爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(95)

2012年08月14日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(95)

 結局、雪代は適度に空いた時間を、広美の友人の勧めもあり、水彩画を習うということで埋めた。もともと自分でデザインに至ることまではなかったが、洋服のスケッチなどはしていた。幼い広美は塗り絵のように、そこに色を塗った。それで、専門店で必要なものを買い込み、週に一度そこに通い出した。

 別の曜日には油絵のクラスというものもあり、そこに広美の友人がいた。彼女は前に雪代の肖像画を描き、それはいまでもぼくの部屋に飾ってあった。その女性は雪代の店で洋服を買うような年代になった。それで、ふたりはいまでは前より親しくなり、家にも遊びに来るようになった。

 ふたりは日帰りできれいな景色を求め、スケッチに行く。そこでどのような会話がなされているのか知らない。年代も違い、過去の共通点も少ないはずだ。友人の母であり、もう一方から見れば、娘の友だちであった。だが、ぼくらはいろいろな役目から抜け出るタイミングがある。雪代は娘を育てるという重大事から、うまく切り替えられそうであった。ぼくだけが、過去のしがらみから抜け出ることを拒否し、逆にそこに愛着を求めていた。まるで、ぬいぐるみを離せない子どものように。

 それで、休日の早朝、雪代は車を出した。これから、迎えに行って、和代というその女性と山並みを見に行くそうだ。もちろん絵だけが目的ではなく、彼女はおにぎりを作っていた。いくつか、余分に作り、ぼくはテーブルに座って朝のニュースを見ながら、それを食べていた。

「ママは?」そんなのんびりしていたときに東京の広美から電話がかかってきた。
「雪代の絵を描いてくれた友だちと、どっか山の方まで写生に行ったよ」
「和代と? ママも物好きだね。なんでわたしの友だちと」
「暇になったから水彩画を習い始めたんだよ。でも、何か用だった?」
「特別には、ないけど。たまに声ぐらい聞かせないと心配するかと思って」
「携帯の方にだね」
「そこまで、する必要はないよ」

「じゃあ、夜にでも電話させるよ」その答えをはっきりさせないまま広美は電話を切った。そして、ぼくはニュース番組に戻った。ある有名人が亡くなり、その人生を振り返っていた。最後にはフランク・シナトラが歌う激動の人生を象徴する曲が映像にかぶさった。ぼくは、良く知らない有名人のために不覚にも泣く。そのひとのために泣くぐらいなのだから、自分の身近なひとのために涙を流すのは当然だった。そのトンネルを抜けることをぼくはずっと望んでいたのだが、いまは放棄していた。ぼくは自分の過ぎ去った日々を愛するならば、そこに裕紀の死を迎え入れないことには話がまとまらず、解決もしなかった。

 ぼくは裕紀の人生に似合う曲を空想のなかで選ぶ。激しいものは相応しくなかった。ただ、静かな燃える炎のようなものをイメージした。ピアノがいい。ただ、ひとりだけで演奏されたもの。ぼくは彼女の足の指までを思い出せることを知った。耳のかたち。持っていたイヤリング。いまは、一体どこにあるのだろう。ぼくは、ビル・エバンスというピアニストを思い出した。彼の演奏する「ピース・ピース」という楽曲。その静穏とでも呼べる曲こそが裕紀の放つ印象にぴったり来るようだった。誰も紹介しない、テレビでも放送されない死。しかし、ぼくはそのようなプログラムを自分の頭のなかだけで作り上げる。

「いちばん、印象に残っていることは?」
 その質問には、ぼくの側からは答えられるが、彼女からの視点ではもちろん何も分からなかった。ぼくはある日、高井という男性と笠原という女性を結びつけるために紹介し合った。その日の帰りに裕紀も少し興奮していた。ぼくらは愛する人間を見つけるという段階は通り越し、二度と経験する必要もなかった。だが、それをひとのためにしているという自己満足的な気持ちにさえ、ぼくらは身勝手に納得して、追体験できたという幸福感があった。しかし、裕紀の死から立ち直れなかった自分は、その笠原さんを抱いて忘れようとした。自分に当て嵌まる曲は、そういう意味合いからしてもっと濁り、もっと不快な音を奏でるはずだった。

 一日は終わり、夜になった。雪代が部屋にいる。ぼくは遅くなって戻ってきた。
「どうだった、楽しかった?」
「うん。あの子、とっても優しい子だよね」と言って和代が示したいくつかの美点の例をあげた。
「そういえば、広美からも電話がかかってきた」
「何の用だろう」
「特別、どうこうするとかいうことは無いみたいだったけど・・・」

 彼女はシャワーを浴びたのか完全には髪が乾いていなかった。ぼくは雪代を愛している。だが、いつまでも裕紀を締め出さない不甲斐なさも感じていた。ぼくのこころには現在と別の部屋がしっかりとあり、そこに裕紀を住まわせていた。火事にも地震にも悪影響を受けることのない真空の部屋。そこではウィルスも蔓延することもなく、ただ静かに穏やかに暮らすことができるのだ。だが、当然のこと未来はない。新たなものに挑む必要もない。ぼくは雪代がスケッチした絵を眺めた。そこには一片の青い草の切れ端が挟まっていた。ぼくはそれを抜き取り、テーブルの上に置いた。いずれ、それは枯れ、美しさもないただのゴミくずに変化する。ぼくは自分の記憶を汚すことを絶対に許さず、静かなひとりのときにそれを取り出していた。だが、雪代と来年もそれ以降もずっと生活することを求めていた。この矛盾した生き物である自分に時々、不可解さも覚えた。誰かにこの気持ちを解明してもらいたかったが、誰にも打ち明けられることができないほど秘密でもあったのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする