今日は休みだ。
昨日も疲れた仕事だった。
相変わらず、チーフのヒステリー的な声に
翻弄されて
心の中で
「我慢できなくなったらやめるのだから、今我慢できているということは
まだまだ序の口なんだ。」と言い聞かせ
笑顔の無い私が黙々と働いていた。
こういう経験は貴重だ。
今までになかった経験をしているので
別の私はむしろ、ほくそ笑んでいる。
何かを書くにしても、おいしい材料だ、と思えば何ということもない。
もっともっと過酷な体験があってもいいか、と思うときさえある。
でも現実には、どっと疲れるんだけどね。
さて
ずっと中断していた
「思い出を紐解く」というカテゴリーで
過去のことを書いていこうと思う。
こういう時間を望んでいた。
ずっとずっと、こういう時間が取られていなかったからね。
掃除も洗濯もあるけれど
少し、文を書きたいと今思っているので
それに乗ろうと思う。
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思い出を紐解く 函館編
前回は
札幌の、学校と併設された病院時代のことを書いた。
あの1年間は
小さな私にとって、これから生きる人生にたくさんのヒントをくれた時代だったと
成長してから思う貴重な体験だった。
長期の病気でありながら
半分は普通の小学生と同じような生活をさせてくれた。
普通の小学一年と異なっている部分はたくさんある。
自分より年上の人たちとの共同生活は
精神的に豊かな経験をさせてくれた。
それも、後から思うこと。
その私が
父の転勤の都合で
8歳の4月中旬
函館に住むことになった。
いよいよ
普通の小学2年生だ。
函館の温泉街の小学校に転校である。
ちなみに
住んだ家(このことは以前にも書いてある。ただし、「思い出を紐解く」の
カテゴリーに入っていないので、どこに書いたかわからない。)
は、大家と繋がった長屋の家だった。
長屋。
今なら死語か。
そこは父の会社が借りていた一軒で、私たちがそこを去ってからも
父の会社の人が入っていた。
(「思い出を紐解く」は自分の7歳からのを書いているが、それ以前の思い出、
私が今の両親と養子縁組をする前のことは別枠でいつか書こうと思っている。
これは小さいながらも、実母との暮らしが悲惨なものだったので、別枠。いつになるか
わからないが、いつかは絶対に書きとめておきたいと思っている。)
いよいよ普通の学校に通う自分。
これまで、少人数のクラス、上級生との併学級だったのが
単独で2年生として生活するのだ。
転校はその後何回もしているが、段々大きくなるにつれて
転校のストレスも大きくなっていく、というのも後から知ること。
大人の言われるがままに
学校に、学級に入っていく自分。
担任は、頭の毛のない眼鏡をかけた男の先生だった。
そして振り返ると
この先生は、本当に生徒のことを考えていた先生だったとしみじみ思う。
今でも健在であろうか。
当時、年齢のことは知らなかったので、もしかしたらもう亡くなっているのかもしれない。
A先生としておこう。
A先生に促されて、席についたのは
一番前。先生の目の前。
当時の学校は古い木造校舎、机も二つ繋がっている木製の頑丈な机。
今のような軽い机ではなかった。
その座席は、他の人より一回り大きな男の子が座っていた。
彼は、今で言う・・・・何と言うのだろう・・・忘れた。
おそらく、他者によく迷惑をかけるということで
先生の目の届く一番前に座らせ、その隣は空席にしていたのだと思う。
もちろん
そんなことは全く知らない私だ。
病院にも定期的に通わなければならなかった私は
体育の見学(これがつらい)、
ハーモニカ(肺に負担をかけるからか。私は理由を知らずに、大人からそう言われていた)の禁止、
遠足等の長時間歩くことの禁止
と、母から担任に伝わったのであろう、
普通の学校でのそれらは
他者と違うことの恥ずかしさは、8歳なりにあった。
好奇の目というのもあった。
札幌の学校時代は
皆同じ病気であることが大前提なので
体育の授業内容も同じで、苦痛というのは無縁だった。
近場のところに散歩、軽い運動、これが体育だった。
勉強の遅れ、というのも気になるところだが
まだまだ小学2年生、そんなことは気にしていなかった。
すぐに
誰が頭が良いか、というのはわかったが。
A先生は、生徒によく作文や詩を書かせた。
それらを溜めて
3年生になる直前に
手作りの文集を作って、皆に配るというわけだ。
その文集は今でも私は持っている。
何十年も前のもの。
A先生は
作文には、その出来事の絵も描くようにと言い、
皆はそれに従った。
だから、隣の席のY君の、拙い文章と一生懸命描いた絵がちゃんと載っている。
Y君の隣にいたが、特に危害を加えられるという記憶はない。
A先生曰く
「トモロッシさんが隣に座ったことによって、Y君は大変おとなしくなりましたよ。」と
私の母に伝えた。
そのY君、その後しばらく、登校の際
「○○さん(私の名字)、学校に行きましょう。」とよく長屋に来ていた。
長屋の前は広い公道だったのだが、まだ車の通りは少なく
その道の真ん中で立小便をしていたことがあった。
道の真ん中ですよ。
このことは過去に函館の思い出か何かで書いたことがある。
お金持ちのお坊ちゃんだった。
A先生は
生徒の誕生日に、給食の時間に折り鶴のレイを掛けてお祝いをし、必ず詩を書かせた。
私はご存知のとおり、4月9日なので
既に誕生日を過ぎての転入生。
しかし
A先生は、誕生日を過ぎた私でも
給食の時間に、折鶴のレイをかけて、皆に祝ってもらうことを
忘れずにしてくれた。
その詩は
あの文集の表表紙の次のページに載っている。
頭の良いD君の下に載っている。
あとから書いた詩なので
自分の折鶴の色が何色だったか忘れ、
「金、銀、赤」と語呂合わせの良い文字を入れた。
あとから
A先生は「訂正しなくてよいか。」と尋ねてきた。
私は「そのままでよいです。」と答えた。
「桃色、橙色、黄色」と、D君はきちんと自分の折鶴の色を覚えていて
小学2年生の詩は
必ずといっていいほど、折鶴の色まで書いている、と後で気づく。
そのD君は
全ての教科に優れていた。
頭の良い子は文系理系問わず、音楽や美術、体育にも秀でている。
私のような部分的な得意を持っているのは頭が良い、とは言われない。
あるとき
国語の時間に
D君が指名朗読させられた。
普通に文章を読んでいき、
突然
会話体のところで
女の子の声色でその会話文を読んだ。
皆、一斉に笑った。
私も笑った。
そしてA先生は
こう言った。
「D君はエライね。女の子の会話のところはきちんと女の子の声にして
読んだね。」と。
笑われることの恥ずかしさの見事なフォローだ。
それにしても
女の子の声色にするD君の頭の切れの良さ、咄嗟の判断に、後に感心する私である。
そのD君が
「うちで顕微鏡、買ったんだ。見においでよ。」と
私を誘ってくれた。
理科の嫌いな私は
顕微鏡には興味がないはずだが
D君の家に遊びに行った。
D君のお母さんがお菓子を用意してくれ
D君のお姉さんは、オルガンを弾いて聴かせてくれた。
見るからに
お坊ちゃま、お嬢様の世界だった。
顕微鏡で
何を見たか忘れたが、
8歳にして顕微鏡を買ってもらって喜んでいるD君の先の大物さが見えてくる。
これが
普通の家庭だったのかもしれない。
うちのような
まだ養子縁組をして2年(1年間病院にいたから、実質1年)の
俄か家庭のギクシャクさは寧ろ特異だったのかもしれない。
顕微鏡やオルガン、全く別世界のものだった。
学級に
B君という男の子がいた。
あまり話したことがない子であるが
母親同士が仲良かった。
母親同士が仲が良いと、自分も母に連れられてその子の家に行く。
でも会話は弾まない。
犬がいた。
スピッツ犬で、ユキコと言った。
(なぜ、ここまで犬の名前を覚えているかというと、例の文集に犬の絵付きで
彼が作文しているからだ。)
今ではスピッツって見かけないが
よく吠えていた。
ある日
母と銭湯に行くと
その子とお母さんが入っていた。
8歳はどうなのか?
当時は、8歳は男も女もなかったのかもしれないね。
母親同士、また話が始まり、
裸同士で私たちは風呂場にいたわけだが
やはり彼は恥ずかしいのか
足の脛を掻くようにずっと前かがみになっていた。
私は
まだ8歳だから、恥ずかしくない、と自分に言い聞かせていたような気がする。
母親同士、少しは8歳の子どもの気持ちも考えてよ、と今なら言いたい。
このことは非常によく覚えている。
H子ちゃんという、聡明な感じがする女子がいた。
特に仲が良かったというわけではないが
成績表を受け取ったときに
「トモロッシちゃん、5が幾つあったの?」と聞かれたりした。
「トモロッシちゃん、私とシンユウだよね。」と言われた。
「シンユウ?」
当時の私は意味が分からなかった。
漢字も分からなかった。
どう答えたかも分からない。
そんな言葉を知っている彼女はやはり頭の良い子という印象があった。
そんなに遊んだ記憶がない、ただ勉強についてはよく
どうだった?と聞かれた。
ある日の授業で
漢字のテストがあった。
テストが終わって
ストーブのところで
H子ちゃんが
私に
「○○という漢字、どうだったっけ。」と聞いた。
「こういう漢字だった。」と私は答えた。
その会話を
C君が聞いていて
「ああ、漢字教えてる!先生に言ってやろう!!言ってやろう!」と脅しかと
思ったが
本当に先生に言いに行った。
これがカンニングという意識が全然なくて
テストが終わったからいいものとして思っていたのだが
どうだったのだろう。
C君の告発で
A先生は教室に入ってきた。
そして私は
皆の前で先生に叱られた。
どういう叱りの内容だったか覚えていない。
まだテストが続くのかどうか覚えていない。
終わったと思ったから教えたのだろうが
先生が叱るということは
まだ正式に終わっていなかったのか。
でも、とても悪いことをしたような気がした。
正義(?)のC君は未だに
私の口から出てくる。
夫がイヤミな言い方や子どもっぽい言い方をしたときに
「あ、A太郎焼き屋のC君にそっくりだ、その言い方。」と。
お正月に
A先生は
お楽しみ会というのを開いてくれた。
薪ストーブの上で餅を焼き、
歌留多とかいろいろな正月遊びを企画して
負けた子には、墨で目の周りに丸を描いたり、ひげをつけたり、
先生もひげを自分で墨で描いた。
私の隣にいた大きな身体のあの子もニコニコ顔している。
皆揃って撮った大きな写真。
それが当たり前のようにして
目の前にあるが
今思うと
先生の自費負担はどれだけだったのだろう、と。
当時は50人近く生徒がいたに違いない。
友人の一人でN子ちゃんがいた。
母親のお手伝いをよくする、きっと今は料理に裁縫に
女性らしいたしなみをきちんと持っている母親になっているかと思う。
転入して1年経たないうちに
そのクラスとはお別れになる。
大きな学校、1つの大人数のクラスでの生活を
他の子より遅くし始めた私は
担任のA先生によってずいぶん救われた。
いよいよ最後の日。
私はN子ちゃんの横にいた。
そしてA先生が最後のお話をしているときに
初めて先生とお別れする実感がこみ上げてきて
泣いてしまった。
N子ちゃんの膝に突っ伏して泣いてしまった。
N子ちゃんがなだめていると
先生はそれに気づき、N子ちゃんに聞いた。
彼女はこう言った。
「トモロッシちゃん、私とお別れするから寂しくて泣いているんです。」と。
A先生は言った。
「トモロッシさんは優しい子ですね。友だちとお別れすることに
寂しさを感じて泣いているとは。」
いいえ、先生、
「先生とお別れするのが悲しくて悲しくて、泣いていたんですよ。」
と
今の私なら言えるが
あのとき、言えなかった。
言えなかったから、今どうしてもここで書きたかった。
おもしろくて、
厳しくて、
分け隔てなく、生徒と接して
生徒のすることを褒めて、叱って、
いつも皆のために何かを考えていた。
あのY君が伸び伸びと、クラスの皆に溶け込んで笑顔でいられたのも
今思うと
本当に先生の尽力だと思っている。
道の真ん中で、おちんちん出しながら立小便をしていたら
今なら、問題になっていたかもしれない。
そんな子に迎えに来てもらいたくない、と親は言うかもしれない。
だが
それが笑い話になるくらいに
明るい小学2年だった。
私は
この普通の小学校生活を皆より遅れてし始めたが
A先生によって
溶け込むことができた。
体育見学とか、遠足不参加とか
いじめになりそうな空気を作らず
軽い運動のときはなるべく
私も参加させてくれて、その参加態度を
体育の評価としてつけてくれた。
普通の小学校のスタート
A先生によって、少し自信をつけてのスタートだった。
先生、ありがとう。
生きていらっしゃるだろうか。
大好きな先生の一人である。