「とりわきて心もしみてさえぞわたる衣河見にきたる今日しも 」西行
平泉は源義経が自害し、奥州藤原氏が滅亡した地だ。
30代半ば頃に父基衡の死去を受けて家督を相続した藤原秀衡は、豊富な資金力を背景として保元2年(1157年)に奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。
彼は、京都の鞍馬山に匿われていた義経を鞍馬山より招いて、京都、ならびに、鎌倉の武家勢力に対するいざという時の旗印として利用することを画策。
ところが義経は、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、あっさりとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となる。
だが、帰洛後、洛中の警護にあたり、後白河法皇の信任を得、源頼朝の許可なく検非違使左衛門少尉となったため源頼朝の怒りをかい、平氏追討の任を解かれてしまう。
元暦2年(1185)2月、義経は、再び平氏追討に起用され、屋島、壇ノ浦に平氏を壊滅させるも、頼朝との不和が深刻化。
その年の5月7日、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの鎌倉入りが拒否され、腰越に逗留。頼朝の怒りを解くため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送るも頼朝の怒りが解けず、義経への迫害が続く。
義経は全国に捕縛の命が伝わると、難を逃れ再び平泉の藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てる。
泰衡が源義経を襲ったのは、勅令と頼朝公の指示にしたがったことによる。
衣川館では、義経と家来の者たちは、よく防戦して戦ったが、ことごとく討ち滅ぼされてしまう。義経は持仏堂に入り、まず22歳になる妻と4歳になる女子を殺害し自害。
戦の天才であった義経は、最後は敵と刀を交えることなしに果てたらしい。
義経は壇ノ浦で平家を滅ぼしたのだが、この結果、鎌倉の頼朝政権の建設を助けると同時に、奥州を巡る軍事バランスを崩してしまうことになる。
頼朝からすれば、当面の敵であった平氏が滅びたため、目標は奥州平泉だけとなったのだ。
おそらく頼朝の関心は、秀衡の動勢ただ一点にあったに違いない。
事実、頼朝は、奥州に間者(スパイ)を放って、秀衡の健康と義経の動向を報告させていたようだ。
義経は、日本の歴史を変えてしまえるほどの力を秘めた存在だった。彼の悲劇は、彼自身がその力を発揮しようとしなかったためと思えてしかたがない。
それから500年後にこの地を訪れた芭蕉は、義経の居館があったとされる高館の丘陵に登り句を詠むことになる。
「夏草や兵どもが夢の跡」
義経の時代よりも後に、ここにやって来た人々は、安倍氏清原氏、そして奥州藤原氏と約百五十年の間に渡って繁栄をした当時の様子を少しでも想像できるのだろうか。
それほどにかつての黄金の都は、鄙びてしまっている。一面に田野の雪景色が広がるばかりだ。
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