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壊れゆくブレイン(86)

2012年08月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(86)

 それでも、短い言葉が入ったイラスト入りのハガキがぼくらの家に投函されていた。広美は目覚まし時計のありがたさを書くことによって、毎朝、雪代が起こしてくれた感謝をそれとなく匂わせているようだった。

「18、9年も育てたことの感謝は、目覚まし時計といっしょぐらいなのかしらね?」と、雪代は不服そうでもあった。面と向かって言ったり、書いたりしたりすることは恥ずかしい年頃なのだろう。でも、年代ではないのかもしれない。言わないひとはなにがあっても、ずっと言わない。語るひとは、どんなタイミングでも語る。でも、これは、スタートなのだ。

「もっと大人になれば、いろいろ気付くだろう」
「そうだと思うけど。そうであってほしいけどね」

 ぼくは雪代が仕事をしている日曜や休日などに、話し相手がいなくなったという当面の問題に直面する。ふたりでスポーツ・バーに行きだらだらとスポーツ番組を観戦するとか、家で借りた映画を見るという行為もなんとなくひとりですると味気なかった。それでも、同じようなことをしたにはした。

 自分はいろいろな人間の成長を見てきた。甥は結局は地元の大学にいる。彼は、どこで自分の結婚相手と会うことになるのだろうかと考える。ぼくは、ひとつの宣言からある呪縛にかかるが、でも、それも忘れはじめていた。姪も高校生になっていた。それで、妹と山下もそれなりに生活の忙しさから開放されるらしかった。ぼくらは彼の家に行ったり、また彼らもぼくらの家に来たりした。お互いはじめて会うわけでもないので、緊張感もいらなかった。ただ、のんびりと談笑して食事をいっしょにした。

 こうしてみるとぼくの生活はとても穏やかで、生活を脅かすものも見当たらなかった。健康もそれなりに安定して、仕事もどうやら問題なく過ごせていた。好きな地元にもいる。これ以上望めないほどの安定感があった。

「広美ちゃんがいないと淋しいですか?」
 日曜にスポーツ・バーでゆっくりとビールを飲んでいると、店長がそう問いかけた。
「まあね、感動した場面を話すこともできなくなったし。もっと、相手をしてくれよ」
「忙しくなかったら、いいですよ。でも、暇だと、ぼくの生活も困ることになるんで。そうだ、母の店にも行ってあげてください」
「うん、そうするよ」

 それで、夕方の早い時間にぼくはそこから距離の遠くない彼の母の店にいる。まだ、若い頃にぼくはよく来た。
「あれ、お久し振り。いつも、あの子の店には寄ってくれているんでしょう?」
「ええ、たまにですけど」
「お嬢さんは、東京の大学に行かれたんでしょう?」
「で、暇を持て余す中年男」
「わたしの方がもっと上だけどね」彼女は笑う。ぼくには夕飯が待っており、軽くお酒を飲む。その前に、話し相手も必要なのだろう。「でも、義理の娘さんとよく仲良くいったのね」

「さあ、どうなんだろう。父親らしく振舞ったこともないし、向こうも、母親のことを好きなひとぐらいしか関心を示さなかったのかもしれない。それで、友人みたいな範疇にいられた」
「良かったじゃない」
「うん、良かった」
「あの近藤君も40を過ぎ、それなりに人生ができた」
「ぼくの歩いてきた後ろに人生がある」つまらないことをぼくは言った。
「わたしも飲んでいい?」

「いいよ、どうぞ」ぼくはビールの瓶を傾ける。ぼくは遠い昔にこのひとの身体に触れた。それは雪代と別れた為の代用だったのかもしれない。そのことは当人同士がいちばんよく知っていた。ぼくが、その代用を必要としない以上、ぼくらの密接な関係は終わったままなのだ。ぼくは、あのころに戻りたいとも思っていない。過去のどの部分も愛していながら、そこに戻るにはぼくはまた苛烈な体験を味合うことになってしまうのだろう。それは、なるべくなら避けたい事柄だった。そして、そういうことができない以上、自分は避けていられた。むかしの思い出は美しいのだという甘美な回顧のなかに埋もれていられた。

「じゃあ、もう帰るね」
「奥さんにも優しい言葉をかけてあげてね。環境の変化って、女性にはつらいものだから」ぼくは頷き、入り口の扉を閉じた。日曜の夜はまもなく終わってしまう。日曜に雪代の店は集客が多かった。そこから疲れて彼女は帰ってくる。ぼくは明日からまた会社員になる。社長としばしばあの店に通った。最初に連れて行ってくれたのはそもそも彼だった。彼も、もういない。いないひとの思い出も当然増えることはないが、決して減ってくれるものでもなかった。社長がぼくに対して示してくれた優しさや叱咤はいったいどこに消えてしまったのだろう。博物館にも収められていない。このぼくのちっぽけな数グラムの脳にしかそれは堆積されていないのだ。ぼくはその脳を酔いの力で揺すぶっている。その過程のなかで、思い出すこともあれば、消えてしまうこともあるのだろう。

「お帰り、きょうは早めに帰ってきた」雪代はもう家にいた。
「ごめん。迎えてあげられればよかった」
「いいのよ。それにしても炊くご飯の量が減った」そのことを大切なものが失われたかのように彼女は言った。
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