壊れゆくブレイン(90)
「ふたりになったんだから、旅行ぐらい行きましょう」と雪代が言った。
「いままで何かを犠牲にしてきた?」
「ぜんぜん、そんな風には考えていないけど。休みを調整するからどこか調べておいて」
ぼくは仕事帰りに本屋に寄る。そこで思い掛けなく姪に会う。彼女はお客の側ではなく店員として働いていた。
「あ、おじさん」
「ええ、びっくりした。ここで、働いているんだ」
「そう、4月から。旅行?」彼女は本を見て、その金額を告げた。もともと幼少期から姪は本を読むことが好きだった。それで、あるときから周囲の子たちと違った雰囲気を出すようになった。それがときにはミステリアスとも感じ、また逆に子どもらしさを失わす結果となった。だから、ぼくは同性ということもあるが単純な甥との関係が深まっていった。
「うん、まだ決めかねているんだけどね。これ、良い本?」
「あまり売れないけど、しっかりとした本」彼女は満足そうに言った。彼女は庇護の立場にもういなかった。きちんと意見を持つ女性にいつの間にかなっていたのだ。
「そろそろ閉店?」
「うん、8時まで」
「お茶でも、おごろうか?」
「じゃあ、あそこがいいな」彼女は店名を告げる。それはこの本屋があるブロックのひとつ裏側にある店だった。ぼくは先に行き、雪代に電話をした。彼女も店を閉めて帰るので、途中で待ち合わせをすることに決まり、それまでぼくは姪と時間を潰すことになる予定になった。
彼女は、しばらくするとやって来た。肩に大き目のバックをぶら提げ、長いスカートを履いていた。身長の高さはきっと父親に似たのだろう。だが、彼女の神秘的な性格はいったいどこから来たのか謎だった。母であるぼくの妹も父親もどちらかといえば大雑把な性格にできていた。陽気で開けっ広げな。だから、彼女だけ違う惑星の住人のようだった。
「本屋で働いているんだね?」ぼくは決まりきったことを訊いた。
「いままで働いていた先輩が辞めて、その後釜を探していたから」
「楽しい?」
「まあ、そこそこには」
「運動より読書?」
「わたし、スポーツが苦手だったから」
ぼくは身体を動かすことが好きなひとに囲まれて育ってきた。そこにはきちんとした勝負があり、勝つ場合もあれば、誰もが納得する敗因があった。それは潔く、またみじめでもあった。それで、彼女の指針というか物差しがどこにあるのかつかみ切れずにいた。
「なにか、書くのも好き?」
「うん」彼女は長い髪を揺らしながら大きくうなずいた。
「なにがきっかけなんだろう?」
「ゆうきちゃん、ごめんなさい、おばさんが急にいなくなっちゃったから。それで、死ぬということを恐れたりした。おじさんはいまでも考える?」
「裕紀のこと?」
「うん」
「忘れられたりできたら、どんなにいいだろうと考えてるよ」
「でも、旅行も行く。決して非難じゃないよ」彼女は今度は首を横に振った。「大好きなおばさんが死んだ年の半分になるんだ、わたし、もうそろそろ」
「早いね」
「うん、早い。いつか、それを越える。でも、新しい生活に魅力を感じながらも、大人になることに少し脅えている」
「でもね、普通のひとは、そう簡単に若くして死んだりしないよ」
「頭では分かっている」
「それに、ぼくも生き延びなければならなかった。助けてくれたのはいまのうちの奥さん」
「お父さんや、お母さんからも聞いている」
「そうなんだ。それで、書いたものって、どこかに発表されているの?」
「市が募集した作文があって、わたしのが高校一年生の部門で去年、選ばれた」
「そうなんだ。読みたいな」
「今度、家に持っていってあげる」
「ありがとう。大人も、子どものもあるの?」
「社会人と大学生と高校生、中学、小学生は5、6年」
「凄いな」
「お父さんとお兄ちゃんは、ラグビーとサッカーばっかりしていたから」
「ぼくもそうだよ」
ぼくらはその刊行物を受け渡す約束をして別れた。店の前に雪代が表れたのだ。
「大きくなったね」と雪代も率直な感想を言った。
「あの子だけ、うちの家族の遺伝子から離れているような気がするよ」
「賢そうだよね」雪代も同意する。「みんなも賢いとは思うけど、行動に直結する子じゃない感じがね」
その彼女を思慮深くさせた要因のひとつは裕紀の死かもしれなかった。小さな女の子が憧れていたきれいで優しかった女性を失う。それは突然起こり、彼女の慕う気持ちは中断される。その気持ちは行き場を失う。失ったからといって直ぐに踏切りがつくものでもない。死も弔いの儀式も知らない。ただ、会えなくなったのだ。会う方法も見つからない。それはぼくも同じだった。だが、デリケートさでは、その幼いこころはぼくと雲泥の差がある。ぼくは自暴自棄になり酒でごまかした。幼い少女は、それにどう対処したのだろう。石の裏に埋もれた昆虫のように、それはもぞもぞと行き場もないまま動いているのかもしれない。
「旅行の本は?」
「そうだ、買った。早起きして朝市なんかをひやかして、海岸線を車で走って、温泉に入ってという、まあ普通のコースだけど」
「そういうのもいいね」
姪は裕紀の半分の年齢に近付きつつあると述べた。ひとりは成長をつづけ、ひとりは足取りを止める。裕紀との普通の旅行の思い出がぼくには少なかった。それは少ないというより皆無に近く感じた。
「ふたりになったんだから、旅行ぐらい行きましょう」と雪代が言った。
「いままで何かを犠牲にしてきた?」
「ぜんぜん、そんな風には考えていないけど。休みを調整するからどこか調べておいて」
ぼくは仕事帰りに本屋に寄る。そこで思い掛けなく姪に会う。彼女はお客の側ではなく店員として働いていた。
「あ、おじさん」
「ええ、びっくりした。ここで、働いているんだ」
「そう、4月から。旅行?」彼女は本を見て、その金額を告げた。もともと幼少期から姪は本を読むことが好きだった。それで、あるときから周囲の子たちと違った雰囲気を出すようになった。それがときにはミステリアスとも感じ、また逆に子どもらしさを失わす結果となった。だから、ぼくは同性ということもあるが単純な甥との関係が深まっていった。
「うん、まだ決めかねているんだけどね。これ、良い本?」
「あまり売れないけど、しっかりとした本」彼女は満足そうに言った。彼女は庇護の立場にもういなかった。きちんと意見を持つ女性にいつの間にかなっていたのだ。
「そろそろ閉店?」
「うん、8時まで」
「お茶でも、おごろうか?」
「じゃあ、あそこがいいな」彼女は店名を告げる。それはこの本屋があるブロックのひとつ裏側にある店だった。ぼくは先に行き、雪代に電話をした。彼女も店を閉めて帰るので、途中で待ち合わせをすることに決まり、それまでぼくは姪と時間を潰すことになる予定になった。
彼女は、しばらくするとやって来た。肩に大き目のバックをぶら提げ、長いスカートを履いていた。身長の高さはきっと父親に似たのだろう。だが、彼女の神秘的な性格はいったいどこから来たのか謎だった。母であるぼくの妹も父親もどちらかといえば大雑把な性格にできていた。陽気で開けっ広げな。だから、彼女だけ違う惑星の住人のようだった。
「本屋で働いているんだね?」ぼくは決まりきったことを訊いた。
「いままで働いていた先輩が辞めて、その後釜を探していたから」
「楽しい?」
「まあ、そこそこには」
「運動より読書?」
「わたし、スポーツが苦手だったから」
ぼくは身体を動かすことが好きなひとに囲まれて育ってきた。そこにはきちんとした勝負があり、勝つ場合もあれば、誰もが納得する敗因があった。それは潔く、またみじめでもあった。それで、彼女の指針というか物差しがどこにあるのかつかみ切れずにいた。
「なにか、書くのも好き?」
「うん」彼女は長い髪を揺らしながら大きくうなずいた。
「なにがきっかけなんだろう?」
「ゆうきちゃん、ごめんなさい、おばさんが急にいなくなっちゃったから。それで、死ぬということを恐れたりした。おじさんはいまでも考える?」
「裕紀のこと?」
「うん」
「忘れられたりできたら、どんなにいいだろうと考えてるよ」
「でも、旅行も行く。決して非難じゃないよ」彼女は今度は首を横に振った。「大好きなおばさんが死んだ年の半分になるんだ、わたし、もうそろそろ」
「早いね」
「うん、早い。いつか、それを越える。でも、新しい生活に魅力を感じながらも、大人になることに少し脅えている」
「でもね、普通のひとは、そう簡単に若くして死んだりしないよ」
「頭では分かっている」
「それに、ぼくも生き延びなければならなかった。助けてくれたのはいまのうちの奥さん」
「お父さんや、お母さんからも聞いている」
「そうなんだ。それで、書いたものって、どこかに発表されているの?」
「市が募集した作文があって、わたしのが高校一年生の部門で去年、選ばれた」
「そうなんだ。読みたいな」
「今度、家に持っていってあげる」
「ありがとう。大人も、子どものもあるの?」
「社会人と大学生と高校生、中学、小学生は5、6年」
「凄いな」
「お父さんとお兄ちゃんは、ラグビーとサッカーばっかりしていたから」
「ぼくもそうだよ」
ぼくらはその刊行物を受け渡す約束をして別れた。店の前に雪代が表れたのだ。
「大きくなったね」と雪代も率直な感想を言った。
「あの子だけ、うちの家族の遺伝子から離れているような気がするよ」
「賢そうだよね」雪代も同意する。「みんなも賢いとは思うけど、行動に直結する子じゃない感じがね」
その彼女を思慮深くさせた要因のひとつは裕紀の死かもしれなかった。小さな女の子が憧れていたきれいで優しかった女性を失う。それは突然起こり、彼女の慕う気持ちは中断される。その気持ちは行き場を失う。失ったからといって直ぐに踏切りがつくものでもない。死も弔いの儀式も知らない。ただ、会えなくなったのだ。会う方法も見つからない。それはぼくも同じだった。だが、デリケートさでは、その幼いこころはぼくと雲泥の差がある。ぼくは自暴自棄になり酒でごまかした。幼い少女は、それにどう対処したのだろう。石の裏に埋もれた昆虫のように、それはもぞもぞと行き場もないまま動いているのかもしれない。
「旅行の本は?」
「そうだ、買った。早起きして朝市なんかをひやかして、海岸線を車で走って、温泉に入ってという、まあ普通のコースだけど」
「そういうのもいいね」
姪は裕紀の半分の年齢に近付きつつあると述べた。ひとりは成長をつづけ、ひとりは足取りを止める。裕紀との普通の旅行の思い出がぼくには少なかった。それは少ないというより皆無に近く感じた。