、裕紀がつくったものを何でもいいから食べたいと思った。それで、おいしいと感謝の言葉をきちんと告げるのだ。嫌がるくらいに言いつづけるのだ。だが、それも虚しい願いのうちのひとつであることは直ぐに理解ができた。