母はやはり特別な存在、今日の「母の日」に感謝を込めてその思い出に浸った
昨日の朝の雨で、今朝は畑の草抜きを頑張った。そして、昨日、今日といくつかの催しに参加した。このブログでもご案内したVSCO主催の「犯罪被害者支援を考える市民の集い」(11日)、そして「ウペポ ケニアからの風」実行委員会主催の「トーク&ライブ ケニア キベラスラムで見つけた希望の光」(12日)に加えて、昨晩の夜には「浜田真理子ライブ」にも行き、夜は少しだけ飲んだりもした。
そんなあれこれは、またおいおいご報告させていただく。 そして、今日は「母の日」であり、朝に続いて今回も「母」がらみで、読んだ本の感想を書かせていただく。それは、先にも読んだが陶芸家の岡上多寿子さんの『いっぱいごめん いっぱいありがとう 認知症の母とともに』(木耳社刊)、及び『認知症の母の教え 千の恩』(目耳社刊)の二冊だ。ともに素敵なな絵を添えて、認知症になられたお母様との日々と思いを綴っておられる。
ところで、私は「終活」活動を強めつつ、生き方と逝き方を相変わらず模索している。老いることは我慢できるが、子どもたちには迷惑をかけずに逝きたい、それが願いだ。我が両親はそうした逝き方をしてくれた。しかし先にも書いたが、私は迷惑と苦労をかけ通しで、「ありがとう」の言葉すら伝えないまま、永遠の別れとなった。そのことは、いつまでも我が心に矢のように突き刺さったままだ。
さて、私が若い頃は子育てで中途退職され人が多かったが、今では介護での退職が圧倒的だ。介護はたくさんの困難と直面する。岡上さんの二冊の本にも、「心ならずも」という言葉が随所に出てくる。言うことを聞かず、徘徊もする認知症となったお母様との日々は、愛に溢れていると共に、格闘の日々でもある。
認知症のお母様に時には優しくできず、「激しくののしり、これ以上無い思いつく限りの汚い言葉を機関銃のように浴びせ」たりもされている。読んでいて切なくなるが、それ以上に苦しく切ないのは、その言葉を浴びせるご本人自身だと言えよう。そこが、介護の苦しさでもある。
これからも若くはならず、年齢を重ねるばかりにので、おいや病気と仲良く付き合いながら、もう少しだけ元気に生きることを楽しみたいと考える。そして、できることなのだが子どもたちに迷惑をかけずに逝きたいと切に願っている。母の日の今日、娘や孫たちとの嬉しい時間を過ごした。そして、子どもたちに迷惑をかけないで、もう少しだけパートナーと元気な日々を過ごしたいと願った。
「老人力と書いてお茶目と読む」、ポジティブに考えて暮らすことを教えられた
もうずいぶんと以前だが、我がブログに「老いを感じる切ないことがあった」と書いたところ、「老人力と書いてお茶目と読むんですよ」とのコメントをいただいた。「目からうろこ」とはこのことだ。
いつも「老人力の発揮」を、いささかの切なさを込めて書いてきたが、「お茶目」と表現すると、とても活き活きした感じとなる。これから、この表現を使わせていただこうと思う。
そうは言いながらも、年齢を重ねることで、切なくなることは多い。最近同年齢の方とお話しする際には、そうした「お茶目」(=老人力)の発揮が話題となることが少なくない。「ある、ある」「そう、そう」と言いながら、会話が弾んでいく。そんな「お茶目」を発揮しながら、次第にエンディングへ向かっている日々だ。少しだけ切ないが、それが現実。
さて自分自身の老いを見つめ、最後を考えていたら、両親のことを思い出せしたりもした。我が父は晩年に肺気腫と喘息を患い、冬には入退院を繰り返していた。そして、「退院したら、旅行にでも行こう」と話をして帰ったその日、病院から呼び出されたら、顔には白布がかぶせられていた。その父が逝った年齢に近づきつつある。死後、その病院の近くに行くと、いつも病院へ足が向いたりもする自分がいた。
そして、今考えるに最晩年には母は次第に老いていく日々を、見つめながら生きていたように思う。自分自身が今の年齢になって、そのことをやっと思う。情けない。
さて母だが、年を取って自転車で転んでことで、次第に歩くことが困難になっていった。台所での食事ができなくなり、最後にはトイレにも不自由となり、部屋で便器を使用した。それでも頭だけはしっかりしていた。
その頃には父はもう永遠の旅立ちをしていたが、そうした老いについて母と話をすることはなかった。私は朝早く自宅を出て、深夜の帰宅、土・日もほぼ家にいない、そんな暮らしだったからだ。
せめてゆっくり、老いと向かい合う母と語り合う時間を持つべきだったと、今でも忸怩たる思いでいる。申し訳ない思いでいっぱいだ。今でも、悔いている。今日は母の日だ。心からの感謝とお詫びの思いを込めて、仏壇に線香をあげました。
このところお値段の関係もありスタバが多いが、一昨日はエスプリで読書とした
何のことはないのだが、一昨日コーヒーが飲みたいとエスプリに行った。お店のスタッフに笑顔で迎えられた。それは格別私にというわけではなく、お客様みなさんに、だ。「いつものでいいですか」と言われ、「愛情いっぱいで」と応えた。私は、ほろ苦をブラックで飲む。私は歌も音痴だが、味も音痴なのでコーヒーの美味しさはわからない。
それ故、カフェは「読書ルーム」としているので、「お値段が第一義」で、最近はスタバが多い。ニニキネアワーは、ダイエットがらみで、ケーキを我慢しているので、少しだけご無沙汰傾向だ。エスプリも落ち着くので好きな空間だ。
要するに、一昨日・10日にエスプリで読書としたことを書いておきたいと思っただけのことだ。ただ、私的には、書き残しておきたいことなので、お許しを。