夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(23)
「由美ちゃん、犬、撫でてもいい?」
公園にいると、由美の友だちがそう訊ねた。
「いいよ。いいよね、ジョン?」と娘は犬にも訊いた。その返答はないが、頭を差し出すようにいくらかジョンは下を向き、撫でられやすそうな体勢をとった。
「由美ちゃん、宿題してる?」
「してるよ、パパが手伝ってくれてる」
「いつも?」
「いつもだよ」
「毎日?」
「毎日だよ。お昼寝のあとか前かは違うけど」
「お仕事は?」
小さな子どもでももつ疑問。お爺さんは芝刈りに、お婆さんは洗濯に。両親は会社へ。満員電車に揺られ。由美は概要を簡単に説明している。
「それで、おうちで仕事をしているの」
「そうなんだ、いいな」横目で友だちはぼくをちらっと見る。ぼくは夏休みの宿題にうなされる夢をしばしば見る。それは大量の白い紙をただ文字で埋めるというものに、いつの間にか変化している。ぼくは強迫観念のようにそこに似顔絵を描いて誤魔化そうとする。読者はそれでも待っていて、文字が書かれていないことに腹を立て、ぼくを斧のようなものを持って追いかける。ひとりがふたりになり、それは次第に群集となって化けた。それで、悲鳴をあげて昼寝から起きる。娘は自分で髪を結い、宿題をはじめている。
「パパ、夢?」という簡単な4つの言葉で質問をつくりあげた。
「由美の父親は、心臓の鼓動を早めさせてしまうほどの恐ろしい夢から開放され、安堵の吐息をついた」
「え、なに?」
「ううん。麦茶飲む?」
ぼくはキッチンでグラスを麦茶で満たす。犬のジョンは玄関の横で、眠りながら小さな吠え声を出していた。飼い主に似る動物。
ケンも甘い夢を見ている。自分の仕事が評価され、タキシード姿で壇上に向かう。「自分の研究を陰で支えてくれた妻に感謝します」と言って、そして、客席を見る。そこにはきれいなドレスを着たマーガレットがいる。彼は賞金を受け取り、銀行に預けに行く。そこにはエドワードがいて、カウンターの向こうでお札を数えている。集中できないひとのようにエドワードはこちらを見ている。見る理由があるのだ。ケンの後ろにはマーガレットがいるのだ。ケンは大金ときれいな妻を手にしている。勝者の喜び。だが、夢はいずれ覚めるようにできている。
「なんだ、夢か」ケンは身体を伸ばしながら、そう言った。だが、その夢を見た理由がなんとなく分かるような気がした。先日、友人たちとパブに行き、少し酔った足取りでマーガレットの家の前を通りかかった。その玄関からエドワードが出てきて、マーガレットと母もその後ろに顔を見せた。マーガレットはエドワードの上着に糸屑でも付いていたのか右手の指先で取り除いた。それをすぼめた唇でふっと吹き、どこかに飛ばした。女性ふたりはケンの姿に気付かないようだったが、エドワードはこちらをちらりと見た。週末の夕方に大騒ぎする若者を嫌悪するような目付きで。彼にはそういう親しい間柄のひとはあまり居なかった。嫌悪する理由は、またうらやましいことへの裏返しの視線ともなった。だが、エドワードは自分の下宿に戻り、角のパブの前で同じような学生が騒いでいる様子がしたので窓から顔をのぞかせ、小さな舌打ちをした。自分は家でくつろぎ、今日のマーガレットの表情を思い出したかったのだ。それが破られたことが小さな舌打ちとなってあらわれた。
由美が勉強をしている内容を覗き込んだ。小さな図形がふたつ描かれ、上に描かれた物体の展開されたときの図として、どちらが正しいのかというそれは問題だった。
「パパ、これ、どっちだと思う?」
「そういうのは、家にいるときは遠回りだけど出来そうなことをしなくちゃ。ここに紙があるから作ってあげる。学校じゃだめだよ」
ぼくはハサミと固めの紙を取り出し、図を見比べ切り出した。器用そうに振舞ったが、少し切られた紙はいびつになった。答えは出たが、ぼくらは紙を切るという作業に集中する。
「サイコロを作れる?」ぼくは提案をする。由美は作り出す。それはただの四角い紙を6つ寄せ集めただけのものになった。ぼくは展開図を紙に描き、のしりろも付けた。違う色で円をいくつか切取り、できた四角い箱に貼り付けた。そして、仕事のことを忘れた。
由美はそれを寝ているジョンに投げつけた。驚いた犬は彼女に駆け寄った。そのままその四角いサイコロは玄関に放って置かれ、帰ってきた妻の怒りを誘引させる。
エドワードは仕事に行き、実家から送金されたお金を引き出すケンを見つける。彼は、そのような愛情の深い両親をもっていなかった。そのことが自分に卑屈さに近い陰を落とす遠いきっかけのようにも感じていた。自分は温かな家族を作る必要があるのだと仕事中も昼休みにも思う。そこには、いつもマーガレットがいた。当のマーガレットは、このふたりの愛の象徴であることに気付いていなかった。いまはキッチンで洗ったばかりの皿を拭いていた。あまりにも上の空で拭いていたため、ひとつを床に落とし甲高い大きな音を立てた。
「食器洗浄機があると便利だと思わない?」と食後に妻が言う。
「わたし、電気屋さんとお友だちになった。エアコン直してもらったときに」と、由美も口添えをした。ぼくは多分、また読者に追いかけられる夢を見るのだろう。
「由美ちゃん、犬、撫でてもいい?」
公園にいると、由美の友だちがそう訊ねた。
「いいよ。いいよね、ジョン?」と娘は犬にも訊いた。その返答はないが、頭を差し出すようにいくらかジョンは下を向き、撫でられやすそうな体勢をとった。
「由美ちゃん、宿題してる?」
「してるよ、パパが手伝ってくれてる」
「いつも?」
「いつもだよ」
「毎日?」
「毎日だよ。お昼寝のあとか前かは違うけど」
「お仕事は?」
小さな子どもでももつ疑問。お爺さんは芝刈りに、お婆さんは洗濯に。両親は会社へ。満員電車に揺られ。由美は概要を簡単に説明している。
「それで、おうちで仕事をしているの」
「そうなんだ、いいな」横目で友だちはぼくをちらっと見る。ぼくは夏休みの宿題にうなされる夢をしばしば見る。それは大量の白い紙をただ文字で埋めるというものに、いつの間にか変化している。ぼくは強迫観念のようにそこに似顔絵を描いて誤魔化そうとする。読者はそれでも待っていて、文字が書かれていないことに腹を立て、ぼくを斧のようなものを持って追いかける。ひとりがふたりになり、それは次第に群集となって化けた。それで、悲鳴をあげて昼寝から起きる。娘は自分で髪を結い、宿題をはじめている。
「パパ、夢?」という簡単な4つの言葉で質問をつくりあげた。
「由美の父親は、心臓の鼓動を早めさせてしまうほどの恐ろしい夢から開放され、安堵の吐息をついた」
「え、なに?」
「ううん。麦茶飲む?」
ぼくはキッチンでグラスを麦茶で満たす。犬のジョンは玄関の横で、眠りながら小さな吠え声を出していた。飼い主に似る動物。
ケンも甘い夢を見ている。自分の仕事が評価され、タキシード姿で壇上に向かう。「自分の研究を陰で支えてくれた妻に感謝します」と言って、そして、客席を見る。そこにはきれいなドレスを着たマーガレットがいる。彼は賞金を受け取り、銀行に預けに行く。そこにはエドワードがいて、カウンターの向こうでお札を数えている。集中できないひとのようにエドワードはこちらを見ている。見る理由があるのだ。ケンの後ろにはマーガレットがいるのだ。ケンは大金ときれいな妻を手にしている。勝者の喜び。だが、夢はいずれ覚めるようにできている。
「なんだ、夢か」ケンは身体を伸ばしながら、そう言った。だが、その夢を見た理由がなんとなく分かるような気がした。先日、友人たちとパブに行き、少し酔った足取りでマーガレットの家の前を通りかかった。その玄関からエドワードが出てきて、マーガレットと母もその後ろに顔を見せた。マーガレットはエドワードの上着に糸屑でも付いていたのか右手の指先で取り除いた。それをすぼめた唇でふっと吹き、どこかに飛ばした。女性ふたりはケンの姿に気付かないようだったが、エドワードはこちらをちらりと見た。週末の夕方に大騒ぎする若者を嫌悪するような目付きで。彼にはそういう親しい間柄のひとはあまり居なかった。嫌悪する理由は、またうらやましいことへの裏返しの視線ともなった。だが、エドワードは自分の下宿に戻り、角のパブの前で同じような学生が騒いでいる様子がしたので窓から顔をのぞかせ、小さな舌打ちをした。自分は家でくつろぎ、今日のマーガレットの表情を思い出したかったのだ。それが破られたことが小さな舌打ちとなってあらわれた。
由美が勉強をしている内容を覗き込んだ。小さな図形がふたつ描かれ、上に描かれた物体の展開されたときの図として、どちらが正しいのかというそれは問題だった。
「パパ、これ、どっちだと思う?」
「そういうのは、家にいるときは遠回りだけど出来そうなことをしなくちゃ。ここに紙があるから作ってあげる。学校じゃだめだよ」
ぼくはハサミと固めの紙を取り出し、図を見比べ切り出した。器用そうに振舞ったが、少し切られた紙はいびつになった。答えは出たが、ぼくらは紙を切るという作業に集中する。
「サイコロを作れる?」ぼくは提案をする。由美は作り出す。それはただの四角い紙を6つ寄せ集めただけのものになった。ぼくは展開図を紙に描き、のしりろも付けた。違う色で円をいくつか切取り、できた四角い箱に貼り付けた。そして、仕事のことを忘れた。
由美はそれを寝ているジョンに投げつけた。驚いた犬は彼女に駆け寄った。そのままその四角いサイコロは玄関に放って置かれ、帰ってきた妻の怒りを誘引させる。
エドワードは仕事に行き、実家から送金されたお金を引き出すケンを見つける。彼は、そのような愛情の深い両親をもっていなかった。そのことが自分に卑屈さに近い陰を落とす遠いきっかけのようにも感じていた。自分は温かな家族を作る必要があるのだと仕事中も昼休みにも思う。そこには、いつもマーガレットがいた。当のマーガレットは、このふたりの愛の象徴であることに気付いていなかった。いまはキッチンで洗ったばかりの皿を拭いていた。あまりにも上の空で拭いていたため、ひとつを床に落とし甲高い大きな音を立てた。
「食器洗浄機があると便利だと思わない?」と食後に妻が言う。
「わたし、電気屋さんとお友だちになった。エアコン直してもらったときに」と、由美も口添えをした。ぼくは多分、また読者に追いかけられる夢を見るのだろう。