爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(100)

2012年08月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(100)

「美緒ちゃん、ごめん、美緒さんかな?」ぼくは駅の改札の横で生真面目に立ち尽くす少女を見つける。花柄のワンピース姿で。
「はい。わたしのこと、直ぐに分かりましたか?」
「だって、裕紀のことを知っているひとは、美緒さんと裕紀のことを結びつけて考えてしまうでしょう」
「そうですね。ずっと、そっくりと言われてましたから」
「ぼくのことは、分かった?」
「むかしの写真が何枚かありました。結婚したばかりの裕紀さんの写真が。大分前の」
「20年ぐらい前かな。15年ぐらいか。がっかりしない、いまのぼくは?」
「良く分からないです」と言って、下を向いた。

 ぼくらはある店に入る。ぼくはコーヒーを頼み、彼女は紅茶を選んだ。ワンピースに合わせたような色のカップが彼女の前に置かれた。
「それで、ぼくを見つける必要があった?」
「これです」彼女はレンガのような大きさぐらいの手紙の束の固まりを置く。「全部、裕紀さんが父に送ったものです。わたしの父に」
「なにが書かれているの?」
「わたしの父が、近藤さんのことを避けていた。そのことを心配して、彼はそんな人間じゃないということを、この固まりを通して伝えたかったようです」
「君が、美緒ちゃんがそれを見つけた」

「そうです。わたし、おばさんのこと、裕紀さんのことを作文に書きました。それが賞をもらって、国語の先生に何か別のものを書いて、もっと大きなものにも挑んでみたら、と言われたんです」
「書くのが好きなんだ」ぼくの姪もそんなことを言っていた。
「その前のがこれです」彼女は、冊子をまたバックから取り出した。
「これ、うちにもあった」姪が貸してくれたものと同じだった。
「わたしも最近になって知りました。近藤さんの親戚のひとだって。名前が違うから」
「彼女も、姪のことだけど、裕紀のことが好きだった」
「わたしは、そのひとより裕紀さんのことを全然、知らない。原因は父にもあると思います」ぼくは、そのことについて責められる立場にいなかった。

「しかし、知らないひとに会うには決心がいったでしょう?」
「先生に新しいものを書くように勧められたときに、偶然これを発見したんです。先生にそのことを相談すると、その許される必要があるひとに会ってみれば、と言われました」
「簡単だね?」
「もっと違うことを書くには、調査も必要だと言われました。好奇心をもつこと。それに、何にせよ会ってみてもあなたの人生に損はないでしょう、とも言われました。その通りです」
「でも、自分の力だけで?」

「両親にも、それとなく近藤さんのことを訊きました。父は、あまり答えてくれませんでしたが、母は、それなら東京の叔母さんに訊いてみたらと言って電話番号を教えてくれました」
「あの叔母さんだよね」
「裕紀さんがそういう手紙を残すぐらい、心配してたんだ、とちょっと泣いていました」
「ずっと、ぼくらの味方だったから」
「話も聞き、近藤さんのことが少し分かりかけて、また、理不尽な扱いをされてきたようにも思えてきたんです」

 ぼくは、中学生の放つ一本気と正義感とを感じ、胸が苦しんだ。その反面、ぼくの何が分かったのだろうという疑問も当然のところ、もった。もってはいけないと思いながらも、こころの底には抵抗する気持ちがあった。
「でも、ぼくが裕紀の家族と関係をもつことは、もうあまり必要ないかもしれないけど」その抵抗感がそういう発言として結実する。
「わたし、この手紙を読んで、裕紀さんのことを知りたくなりました。父は、幼い妹の時期のことぐらいしか知らない。そこで裕紀さんのことはストップしています。母は、もっと、根本的な意味でなにも知らない」
「そうだよね。ずっと離れていたから」
「いちばん、知っているのは、近藤さんですよね?」

 はっきりとした断定的な意見とまっすぐな美緒の視線にぼくはたじろぐ。ぼくらの結婚生活は10年にも満たなかった。その間でひとりの女性の何を知り、何が漏れてしまったのかぼくは性急に見極め、区別しようとした。しかし、性急さがかえって邪魔をして、ぼくは判断を誤らすのかもしれない。ぼくは、しばらく彼女の断片を思い出す。断片のいくつかを組み合わせると、裕紀の総合体になるように思えたが、それはまた別の女性だった。別の女性であるならば、ぼくが過去に知った女性の情報のいくつかも混ざり合ってしまうという危険もあった。

「多分、そうだと思うけど・・・」それでも、そういう答えで煮え切らない自分の思いを表現した。美緒は、その曖昧な答えに少しがっかりしたような表情を見せた。「結婚していたぐらいだから。それに、彼女が結婚したのは、ぼくだけだったから」

 だが、結婚しただけで何が分かるのだろう。それでは、ぼくは現在の妻の雪代のすべてをも知っているのか? ぼくが、いちばんの理解者なのか? という疑問も同時にもった。しかし、中学生の女性に言うべき発言でもない。幻想は幻想のままに横たえておくのだ。

「この手紙、どうされます?」彼女はレンガ大のものを指差す。
「やはり、それは君のお父さんに送ったものだから、ぼくは読むべきものじゃないと思うよ。そういうものが、こんなにも多くあると教えてくれただけで、とても、ありがたいことだから」それに、家で妻を前にそんなものを読むことは不可能だ、という気持ちもあった。だが、それを付け加えることはしなかった。「代わりに君の裕紀への気持ちを読むよ。そこに書いてあるんだろう?」
「ええ。最初のほうに」
「うちにもある。きっと読むよ」

 ぼくらは、それでいったん別れる。また、駅前まで行き、ぼくは彼女を改札で見送る。美緒はきちんとしたお辞儀をした。ぼくは、それを見て裕紀を失った記憶と感情の追体験をする。いや、させられるのだ。ぼくのこころの一部が剥がされ、傷口が開くような錯覚があった。だが、その痛みは錯覚ではなく、本物の傷み以上に痛烈なものだった。
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壊れゆくブレイン(99)

2012年08月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(99)

「きょう、本当に驚いた。突然、店に誰が来たと思う?」
 雪代は自分の荷物を肩からおろすのも忘れたように、ぼくにたずねる。
「分かんないよ。さっぱり、見当もつかない」ヒントもなければその唐突な質問には答えることができなかった。
「教えないよ」
「なんだよ」
「あの子にそっくりだった。むかしのことを許さない、そんなことを言われるのかと少しドキドキした」
「あの子?」
「ひろし君のまえの奥さん。あの子」
「似ているひとがいるんだ」
「あの子にお兄さんがいたんでしょう? そのひとの娘だと言ってたよ」

 ぼくは思い出す。裕紀の叔母が一度、写真を見せてくれたはずだ。ぼくはすっかりそのことを忘れていた。いや、町で一度似ている少女を見かけたこともあったはずだ。だが、それはぼくの幻想と判断しても大して問題はないとも考えていたのだ。
「それで、ただ服を買いに来たの?」
「違う。用があるみたいだった、ひろし君に」
「ぼくに? その子も恨んでるのかな」
「作文だかに、あの子の思い出を書いたみたい。それで参考にひろし君にも会いたいみたいだったよ」
「恨んでるのかな?」

「2回も言ったよ。そんな風には見えなかった。ルーツ探しでもするんでしょう。多感なころだから」
「彼女のルーツでもないし、先祖でもない」
「自分の親類のことを知りたくなる年頃なんじゃない。携帯番号をもう教えちゃったよ」
「誰の?」
「誰のって、ひろし君のに決まっているじゃない」
「ぼくの? 軽率じゃない」
「大丈夫だよ。刺される訳じゃないんだから」雪代はそこで安心させるかのように笑った。「でも、びっくりするよ。ほんとにそっくりなんだから。中学生なんだからね、好きになっちゃ駄目だよ」そして、また笑った。

 ぼくは不安にかられる。だが、反対に興味も湧いていた。わざわざ、雪代の店まで行き、あとで聞くと、それしかぼくにつながる方法がないらしかったのだが、両親も頼らずに、ぼくの現在の動向を手繰り寄せる。それで、雪代の店が見つかる。再婚相手として雪代が表れる。そこは少女の無鉄砲のような気持ちで、勇気をだして行ってみたのだろう。だが、今更ぼくはなにかをむしかえされることが単純に恐かった。自分では裕紀のことを考えつづけていたにせよだ。しかし、その日にぼくの携帯電話は知らない番号からの着信を告げなかった。

 次の日も電話はなかった。ぼくの方は彼女の連絡先を知らない。それに、ぼく側から何かを問いただすという必要も感じていなかった。その子が会いたいと言ってきたのだ。だが、若い女性の心変わりなどよくあることだった。雪代をただ驚かせて終わる。それでも、充分ぼくの興味を惹いたので、終わりでも良かった。

 それから一週間ばかり経ち、次第にそのことを忘れる。ぼくは毎日、普通に働き頭を占有することはたくさんあった。雪代もあれ以降、何も訊かなかった。電話があったのか訊くこともなく、また店にあらわれたということも告げなかった。
 だが、ある日、ぼくの電話がなる。知らない番号。ぼくは躊躇しながらも出る。

 ある女性のか細い声が聞こえ、自分の名を名乗った。そして、「奥さんのお店に突然行ってしまって、すいませんでした」と、その事実を詫びた。それしか、たどる方法はなく、また直接に会うより、誰かを経由したほうが良いとも思ったので、と付け足した。

「うん、分かったけど、何か用件があるんだよね?」
「はい。この前、家の倉庫を掃除していたら、手紙の束が見つかりました」
「誰のですか?」
「全部、裕紀さんから出されていました」
「君にかな?」
「いえ、わたしの父に」
「お兄さん」
「はい」
「それにぼくが関係あったりするのかな? すると」
「それを会って話してほしいと思っているんです」彼女の口振りからすると、ぼくが断ることも念頭にあるようだった。怒られ、過去のことは忘れたと拒絶される心配も含んでいるようだった。

「ぼくにも見せる?」
「はい」
「持ち出して、怒られない?」
「そこに、置きっ放しになっているぐらいだから、父ももう忘れていると思います」
「君のお父さんと、つまり、裕紀のお兄さんとぼくとは、あまり、何というか、親しい関係はないもんだからね。それに、君も関わることもないと思うけど」
「迷惑ですか?」
「そんなことはない。君の興味もあるかもしれないけど、ぼくにも興味があるからね。裕紀が何か残す必要があったのだとしたら、いまでも理解してあげたいと思っている」
「ありがとうございます。それでは」

 ぼくらは約束の時間を決める。日曜の午後。ぼくははじめて裕紀とデートした日を思い出した。その年代に近い姪が、ぼくと隔絶した世界に存在していたのだ。ぼくと彼女の父はずっと疎遠な関係を築いていた。それが決壊することはないと思っていたし、一度、和解するような機会があったが、お互いが歩み寄ることをしなかった。どちらにしろ、その関係を望んでいた裕紀はもういなかったのだ。彼女が喜ばないのであれば、ぼくと彼らとの関係が親しくなることなど、無意味だったのだ。
「あの子から連絡が会ったよ」
「会うの?」雪代が目を上げてたずねた。
「そういうことになった」
「防弾チョッキでも着ていった方がいいんじゃない。いや、許されないのはわたしの方か」雪代はあくまでもその話題をお茶らけた内容にしたいようだった。
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壊れゆくブレイン(98)

2012年08月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(98)

 雪代が家でパソコンに向かっている。広美が料理をもっと作りたいということでレシピをまとめ、その情報をメールで送っている。結果としてそれが自作のリストにもなり、自分でも喜んでいた。まるで財産がふえたとでもいうように。

「わたしがいなくなっても、これで、わたしの料理が再現できる」
 それでも、その繊細な味の違いは再現したものを食べてみないと分からない。彼女はそれで写真にも残した。リストが増えていくという単純な楽しみのためだが、食べるぼくの側に食欲の問題があった。
「そんなに多すぎない?」という言葉が料理を前にしてつい口に出る。
「いいのよ、誰かに上げれば。でも、こんな状況が来るのを知っていたら、3人で暮らしたときからはじめていれば良かった」と雪代は言う。
「それなら、広美に直接教えたら良かったのに」
「それもそうね。でも、バスケとかで忙しかったから」

 広美も作った料理の写真をメールで送ってきた。それを雪代はリストに添付する。不慣れなところはぼくも手伝った。それで、親子が作った料理が横に並んでいる。キャリアの差はもちろんあるが、こういったものは自然に覚えていくのだろう。ぼくは、裕紀の分もあったら良かったのにと単純に思う。レシピもなく、その味を伝授したであろう母も、受け継いでくれる自分の子どももいなかった。ただ、ぼくの味覚の一部が覚えているだけだ。

「ねえ、なに食べたい?」と、雪代に訊かれたときに、ぼくはある品を告げる。
「わたし、そういうの作ったことあったっけ?」と、むかしの記憶をさぐるように雪代は遠い目をする。
「多分、ないかもしれない」

 ぼくはそれを外食で食べたのかもしれないし、母が作った場合もある。それに、裕紀も料理が上手だった。その可能性のどれかを雪代は考えているのだろう。もしかしたら、どれも当て嵌まらないかもしれない。ただ、それに似たものをインターネットのサイトで調べ始めていた。

「ねえ、こんな感じ?」雪代は振り向いている。ぼくはそこに近付き、彼女の肩に手を置いて、画面を見た。
「うん、こういうのだよ」
 雪代はペンを取り、ノートにメモをはじめた。小さな声で何かを言っている。
「そのままコピーしてリストにすれば?」と、ぼくはお節介な言葉を付け足す。だが、彼女の耳には入っていないのか、敢えて耳をふさいでいるようだった。

 いっしょに買い物に出掛け、メモを参考に雪代が食材を選んでいる。ぼくは思い出というのをきちんと保管したり管理することを考える。思い出を細分化してインデックスを付け、リストにする。それを元に頭で再現する。しかし、人間の細やかな機微は、ある場面に出くわしたり、匂いや風が運ぶ湿った風などにも反応する。だからこそ、リスト化は不可能なのだ。そして、あのとき、あの一回だけという場面がより貴重な思い出となり得るのだ。

 雪代は食材を分類し、冷蔵庫に入れた。そして、必要なものを水で洗い、包丁で切った。軽やかな音がする。ぼくは大根をおろす役目が与えられる。レシピも何もない。ただ、焼きあがった魚の横に添えられるもの。その香ばしい予兆の匂いがしはじめている。それにつられ、ぼくの胃袋は低い音をだす。

 ぼくは裕紀が作ったものと似ているものをテーブルの上に見つける。雪代はそれを写真に撮った。写真もこのあとに娘に送るのだろう。
「こんなのだった?」
「うん。こういうのを望んでいた」
「食べて。どう?」ぼくの口の動きを彼女は見ている。
「おいしいよ」
「そう、良かった。記念すべきリストの50番目。100ぐらいいくと思う?」
「だって、ぼくが雪代が作ったものを食べたの、いままでで100どころじゃないじゃん」

「そうかもね」ぼくらには毎日の日常を送る夫婦の姿があった。金字塔と呼べるような大掛かりな日はあまりない。繰り返し。再現。だが、以前と同じものももうない。また同じものを望んでも、できることばかりでもない。ぼくを興奮させたあの若き輝ける日をもう一度、味合うことも不可能だ。それは追憶という形式で満足させるしかない。料理はその意味では手っ取り早いようだった。裕紀の作ったものでさえ、似たようなもので代用できる。しかし、本人の存在には代わりがない。

「料理って、作っただけでは完成じゃないよね。誰かの口に入り、喜んでもらったことで100に近付く」
「何だって、そうだよ。ぼくが売ったマンションだって、そこに置いておくだけではまったくの無価値な四角い箱。住んで、どこかに傷がつくかもしれないけど、生活の喜びを得た場所になった時点で、完成に近付く」
「映画もそうか。見て、感動して涙をながして、それが価値になる」

 ぼくは若いときに雪代を見た。彼女と同棲して、別れて二度目の結婚相手として選んだ。どこがゴールか分からないが、ぼくらは完成に近寄ろうと努力しているのだろう。ただの美しい少女ではもちろんない。大人になり、髪や肌もかわる。だがこの費やした年月はぼくらの生活の重みの姿でもあった。それを取り出すことはできないかもしれないが、いまそばに誰かがいるということはどんなことよりも嬉しい事実だったのだ。
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壊れゆくブレイン(97)

2012年08月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(97)

「若い女性が必要だからって、上田さんの会社のイベントでちょっとだけ瑠美といっしょに働いた」
 広美が電話で告げた。ふたりとも大柄な女性で目立つ存在かもしれなかった。
「それで、なにに使うの?」
「夏休みに出掛ける費用にする。あと、おしいものを食べる」
「雪代のご飯、なつかしくない?」
「たまにはね」

 このようにたまに広美から電話がかかってきた。東京に用があり上京したまゆみとも会ったと言った。以前、まゆみは広美に勉強を教えてくれた。彼女の子どもの写真も撮ったので、今度送るとも言った。ホームシックになることもなく、また離れ過ぎてしまうようなこともなかった。適度な距離が保たれ、雪代がいなくてもぼくらは月に何度か話した。ぼくが東京にいるときにはあまり両親に連絡もしなかった。妹たちが近くにいるという安心感もあった。裕紀は既に両親を亡くしていた。そう考えるとぼくらの世界は狭かった。それゆえに密度が濃かったのかもしれない。

 雪代は娘に対して心配もないように振舞っていた。実際に心配もないのかもしれない。その女性同士の間柄はぼくには理解がむずかしかった。

 そんなことを話しながらぼくは友人の松田と酒を飲んでいた。

「まだ、サッカーを教えているの?」と、ぼくは訊く。学生時代、ぼくはそこで少年たちに囲まれて過ごした。自分ができなくなってからその座を彼にゆずった。
「もう動けないよ。今は、息子たちが教えている」彼は年若く父親になった。その息子も30に近くなっていた。そして子どもも産まれた。だから、彼は若いおじいちゃんでもあった。「東京にいるんだろう? 義理の娘」
「大学で勉強している。その後、どうするのかね」ぼくは自分自身に質問するように口にした。仕事を見つけ就職する。新たな家族をどこかで作る。ぼくと雪代はそのとき、どうなっているのだろう。

「子どもがまだ小さくて賑やかだったころがなつかしいな。いつか、ここから開放され静かになりたいとか思ってたけど、やっぱり、あのときがいちばんだよ」松田は満足そうに言った。だが、ぼくはその気持ちを共有することができなかった。
「うちは、もうちょっと大人になりつつあったからね」
「むずかしいお年頃」
「そうでもなかったけど」
「うちのやつは反抗したな。男の子なんて可愛くない生き物だよ。口数も少なくなるし」

 ぼくは似た状況でしか判断できない。甥は両親に言わないことでもぼくには相談した。地道な解決という範疇にいない自分は少し無責任でもあったのだろう。そうすると、広美の将来にも同じような態度で接するような気もした。
「突然だけど、ひろしは浮気ってした?」松田はまじめな表情のまま訊いた。
「それは、何度か」
「あんなにきれいな雪代さんがいるのに」
「正確には、一回目と二回目の間かもしれない」しかし、それは真実だけとも言えなかった。
「だったら、ぎりぎりセーフだ」
「かもな。松田は?」

「うちは、若いころの結婚で両親にもいっぱい心配かけたし。それに、あいつの若いときをたくさん犠牲にしちゃったので、なんとなく裏切れなくなった」
「誠実だな」
「誠実じゃないよ。普通、10代で子どもなんか産ませないから」
「チャンスは?」
「ないこともないけど、知らないフリをした」

「いろんな人生があるもんだな」ぼくらは笑い合った。自分は裕紀をも雪代もどちらも深く愛していたはずだった。それなのに、誠実さのかけらもない自分だったのだ。ぼくはゆり江のことを思い出し、笠原さんの白い身体も深く自分に刻み付けていた。だが、松田の人生は松田のもので、ぼくのもぼくの人生だった。「もう一回、高校のときに戻ったら?」ぼくは悪趣味にもその話をやめられなかった。

「また、同じだろう。息子はどこかで産まれなくちゃいけないし、孫を可愛がるおじいちゃんも楽しいもんだよ」
「広美に子どもがいつかできたら、オレもおじいちゃんなのかな?」
「そうだろ。他になにがある?」

 ぼくはビールを松田のグラスに注ぎ、返事をしぶった。そして、自分のグラスをあおった。まだ、ぼくらは若く可能性の道はいくつもある年代に戻ろうとした。だが、松田は直ぐにひとつの道を選んだ。それ以外は切り離し、最初からないものだと思っているようだった。ぼくの前には何人かの女性が表れた。ある女性を選ぶことによって選択の幅を狭めることを恐れた。だが、結果として選ぼうが選ぶまいが失われるときにには失われたのだ。もし、ゆり江という子を選んだ場合、裕紀もどこかで誰かと結婚して元気に暮らすことができたのだ、という可能性を信じようとした。だが、ぼくはそのことを決して知ることはない。若いときに留学したままぼくはその消息を知ることができない。雪代もどこかで別の人間と暮らしている。だが、彼女の夫は島本さんであるとしかぼくには思えない。ぼくはスポーツで負けた彼に復讐しようとしたのか。違う、ぼくの前に雪代は表れてしまったのだ。ぼくのこころにその姿は硬い一撃を加え、運命を粉々にした。それで、ゆり江の子の人生もひびが入る。

 自分は螺旋を作り、その中にみなを巻き込んだ。何人かをそれでも幸せにして、何人かを不幸の状態にとどめた。だが、酔った頭で考えすぎているだけなのだろう。ぼく自身にそんな力は内在されていない。そして、外に向かって発出されもしない。それぞれが選び取った人生で、ぼくはそれを傍観し、たまに関わっただけなのだ。それぐらいしか、いまの自分には答えが出せなかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(24)

2012年08月16日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(24)

 キッチンにある機械の電源が入り、洗剤と水の混合物が勝手に食器を洗っている。その仕組みは分からないながらも、ある労働からは確かに解放された。妻はその空いた時間を使いマニュキアを塗っている。その塗られた指の先に息を吐きかけ乾かそうとしていた。

「ママ、わたしにも塗って」と言って由美も両手を開き差し出した。
「いいよ。でも、お勉強もするのよ」娘も塗られた指先を見ている。妻は足の方も塗りだした。
「こんばんは」と言ってそこにとなりの家の高校生の久美子が玄関にあらわれた。由美が迎え入れると、彼女は台所で音をたてている機械を見つけた。

「あれ、買ったんですか? いいな」いつも自分がその仕事を任されているかのような表情だった。
「いいでしょう。労働は最小限に」ぼくは無論、文句も言えない。賛同もしない。彼女のボーナスは自動で汚れた食器を洗うことに使われ、ぼくら家族の夏の旅行の元手になった。誰も文句が言えない。

「久美ちゃん、これ見て」娘は爪を彼女に見せた。「久美ちゃんも塗る?」
「ダメダメ。わたし、毎日、がむしゃらに泳ぐから、直ぐに剥げちゃう」
「小麦色のマーメード」
「あなた、言うことが古いのよ」妻が皮肉そうな口振りで言う。「それで、久美ちゃん、どうしたの?」
「あ、これ」彼女は小さな箱を差し出す。「部活の合宿で出かけてたものですからお土産」
「ありがとう。悪いわね」それは地方の限定のお菓子のようだった。下にも別の箱があるようだった。そのまま久美子は居座り、お茶を飲み始める。ぼくはきれいになった皿を取り出し、戸棚にしまった。それも片付くと自分の部屋で物語のつづきを考えようとしていた。

 レナードはある湖でボートを漕いでいた。その前方にはマーガレットがいた。そう遠くない岸辺のあたりでマーガレットの母は座っていた。彼がマーガレットの肖像を描くようになってから次第に彼らは親しくなっていった。それで、今日はあまり市街から離れていないがきれいな場所がのぞめるところにピクニックにやって来た。湖には数艘のボートが浮かんでいたので、マーガレットは途端に乗りたくなった。もともとレナードもその操作に長けていたので、力も入れずに漕ぎ、直ぐに水深のあるところまで達した。マーガレットが下をのぞくと小さな気泡のようなものが水面に向かって浮かんできていた。透明度があり、深いところまで見えたが、生き物の気配はまったくなかった。その神秘的な色合いにマーガレットは魅せられていった。

「ここから、泳げます?」とレナードはナンシーが座っている付近を指差しそう訊いた。マーガレットは首を横に振る。泳げないわけではなかったが、いまこの状況では考えられない質問だった。

 レナードはオールを置き、手の平で水をすくった。それをこぼし、またすくった。最後にはいくらか濡れた手で首をぬぐった。ひやりとした冷たさが爽快な気持ちを呼び起こす。マーガレットも同じように水を手の平にのせた。気泡は手の中で直ぐになくなり、ただの水となった。

 しばらくしてからまたレナードはボートを漕ぐ。船着場のようなところでそれを返すと、貸主はにこやかに微笑んだ。眉間の中心がふくらんでいる特徴のある顔で、レナードはその顔を描いてみたくなる。

「ここ、静かでいいところでしょう?」
「ちょっと静か過ぎますね。夜など恐くなるような」マーガレットは想像をたくましくしてそう答えた。
「お泊りに?」湖の横には小さな建物があり、そこに宿泊設備もあるようだった。マーガレットはそこがその男性の持ち物なのだろうかと考えていた。
「いえ、夕方には帰ります」レナードはきっぱりとした声で言った。
「残念ですね。満月が池に浮かんで、きょうはきれいな景色がのぞめたのに」
 レナードはその幻想的な風景を空想する。湖面に風が吹き、黄金色の月が微妙に揺れながら楕円の反射をのこす。聞き慣れない動物の鳴き声が遠くでして、静けさをより増すような印象がする。

「パパ、食べる?」娘がドアを開けた。
「久美子ちゃんのおみやげだ」
「そう、おいしいよ」
 黄色い円の物体が皿にのっている。中はカスタード・クリームが入っているはずだ。ぼくはその味を思い浮かべる。ソフトな口触り。
「もう由美、食べたの?」
「食べて、歯もみがいた。もう寝るから」

 レナードは、薄く切られた肉を頬張る。適度な運動をしたためと新鮮な空気を吸った所為か、いつになく空腹を覚えていた。しかし、頭のなかにはふたつのことを思い浮かべていた。ボート屋の主人の顔と夜の湖面の美しさ。数時間後にはもう忘れてしまう内容かもしれない。だが、何十年後かにはふたたび思い出すような気もしていた。そのとき、それを絵にするかもしれない。新たな着眼点と未来の自分は思うが、それは忘れ去ってしまった過去の視線の名残りなのだ。そう考え、レナードは満足げに咀嚼している。そして、皿の上にはまだ好物がのっている。

「おいしかったでしょう?」妻が部屋に入ってきて皿を片付けた。もう片方の指先を眺め、また後ろ手にドアを閉め、返事もきかずに出て行ってしまった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(23)

2012年08月15日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(23)

「由美ちゃん、犬、撫でてもいい?」
 公園にいると、由美の友だちがそう訊ねた。
「いいよ。いいよね、ジョン?」と娘は犬にも訊いた。その返答はないが、頭を差し出すようにいくらかジョンは下を向き、撫でられやすそうな体勢をとった。
「由美ちゃん、宿題してる?」
「してるよ、パパが手伝ってくれてる」
「いつも?」
「いつもだよ」
「毎日?」
「毎日だよ。お昼寝のあとか前かは違うけど」
「お仕事は?」

 小さな子どもでももつ疑問。お爺さんは芝刈りに、お婆さんは洗濯に。両親は会社へ。満員電車に揺られ。由美は概要を簡単に説明している。
「それで、おうちで仕事をしているの」
「そうなんだ、いいな」横目で友だちはぼくをちらっと見る。ぼくは夏休みの宿題にうなされる夢をしばしば見る。それは大量の白い紙をただ文字で埋めるというものに、いつの間にか変化している。ぼくは強迫観念のようにそこに似顔絵を描いて誤魔化そうとする。読者はそれでも待っていて、文字が書かれていないことに腹を立て、ぼくを斧のようなものを持って追いかける。ひとりがふたりになり、それは次第に群集となって化けた。それで、悲鳴をあげて昼寝から起きる。娘は自分で髪を結い、宿題をはじめている。

「パパ、夢?」という簡単な4つの言葉で質問をつくりあげた。
「由美の父親は、心臓の鼓動を早めさせてしまうほどの恐ろしい夢から開放され、安堵の吐息をついた」
「え、なに?」
「ううん。麦茶飲む?」

 ぼくはキッチンでグラスを麦茶で満たす。犬のジョンは玄関の横で、眠りながら小さな吠え声を出していた。飼い主に似る動物。

 ケンも甘い夢を見ている。自分の仕事が評価され、タキシード姿で壇上に向かう。「自分の研究を陰で支えてくれた妻に感謝します」と言って、そして、客席を見る。そこにはきれいなドレスを着たマーガレットがいる。彼は賞金を受け取り、銀行に預けに行く。そこにはエドワードがいて、カウンターの向こうでお札を数えている。集中できないひとのようにエドワードはこちらを見ている。見る理由があるのだ。ケンの後ろにはマーガレットがいるのだ。ケンは大金ときれいな妻を手にしている。勝者の喜び。だが、夢はいずれ覚めるようにできている。

「なんだ、夢か」ケンは身体を伸ばしながら、そう言った。だが、その夢を見た理由がなんとなく分かるような気がした。先日、友人たちとパブに行き、少し酔った足取りでマーガレットの家の前を通りかかった。その玄関からエドワードが出てきて、マーガレットと母もその後ろに顔を見せた。マーガレットはエドワードの上着に糸屑でも付いていたのか右手の指先で取り除いた。それをすぼめた唇でふっと吹き、どこかに飛ばした。女性ふたりはケンの姿に気付かないようだったが、エドワードはこちらをちらりと見た。週末の夕方に大騒ぎする若者を嫌悪するような目付きで。彼にはそういう親しい間柄のひとはあまり居なかった。嫌悪する理由は、またうらやましいことへの裏返しの視線ともなった。だが、エドワードは自分の下宿に戻り、角のパブの前で同じような学生が騒いでいる様子がしたので窓から顔をのぞかせ、小さな舌打ちをした。自分は家でくつろぎ、今日のマーガレットの表情を思い出したかったのだ。それが破られたことが小さな舌打ちとなってあらわれた。

 由美が勉強をしている内容を覗き込んだ。小さな図形がふたつ描かれ、上に描かれた物体の展開されたときの図として、どちらが正しいのかというそれは問題だった。
「パパ、これ、どっちだと思う?」
「そういうのは、家にいるときは遠回りだけど出来そうなことをしなくちゃ。ここに紙があるから作ってあげる。学校じゃだめだよ」

 ぼくはハサミと固めの紙を取り出し、図を見比べ切り出した。器用そうに振舞ったが、少し切られた紙はいびつになった。答えは出たが、ぼくらは紙を切るという作業に集中する。

「サイコロを作れる?」ぼくは提案をする。由美は作り出す。それはただの四角い紙を6つ寄せ集めただけのものになった。ぼくは展開図を紙に描き、のしりろも付けた。違う色で円をいくつか切取り、できた四角い箱に貼り付けた。そして、仕事のことを忘れた。

 由美はそれを寝ているジョンに投げつけた。驚いた犬は彼女に駆け寄った。そのままその四角いサイコロは玄関に放って置かれ、帰ってきた妻の怒りを誘引させる。

 エドワードは仕事に行き、実家から送金されたお金を引き出すケンを見つける。彼は、そのような愛情の深い両親をもっていなかった。そのことが自分に卑屈さに近い陰を落とす遠いきっかけのようにも感じていた。自分は温かな家族を作る必要があるのだと仕事中も昼休みにも思う。そこには、いつもマーガレットがいた。当のマーガレットは、このふたりの愛の象徴であることに気付いていなかった。いまはキッチンで洗ったばかりの皿を拭いていた。あまりにも上の空で拭いていたため、ひとつを床に落とし甲高い大きな音を立てた。

「食器洗浄機があると便利だと思わない?」と食後に妻が言う。
「わたし、電気屋さんとお友だちになった。エアコン直してもらったときに」と、由美も口添えをした。ぼくは多分、また読者に追いかけられる夢を見るのだろう。
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壊れゆくブレイン(96)

2012年08月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(96)

 ぼくは本を片手に公園に出向く。以前は大きな工場があったが、どこかに移転したのか数年前までは空き地になっていたのを整備して、住民の憩いの場に変貌した。だが、ぼくらはそこに林立する煙突を目印にして、子どものころに遊びに行ったのだ。いまはその姿はない。ここで遊んでいるひとたちの大半はそのことを記憶にも留めていないはずだ。それが良いことなのか悪いことなのか判断に迷ったが、すべての記憶は更新されてこそ意味があるのだ、ということでむりやりに納得しようとした。

 それはこの土地の経済の成り立ちが変わりつつあることの証しのようだった。住民の働く姿も変わっていく。華やかな店も増え、雪代の店はその町並みの変わりようにも対処し繁盛していた。浮き沈みとよくいうが、大きく沈んだことはないらしかった。だが、彼女はあと数年ということを口にするようになった。それが本気なのか分からないが、第二の人生というものも考えたいらしい。ぼくらは、そういう入り口を見据える年齢になったのかもしれない。ぼくは会社員なのでそれをまっとうすることを望んでいたが、彼女は自分の判断でものを動かせる立場にいた。それに、ぼくより数歳上だった。その立っている地点の違いが、思慮深くさせるのかもしれない。

 ぼくは本を開く。以前、何度か読みかけようとした本だった。裕紀が面白い本だといって勧めてくれた。だが、それはもう意に反して手元にはなかった。ぼくは妹の家に電話して、姪にその本の在庫を訊いた。彼女は本屋さんでアルバイトをはじめていた。そこにはなかったが、良い本なので取り寄せてくれると言ったので、ぼくはそれを頼んだ。

「読んだことあるんだ?」ぼくは感心したようにたずねる。彼女は当然だという意味合いの言葉をのべた。それから数日してまた電話があったので、ぼくは仕事の帰りに受け取りに行った。レジで彼女は自分の文章が載った冊子もくれた。思ったよりそれは分厚かった。高校生の書く文章がどの程度のクオリティを持つものかぼくは理解できなかったが、「読むよ」と言ってそれももらった。

 しかし、ぼくはまだ読んでいなかった。自分が仕事で書くお礼や義務的なお詫びの文。報告がメインであるメールの文章。そういうものはこころをあまり打たず、事務的な意味合いで伝わればいいだけだった。そこに感情などは必要もなく、入り込ませることも敢えて避けた。だが、それは当然のこと、こころを磨耗させ、すり減らせることが多々あった。意図しなくても、疲れることがあるのだ。

 本は素直に視線のなかにも、こころのなかにもなかなか入ってくれなかった。それで、ぼくはまた本を閉じる。裕紀が、「面白いから、ひろし君も読んで」と言った表情が思い浮かぶ。姪も、「考えさせられる本」と言った。そのふたりは交遊を深められる可能性があったはずだ。もし、大人通しとして会話をしたら、そこに意気投合があらわれ、また非対立的な議論も行われたはずだ。姪は裕紀の半分の年齢になると言った。ひとりはこれから大人になり、ひとりはある一定以上の年齢にはならない。なぜなら、奪われたのだ。ぼくから奪われ、たくさんの可能性のある存在自体を奪われた。だが、ぼくはもうそういう考え方をしない方が良いのかもしれない。ぼくにはこころの平和があった方が望ましいし、彼女にも安らかな状態が似つかわしい。死というものからも遠ざけられ、ただたまに記憶にのぼるような存在に。だが、それもぼくの深いところの感情が決して許さなかったのだが。

「誰に教わったのかしらね。この子、才能あるよ」と、雪代は机に置きっぱなしの冊子を取り上げ、姪のものが書かれたページを開き、そう感嘆の声をあげた。「ひろし君も、わたしに手紙を書いてくれればいいのに」
「そう」でも、ぼくは読まなかった。なぜか、分からない。ただ、いつかそれに見合う日が来るような気がしていた。どんな内容が書かれているのかさえ知らなかったのだが。

 それが、昨夜のことだ。雪代は働き、ぼくは休日の太陽をのどかに感じていた。煙突から吐かれるいまから考えればいくらか汚い煙もなつかしかった。いまはそれもなく、青い空に、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。それらは動くことすら忘れたように、同じ状態を保っていた。同じ状態に挑むという反抗的な態度ではない。ただ、動かないことを決めたのだ。無心に。

 動くことをやめた裕紀の身体。病院のベッドに横たわる姿。それも反抗的ではなかった。ねじが回転を止める。背中にその動作を規定するねじでもあれば、ぼくは懸命に回し続けたい。でも、それはぼくの範疇の仕事ではない。そう考えていると、ぼくの足元にサッカーボールぐらいの大きさのビニールのボールが転がってきた。ぼくは転がり続けるのを停めるように、手で受け止めた。それを拾い、小さな子に投げ返した。動くもの。止める作業。この場所では与えられた動作だった。ぼくはそれからゆっくりと本を閉じ、空腹を覚えたため、飲食店をいくつか思い出す。ぼくは、裕紀がつくったものを何でもいいから食べたいと思った。それで、おいしいと感謝の言葉をきちんと告げるのだ。嫌がるくらいに言いつづけるのだ。だが、それも虚しい願いのうちのひとつであることは直ぐに理解ができた。
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壊れゆくブレイン(95)

2012年08月14日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(95)

 結局、雪代は適度に空いた時間を、広美の友人の勧めもあり、水彩画を習うということで埋めた。もともと自分でデザインに至ることまではなかったが、洋服のスケッチなどはしていた。幼い広美は塗り絵のように、そこに色を塗った。それで、専門店で必要なものを買い込み、週に一度そこに通い出した。

 別の曜日には油絵のクラスというものもあり、そこに広美の友人がいた。彼女は前に雪代の肖像画を描き、それはいまでもぼくの部屋に飾ってあった。その女性は雪代の店で洋服を買うような年代になった。それで、ふたりはいまでは前より親しくなり、家にも遊びに来るようになった。

 ふたりは日帰りできれいな景色を求め、スケッチに行く。そこでどのような会話がなされているのか知らない。年代も違い、過去の共通点も少ないはずだ。友人の母であり、もう一方から見れば、娘の友だちであった。だが、ぼくらはいろいろな役目から抜け出るタイミングがある。雪代は娘を育てるという重大事から、うまく切り替えられそうであった。ぼくだけが、過去のしがらみから抜け出ることを拒否し、逆にそこに愛着を求めていた。まるで、ぬいぐるみを離せない子どものように。

 それで、休日の早朝、雪代は車を出した。これから、迎えに行って、和代というその女性と山並みを見に行くそうだ。もちろん絵だけが目的ではなく、彼女はおにぎりを作っていた。いくつか、余分に作り、ぼくはテーブルに座って朝のニュースを見ながら、それを食べていた。

「ママは?」そんなのんびりしていたときに東京の広美から電話がかかってきた。
「雪代の絵を描いてくれた友だちと、どっか山の方まで写生に行ったよ」
「和代と? ママも物好きだね。なんでわたしの友だちと」
「暇になったから水彩画を習い始めたんだよ。でも、何か用だった?」
「特別には、ないけど。たまに声ぐらい聞かせないと心配するかと思って」
「携帯の方にだね」
「そこまで、する必要はないよ」

「じゃあ、夜にでも電話させるよ」その答えをはっきりさせないまま広美は電話を切った。そして、ぼくはニュース番組に戻った。ある有名人が亡くなり、その人生を振り返っていた。最後にはフランク・シナトラが歌う激動の人生を象徴する曲が映像にかぶさった。ぼくは、良く知らない有名人のために不覚にも泣く。そのひとのために泣くぐらいなのだから、自分の身近なひとのために涙を流すのは当然だった。そのトンネルを抜けることをぼくはずっと望んでいたのだが、いまは放棄していた。ぼくは自分の過ぎ去った日々を愛するならば、そこに裕紀の死を迎え入れないことには話がまとまらず、解決もしなかった。

 ぼくは裕紀の人生に似合う曲を空想のなかで選ぶ。激しいものは相応しくなかった。ただ、静かな燃える炎のようなものをイメージした。ピアノがいい。ただ、ひとりだけで演奏されたもの。ぼくは彼女の足の指までを思い出せることを知った。耳のかたち。持っていたイヤリング。いまは、一体どこにあるのだろう。ぼくは、ビル・エバンスというピアニストを思い出した。彼の演奏する「ピース・ピース」という楽曲。その静穏とでも呼べる曲こそが裕紀の放つ印象にぴったり来るようだった。誰も紹介しない、テレビでも放送されない死。しかし、ぼくはそのようなプログラムを自分の頭のなかだけで作り上げる。

「いちばん、印象に残っていることは?」
 その質問には、ぼくの側からは答えられるが、彼女からの視点ではもちろん何も分からなかった。ぼくはある日、高井という男性と笠原という女性を結びつけるために紹介し合った。その日の帰りに裕紀も少し興奮していた。ぼくらは愛する人間を見つけるという段階は通り越し、二度と経験する必要もなかった。だが、それをひとのためにしているという自己満足的な気持ちにさえ、ぼくらは身勝手に納得して、追体験できたという幸福感があった。しかし、裕紀の死から立ち直れなかった自分は、その笠原さんを抱いて忘れようとした。自分に当て嵌まる曲は、そういう意味合いからしてもっと濁り、もっと不快な音を奏でるはずだった。

 一日は終わり、夜になった。雪代が部屋にいる。ぼくは遅くなって戻ってきた。
「どうだった、楽しかった?」
「うん。あの子、とっても優しい子だよね」と言って和代が示したいくつかの美点の例をあげた。
「そういえば、広美からも電話がかかってきた」
「何の用だろう」
「特別、どうこうするとかいうことは無いみたいだったけど・・・」

 彼女はシャワーを浴びたのか完全には髪が乾いていなかった。ぼくは雪代を愛している。だが、いつまでも裕紀を締め出さない不甲斐なさも感じていた。ぼくのこころには現在と別の部屋がしっかりとあり、そこに裕紀を住まわせていた。火事にも地震にも悪影響を受けることのない真空の部屋。そこではウィルスも蔓延することもなく、ただ静かに穏やかに暮らすことができるのだ。だが、当然のこと未来はない。新たなものに挑む必要もない。ぼくは雪代がスケッチした絵を眺めた。そこには一片の青い草の切れ端が挟まっていた。ぼくはそれを抜き取り、テーブルの上に置いた。いずれ、それは枯れ、美しさもないただのゴミくずに変化する。ぼくは自分の記憶を汚すことを絶対に許さず、静かなひとりのときにそれを取り出していた。だが、雪代と来年もそれ以降もずっと生活することを求めていた。この矛盾した生き物である自分に時々、不可解さも覚えた。誰かにこの気持ちを解明してもらいたかったが、誰にも打ち明けられることができないほど秘密でもあったのだ。
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壊れゆくブレイン(94)

2012年08月13日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(94)
 
「犬でも飼う?」ぼくと雪代は外を歩いていて、すれ違ったひとが連れていた犬が可愛かったため、彼女はそう口にした。でも、本物の願いでもないようだった。
「何かを育てたい症候群じゃないの?」ぼくはそのまま歩きながら言った。
「何それ?」怪訝な表情を彼女はする。
「広美がいなくなったことへの後遺症がでているんじゃないの」

「じゃあ、庭弄りでもしようかしら・・・」
「庭なんかないのに?」ぼくらはマンションの上階に住んでいた。
「どっかで借りて。菜園とか」
「なに作るの?」ぼくはその話題をもてあそんだ。
「ズッキーニとか。そうだ、買わなきゃ」育てることより手っ取り早い方法があった。雪代はスーパーでその青い匂いのするものを何本か手に持って比べていた。それを使って何が作られるのかをぼくは考えていた。

「直ぐに孫でもできるよ」
「まさか? 東京で会ったときに、そんな話がでたの?」雪代は重さと未来の味覚に納得したかのように野菜を買い物カゴに入れながら言った。
「でてないよ。ただの一般論」
「ひろし君も孫を抱くんだ。おじいちゃんだ。いつかだけどね」

 ぼくはその意見に不公平感をおぼえた。誰か小さな子をぼくは一から育て上げた経験がなかった。それで、自分にその役回りが与えられるのに、かすかな抵抗を感じたのだろう。そもそも、ぼくはおじいちゃんであるのか。それとも、もっと相応しいその役目の呼び名があるのだろうか。

 ぼくは裕紀との間にも、雪代との間にも子どもができなかった。不思議とその居心地が良かったこともあるが、ずっと裕紀にたいしては申し訳ない気持ちを抱きつづけていた。いまさら、ぼくだけが父親になって、最愛のものを抱いて満足しているということにやり切れなさがあったのだろう。それはぼくに対する不公平というより裕紀に対しての不公平でもあった。だが、いずれ孫ができる可能性は当然のことあるのだ。それでも、ぼくにとっては遺伝子的に無関係な存在である。愛情を注ぐことはできる。では、愛情と遺伝子ではどちらのほうが深いものを示せるのか、ぼくはその判断を慎重にしようとした。でも、当てのない未来のことは判断をする材料も乏しいものだったので直ぐに頭のすみに追いやった。

 ぼくらはスーパーを出て、いつもの店でコーヒーを飲んだ。もうその店にも30年近く通っていた。大きなスピーカーはずっと居場所を変えることなく、品の良い音を出していた。それは、主人の隠れた執念のようなものだった。ピアノの理想の音があり、いつも、合格点を越えている律儀でありまた反対に音楽が開放されるところでもあった。暑い夏も、冷たい木枯らしが吹く季節も、そこだけは常春のような音楽が放たれる安息地のような場所だった。もちろん、30年前はそんなことに気付きもしなかったのだが。

「ここで、そういえば、ひろし君、広美を抱いたね」
「柔らかい物体だった。その子とのちのち親密な関係を作るとも、あのときは全然思っていなかった」
「ただ泣いているだけ」
「あのときは大人しかったよ。会話はできなかったけど」
「言葉って、どこで覚えるんだろうね?」
「さあ。ずっと耳を澄ましているんだろうね。いつか、使える日を夢見て」

 ぼくは会話をしながらもピアノの音に耳を傾けていた。それを同じように自由自在に奏でたり、使えるまで訓練することを望んではいない。ためらいでもない。ただ、耳を傾けている。また、同時にこの前に会った大学がいっしょだったと漏らした男性のことも考えていた。彼に言葉は必要であるのか。ぼくと彼が使う言葉の数は違っている。耳に入ってくる他人の声の量も違う。ぼくらはその発する声の質や、微妙な感情の揺れや、高低を的確に判断する。言葉だけを覚えているのではない。その発した温か味も覚えこんでいるのだ。そのうちのひとりの数十年の声の蓄積が与えられたことにぼくはなぜだか感謝がしたかった。ひとりの声。思い出というものの形態のひとつの入り口と出口に声が関わっていた。

「お嬢さんは、東京に?」店主は会計のときに話しかける。彼も赤ん坊の姿の広美を記憶している。
「東京でしか習えないことがあるんですって。だから、いまはこうしてふたりで」
 雪代は言ったが、三人でこの店に来たのは、思い出すのが困難なほど遠い昔のようだった。
「大人になってくれるって、いいことですね。でも、一抹のさびしさもある」

 彼は代わらないコーヒーの味を維持しつづけている。音楽に求めているものも一定の水準で保っている。だが、ひとの成長を止める方法は知らないし、成長そのものを美しいこととして認識している。ぼくはその矛盾した考えに馴染もうとした。それは最初から矛盾ではないのかもしれない。明日も同じものを求めようとすることは貴重な変化でもあり、成長をも伴うものなのだろう。それで、ぼくはいつか孫と呼べるものを抱く。この店でまだ小さな広美を抱いたように。その姿は裕紀に対して不公平という感覚は与えそうもなかった。その選別や境界はどこにあるのかは分からない。ぼくの手にするものは、ぼくの手を通っていない。

「これ、持ってくれる?」とスーパーの袋を雪代は差し出した。ぼくは彼女からの荷物を預かり、家で彼女が調理する。ズッキーニという響きを楽しむかのようにぼくは口にした。まだ学生のころ、檸檬をどこかに故意に置き忘れるという内容が教科書に載っていた。それは洗練され垢抜けた言葉として若いこころに迫った。それと同じようにぼくは再度袋のなかの品の名前を口にした。
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壊れゆくブレイン(93)

2012年08月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(93)

 久々に雪代は店の品物の買い付けに行ったため留守にしていた。ぼくは、家で本当のひとりになった。この状態を望んでいたようにも思えたし、まったく逆にこれだけは望んでいなかった立場に思えた。ぼくは暇を持て余すように古くなった雑誌をめくり、必要のないものをビニールの紐でくくり、一階にあるゴミ捨て場に運んだ。その横の塀の上には猫が不自然な姿勢で寝ていた。ぼくも真似るように部屋に戻り、ソファに転がってテレビを見た。それも、いつの間にか寝てしまったようで気付いた時には、首のまわりがすこしだけ痛んだ。

 夕方になり、ひげを剃りきれいなシャツに着替え、カギをしめて家を出た。普段、あまり行くことのない数駅離れた場所の駅で電車を降り、駅前のぱっとしない飲食店に入り、瓶のビールを頼んだ。

 あまり愛想の良くない店員がお盆の上にビールとグラスと僅かばかりのお新香を載せ、奥の厨房のひとと会話をやめずに運んできた。ぼくは、自分でビールを注ぎ、壁のうえのテレビを見た。地方の野球の予選だか、何かの試合が行われていた。ぼくは見るともなく見ていた。店内の客は数人居て、みな同じようなことをしていた。いや、同じように何もしていなかった。ただ、頭上のテレビを見たり、新聞の記事をビールを飲みながら読んでいた。テレビのなかでアナウンサーが声の調子をあげれば、記事から目を離しテレビを眺めていた。

 みな同じ方向を向いて座っているので、入り口に近いぼくからは各自の背中だけが見えた。そのひとりが振り向いた。ぼくの顔を見たようにも思えたが、直ぐにまたその背中に戻った。しかし、気になるらしくもう一度振り向いた。
「近藤か? 近藤だろ?」
「はい」ぼくにはそれが誰だか見当がつかなかった。
「忘れたのかよ。大学でいっしょだった」彼は名前を名乗った。そして、学科も言った。ぼくは彼を知っているはずだった。しばらくすると、ぼくはその名前と印象をやっと思い出した。それで、共通する友人の名前を告げた。彼もその名前を聞くと、途端になつかしがった。

「でも、大学を途中で辞めて、東京に行ったと思ってましたけど」
「行った。でも、挫折して、親の家業を手伝った。それで、両親も死んで、いまは気楽に暮らしている」
 その数語だけで彼の人生を表すことは不可能のようにも思えたが、またそれだけで充分事足りるようでもあった。それで身の回りのことに無関心なひとのような雰囲気も彼はあらわしていた。
「近藤は?」
「こっちの会社に入って、一時、東京にもいましたけど、またこっちに戻っています」
「結婚は?」
「してます」

「そうか、良かったな」そう言うと、彼は背中を向け、ぼくと会話した事実すらなかったように以前の状態にもどった。新聞を開き、たまにテレビを眺める。ぼくは一本のビールを開け、会計を済ませ外にでた。彼に挨拶すべきか迷ったが、トイレからなかなか出てこなかったので、そのままさっきの話で終わりになった。

 ぼくは、それから用もなかったが誰か知った顔を見たく、いつものスポーツ・バーに向かった。そこまで歩きながら、電車を待ちながらも、ある人生を表すのに費やす必要のある言葉の量を考えていた。あの数語だけで彼の人生はすべて物語れるのだろうか。ならば、ぼくも同じだろうか。結婚という質問には、ぼくは二度という答えを準備していた。そこには義理の娘のことも話題にあげるべきだった。前妻の死というぼくにとっての大問題も彼にとってはもちろん関係のないことだった。恩を受けながらも返す機会のなかった社長のことも、ぼくにとってはいまだに心残りの事実だった。そう考えると、長い長い説明を要することになりそうな自分の人生が確かにあった。それはぼくにとって貴重でもあるが、また他人にとっては、どうでもいいことなのかもしれない。

「ひろしさん、今日は何にします? ちょっと、飲んでいるでしょう?」バーの店主はいつもの軽い口調でたずねた。
「ジン・トニックみたいなさっぱりしたものを」
「お、珍しい」と言って、彼は通る声で奥に注文を告げた。
「例えばさ、ぼくが死んで、そこに、通夜とか葬式に駆けつけてくれたとするじゃない?」
「急にどうしたんですか?」

「まあまあ。ぼくについて、それで、どんなことを思い出すと思う?」
「それは、サッカーを教えてくれた優しいお兄さんだったなとか、いつも、ぼくの店に娘と兄弟のように笑い合って、飲みに来てくれたなとか、女癖が良いんだか悪いんだか、それでも、なんだか素敵なひとと結婚したな、とかそんなことですかね」彼はいったん消え、グラスを持ってまたあらわれた。「真剣に人生を振り返ってみたくなりました?」
「そんなこともないよ。で、オレはどう君のことを思い出すだろうね?」
「思い出しませんよ」
「どうして?」

「だって、順番からいったら、ひろしさんのほうが先ですからね。ぼくは、泣いている広美ちゃんでも慰めています。きれいなハンカチをもって」彼はそれを握っているかのように手の平をひらひらさせ、笑って他のお客の注文を取りにいった。

 順番からいったら裕紀はまだ死んでいなかった。島本さんもまだどこかで自分の道を歩んでいるはずだった。ゆり江も子どもの成長を暖かく見守る役目を全うするはずだった。ぼくは、やはり誰かを必要としていた。それでひとりでここに座っていることに窮屈さを感じ家に戻った。でも、たくさんの言葉を話したいけれども雪代はいなかった。その雪代のことについて、ぼくはどれくらいの量の言葉を使えば彼女を表現できるのだろう。美しさ、過ぎた年月の長さ。さっきの大学の友人は、誰の記憶を持ちつづけているのだろう。それは、ぼくに不安を与え、寂しさというものが忍び寄るのに抵抗する決意をくれた。
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壊れゆくブレイン(92)

2012年08月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(92)

 ぼくは実家にお土産を持っていく。その家の2階の一室でぼくは大人になるまで生活していた。勉強をして、憧れていた女性のことを考えていた。疲れたラグビーのあとの肉体を横たえ、疲れを取り除きまた登校した。そこをある日去り、自分の生活を作った。横の妹の部屋も同じ経緯をたどった。ぼくはいまの自分が住んでいる家の広美の部屋のことを同時に思い浮かべた。主人は消え、その名残りだけがある。ぼくは2階にあがり、使っていた机を見る。勉強をした内容はすっかりと消えていたが、あの日に眠いさ中ラジオを聴き、頑張ったことだけはよみがえって来るようだった。ついでに隣の部屋も覗く。そこには裕紀に似た少女の絵がいまでも掛けられている。縁があって、ぼくとあまり離れないところで存在する少女。

 ぼくは下に戻り、リビングのテーブルを前に座って世間話をはじめた。
「姪っ子に、会ったよ。この前、本屋の中で」
「大人びた雰囲気になったでしょう?」ぼくの母は嬉しそうに言った。
「うん、あの子だけ、ぼくらと隔絶しているようなね」
「お勉強もできて。でも、運動会の前はいつも泣きべそをかいていた」
「長所もあれば、短所もあるよ」

「ひろしのところの子は、東京になれたか?」父も口を挟む。
「なれたみたいだよ。こっちに住んでいたときの親友が前に東京に引っ越して、その子が役立ってくれているみたいだから」
「そうなのか。良かったな」

 ぼくは東京に出たときに、やはり、裕紀を見つけたということが今更ながらおおきな好結果を生んだことを知る。ひとは友人やそばにいてくれるひとが必要なのだ。ぼくは、その前に自分から彼女と縁を切ったので、虫が良すぎる話でもあったが、あの東京でひとりでさ迷っていたら、数々の悩みが襲い、ぼくを打ちのめしたかもしれない。

「家は楽になった?」
「ご飯の炊く量が減ったと言って雪代が嘆いていた、この前」
「わたしたちも、あなたと美紀が居なくなったときは、そうだった。それに見て、いまはこんな小さな炊飯器」そこにある白い物体を母は指差した。その物体の大きさそのものが、ひとが成長の過程を終えたことの証しになった。あとは現状維持。「でも、ふたりで旅行に行く余裕もできて良かったじゃない」
「そうだね。まだまだお金はかかるけど」

「正直にきくけど、ほんとうの父親が別にいるっていうことは気にならなかったの?」と、母は長年の疑問であったらしく意を決したように訊く。
「とくには。こういうもんだと思っていた」

「あのひとのこと、お前はむかしから気にいったんだもんな。その気持ちの結集がそういうもんだよ、という簡単な言葉で表すしかできないもんだ」父が正直になにを言いたいのかは分からなかった。ただ、ぼくらの選択は選択という意味合いだけで機能して、ゴールを見据えてなにかを決断することがいかに難しいかを物語っているようだった。

「良い奥さんだった?」
「まだ終わってないよ」
「裕紀ちゃんは、良い奥さんだった?」

「あいつは、出来すぎてたから。ぼくみたいなものには貴重すぎて、ちょうど良いタイミングで取り上げられたんだろう」
「可愛い子だった。正直に言うと、美紀より、美紀の子どもたちより好きだった」と、母は妹の名前まで持ち出してそう言った。それが本音であったのか、ただのお世辞にすぎないのかぼくには判断できない。ひとは失ったものに対してより一層、愛着があるものだ。だが、根が正直にできている人間なので、リアルな言葉としてぼくの胸に響いた。

「まだ、裕紀と暮らしていた時期の写真とかって、残っているのかな」
「倉庫に入ったままだよ。見たいの?」
「ううん、そのままでいい」封印された記憶たち。ぼくにとってはエジプトの王様の墓よりそれは神秘的なものとして接触を避けるべきものなのだ。いつか、それを開くことになるのだろうか? それは、別の人間の役目かもしれなかった。姪? それとも、また相応しい第三者がどこかにいるのだろうか。

 父は爪を切り始めた。その先端に残っている思い出を切り離すような感じをぼくは受けていた。ぼくが裕紀と暮らしていたころの爪も髪の毛も生え変わったため、物質的な意味ではぼくには残っていない。だが、精神の奥底はなにも変わっていなかった。

「そろそろ、帰るよ」ぼくが帰る場所はひとつだった。両親はぼくが大学にいるときは雪代のことを理解してはくれなかった。だが、ぼくをどん底という場所から、嵐が巻き起こる中から救い出してくれたのは彼女だということをいまの両親は知っていた。それを認めるために、ぼくは深い底に落ちることが必要だった。その原因を作ったのは裕紀の死であり、雪代がぼくの伴侶として釣り合いが取れていたのを決定したのも、そこから抜け出してくれたことだった。ぼくにどのような形式であれ同情を寄せ続けた両親を不憫に思い、ぼくは家をあとにする。そして、陽光のなか、ぼくは死と生存というささやかな境目を行き来する自分を想像した。

「お母さんたち、喜んでくれた?」
 家に帰ると、雪代がたずねた。生命の側にいる住民。大病もしなかった健康なる肉体。艶やかな髪。ぼくはそれを眺める。
「うん、喜んでた」ぼくは横目で広美が使っていた部屋を眺め、実家の自分の部屋を思い出した。深夜のラジオはぼくの勉強のお供であり、また足を引っ張る誘惑でもあった。雪代も若いぼくにとって誘惑だった。だが、今となってみれば、連れ添った間柄がつづく限り、無二の伴走者でもあることにも気付いていた。
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壊れゆくブレイン(91)

2012年08月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(91)

 ぼくと雪代は潮のにおいのする町で早起きして、朝市のなかを歩いている。新鮮な魚が横たわり、獲れたての野菜が無造作に並べられていた。昨日は海まで足をのばし、きれいな夕日を見た。大きな赤い球体が海のうえを占領し、それから名残惜しそうに消えた。ぼくは自然の壮大さを思い、自分のちっぽけさを恥じた。ぼくは、何一つ自分の意志で動かすことなどできないという類いのちっぽけさだ。

 となりにいる女性の気持ちも、ぼくには分からなくなるような錯覚を抱く。はじめから分からなかったのか、それとも、いまこの瞬間だけ他人のような気がしたのか、それすらも不明であった。
「いつも、小さな一室で洋服を売ってきた」
「うん。仕事のことなら」
「それをずっとしたかったんだけど、それがずっとこんなに長く続くとも思っていなかった」
「裁量があったんだろう」
「好きだったけど、娘のこともあった。あの子を大きくする必要もあったから」
「結果として、大きくなった」
「もっと開放感があると思っていたけど、やはり、どこかで心配だし、まだまだ大人になるまで待たなければならないのかも」
「なんとか、うまくやるだろう。雪代の娘なんだから」

 水平線から色が消え、ぼくらは少し涼しくなった戸外から車に戻った。
「ああいう大きなものを見ると時間の観念が狂って、なんとなく会えなくなってしまったひととかのことを思い出すね」雪代はそう発言したが、前を見て運転しているぼくには彼女の表情までは分からなかった。
「例えば?」
「さあ、特にはいないんだけど。言えなかった感謝の言葉とかを言えば良かったなとか、すごく単純なことで」
「島本さんとか?」ぼくは彼女の前の夫の名前をだす。
「ぜんぜん。彼は颯爽と消えるということを運命付けられたひとだから」
「そういうもんかね」しかし、ぼくも彼に対して同じような印象を持ち続けていた。生きるという毎日の事務的な作業にもっとも似つかわしくないひととして。

「いない?」
「いるとは思うけど」ぼくは運転の集中を途切れさせないようにしていた。
「あのひとは? もう10年も前になるんだね。酔っ払って、絡んできたひろし君。あのときに少し嫉妬した。もし、わたしと別れたら、彼はあれぐらい悲しむのだろうかって? どうだったと思う?」

「ぼくは一回、雪代と別れているよ。そのときの荒れ様もひどかった」だが、実際には思い出せなかった。それに多分していなかった。もっと深い部分での落ち込みだった。すると、外に向かって荒れたりするのは、あれはポーズなのだろうか。ひとが悲しんだときの最後に結晶として小さな粒のように残るのは、静かに沈んでいくことなのか。

 それから20分ほど運転するとホテルに着いた。ぼくらは交互に大浴場に行き、それぞれの汗を流した。夕飯は広間だがきちんと区割りされた席で夕飯を食べた。ぼくに、このような穏やかな時期が来るとも思っていなかった。大人になり、自分で稼ぎ、愛すべきひととそこにいた。ぼくらの若さの一部は消滅し、お互いを労わるような気持ちにもなっていた。子どもももうそばにはいない。あくせく何かを求める必要もない。その場所でぼくはそんなことをためらいもなく、とりとめもなく考えていた。

 ぼくは雪代という女性と知り合ってから30年近くが経った。その関係もこんなに長くつづくとも思っていなかった。それを望んでいたのかも分からない。ただ結果として、ぼくらは自分の家から離れた場所で、他人から見たら夫婦以外の何者でもない姿と形として、ここにいる。ぼくは先ほど言った雪代の言葉を思い出していた。会えなくなっても感謝の言葉を伝えたいひと。それは、その30年前の雪代に対して、大きなものを背負わせてしまってすなまかった、というようなセリフをあげ、ぼく自身には辛らつなことを経験しながらも、こうした穏やかな日が来るのだから一日一日をしっかりと生き延びてほしい、そのような安心感を与えることばを残したかった。だが、そのどちらもできない。自分たちは現在を中心に生きることしかできず、ただ、思い出すことと後悔を混ぜた過去しか手に入れることはできないのだ。だが、それでも雪代を前にして薄いウイスキーを飲みながら、そう考えているのは悪いことではなかった。

 それで、夜も終わり朝になった。ぼくらはひとがまばらな朝市をのんびりと歩いている。なにかを猛烈に欲しないという気持ちを体現しているような気持ちだった。だが、雪代は職場の仲間にお土産を買う算段をしていた。それに連られ、ぼくも何人かの顔を思い浮かべる。最近は実家にも寄り付いていなかった。彼らもぼくらの気持ちを、自分の子どもが旅立ったという経験からくるしとやかな暴風のあとのような気持ちを味わっていたのだ。ぼくは彼らにも伝えられなかった言葉があるのか確かめるように思案していた。勝手に女性と過ごした大学生の時代があり、東京で以前の恋人をこれまた勝手に結婚相手に決めていた。自分の都合で大きくなりかけた少女を持つ女性と再婚した。彼らは、それでもぼくを否定しなかった。それは無責任によるものなのだろうか、それとも、自分の息子を信じていたからなのだろうか。ぼくは歩きながらお土産になるべき品物を手に取り、その両親の気持ちの重さのようにそれを軽く揺すっていた。
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壊れゆくブレイン(90)

2012年08月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(90)

「ふたりになったんだから、旅行ぐらい行きましょう」と雪代が言った。
「いままで何かを犠牲にしてきた?」
「ぜんぜん、そんな風には考えていないけど。休みを調整するからどこか調べておいて」

 ぼくは仕事帰りに本屋に寄る。そこで思い掛けなく姪に会う。彼女はお客の側ではなく店員として働いていた。
「あ、おじさん」
「ええ、びっくりした。ここで、働いているんだ」
「そう、4月から。旅行?」彼女は本を見て、その金額を告げた。もともと幼少期から姪は本を読むことが好きだった。それで、あるときから周囲の子たちと違った雰囲気を出すようになった。それがときにはミステリアスとも感じ、また逆に子どもらしさを失わす結果となった。だから、ぼくは同性ということもあるが単純な甥との関係が深まっていった。

「うん、まだ決めかねているんだけどね。これ、良い本?」
「あまり売れないけど、しっかりとした本」彼女は満足そうに言った。彼女は庇護の立場にもういなかった。きちんと意見を持つ女性にいつの間にかなっていたのだ。
「そろそろ閉店?」
「うん、8時まで」
「お茶でも、おごろうか?」
「じゃあ、あそこがいいな」彼女は店名を告げる。それはこの本屋があるブロックのひとつ裏側にある店だった。ぼくは先に行き、雪代に電話をした。彼女も店を閉めて帰るので、途中で待ち合わせをすることに決まり、それまでぼくは姪と時間を潰すことになる予定になった。

 彼女は、しばらくするとやって来た。肩に大き目のバックをぶら提げ、長いスカートを履いていた。身長の高さはきっと父親に似たのだろう。だが、彼女の神秘的な性格はいったいどこから来たのか謎だった。母であるぼくの妹も父親もどちらかといえば大雑把な性格にできていた。陽気で開けっ広げな。だから、彼女だけ違う惑星の住人のようだった。

「本屋で働いているんだね?」ぼくは決まりきったことを訊いた。
「いままで働いていた先輩が辞めて、その後釜を探していたから」
「楽しい?」
「まあ、そこそこには」
「運動より読書?」
「わたし、スポーツが苦手だったから」

 ぼくは身体を動かすことが好きなひとに囲まれて育ってきた。そこにはきちんとした勝負があり、勝つ場合もあれば、誰もが納得する敗因があった。それは潔く、またみじめでもあった。それで、彼女の指針というか物差しがどこにあるのかつかみ切れずにいた。

「なにか、書くのも好き?」
「うん」彼女は長い髪を揺らしながら大きくうなずいた。
「なにがきっかけなんだろう?」
「ゆうきちゃん、ごめんなさい、おばさんが急にいなくなっちゃったから。それで、死ぬということを恐れたりした。おじさんはいまでも考える?」
「裕紀のこと?」
「うん」
「忘れられたりできたら、どんなにいいだろうと考えてるよ」
「でも、旅行も行く。決して非難じゃないよ」彼女は今度は首を横に振った。「大好きなおばさんが死んだ年の半分になるんだ、わたし、もうそろそろ」
「早いね」

「うん、早い。いつか、それを越える。でも、新しい生活に魅力を感じながらも、大人になることに少し脅えている」
「でもね、普通のひとは、そう簡単に若くして死んだりしないよ」
「頭では分かっている」
「それに、ぼくも生き延びなければならなかった。助けてくれたのはいまのうちの奥さん」
「お父さんや、お母さんからも聞いている」
「そうなんだ。それで、書いたものって、どこかに発表されているの?」
「市が募集した作文があって、わたしのが高校一年生の部門で去年、選ばれた」
「そうなんだ。読みたいな」

「今度、家に持っていってあげる」
「ありがとう。大人も、子どものもあるの?」
「社会人と大学生と高校生、中学、小学生は5、6年」
「凄いな」
「お父さんとお兄ちゃんは、ラグビーとサッカーばっかりしていたから」
「ぼくもそうだよ」

 ぼくらはその刊行物を受け渡す約束をして別れた。店の前に雪代が表れたのだ。
「大きくなったね」と雪代も率直な感想を言った。
「あの子だけ、うちの家族の遺伝子から離れているような気がするよ」
「賢そうだよね」雪代も同意する。「みんなも賢いとは思うけど、行動に直結する子じゃない感じがね」

 その彼女を思慮深くさせた要因のひとつは裕紀の死かもしれなかった。小さな女の子が憧れていたきれいで優しかった女性を失う。それは突然起こり、彼女の慕う気持ちは中断される。その気持ちは行き場を失う。失ったからといって直ぐに踏切りがつくものでもない。死も弔いの儀式も知らない。ただ、会えなくなったのだ。会う方法も見つからない。それはぼくも同じだった。だが、デリケートさでは、その幼いこころはぼくと雲泥の差がある。ぼくは自暴自棄になり酒でごまかした。幼い少女は、それにどう対処したのだろう。石の裏に埋もれた昆虫のように、それはもぞもぞと行き場もないまま動いているのかもしれない。

「旅行の本は?」
「そうだ、買った。早起きして朝市なんかをひやかして、海岸線を車で走って、温泉に入ってという、まあ普通のコースだけど」
「そういうのもいいね」
 姪は裕紀の半分の年齢に近付きつつあると述べた。ひとりは成長をつづけ、ひとりは足取りを止める。裕紀との普通の旅行の思い出がぼくには少なかった。それは少ないというより皆無に近く感じた。
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壊れゆくブレイン(89)

2012年08月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(89)

 ぼくはまた仕事で東京に行った。そして、裕紀の叔母に会った。
「娘も東京の大学で勉強することになりました」との簡潔な報告をぼくは彼女にした。
「心配?」無限な喜びを恐れるかのように彼女は訊く。
「そうでもないですけど、そこでしか勉強できないタイプのものもありますし」
「家族を手に入れても、また直きに別れて生活するようになるんですね」

「多分、そういうことが生きるっていうことなんでしょうね。カプセルに閉じ込めておくわけにもいきませんしね。いくら楽しくても」だが、ぼくは裕紀との生活をそのような形態に閉じ込めようと考えていた。もちろん、いくつかのことは成功し、いくつかのことには失敗する。「でも、いまという現在に進行する生活があるのがいちばんです。離れていても、どこかで新たな生活を作り上げている」ぼくは自分のことを語りすぎているきらいがあって、恥ずかしくなった。「病気のほうは、もう良くなったんですか?」彼女は少し前まで容態をくずして入院していた。

「一進一退です。のこりのおやつをどうやって長持ちさせるのかを楽しむ子どものように」彼女は悲しく微笑む。「いつかなくなることは知っているのに」
 ぼくは自分の過去に知り合ったひとびととの縁で彼女とこうしてたまに会った。その近すぎることもなく、遠くになりすぎることもない関係すら、永続ができるという信念をもっていた。だが、それもいずれ絶たれ、ぼくから消える。その前に、たくさんのことを話しておく必要がある。
「そうだ、裕紀の手紙を叔母さん、持ってますか?」
「どうして?」ぼくは、その理由が言えない。ただ、第六感が発達しているひとの言葉を鵜呑みにしているので、とそれは言うことになるからだ。

「ぼくは、ほとんど持っていないので、彼女がどのような気持ちでいたのか全然知らないから」
「わたしの家にもそんなにはない。あっても、それは感謝の言葉とかが書いてある短いもので、ひろしさんに敢えて読んでもらうような内容じゃない」
「そうですか」
「でも、そんなのはもういらないんじゃないかしら?」
「そうかもしれません」ぼくは時計を見る。仕事の約束があり、そこに間に合うように行くには、そろそろ出掛けなければならない。

 ぼくは彼女と別れる。永遠というものは何一つないのだということを実感する。店の外から眺めると彼女はまだ椅子に座り、カップを握り締めていた。その様子はどこかで裕紀とよく似ていた。裕紀も多分、もっと年を取れば、ああいう横顔になっていたのだろう。当然、それはぼくが知りえない範疇の事柄なのだ。

 そこから支社に戻り、仕事を片付けた。新たな見慣れない社員の顔を見て、ぼくは年度が入れ替わったのを知る。夕方までそのまま仕事を済ませ、ぼくの携帯電話が鳴る。それを机の上から取り上げると、広美の名前が明滅していた。ぼくは待ち合わせの場所を教えてもらい、定時に上がると、そこに向かった。

 店は二階にあった。だが、外から窓を通して広美の姿が見えた。彼女を見る機会は減ったことによって、ぼくはよりその姿を客観視して見ることができた。すると、その姿は母親の雪代に似ていた。当然といえば、当然だった。ぼくは、こうしてその日、裕紀がなったであろう姿を彼女の叔母に発見し、雪代の若かった頃の様子をその娘に追い求めたのだった。

 階段をのぼり店に入ると、瑠美も横にいた。
「親が行かなかったのに、引越しの準備とか後始末とか手伝ってもらって、ありがとう」と、ぼくは礼を述べた。彼女は素直に返答としてうなずいた。
「だから、今日は、おごってあげて」
「いいよ、もちろん」
 ぼくは出張に来ると、会社の仲間か、もしくはひとりで夕飯を食べた。今回がはじめて広美といっしょの食事を共にすることになった。これがずっと続くことになるのか、やはり、彼女も自分だけの生活ができ、疎んじられてしまうのかは分からなかった。だが、今日は今日であればよいのだ。将来のことはぼくの頭から簡単に抜け出て、すべての考えを先延ばしにした。

「ママ、元気?」
「あのままだよ。ちょっとほっとしているけど。そうだ、部屋は片付いた?」
「たまに遊びに行きますけど、きれいですよ」瑠美が言った。
「家では、そんなに掃除をしなかったのに」
「してたよ。名誉毀損」ふたりは笑った。ぼくはビールを飲み、自分が若い女性たちを見守る立場が来るという自体に少し馴染めないことに気付いていた。そもそも、このふたりとは他人でずっと過ごす間柄でもあったのだ。雪代の娘として広美と付き合うことになり、その友人として若い女性がいた。裕紀の叔母も、はっきりと言えば他人だった。ぼくは、この日をそういう微細な糸で紡がれた関係を確かめるために東京に出て来たようだった。

「この前、写真を見たよ」
「これで撮った」と広美はバックからカメラを取り出した。それはずっしりと重そうな形状と黒光りする色を発していた。「センスがいいって」
「じゃあ、そのセンスの良さをこれからも発揮して、たくさん送ってきてよ」
「送ってあげなよ」と瑠美も同調してそれを促した。
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壊れゆくブレイン(88)

2012年08月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(88)

 ぼくは外回りのために車を運転していた。となりには後輩の女性がいた。数年前に結婚をして彼女と夫の間には男の子がいた。

「それで、東京の娘から写真が送られてくることになったんだ。一応、親らしくその写真を収めるべく、アルバムを買いに行って、商店街のはずれにある写真館に行ったら、みんな、きちんと何かの記念日には写真を撮っているんだね。それで、そういうのって、したことある?」

「ありますよ、うちにも。それに私の両親がそういうことに対して律儀なもんだから、私が子どものころもよくしました」ぼくは背伸びした少女時代の彼女を思い浮かべる。
「そう」ぼくは、前を見ている。晴れていて強い日差しの一日だった。
「しませんか?」
「うちは再婚で、その子はぼくが結婚したときに10才ぐらいにもうなっていたから、そういう大きなイベントごとは済ませてしまってきたんだろうね」

「それで、今更?」
「することもなく、次は大学卒業とか、結婚とかぐらい。もう小さな子でもない」
「憧れているんですか?」
「何となくね。みんな、ちょっと華やいで、それでも、かしこまった表情もして。前を見て」
「でも、自然な表情がいちばんじゃないですか?」

「そういうのは、いつでも撮れるから」そういいながらも、それは恒常的なものではないのかもしれないと気付いた。ぼくらは、そこで車から降り、あるビルのオーナーにあった。いささか建物は古びてきて、リフォームが必要なようだった。話は長引いたが間もなく用件は済んだ。次回に会って提案する内容をぼくらは社にもどってするだろう。その前にぼくらは昼飯を外で食べ、その店のある商店街の一角からまた駐車場まで歩いた。

「ほら、こういう写真だよ」その駐車場のそばに先程話していたと同じような店舗があった。
「ありますね。赤ちゃんが抱っこされている。お宮参りですかね。こっちは花嫁さん。それにしても花嫁っていうのは、いつでも、いいもんですね。和装にしろ、洋装にしろ」彼女は、ショーウィンドウのなかを左右に見ながら自分のときを思い出しているかのように懐かしそうに言った。「中も入ってみます? 新しいアルバムを買うとか」
「まだ、全然つかってないけど」しかし、彼女の後ろ姿はもう扉を開いて中に入りかけていた。
「面接のときも、こういうところできちんと写真を撮ってもらえるんだね」
「そういうのが入用なんですか?」店主らしきひとが店の奥からでてきた。
「そうでもないんですけどね。家族写真にこちらの先輩が興味をもって・・・」

 だが直ぐに、ぼくはそのようなものに興味など持たなかった方が良いことを知る。その一枚にゆり江という過去に知った女性が写っていた。横には当然のこと男性がいた。もちろん夫だろう。清潔そうな印象の男だった。彼女の膝には赤ん坊がいた。まだ個性など垣間見られない無邪気な存在。そこには確かな暖かさの余韻と前兆があった。ぼくは、その前で気付かずにしばらく立ち止まって凝視していたらしい。
「どうかされました? ねえ、近藤さん」
「いや、知り合いに似ていたもんで」
「幸せそうですね」
「そう見えるね」
「違うんですか?」
「いろいろあるからね、そのひとだったら」

 ぼくは無造作にアルバムをつかみ、それを袋に入れてもらった。ぼくは、最初からこのようなものを買わなければ良かったのだ。広美の同級生のいる店で世間話をして帰ってくればよかったのだ。
 ぼくと彼女は車に乗り込み、ぼくは無言で車を走らせた。音が無かったのはその車内だけで、ぼくの頭の中ではいろいろなことが目まぐるしく動き回っていた。

 ゆり江という女性はその何年後かに、あの子どもを水の事故で失った。そのことを暗示させたり予感させたりするものは写真にはまったくなかった。未来が尊いものだということを信頼しきっている三人がいた。それがある日、突然に潰える。ぼくは自分の周囲に不幸をただばら撒くだけの存在に思えた。その子の死とぼくには無論のこと直接には関係なかったが、なぜだか、ぼくは自分が果たしたであろう負の役割を結び付けたかった。誰かが死んで悲しむのは自分だけでよかったのだ。それをあのゆり江には与えてはならなかったのだ。ふたりの不幸な男女は、自分の妻が亡くなったときに抱き合い、結果として、自分の子どもが亡くなったことを忘れるためにまた抱き合った。だが、そんなものは簡単に消えてくれるものではなく、より一層、その行為が無残なものを鮮明にさせた。

「やはり、知り合いでした?」
「多分ね」
「何か、不幸があったんですか?」
「あの女性、ぼくの妹と同級生だった」ほんとうは、ぼくの方と後年、親密になったのだが。「あの抱っこしている子は川かどこかで水の事故にあった」

「ひどい」と言って、まるで自分のことのように彼女は呆然とした。ぼくは、あの写真が記念として残されるべきだったのか、何もない世界の方が良かったのか判断しようとしたが、それを決定するのは無責任でもあり、未来を冒涜するようなものでもあったのだ。明日、ぼくらは何が待っているのかも知らない。ただ、写真を残して満足すべき対象を保存という状態に近づけることだけを憧れているのかもしれない。ぼくは、広美が送ってきた写真を通して、過去に連れ戻された。その過去は未来に爪あとを残すことをずっと待ち侘び、望んでいた。
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