人類はその誕生以来、天災と戦ってきました。生存のためには多様な災害と戦って防いできたのでしょう。
地震や洪水、旱魃もあれば、猛暑や極寒もあったでしょう。地球上のどこに住むかも大事な問題で、住みやすいところを探して、ホームランドであるアフリカから南米の南端まで随分早く到達しています。
その他、これは天災というべきかどうか解りませんが、猛獣や毒蛇などの天敵も沢山いました。人間が蛇を嫌うのは、その時の思いが海馬のどこかに残っているからだという話も聞きました..
それから10万年単位の年を経て人間は、天災に対する防御の方法をいろいろと工夫し、改善進化させて、安心して平穏な生活が出来るようになって来たのではないでしょうか。
寒さや暑さ、旱魃や水害、地震や雷に対しても、治水や潅漑、地震に強い建築や避雷針など様々な天災に対して人間でなければできない技術革新を駆使して防御の可能性を広げて来ました。
そして人類は平穏に安全に、安んじて暮らせることになったのでしょうか。残念ながら、そうなっていないのです。
人間は、自分の手で災害を作りだすようになってしまったのです。それが人災です。人間の「競う心」が行き過ぎて「争う心」「戦う心」に変わった時、人災は起きるのです。
自分より優れた相手.がいたら、自分も負けないように頑張ろうと考えるのが「競う心」でしょう。それが、相手を倒せば自分が一番と考える時「争う心」が生れます。
小は個人的なものから大は国同士のものまで規模は拡大し、それに天災対応で進化した技術力を活用して大規模な破壊の実行、戦争という段階にも至ります。
歴史的に見れば、こうした形での人災は、技術革新の進展に合わせてますます巨大なものとなり、原爆の開発に至って「核戦争による人類破滅の可能性」まで言われるようになっています。
考えてみれば、人間とはいかに愚かなものかという感慨を深くします。当初天災の影響を最小限に食い止めようとして積み上げてきた技術を活用して、人間が人間に災害を及ぼす「人災」の規模を益々大きくして来ているのです。
天災、つまり自然災害が不可避でることは、人間はその発生以来の経験で熟知しています。そしてその防御に努力する事が最善と考えその結果が人間の生活の向上になって、人間社会を素晴らしいものに作り上げてきたのでしょう。
それをどこで間違えたのでしょうか、人間の手で作り上げたものを人間の手で壊すのが人災、就中「戦争」です。そして人災は怨念を生み、往々にして報復の連鎖を生んで永続化するのです。
今や人間にとって、天災より人災の被害の方が大きいのではないでしょうか。人間とはなんと愚かの者という感じを強くするのですが、人災を起こすのは、ほんの一握りの年限で、大多数の人間はその被害者です。
若し人災を起こすエネルギーを天災の防御に活用すれば、人災による被害ななくなり、天災への防御は一層高度なものになりうるのです。
この一握りの人たちの考えを正せば、人間社会はマイナスのエネルギーをプラスのエネルギーに転換することで二倍のスピードで改善進化する事が出来るでしょう。
これこそが人間が今、自分たちの経験から学ばなければならない事ではないでしょうか。