このところ連日畑作業を夜9時前まで頑張っている、体重も減ってラッキーだ
このところ畑作業を頑張っている。昨日は15時過ぎから実質5時間くらいは頑張った。今日も、16時過ぎから21時前まで頑張った。体重もそれなりに減った。そんな畑作業を夕方から暗くなるまで楽しみ、日中は様々な所用をこなす日々だ。
今日は、私には珍しくミュージアム巡りとなった。まずは、天神山文化プラザで開催中の「人ひと会展」に行った。私が親しくさせていただいている方が出品されておられるので、やはり魅せていただかねばと行った。その方の作品は4点、温和な中にも毅然とした心根が表れていた。なんて、ね。
この「人ひと会展」の出展者は案内状で数えると64名の方のお名前があった。昨日も感じたことだが、みなさん様々な形で自己実現をされている。素敵なことだ。私には、私には趣味と言えるものがない。それが切ない。その後、オリエント美術館とシティミュージアムへとはしごした。それはまた明日にでも書かせていただく。
そんな今日は、「クリスビー・クリーム」でひとときを過ごした。これまでミスドが多かったが、最近は時々楽しませてもらっている。
「新聞の変革に日本の民主主義が試されている」、この指摘を心から受け止めた
あの3・11東日本大震災を巡っての報道を巡って、日本のマスコミはさながら「大本営発表」を報じる様に酷似していると思ったのは私だけだろうか。あの東電原発事故直後の政府や東電の発表する記事を鵜呑みにして、国民の前に流し続けたマスコミ各社。そして、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の予測された大気中濃度および被ばく線量などの数値を時の政府が隠蔽した件でも、日本のマスコミは報じなかった。今、多くの新聞記事を、「眉唾」しながら読んでいる。
そんな時、霧が晴れたかのように「新聞(及び新聞記者)のあり方」について、すっきりとさせてくれたのがマーティン・ファクラー著『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉社刊)だ。洋画は観ない、翻訳物であれ洋書は読まない私が、この本だけは読まないと思った。ま、著者が日本人でないだけで、日本語の本なので格別言うこともないのだが。著者であるマーティン・ファクラー・ニューヨークタイムス日本支社長の「新聞の変革に日本の民主主義が試されている」との指摘を、心から受け止めたいと思う。今の日本の新聞を考えるために最適であると、私はオススメする。是非ともご一読を、とまず先にオススメする。
「ジャーナリストとは、基本的に権力寄りであってはならない。権力の内側に仲間として加わるのではなく、権力と市民の間に立ちながら当局を監視し、不正を糺していく。(中略)権力に近づきすぎたジャーナリズムのことを、アメリカでは『アクセス・ジャーナリズム』と呼ぶ。(中略)日本の記者クラブが生み出す一連の報道は、私から見るとまさしくアクセス・ジャーナリズムそのものだ。当局や大企業との距離を詰めれば詰めるほど、記者クラブメディアでは高い評価がなされる。取材対象と身内のように仲の良い関係を築いた者ほど、『情報が取れる記者』として会社組織から評価される」。日本独特の悪しき組織「記者クラブ」等のあり方についての指摘に、新聞各社(=マスコミ各社)は、真摯に耳を傾けて欲しいと願う。
「ジャーナリストはサラリーマンではない 専門職であるべき」「世の中を疑い、権力を疑うジャーナリストは組織から距離を保った一匹狼であるべき」との指摘に共鳴する。そこには、私が憧れかつなりたくてたまらなかった新聞記者の姿があった。
「後藤敏江 水彩画展」に行った、心優しさに溢れた花々にひととき見惚れた
「植物に見とれて描いた作品です。植物ってふしぎ。見れば見るほどもっと観たくなります。いつも『花は花らしく、葉っぱは葉っぱらしく』、『植物それぞれの持ち味を描き出したい』と願って描きます」(後藤敏恵)。
昨日の朝友人のブログで見て、早速昨日、旭東病院情報コーナー「健康の駅」で開催中の「後藤敏江 水彩画展」に行った。後藤さんとは最近はお目にかかる機会もほとんどないが、以前は「山田洋次フェスティバル」をご一緒に取り組んだり、その他様々なステージでご一緒をさせていただいたことがある。
その頃からとても素敵な水彩画が描かれておられ、毎年いただく年賀状にもいつも素敵な絵が添えられている。しかし、こうした展覧会を開くなど、本格的に絵と向かい合っておられることは知らなかった。
みなさん、各々ご自身を開花されておられる。素晴らしい。お花を題材とした絵はどれも、後藤さんのお人柄そのままに、優しさに溢れていた。ひととき見惚れた。(昨日のフェイスブックに投稿したものを手直しした。乞う、ご了解)