敬老の日が国民の祝日になったのは1966年からで、老人福祉法の制定に伴ってということになっています。
それまでも敬老会というのは全国各地にあって、日本では「敬老」という意識が定着していたように思うのですが、戦後21年たって、日本経済も高度成長のおかげで少しは余裕ができ、まだまだ年金制度などは不十分でしたが、日本人の持つ「敬老」という美徳を国として明確にしようという所まで到達したのでしょう。
世界でも敬老を国民の祝日にしている国は、僅か数か国というのがネットの情報ですが、子の祝日は、いかにも日本らしいという感じがします。
そんな事を言っている私も昨年卒寿を越えた老人です。大事にしてもらえるのは有難いですが、個人的には、敬ってもらうだけでは何か気が引けるような感じもします。
昔から日本には、自分たちを生み育ててくれた老人を大事にしたいという気持ちは強かったのでしょうが、それと同時に、家族の負担になる老人に対して割り切った行動も必要という生活上の現実もあって、それはいわゆる「姥捨て」という行動(習慣・掟)という形で表れていたようです。
年寄りを大切にしようという心根と、経済的可能性の限界の狭間で昔から日本人は困難な解決策に悩んでいたようです。
わたしの記憶している民話が2つほどあります。
1つは、殿様が「灰で縄をなって献上せよ」というおふれをだし、家に隠していた年取った親に聞いたら、「なった縄を塩水につけ、それを焼けば灰の縄ができる」と教えてくれたという話。もう一つは、また別の民話で殿様の命令で、曲がりくねった木の穴に糸を通せというので、隠していた親に聞いたら、「穴の出口に蜜を塗って、穴の入口に蟻に糸をつけて放せばいい」と教えてくれたという話です。
共に殿様に大変褒められ、「実は年取った親におそわった」といったところ、殿様は感じ入って、どちらの殿様も老人を捨てる習慣をなくすようにしたということになっています。
こうした民話は日本各地にあるようですが、日本では昔から、自分を生み育ててくれた親を大事にしようという心と、経済的制約のあいだで、悩んだのでしょう。
これは決して、貧しい時代の日本の話ではありません。今も世界の先進国は何処でも社会保障の問題で、悩みに悩んでいるのです。
現に、今日の日本でも、年金問題は大変です。高齢化問題では最先端を行く日本ですから、同時に、もともと高齢者を大切にしようという優しい心根の日本人ですから、政府は板挟みです。
しかし、高齢者問題ばかり心配していましたら、出生率は落ち、若者の数が減って、年金財政を支える若い人口が伸びないという状態が深刻化し、今度は子育ての支援の積極化を考えようと計画を作ってみたが、その計画を実行するための財源のめどが立たないというお粗末の一席になったようです。
今の日本社会は、昔のように、絶対的窮乏の社会ではありませんから、GDPの配分を適正化すれば、何とでもなると思うのですが、日本の殿様はその気はないようです。
ところで、民話の年寄りは、さすが良いことを教えてくれて、殿様を感心させるのですが、私も戦時中の経験も生かして「戦争ほど無駄でばかばかしい事はありません。戦争は絶対やらないほうがいいです」とこのブログでもいつも言っているのですが、それを聞いて感心してくれる殿様もまだ日本にはいません。