僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2024/4/10)誕生日お祝いそして命日。

2024年04月10日 20時25分36秒 | 思い出を紐解く

昨日の日記を読み返してみると、「あれ?牛タン食べたことの記入がない。消えている。」と気付いた。
昨日、誕生日気候は、雨、時折激しく降る。
そんな中、久々に牛タンを食べに行こうとなった。
前日、夫と神社にお参りし、公園で桜を観る。
誕生日の予定は特になく、ケーキを買うくらいかなと思っていたら
夫が「牛タンを食べたい。」と言うので、いつもは牛タン弁当を食べるのが主だが
今回はお店でゆったりと食べようとなった。

美味しい,美味しいとニコニコして食べている夫の顔を見ると、
こういう誕生日の祝い方もいいのではないかと
思った。
誕生日を祝われる自分が美味しいと喜ぶのはもちろんだが
相手が美味しそうに食べ、ゴハンをお替わりし顔がほころぶのを見て、こちらが嬉しく幸せな気持ちになる、
というのが私への誕生日プレゼントになっている。

そして今日、
思いがけないプレゼントが届いた。
北海道から。

美味しいお菓子の詰め合わせ。

中学時代、憧れの1つ上の先輩がいたのだが、何十年もの間、互いに結婚してもとぎれとぎれの連絡はしていた。
彼には彼の強烈な人生があって、40代にして亡くなった。
奥さんとは年賀状などで連絡を取り合っていたし、私が脳梗塞で入院したことも知っている。
その奥さんも2年前に亡くなった。
これはこれでショックだった。
いつか北海道に帰ったら、彼のお墓詣りを彼の家族と共にしたいと思っていた。
その二人の絆である子どもさんと交流を持っている。
彼の命日は今日。
そう、私の誕生日の次の日。
この知らせを聞いたときは驚いた、内心。刻み込まれた命日。
奥さんも娘さんもこのことを知っている。
今日、贈られたお菓子を、あどけない15歳の写真の中の彼にお供えする。
それを先ほど、娘さんに知らせる。
「あどけない15歳のパパはどんな感じなんだろう。」と返信あり。
彼や奥さんに、娘さんを見守ってほしい、とお祈りする私である。

「人たらしの」モーさんの写真も載せる。

カワチィ!






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(7/28)もう1人の老人の孤独

2015年07月28日 11時12分15秒 | 思い出を紐解く
現在の私には
 
姑の認知症
実家の両親の老老介護、2人のガン手術の予後、母の脳梗塞等
これらを抱えている。
彼らは皆80代。

そしてもう1人の老人の孤独について
少し触れていかなければならない。

私は
実家の両親の養子である。
6歳のときに縁組をした。
実の母親は、今の母の姉である。
60代の若い年齢で亡くなっている。
実の父親というのは
健在で、彼も80代。

この人がもう1人の老人である。

昨日、旭川の妹からメールが届いた。
「トモロッシちゃんの実の父親から突然電話があった。
 いろいろと整理していたら、トモロッシちゃんの母親(私たち姉妹の母)からの
 年賀状を見つけた。母親のことを聞きたかったんだろうね。
 でも、私は母親の恋話は特に聞きたくなかったので困惑。今は、1人でいるそう。」
と。

実母の最期は、旭川の妹の所で迎えた。その死んだ年(冬)の夏に
私は、生きて会うのは最後だろうと、1人で仙台から旭川に向かい
初めてと言っていい、もう1人の妹(苫小牧)と旭川の妹とその娘たちと
母と私とで写真を撮り、それが今、自分の部屋の本棚に飾ってある。
滞在中も母は、頭が痛いと訴えていた。それでも私が来たことを喜んでいた。
あれが最後。
そして3ヵ月後の初冬、母が亡くなったと訃報。
再び、今度は今の母親(実母の妹)と共に葬儀のため北海道に向かった。

当時
実の父親はマレーシアに単身赴任で出かけるところで
その直前に電話があり、
実母が危篤であることを伝えた。
滅多に連絡し合う(少なくとも、私から父への連絡は一度もなし。その電話も
たまたま向こうから、元気ですか、と電話があった)ことがなく
おそらくその電話も数年ぶりだと思われる。
母の危篤を伝えた。
彼は動揺し、帰国したらすぐに連絡すると強く言って電話を終えた。
だが
それ以降、いつ帰国したのかもわからず
こちらからは絶対に電話をしないと決めていたので
再び
音信不通になる。
そして
たまに
年賀状をよこしたり
電話をかけてきたり
震災後に
「大丈夫か」と電話が来て数年。
断続的な連絡の取り方であった。

今年の2月ごろだったか
葉書が届く。
それの返事を書かねば、と思いつつ
ズルズルと書かず仕舞い。

そして
昨日の妹からのメール。
 
妹にしてみれば
全くの他人である。
母親の昔の恋人である。
若い時代の恋の相手は誰にだっている。
しかしその恋が成就できず、互いに別な方と結婚すれば
たいてい
過去の恋の良き思い出として封印する。

彼がそれができないのは
私という存在がこの世にあるからだ。
自分の娘がこの世にいるからだ。
私という存在が無ければ
当然、彼も母の所に年賀状や電話もしないであろう。
妹にしてみれば
全く会ったことのない母の昔の恋人の電話は困惑するのは当たり前だろう。

そのメールを見て
私は思った。

この人(父)も
まもなく死に逝く年齢に近づいている。
彼の後悔は何だろう。
彼の言い訳は何だろう。
男側の言い分(ぶん)もあるだろう。
私は
彼らの恋の時代について
断片的にしかわからない。
母の言い分。
母の周り(私の今の母含めて)の言い分。
なぜ、母は私を産もうとしたのか。
子どもができて
父にどうせよ、と言ったのか。
あるいは
あなたは関係ない、私1人で育てるとでも言ったのだろうか。

男側の言葉を聞きたい、と思った。
それを残してくれてもいいのでは、と。
父にも残り少ない人生に
ここは一つ
彼の言い分を聞きたいと、昨夜寝ながら思った。

私は
彼に対して
恨みとか、慕う気持ちとか
ないのである。
それほど希薄な関係である。
生涯2回しか会っていない。
1回は
養子縁組をする前だから
富良野にいたときに。
これは記憶が残っている。
一体あのとき、何を話したのだろう。
無邪気な、そして弱弱しい幼い私を見て
自分の血を受け継いだ子だ、と実感したであろうか。

2回目は
仙台である。
高校1年のときだ。
なぜ、仙台に来たのかその辺はわからないが
4、5歳から10数年経ち、16歳の私と、今の母親と3人で会った。
紆余曲折を経て、今の両親の養子になり
今の母親は
「こんなに大きく育てましたよ。」とでも
言いたかったのかもしれない。
何しろ
養子縁組をしたときの私は
小児結核の病気だった細い子どもだったのだから。



先日2週間ほど前に
実家に行ったときに
母の奇異な行動があった。
それは脳梗塞の後遺症かもしれない。

母は普段から
亡くなった自分の母親や姉妹の写真を飾り、お供えをしていた。
そこから
突然
私の母親の写真を持ってきて
母の写真を抱きしめたり、キスをしたりした。
「あんたの母さんね、立派にね、役所に勤めたのね。」
と言ったとたん
今度は写真を殴るようなしぐさ。
「でもね、年下の男とね!」と
豹変して目元がキッときつくなる。

この行動のきっかけは
自分たちが、養子縁組を考えたときに
なぜ
父親側からの親戚の男の子をもらわなかったのか、という
母の嘆きのようなつぶやきであった。

母が子宮の病気で子どもができないとわかり
結局選んだのは
現母親の姉の痩せた私生児だった。

彼らは彼らで
いろいろ悩んで
私を選んだのだ。
その彼らの心を忖度したい、とまだ思っていない。
何しろ
その後の私の人生、彼らに振り回されて
感謝、という言葉を心から発するのができていない。
もちろん
感謝している、とは日ごろ言っているが
その感謝以上に
私は、両親から嫌われていた、という思いの方が強かったのである。



彼らの前では
絶対
実父の話をしてはならない、と子供のころから
ずっと思ってきた。
だから
こちらから連絡するということはしてこなかった。
今の父から
「埼玉の父親(現在は山梨に1人暮らし)から連絡あるのか」と聞かれると
「たまに年賀状があるくらい」とだけ答えている。
私なりに
厄介なこの両親に気を使っている。



さて
実父。
今、孤独な老人ということだ。
家庭を持ち
子どもも2人いる(私とは異母兄弟)。
その子どもたちも私の存在を知っている。

彼は
実家が北海道。
大学は横浜。
学生時代に帰省して役所でアルバイト。
そこで年上の女性と恋に陥った。
真面目な読書好きな女性。
今の母親に言わせれば「自慢の真面目な姉だった。」

大学を卒業せねばならず
横浜に戻った彼。
そして
年上の女性は身ごもる。
そう、私の疑問はここなんだ。
身ごもってどうするつもりだったのか。
その彼と結婚できれば
全く私の人生、変わっていた。
しかし
人生、一度だけ。
仮定はない。

別に不倫じゃない。
今の時代なら何とかなったのか。
いろいろと世間がうるさいのは変わらないが
時代が違っていれば・・・
当時の学生にとって
これから就職しようというときに
子どもができた、というのは
やはり大きな障害だったと思う。
おろすべきだったのでは、とつい当時の母親に助言したくなる。

家庭を築きながら
今、孤独でいるのはなぜだろうか。
もう奥さんとは修復できないのだろうか。
震災辺りの電話でそんなことを聞いた。
離婚したのかどうか、もこちらから聞かなかった。
私という存在があるだけで
奥さんとこじれたようだ。
昔の恋だから、と過去にするわけにいかなかったようだ。
その辺も聞きたい。

私の別な場所で
そんな人生が繰り広げられている。
会うこともないであろう、別な妹、弟。
彼の罪じゃない。
むしろ
母の罪のような気がする。
産むのも産まないのも女側の気持ち。
それを貫けなかった母。
養子に出さなければ、あなたは死んでいた、と言う。
それは今の両親もよく言う。

母は貧乏でいながら
私のあとに
子どもを3人産んだ。
それが旭川の妹たち。
そして、彼女たちより先に
もう1人産んでいる。
私のあとに
富良野で産んだ。
名前もわかる。
が、この子は産まれてまもなく死んだ。
父親は誰なのかわからない。
その子のお骨はどこにあるのだろう。
実母は実母でその後の人生、波乱。
短き人生だったと思う。

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(12/21)タイガース仙台公演、行ってきました。

2013年12月21日 08時27分52秒 | 思い出を紐解く
おはようございます。
PCの調子、今日は少し良さそうなので
家にて更新。
もし、不調であれば、今日もネットカフェに行こうかなと
思っていた。

昨日
タイガースの仙台公演。
行ってきました。

一日中、雨で
出かけるときも
寒くて寒くて。
自転車で行く予定にしていたけれど(20分くらい)
あまりに雨が強かったので
車で出かけました。
駐車場が満車の心配があったけれど
駅の東口の開発地区は
まだまだ空き地があり、そこがコインパーキングになっている箇所が多くて
助かった。

会場の近くのハンバーガー屋に行って
軽く夕食。
満席になるほどに
私世代(もうちょっと上かな)の女性客ばかりだった。
「男の観客はオレくらいかなあ」と夫は恥ずかしがっていたけれど
「男の人たちも来ているでしょ。夫婦でタイガースを観に来るということは
素敵なことでしょ。だんなさんもタイガースが好き、とは限らないし。」と答える。

そして会場に行ってみると
夫婦連れもたくさんいたし、男2人で来ていた人も見かけた。
あんなに若い時、男子が「タイガースなんて。GSなんて。」と
突っ張っていたのが、こうして中年になると自分の素直な気持ちに従って
憧れのタイガースを観に来ているのですよ。
(どうしても、自分の学生時代の男子の反応が頭にこびりついているのでね)

開場前の待っている間、風が強いし雨も強かった。
身体が冷えて、開場したとたんに
トイレに走る。

私はもう、初めっから立ちっぱなし。
夫は座りっぱなし。

前半は、当時の
ストーンズの曲中心ね。
サリーの「テルミー」が最高でした。
もう甦ってきましたね、あの時代。
ストーンズを好きだったのとタイガースを好きだったのが重なっていた時代。
だから
サリーが
♪アァイ~(I)と低音で歌いだすと
ビリビリッと来たことを思い出す。
健在、健在。


時折
双眼鏡でそれぞれの顔をじっと見つめる。
トッポ、おっさんになった。
皆、おっさんになっているけれど
サリーはドラマ等でいつも観ているので
それほどおっさん化に驚かないけれど
一番、頭髪が・・・
ジュリー、あまり好調ではなかった?
目が開いたのを観られなかった。
いつも、あのように伏し目がちに歌う?

PAが悪いのか
全体の音程がよくなかったけれど
そこは目を瞑りましょう。
後半は
タイガースのヒット曲のオンパレード。
残念だったのは
CCCを歌わなかったことかな。
とにかくね
タイガースは
当時のシングルのA面B面、両方ともヒットしていたのよ。
それに
溝が傷つくほどに両面を聴いていた世代だから
両面の歌もバッチリ。

トリハダものは

君だけに愛を

これは盛り上がったね。

ジュリーの指指すところはキャー!!のお約束。

これは
タイガースの絶頂期の曲ね。
確か
母親から
クリスマスプレゼントとして買ってもらったレコード。
あれを買いに行く光景、今でも焼きついているね。
前にも書いたっけ。
苫小牧のツルッツルッとした道路を2人で歩いて
街のレコード屋に買いに行ったんだ。

そのレコードの発売前に
テレビで新曲発表ということで歌うとき
私は紙と鉛筆で
歌詞を書きとめた。
聴いたままを書き留める。
最初の
「オ、プリ」が何のことかわからなかった小学生だった。
Oh,please~ですよ、後でわかったのは。

やっぱりこれが
タイガースの代表曲かなあ。
自分としては
銀河のロマンスが好きだ、と思っているけれども
これは本当に
タイガースの名曲だな、と昨日実感した。
ジュリーもこのときばかりは目を開けていたかと思う。


サリー!と何度叫んだことか。
声援はジュリー(当然)、ピー、トッポのときが大きかったけれど
サリー!の声も男の人でありましたよ。
「官房長!」とね。

私は当時
サリーの数少ない大ファンの子。
他にサリーのファンがいたら、落ち着かなかった。
しかも、私と同じ名前の子。
別なクラスの足の速い子だった。
お互いに
「私の方がサリーをより強く好き!」なんて
ライバル心むき出しだった。
小さな市苫小牧の中でそんなことをしていた学生。
世の中、私たちよりもっともっと大人の女性に
サリーを好きな人たちがいっぱいいるなんて知らない学生。
今、サリーは別な意味でファンがいる。官房長ファン。
これが嬉しい。
先見の明あり、なんて独善的に自分を喜んでいる。
だって、今、一番テレビに出ているでしょ、タイガースの中で。
先日のスペシャルドラマ、タイトル忘れたけれど
オリンピックの何とかっていうドラマでも
最後のクレジットよ、一徳さん。
俳優のイメージが強いけれど
ベースマンとしても一流ですから。
昨日の演奏でも
夫は
「ベースが出すぎている。」と言っていたくらいに。

ということで
82年の武道館以来のコンサートに行って
大満足の日でした。
チケットを手配してくれたジュリーファンの人が
こちらに挨拶に。
会場で会えないかも、と思っていたので
びっくり。そうか、こっちの席番号を知っていたんだっけ。
夫ともその82年以来。
3人で行ったっけ。
彼女は筋金入りのジュリーファン。
挨拶に来たときに、私の隣の人とも挨拶していたので
きっと、私たち同様、手配してくれたのでしょう。
顔が広い。
彼女はとにかく、できるだけツァーに出かけている。
皆、そうなんだね。




帰宅すると
玄関に置手紙が。
「こちらも親」とマジックで書かれていた。
姑の気持ち。
ナンダ、これ?という私の気持ち。
出かけるとは言ったが、コンサートとは言っていなかったので
私の親のことで出かけた、と思ったのかもしれない。
お風呂も
自分でスイッチをつけられないから、今日はお風呂無しでいいか、と尋ねたら
「いい。」と言われたので何の問題もなし、と思っていたが。
ボタンを押すだけ、という動作さえ怖がって私たちに頼ってきた姑。
それをずっとしてきた私。
スイッチをつけて「お母さん、お風呂(入って)いいですよ~」と
毎日声をかけてきた。
覚えさせようとしても
「怖いから、いや。」と言っていた。
それが1日、しないだけでこんなことを書かれてね。

いつもコンサートなどのあとに、水を差される。

いつだったかのストーンズのコンサートのときも
帰宅したら
「息子が行くのはまだしも、なんでトモロッシちゃんまでついて行くのか。」
とまで言われたっけ。
いやいや、私こそ、行きたい人間なのですが。
あなたに
ストーンズをどれだけ好きかを語るのですか、この私。

そもそも
夫と知り合ったのは
ロック好きの夫とロック好きの私ということなんですよ。
ロック好きというのは対等だったんですよ。
夫の影響で好きになったわけじゃないんですよ。
仲人の方の説明でもあったでしょ。
バイクやF1は夫の影響だったけれども
ロック好き、ストーンズ好き、タイガース好きは
わたしの小学生時代から。
勘違いしないでね、お義母さん。

真正面から言えないことを書いてみる。

コメント (3)
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(9/16)夫は北海道に留まる

2013年09月16日 16時05分48秒 | 思い出を紐解く
午後3時前、急に雨が強くなりだした。
ずっとテレビの台風情報をつけているのだが
いよいよ仙台にもあの強い台風が来た。
夫とは
朝から連絡を取っている。
今日は午前に小樽。
午後の便は当然欠航。
札幌に戻って、今日泊まるホテルを確保したらしい。
明日は
全国的に晴れマークがついている。
お昼過ぎに帰ってきてそのまま仕事になるそうだ。

昨日も強い雨で
その強さのピークに私は実家に出かけた。
父の友人のファミリーがやってくる。
早めに行って
料理の準備をと思っていたのだが
いろいろと作ってこちらに訪問するということで
あまり用意しなかった。
もう父も母も食が細くなっているので、余ったりしたらこの季節、まずい。
もったいない、もったいない、と言って食べる母だから。

何十年ぶりかに会う人たち。
父の友人は数年前に亡くなっている。
実はこのおじさんに対しては
私は複雑な思いを持っていた人で。



そもそも
私たち家族が、北海道から仙台に来たのはなぜか。

父はもともとこちらの県北の出身。
田舎の優等生だったが(通知表はオール優。生徒会長。)、大学進学はせず
北海道に就職。
父と同窓のそのおじさんも北海道へ。
そして
おじさん家族は先に、こちらの県に戻り
仙台で飲食店の商売を始める。

父は、その頃、道内の転勤族で
2,3年であちこちの支社に転勤になり
そのたびに母と私は付いていく。
そのうち、私も大きくなり
北海道の最終の地、苫小牧に。
そこで中学を卒業して、地元の高校に行くつもりでいたのだが
中学3年の6月ごろに
両親から
「会社を辞めて、仙台に行く、商売をする。」と言われる。
おじさんに誘われたらしい。
私は信じられない思いで
父に内緒で
おじさん宛に手紙を書く。
1通じゃない、2通か3通出したと思う。
おじさんさえ誘わなければ、父は北海道に留まったはずなのに、
なぜこの時期に、仙台に行かねばならないのか、と
抗議の手紙だった。
その手紙をおじさんは
父に全部、送り返して来た。
私の気持ちは一切無視された。
もう決まっていて、その抗議も空しかった。
あのころは日記を書いていたときだったので
今でも
当時の自分の気持ちを紐解くことができる。
どんなに抵抗しても
この親なので
私は条件を出した。
せめて、夏休みは苫小牧で過ごしたい、
飼っているネコも仙台に連れていきたい、と。
両親とネコは先に苫小牧を出発し
私は夏休みの間は
友人の家に居候した。
母は
私に
「仙台は、大学もたくさんあるし、今度住む家は一軒家(苫小牧ではアパート)だし、
いい所だよ。」なんて騙し騙しね。

そして
仙台に来て驚いたのは
その一軒家に、おじさん家族と住むことになっていたこと。
小さい借家である。
2学期から転入した学校では
「北海道から転校生が来た」と物珍しがられ、いじめもあった。
私の心は北海道にあったから
そこでの生活は「仮」と思って、能面のような表情で過ごした。
成績もすこぶる下がり、というより
こちらの学生は時期も時期だから、皆勉強家に見えた。
私は
卒業するまでの数ヶ月の生活を封印している。
自分の中学校は苫小牧だ、と思って過ごしてきている。

そのおじさんには、何かと突っかかっていた。
おじさんの子どもたちは可愛かった。
その子どもが昨日会った人たち。

おじさんも父も数年後独立して
それぞれ、繁華街に店を持つ。

そのころは
おじさん家族のことは
話に聞くだけで、会うことはなかった。
父は頻繁に会っていたようだが。

おじさんが再び登場するのは
私の結婚の件である。

私と夫は一人っ子同士の結婚。
父や母は
おじさんに愚痴っていたのだろう。
特に私は
養女で、育ててもらった恩がある、というのが付きまとう。
その割には
今では問題になりそうな、言葉と身体への虐待もあった。
M家(実家)を出ていく私を父はあの口調でいろいろと言ったのだろう。

ある日
夫の実家に突如と現れるおじさん。
父が頼んだか、おじさんが勝手に判断したかはわらないが
夫の実家に乗り込んで
「M家ではこの結婚を反対している。考え直してもらいたい。」とかなんとか。
夫の不在のときに
夫の両親に言ったようで
その話を聞いた夫は激昂。
見ず知らずの人間がやってきて、夫の両親を翻弄して帰っていく。
あまりにM家にこだわるので
夫の両親は
「別に、息子がM家に婿になっても構わない、本人同士がいっしょになりたいのだから
それはうちの息子に任せる。」と言ったそうだ。
何を余計なことを知らない人間が言いにくるんだ、と
おそらく今でもその件を許していないだろう、夫。
私は
このことでますます
M家を出よう、早く出たい、と思っていた。
結婚前は、両親のことでよく泣いていた。
あのころのことも封印したい。

そのおじさんが病気で痩せて痩せて今にも死にそうだ、ということを聞いても
あ、そう、という気持ちだった。


そして昨日
おじさんの奥さんであるおばちゃんが

「いやあ、あのころの私たちは商売に夢中で、子どもたちの気持ちを
全く考えていなかった。トモロッシちゃんの気持ちも全然考えていなかった。
手紙を読んでも、全然考えていなかった。ごめんね、トモロッシちゃん。」と
何度も言っていた。
私は
過去を許して、今を肯定することは安易にしなかった。
仙台に来て
しばらくは北海道のことをひきずり
そこで生活をして夫と会い、
ただただ
人生に「もしも」はない、全てのことが流れの中の出会い、出来事だと思っている。
親として、子どもの気持ちを汲んで上げられなかった、と言う言葉は
実は
私の両親の言葉として聞きたい。
しかし
自画自賛の父は言わないだろう、死ぬまで。
それは予測している。

今、仙台を好きだから、許す、ということでもない。

昨日の帰りは
家族で、うちに送ってもらった。
うちのカエルやネコ、義母にも会わせた。
今度また会いましょう、と笑顔で別れた。


歳月である。

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(7/27)無能じゃないよ。

2012年07月27日 21時41分44秒 | 思い出を紐解く
今月もそろそろ終わり。
本格的な暑さが昨日あたりからやってきているこちら。
梅雨明けしたようです。

7月の続いた重い空気は今もひきずっている。
そうこうして今月が終わっていく。
そして
8月はとにかく忙しい。
忙しいというのが目に見えている。

孤独な気持ちにちょっと涙したことがあった。
思いっきり泣きたい、と思っても
さめざめと泣く、というのができない。
だから、まだまだ甘いんだな、と言い聞かせている。

何かが違う、目先のことばかり考えて沈みがちになり、
もっと遠い目を持てば、いつもの自分に戻るはずなのだが
何かが違う、とずっと思っている。
伏目がちな毎日。

あるときはこう思った。

はやぶさは地球に戻るまで7年かかった、
その年数は当初の予定年数じゃない、
もっと早めの帰還のはずだった、
途中行方不明になり、
地球の人々は絶望的になっていた、
それでも一縷の望みを持ってはやぶさの交信を待った
そして7年目、奇跡のように
はやぶさは地球に戻りつつ、カプセルを産み落とし
予定通り、地球上に散らばった、
7年の歳月の長いこと
絶望すれば、その先はないこと
葛藤した7年。

じゃ、私も7年待とう、なんて思ってみた。
あの2006年の出来事(これはブログに書いていない)から
7年経てば、何か道ができるのではと思ってみた。
するとあと1年だ。
そう信じて自分を鼓舞してみればいいなんて思ってみた。


だが
そんなことを口にすれば
はやぶさ?何、それ、と笑われるのがオチだ。
それが現実。
自分に7年、なんて現実にあてはまるわけないじゃない、なんてね。

だが、そう考えるのも私の現実。
本来なら、これが私なんだ。
私はこうして、自分を鼓舞してきた。
だから
原点に戻ってみよう。
10数年前、私は前の仕事をやめるとき
どんな未来像を描いていたか、を呼び戻してみよう。
あれが原点だ。
忘れるな、と言い聞かせている。
その思いが
今の日常に埋もれていくのがいやだ。
絶望するな、おまえは無能じゃない。
無能扱いされても
おまえは無能じゃない。
おまえには
人にないものがきっとある。
何かで無能であっても、それは得手不得手の範囲。
頑張れ、トモロッシ。
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(6/27)元同僚と会う。

2012年06月27日 21時56分03秒 | 思い出を紐解く
10時に寝るつもりだ。
夫は
8時に寝た。
私は今
洗濯物を干して
ミミの相手をして
ここに来て
10時に下に降りていく。

職場での静かな仕事も明日で終わり。
明後日からは
Iさんが出勤して元の世界。


昨日は忙しくて忙しくて
どっと疲れが出る。
お弁当を食べそびれた。
うちに帰ってから食べるか、
公園に寄って、鳩を眺めながら食べるかしよう、と
思案の帰途、

思いがけず元の職場の同僚に会った。
しかも
山P仲間のMちゃん。
彼女と
山Pのコンサートにも行った。
彼女とは20代のときからの縁。
年齢は少し離れているけれど、同期である。
私たち夫婦の結婚式(人前結婚式)では巫女(のような役)をやってくれた。
ピンクのドレスを着ていたっけ。

その彼女も
職場にては中堅。
私たち同世代の仲間たちが重要なポストに就いているということを聴く。
そして
せっかく就いたポストになじめず
定年を待たずにやめていった同僚の話も聴く。

私の今の仕事については
詳しく知らなかったので、ようやく昨日詳細を語る。
ブログをたまに見て、大変そうだというのはわかっていたらしい。
よく1年続いたね、とも言っていた。

それに対しての答えはこうだ。

仕事そのものは大変であるが苦痛ではない。
やはり、ストレスは
人間関係にある。
この今の状態さえ軽減できれば
他の人間関係なんて、我慢の範囲だ。
今はギリギリ我慢しているところだ。
そして今までの分野と全く違う仕事をしていて
これは将来の修行なのかもしれない、なんて
珍しくポジティブな言い方をしてみた。

おそらく
仕事におけるストレスは
仕事の量、内容もあるが
それらに関わる人間関係に大きくウエイトがかかるのだと思う。

元の職場の
昔の空気と今の空気の違いについて話した。
年を取れば
「昔は良かった」という言葉を聞くが
それを言ってしまえばおしまいであるが
確かに空気が違う。
それは
やめて10年のブランク後に
再び戻って4年間働いてみての感想でもあった。
4年いても、その空気になじめなかった私である。
戻って来い、という言葉を他の同僚からも言われたが
戻るには、自分が年を取りすぎたことを
しみじみ感じた4年間だった。

もしも10数年前にやめずに
あのまま勤めていたら
私もそれなりのポストに就いていたかもしれない。
そして自信喪失して
いやな気持ちでやめていたかもしれない。
(実際、そういう気持ちでやめていった人の多いこと)

仮にとかもしもとか
そう仮定してみても
どんな先があったろう。
それは
やり直しのきかない人生だから
答えは全くわからない。
人生が二度あったとしても
同じ生き方、同じ道とは限らない。
同じ生き方がいやだから
修正を利かせた生き方をしたい、と言っても
人生はいつも儘ならない。

「痩せたね。」と言われた。
「うん、でも身体丈夫になったと思っているよ。」

ちょっぴり今の仕事のメリットを。
これも
長生きできる修行だと思えばいい。
もしかしたら
自分の将来の夢は実現できずに朽ち果てるかもしれないが
信じるしかないね、
夢が叶うことを。


あの公園で話した。
そして
近いうちにここでピクニックしよう、と言って別れた。
いつも楽しかったね、Mちゃん。
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(6/19)かつての私の上司

2012年06月19日 01時12分39秒 | 思い出を紐解く
私は
尊敬、という言葉をほとんど使わない。
部分的に尊敬できるとかあっても
丸ごとその人を崇拝、尊敬というのは
長い人生、振り返ってもないような気がする。

ただ、長年の誤解や苦手若しくは嫌悪という呪縛から解かれて
強く惹かれていく、もっとその人を知りたい、ということはあった。

以前の職場での元上司である。
彼との出会いは
私の新卒後の職場、そして最悪な出会いでもあった。

新人の私(たち)は
いろいろなグループの誘い、飲み会があり
できるだけ参加をこころがけていた。
その中に
勢力として大きいファミリー的なグループがあった。
彼を中心としたグループ。
実際、彼の名字のついたファミリーという名で存在していた。
どこかに所属する、というのが苦手な私だったが
まずは、断ることもなく参加していた。

彼はまず、否定から入る。
その否定の言葉に、新人たちはギョッとさせられ
いやな思いをして、すぐに離れていく人たちも多い。
私もまずそれだった。
彼は同時に酒癖の悪い人間だった。
そして、彼の周囲の雰囲気も好きになれなかった。
体育会系のノリのようだったし、実際そういう人たちが多かった。
私は文系。彼も実は文系。文武両道というところか。
まずいことに
彼の所属の科と私は同じだった。
だから、職場の中でもよく顔を合わすし、会議でもいっしょだ。
彼のずけずけとした物言いに閉口した私は
そのうち彼のグループを避けるようになった。
ほとんどの当時の新人は
彼とうまくやっていける人が多かったが
私は苦手意識を持った。
乗らなかった。
それが彼の気に入らなかったようだ。
彼からしたら
私は、反抗的な人間に見えたのだろう。
勤めて1年目。
何かの発表会があった日の夜
飲み会があった。
何十人もの人たちが
飲み会の会場に集まり、私も軽い気持ちで
参加した。
そして
そこについたとたん
これは彼のグループが中心だとわかった。
彼の家族(奥さん)もいた。
そんなことは知らずに入っていき
彼は私の顔を見るなり
何かわめいて怒鳴りつけた。
なびかない私への罵倒である。
それまで
彼は皆の前で、私にそんなことを直接言ったことはなかった。
場が凍った。
太鼓持ちの人が
まあまあ、と言いながらその場をなだめるが
新人の私はいたたまれなかった。
早めに退散。
よく考えて来るべきだった、と後悔。
泣きながら歩いた。
そして同じく新人の人が追いかけてきて
送ってくれた。
それ以来、私は彼とは口も聞きたくない、挨拶もしたくない、と思ったし
実行した。

あの日を境に
確かに実行した。
廊下ですれ違っても
互いに挨拶もしない。
生意気な新人の私である。

彼の取り巻きの一人の女性が
私にはっきりと言った。
「彼は、あなたが嫌いなのよ。」と。
彼女はそれだけを言った。
だから何。
嫌われないように従順になれ、とでも?
「そうですか。」と言い返すしかなかった。
それから3年。
見事に彼とは口を聞かなかった。
同じ職場、同じ科、にいながらにして。

彼は
しかし、仕事のできる人だった。
会議にては発言力があり、まとめる力もあった。
リーダーとして采配を振る力もあったし、冗談も駄洒落も言い、
それなりの魅力も持っていた。
それが少しずつわかってきた。

3年も経てば
あの日の屈辱は薄れていくものである。
穏やかなときもある。

ある日
どうしても彼と仕事をしなければならないときがあった。
仕事を彼の傍で黙々とこなす私。
仕事以外の話は一切しないが
彼の態度も軟化していった。
そこで彼が
何かを尋ねた。
なんのことだったか忘れたが、それに淡々と答える私。
そして
「あんたは不思議な人だ。」と言った。
私には退廃的な空気があるように見えるらしい。
仕事もできないように見えるらしい。

その時間が
二人の硬化した3年間を溶いていった。
それがわかった。
口には出さなかったが、それがわかった。
私の中で
固まっていたものが溶けていく感じがした。
彼はどうかわからなかったが。

そして
その夜
彼から電話があった。
「いやあ、これまで冷たくしてすまない。
悪かった。これからこの職場で頑張りなさい。」と言われた。
私も
「私こそ申し訳ございませんでした。今日、あのような時間を
作ってくださってありがとうございました。」と
素直に謝ることができた。

3年間の固まりの溶解の瞬間だった。

当時、まだ独身で、今の夫とは
お付き合いをしたての頃だった。
夫に
喫茶店で、彼との確執と漸く和解したことを
興奮気味に話した。
そんな話を聞いての感想を聞くと
「いっしょに暮らしたい、と思った。」と夫からのトンチンカンな答え。

彼のグループには所属しなかったが
彼とは
どこかで互いに繋がっている、という意識を持ち始めた。
彼は相変わらず
太陽のような人で
周りを笑わし、リーダー的な力を発揮し、話題の中心だった。
新人への気配り(私に対してはなかったが)、
この職場を改善していこうという意識、バランス感覚など
酒の入っていないときは非常に信頼感のある人間だった。
恐れるもの、彼に無し、というふうに見えた。

そして家族ぐるみの付き合いもできた。
夫との結婚式にも招待し、スピーチもお願いした。
世話好きの彼は、夫の両親に対しても世話を焼いてくれた。
義父も、彼の庭にバラを植えに行ったり、彼の新築の表札を作って
プレゼントしたり、と
最初のころの最悪な関係を考えられないくらい
家族的な付き合いができた。
職場にては
淡白な関係であったが。

ある年、
彼に早すぎる昇進の話が出てくる。
彼の上にはたくさんの先輩がおり
ほぼ年功序列で、昇進していくのだが
異例の抜擢で
彼に声が掛かった。
それは私たち若いものにはわからぬ彼の悩みでもあった。
私が一人で食事をしているところに
フラッと入ってきて
彼は私に聞いた。
「これこれの役職に就くことになるんだが、早くないか。
他に競争相手がいて、当然自分たちに回ってくるものと思っていたようだが
私に回ってきた。どう思うか。」と
彼らしくない、逡巡の表情だった。
私は率直に言った。
「Kさん(彼)の日ごろの統率力とか発言力を聞いての判断ですから、
全然不自然じゃないと思います。むしろKさんの力がほしい、と強く願っているかと
思います。」と。
「そうか。」と彼は後押しの言葉を聞いて去っていく。
そして
彼はその後、2番目の地位に就く。
もう一人の人とともに。
2人体制というのも異例だが、どうしても彼の力が必要だというのが
わかった体制でもあった。

そんな順風満帆な生活をしている中で
ある日、冬。

全体の会議があった。
彼はいつものようにバランス良く、体制、反体制の意見の統率に力を注ぐ。
少々、もたついたときがあった。
しかしそれが彼にとって屈辱であったとは。

その夜、夕飯後に
電話が鳴った。
「今、○○(職場の近くの食事処)にいる。ちょっと話を聞いてくれ。
おらあ(俺)、待っているから。」と切羽詰った彼の言葉。

夫にそれを言うと
「行ってやれ。」
「行きたくない。またお酒、飲んでいるから、絡み酒になっているよ。」
「いいから、行ってやれ。」

そして雪が積もっている夜の道を自転車で行く。
そこに入っていくと
後姿が寂しい寂しい彼。
それを見た瞬間、来てよかった、と思った。
来なかったら後悔したような姿。

きっと今日の会議のことであろう、と想像はついていた。
やはりそうだった。
今日の会議は屈辱だった、と言っていた。

そして
会議を振り返って、個人の名を出して彼はその人を責める。
いつもなら、難なく彼はうまくまとめられるのにそれができなかったことの
自分を責める。

「その人が、Kさんにいろいろと注文つけたということは
Kさんの力を信頼しているからだと思います。私はそういうふうに
受け止めました。
もう一人の人(2人体制のKさんじゃない方)はこういう問題はうまく纏め上げられないからこそ、Kさんにいろいろと意見、注文したのだと思います。
難しい問題はKさんにしか解決できないからだと思います。」
と、私は言った。
難しい問題は確かに彼の方に積もっていく。
彼は
会議のときはいつも
議題に副って、自分の考えを事前に纏めていく。
彼なりのプレッシャーがあった。
そんなことは誰も知らない。
いつも臨機応変に彼はその場の的確な意見を述べていると思っている。

難しい問題は、Kさんに。
それはKさんの能力を信頼しているからこそ。
それを心に置いて、誠実に回答していけばよい。

そんなことを話して
彼は
ビールを浴びてそこを出る。

降り積もった雪道の真ん中を
自転車がズズズーと滑る彼。
酒が入っているから大声になる。

「オマエが来てくれてよかったぞー!来てなかったら、オレは職場を
やめていたぞー!」と。
心が幾分か救われて帰っていく。

ああ、来てよかった、と思った。
これほどに彼が傷心だったとは。
人は
見た目には絶対に心の奥までわからない。
話されて初めて、こちらが大して気にしていないことでも
大きな傷になっているとわかる。
そして
彼も人間だった。
弱き心を垣間見せる(いやあからさまに)人間だった。
あの
出会ったころの強い彼の姿からは想像できないほどの
雪の中のふらつきだった。

あのあと
橋から落ちやしないかと心配して
着いたころに電話をした。
無事着いていた。

その後
数年して私は職場をやめた。
彼は
「寂しい、もっと長く居られないの?」とメモをよこした。

彼はこの職場を愛していた。
だから、彼の人生計画に
更なる昇進があり、彼の構想のもとに職場の改善があったろう。
私もそれを予測していた。
しかし

定年を待たずに彼は職場をやめた。
もう、今の上司は彼を必要としなくなった体制を敷いた。
彼を昇進させずに
部外から連れてきた。

彼はその職場を去った。
だが、彼の博学ぶりは他のところで発揮され
相変わらずの向学心に燃えている。
孫達に囲まれ、文学を愛し、花を愛でている。

酒癖の悪さから
彼に、毀誉褒貶あり。
アクの強いところがあり、取り巻きの人々も去っていく。
彼のその強さだけを見て、嫌う人あり。
かつての新人の私のように。
しかし、私はいつまでも彼を擁護している。
人は完璧じゃない。
完璧に見えたが
完璧な人はいない。
順風満帆に見えたが
本人はそうじゃないときもある。


私もよく失敗した。他者にあることないこと言われた。
しかし彼はこう言った。

「仕事を多くする人ほど失敗する率も高くなる。
仕事の楽な人は失敗する率が低くなる。
そういうふうに考えて、明日から頑張りましょう。」

私はこの言葉に救われた、若い時。
あの最初の印象の悪かった彼の姿から想像できない
新人への励ましに思えた。
こういう上司だから
信頼も厚かった。

彼から
昨年葉書が来た。
うちのかつてのネコ
オオコシのことが書いてあった。
大越、と聞くと
うちのネコを思い出すそうだ。
その彼に
近況報告をしていない。
彼の人生も今、老いである。

私の両親といい
彼といい

私は全く連絡をしていない。
さて
腰を上げようか、トモロッシ。










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(6/5)元気が出る。

2012年06月05日 10時55分31秒 | 思い出を紐解く
時折
忘れてしまいそうなのだが
自分のブログを見ている方々がいる、ということ。
今日
コメントをくださった方の励ましに
元気が出る、出る。

更新が滞っていた。
多忙、というのもあるが
疲れて疲れて、なにもかも中途半端で
せっかくの休みも家事に追われて
なんのための休み?と思いつつ
また仕事が始まる日々。
その繰り返し。

毎日
小さなことにでも何かを感じたら
記録していきたい自分なのだが
それが実行できずにいる。

がんばれや、トモロッシ。




先月中旬に
突然
私の姪が仙台にやってきた。

姪と書くのも、初めてかもしれないね。
なぜなら
戸籍上は私は一人っ子だから。
兄弟、姉妹なしということ。
しかし
実際は
父親の違う妹が二人いる。
(私は今の両親とは養子縁組)

いっしょに暮らしたことはないが
実母を通して
小さいときからたまに会っていたし
彼女たちが大きくなって家族を持って
仙台にも遊びに来たことがある。

彼女たちとは別に
実父の結婚によって、私にとって会ったことのない弟と妹がいるらしい。
こちらのほうは全く実感がない。
でも父親が同じだから、半分兄弟なわけだ。


私の実母と現在の母親は姉妹。
つまりは叔母のところに6歳で養子縁組。
ほぼ、今の両親が、「私の両親」である。
その両親とも正月に会ったきり、私は連絡していない。
なんという親不孝者、と思うことでしょう。


で、その姪だが
10数年ぶりに会った。
私が北海道に遊びに行ったとき以来。
まだ姪は小学低学年だった。
彼女は未熟児で生まれて
同級生よりもかなり小さかった。
その子が
もう20歳を過ぎて
初めて一人旅に選んだのがこの仙台。
北海道のど真ん中、旭川からたった1泊2日で
仙台にやってきた。
母親(私の妹)から
久しぶりに電話があり
「娘がそちらに行くから、よろしく」とのことだった。
高校生ぐらいだったら、あれこれ気遣いをしなくてはと思ったのだが
どのくらい、彼女のスケジュールにタッチしたらいいのかと悩んだのだが
彼女はひとりで綿密に計画を立て、
松島の瑞巌寺や仙台の瑞鳳殿や博物館など観て回るとのことだった。

到着の夜、私は彼女の泊まるホテルに行った。
どんな女性に成長しているのだろう、という思いを持って。
すると
やはり小さかった。
はかなかった。
華奢だった。
でも、お化粧はしていたので
それで成人している、と思うことはできた。
小さいときのやんちゃな雰囲気は一掃されていて
まっすぐに成長した女の子になっていた。
いまどきの若い子、というには遠い。
髪の毛も黒髪、パーマなし、ピアスなし、煙草なし(母親は喫う)、
「歴史が好き。白石の片倉小十郎など調べたい」と言っていた。
「おお、歴女だね、歴女。」と私は喜ぶ。
牛タンをご馳走して、翌日早朝には
ホテルの朝食を摂らずに、駅弁を食べる、と計画していた。
そして自分のスケジュールどおりに回って、
夕方の便で帰る前に
私の家に連れてきた。
うちの猫たちを見たがっていたので。
猫たちは、来訪者にびくついてどこかにもぐりこんでしまう。
相手をしてくれたのは
シンノスケ。
満足していた。
動物大好き、という。
「じゃ、カエルは?」と聞くと
「カエルも好き。」と答えてくれる。
たいていはカエルは嫌い、と返ってくるのだが。
私は単純に
「私の後継者はこの子。」と勝手に決めた。

いっしょに暮らしたこともないのに
血、というものが
結びつけるのか。
私の今の父親は
私とは全く血のつながりはない。
6歳からの縁だから
親子同然であるが、
私が結婚してから特に遠のいた。
そして父は
自分の甥の子供に執心している。子どもとは言っても30代。家族も持っている。
その甥の子供家族を自宅の近くに住まわせ、
何かと用事を頼んでいる。
もう娘夫婦(私たちのこと)には頼らない、という考えかもしれない。

なるほど、血だと思った。
私が
3,4回ほどしか会ったことのない姪に
親近感を感じたのもそれか、と思った。

それは後の課題としよう。

こうして
姪はたった2日の仙台旅行を満喫して北海道に帰った。
妹と大違いの子だった。
妹曰く
「私はチャランポランで母さんに心配かけたけれど、娘は全然違うの。アハハハ。」
「そうだねえ、本当に良い娘さんに育ったねえ。感動しましたよ。」と
私は言った。
姪の人生は姪が決める。
たくさん勉強してもらいたいものだ。
もう働いているけれど、興味を持ったことをどんどん追求していってほしい。
それが、おしゃれとか異性とか、若い子にありがちな通過点だが
今はそれは置いて、歴史に興味があるなんて、素敵なことじゃないか。

そんなことを感じた日だった。
しかしそれも
すぐにブログに書けずに
こうして日々が過ぎていく。


後ほど再びブログを。
今から、クリーニング屋に。



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(2/11)思い出を紐解く  函館編 ① A先生のこと。

2012年02月11日 16時07分31秒 | 思い出を紐解く
今日は休みだ。
昨日も疲れた仕事だった。
相変わらず、チーフのヒステリー的な声に
翻弄されて
心の中で
「我慢できなくなったらやめるのだから、今我慢できているということは
まだまだ序の口なんだ。」と言い聞かせ
笑顔の無い私が黙々と働いていた。

こういう経験は貴重だ。
今までになかった経験をしているので
別の私はむしろ、ほくそ笑んでいる。
何かを書くにしても、おいしい材料だ、と思えば何ということもない。
もっともっと過酷な体験があってもいいか、と思うときさえある。
でも現実には、どっと疲れるんだけどね。


さて
ずっと中断していた
「思い出を紐解く」というカテゴリーで
過去のことを書いていこうと思う。
こういう時間を望んでいた。
ずっとずっと、こういう時間が取られていなかったからね。
掃除も洗濯もあるけれど
少し、文を書きたいと今思っているので
それに乗ろうと思う。



思い出を紐解く  函館編


前回は
札幌の、学校と併設された病院時代のことを書いた。
あの1年間は
小さな私にとって、これから生きる人生にたくさんのヒントをくれた時代だったと
成長してから思う貴重な体験だった。
長期の病気でありながら
半分は普通の小学生と同じような生活をさせてくれた。
普通の小学一年と異なっている部分はたくさんある。
自分より年上の人たちとの共同生活は
精神的に豊かな経験をさせてくれた。
それも、後から思うこと。

その私が
父の転勤の都合で
8歳の4月中旬
函館に住むことになった。
いよいよ
普通の小学2年生だ。

函館の温泉街の小学校に転校である。
ちなみに
住んだ家(このことは以前にも書いてある。ただし、「思い出を紐解く」の
カテゴリーに入っていないので、どこに書いたかわからない。)
は、大家と繋がった長屋の家だった。
長屋。
今なら死語か。
そこは父の会社が借りていた一軒で、私たちがそこを去ってからも
父の会社の人が入っていた。


(「思い出を紐解く」は自分の7歳からのを書いているが、それ以前の思い出、
私が今の両親と養子縁組をする前のことは別枠でいつか書こうと思っている。
これは小さいながらも、実母との暮らしが悲惨なものだったので、別枠。いつになるか
わからないが、いつかは絶対に書きとめておきたいと思っている。)

いよいよ普通の学校に通う自分。
これまで、少人数のクラス、上級生との併学級だったのが
単独で2年生として生活するのだ。
転校はその後何回もしているが、段々大きくなるにつれて
転校のストレスも大きくなっていく、というのも後から知ること。

大人の言われるがままに
学校に、学級に入っていく自分。
担任は、頭の毛のない眼鏡をかけた男の先生だった。
そして振り返ると
この先生は、本当に生徒のことを考えていた先生だったとしみじみ思う。
今でも健在であろうか。
当時、年齢のことは知らなかったので、もしかしたらもう亡くなっているのかもしれない。
A先生としておこう。
A先生に促されて、席についたのは
一番前。先生の目の前。
当時の学校は古い木造校舎、机も二つ繋がっている木製の頑丈な机。
今のような軽い机ではなかった。
その座席は、他の人より一回り大きな男の子が座っていた。
彼は、今で言う・・・・何と言うのだろう・・・忘れた。
おそらく、他者によく迷惑をかけるということで
先生の目の届く一番前に座らせ、その隣は空席にしていたのだと思う。
もちろん
そんなことは全く知らない私だ。

病院にも定期的に通わなければならなかった私は
体育の見学(これがつらい)、
ハーモニカ(肺に負担をかけるからか。私は理由を知らずに、大人からそう言われていた)の禁止、
遠足等の長時間歩くことの禁止
と、母から担任に伝わったのであろう、
普通の学校でのそれらは
他者と違うことの恥ずかしさは、8歳なりにあった。
好奇の目というのもあった。
札幌の学校時代は
皆同じ病気であることが大前提なので
体育の授業内容も同じで、苦痛というのは無縁だった。
近場のところに散歩、軽い運動、これが体育だった。

勉強の遅れ、というのも気になるところだが
まだまだ小学2年生、そんなことは気にしていなかった。
すぐに
誰が頭が良いか、というのはわかったが。

A先生は、生徒によく作文や詩を書かせた。
それらを溜めて
3年生になる直前に
手作りの文集を作って、皆に配るというわけだ。
その文集は今でも私は持っている。
何十年も前のもの。
A先生は
作文には、その出来事の絵も描くようにと言い、
皆はそれに従った。
だから、隣の席のY君の、拙い文章と一生懸命描いた絵がちゃんと載っている。
Y君の隣にいたが、特に危害を加えられるという記憶はない。
A先生曰く
「トモロッシさんが隣に座ったことによって、Y君は大変おとなしくなりましたよ。」と
私の母に伝えた。
そのY君、その後しばらく、登校の際
「○○さん(私の名字)、学校に行きましょう。」とよく長屋に来ていた。
長屋の前は広い公道だったのだが、まだ車の通りは少なく
その道の真ん中で立小便をしていたことがあった。
道の真ん中ですよ。
このことは過去に函館の思い出か何かで書いたことがある。
お金持ちのお坊ちゃんだった。


A先生は
生徒の誕生日に、給食の時間に折り鶴のレイを掛けてお祝いをし、必ず詩を書かせた。
私はご存知のとおり、4月9日なので
既に誕生日を過ぎての転入生。
しかし
A先生は、誕生日を過ぎた私でも
給食の時間に、折鶴のレイをかけて、皆に祝ってもらうことを
忘れずにしてくれた。
その詩は
あの文集の表表紙の次のページに載っている。
頭の良いD君の下に載っている。
あとから書いた詩なので
自分の折鶴の色が何色だったか忘れ、
「金、銀、赤」と語呂合わせの良い文字を入れた。
あとから
A先生は「訂正しなくてよいか。」と尋ねてきた。
私は「そのままでよいです。」と答えた。
「桃色、橙色、黄色」と、D君はきちんと自分の折鶴の色を覚えていて
小学2年生の詩は
必ずといっていいほど、折鶴の色まで書いている、と後で気づく。

そのD君は
全ての教科に優れていた。
頭の良い子は文系理系問わず、音楽や美術、体育にも秀でている。
私のような部分的な得意を持っているのは頭が良い、とは言われない。
あるとき
国語の時間に
D君が指名朗読させられた。
普通に文章を読んでいき、
突然
会話体のところで
女の子の声色でその会話文を読んだ。
皆、一斉に笑った。
私も笑った。
そしてA先生は
こう言った。
「D君はエライね。女の子の会話のところはきちんと女の子の声にして
読んだね。」と。
笑われることの恥ずかしさの見事なフォローだ。
それにしても
女の子の声色にするD君の頭の切れの良さ、咄嗟の判断に、後に感心する私である。

そのD君が
「うちで顕微鏡、買ったんだ。見においでよ。」と
私を誘ってくれた。
理科の嫌いな私は
顕微鏡には興味がないはずだが
D君の家に遊びに行った。
D君のお母さんがお菓子を用意してくれ
D君のお姉さんは、オルガンを弾いて聴かせてくれた。
見るからに
お坊ちゃま、お嬢様の世界だった。
顕微鏡で
何を見たか忘れたが、
8歳にして顕微鏡を買ってもらって喜んでいるD君の先の大物さが見えてくる。
これが
普通の家庭だったのかもしれない。
うちのような
まだ養子縁組をして2年(1年間病院にいたから、実質1年)の
俄か家庭のギクシャクさは寧ろ特異だったのかもしれない。
顕微鏡やオルガン、全く別世界のものだった。

学級に
B君という男の子がいた。
あまり話したことがない子であるが
母親同士が仲良かった。
母親同士が仲が良いと、自分も母に連れられてその子の家に行く。
でも会話は弾まない。
犬がいた。
スピッツ犬で、ユキコと言った。
(なぜ、ここまで犬の名前を覚えているかというと、例の文集に犬の絵付きで
彼が作文しているからだ。)
今ではスピッツって見かけないが
よく吠えていた。
ある日
母と銭湯に行くと
その子とお母さんが入っていた。
8歳はどうなのか?
当時は、8歳は男も女もなかったのかもしれないね。
母親同士、また話が始まり、
裸同士で私たちは風呂場にいたわけだが
やはり彼は恥ずかしいのか
足の脛を掻くようにずっと前かがみになっていた。
私は
まだ8歳だから、恥ずかしくない、と自分に言い聞かせていたような気がする。
母親同士、少しは8歳の子どもの気持ちも考えてよ、と今なら言いたい。
このことは非常によく覚えている。

H子ちゃんという、聡明な感じがする女子がいた。
特に仲が良かったというわけではないが
成績表を受け取ったときに
「トモロッシちゃん、5が幾つあったの?」と聞かれたりした。
「トモロッシちゃん、私とシンユウだよね。」と言われた。
「シンユウ?」
当時の私は意味が分からなかった。
漢字も分からなかった。
どう答えたかも分からない。
そんな言葉を知っている彼女はやはり頭の良い子という印象があった。
そんなに遊んだ記憶がない、ただ勉強についてはよく
どうだった?と聞かれた。
ある日の授業で
漢字のテストがあった。
テストが終わって
ストーブのところで
H子ちゃんが
私に
「○○という漢字、どうだったっけ。」と聞いた。
「こういう漢字だった。」と私は答えた。
その会話を
C君が聞いていて
「ああ、漢字教えてる!先生に言ってやろう!!言ってやろう!」と脅しかと
思ったが
本当に先生に言いに行った。
これがカンニングという意識が全然なくて
テストが終わったからいいものとして思っていたのだが
どうだったのだろう。
C君の告発で
A先生は教室に入ってきた。
そして私は
皆の前で先生に叱られた。
どういう叱りの内容だったか覚えていない。
まだテストが続くのかどうか覚えていない。
終わったと思ったから教えたのだろうが
先生が叱るということは
まだ正式に終わっていなかったのか。
でも、とても悪いことをしたような気がした。
正義(?)のC君は未だに
私の口から出てくる。

夫がイヤミな言い方や子どもっぽい言い方をしたときに
「あ、A太郎焼き屋のC君にそっくりだ、その言い方。」と。

お正月に
A先生は
お楽しみ会というのを開いてくれた。
薪ストーブの上で餅を焼き、
歌留多とかいろいろな正月遊びを企画して
負けた子には、墨で目の周りに丸を描いたり、ひげをつけたり、
先生もひげを自分で墨で描いた。
私の隣にいた大きな身体のあの子もニコニコ顔している。
皆揃って撮った大きな写真。
それが当たり前のようにして
目の前にあるが
今思うと
先生の自費負担はどれだけだったのだろう、と。
当時は50人近く生徒がいたに違いない。


友人の一人でN子ちゃんがいた。
母親のお手伝いをよくする、きっと今は料理に裁縫に
女性らしいたしなみをきちんと持っている母親になっているかと思う。

転入して1年経たないうちに
そのクラスとはお別れになる。
大きな学校、1つの大人数のクラスでの生活を
他の子より遅くし始めた私は
担任のA先生によってずいぶん救われた。
いよいよ最後の日。
私はN子ちゃんの横にいた。

そしてA先生が最後のお話をしているときに
初めて先生とお別れする実感がこみ上げてきて
泣いてしまった。
N子ちゃんの膝に突っ伏して泣いてしまった。
N子ちゃんがなだめていると
先生はそれに気づき、N子ちゃんに聞いた。
彼女はこう言った。
「トモロッシちゃん、私とお別れするから寂しくて泣いているんです。」と。
A先生は言った。
「トモロッシさんは優しい子ですね。友だちとお別れすることに
寂しさを感じて泣いているとは。」
いいえ、先生、
「先生とお別れするのが悲しくて悲しくて、泣いていたんですよ。」

今の私なら言えるが
あのとき、言えなかった。
言えなかったから、今どうしてもここで書きたかった。

おもしろくて、
厳しくて、
分け隔てなく、生徒と接して
生徒のすることを褒めて、叱って、
いつも皆のために何かを考えていた。
あのY君が伸び伸びと、クラスの皆に溶け込んで笑顔でいられたのも
今思うと
本当に先生の尽力だと思っている。
道の真ん中で、おちんちん出しながら立小便をしていたら
今なら、問題になっていたかもしれない。
そんな子に迎えに来てもらいたくない、と親は言うかもしれない。
だが
それが笑い話になるくらいに
明るい小学2年だった。
私は
この普通の小学校生活を皆より遅れてし始めたが
A先生によって
溶け込むことができた。
体育見学とか、遠足不参加とか
いじめになりそうな空気を作らず
軽い運動のときはなるべく
私も参加させてくれて、その参加態度を
体育の評価としてつけてくれた。

普通の小学校のスタート
A先生によって、少し自信をつけてのスタートだった。
先生、ありがとう。
生きていらっしゃるだろうか。

大好きな先生の一人である。
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(2/9)再び、真冬に。明朝はマイナス4℃か。

2012年02月09日 20時29分41秒 | 思い出を紐解く
再び
雪が降る。
まだまだ冬の真っ只中。
もう少し
私の好きな冬を秘かに満喫していよう。
確かに早朝の通勤には雪は不便だと実感しているが。
それでも
貴重な雪、と思ってしまう。

雪といえば
いつも思い出すのは



苫小牧にいたとき
クリスマスプレゼントとして
母から
レコードを買ってもらった日のことを
思い出す。
大好きだったタイガースのシングル盤のレコードだ。
あのとき夢中だった。
つい先日、新聞の三面記事に載るほどに、コンサートで復活した彼らの姿があった。
それほど
彼らは当時、今のジャニーズ以上の人気者だったんだ。
その彼らのレコードを
母と買いに行った日
万年雪のように、夕暮れの道路はテカテカに光っていた。
土やコンクリートなど全く見えないのが当たり前だった。
当時の値段は、今の煙草代より安かったが
小学生の私には、高価なプレゼントだった。
嬉しくて、はしゃぎながら、寒さも忘れて歩いて帰ってきた日。
今の母にその話をしたって
覚えているはずがない。
小学生の私のときめきは、自分だけのもの。
あの夕暮れの青白い雪道と、照らされる車のライト、
心躍る笑顔の小学生の私。
数少ない、母と心通わせた思い出は、私だけのもの。

一昨年
両親と北海道に帰省したが
当時の父の会社同僚たちは
「トモロッシちゃんといえば、タイガース、タイガースだったな。」
と誰もが口にするほどに
有名だったのである。
今、山Pが好きだ、と言っている私だが
これは、人生の突然変異。
まさかの山P。

その山Pのドラマをこれから観るのだが
頑張って起きて観る、唯一のドラマ。



今日は
1つの大きな出来事を終えた。
これから大変なのだが
昨年から抱えていた問題で
ようやく解決。
何のことかは割愛。


さあ、頑張りましょう。
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(2/14)懐かしき札幌時代⑤ーありがとう

2010年02月14日 00時47分50秒 | 思い出を紐解く
今日も夫は遅く帰宅。
身体がきつそうだ。
8時半ごろに夕食を食べ
お風呂に入り
ネットを少しして
テレビを観ながら
私が彼の足や手をマッサージしてやる。
転んだときの足の腫れがなかなか引けない。
10時半には寝た。




思い出を紐解く


学院に入院していたときには
自分が病気であることの自覚はあまりなかったと思う。
身体のどこかが痛いとか、苦しいとかの症状がなかったので
それに年齢的なこともあって
自覚症状がなかった。
治療として、薬を飲んだり、定期的に痰を検査をしていたと思うのだが
教師の顔はいろいろと覚えてはいるけれど
看護婦さんや病院の先生のことは全く覚えていない。
ただし、それは軽度の自分のことであり
重度の患者はまた別だったと思う。

個室にいた男の子とたまに話した。
漫画の本を借りたりしていたのかもしれない。
小学生は
女の子の本であろうと
男の子の本であろうと
漫画は大好きだった。
その子の部屋に行って遊んでいるうちに
ベッドの傍にあるブザーを押してごらんと言われた。
押しても押しても鳴らないので何回も押した。
だが、その音は看護婦さんが詰めているところには
きちんと届いていた。
看護婦さんが飛んできた。
そして私は怒られた。
男の子はケラケラ笑っていた。
二人でいたずらをして怒られたというより
私だけが怒られた。
男の子はあまり気にしていないようだ。
小さないたずらだ、と彼はわかっていたのかもしれない。
その子はまもなく死んだ。
そんな兆候はなかったので
あれから何ヶ月か経ってのことか。

病院にて
死というものを経験したのは後にも先にも
その子だけだった。
そういう死はいくつもあったのかもしれないが
私には「死」を悼むほどの感情がまだ不十分だった。
そして学院も、1つの死に対して
盛大な別れをすることもなく
ひっそりとしたものだった。





入院生活での
色を浮かべるとすれば
オレンジ色だった。
陶芸の時間があって(カリキュラムの1つなのかはさだかではない)
皆で作ったものを釜で焼いた。
そして色付けをするときに
私は
オレンジ色を選んだ。
その色が焼きついているんだ。
詩的に書けば
夕焼け色だ。
学院の裏山や草原の奥に広がる夕焼けの色
汚く書けば
どぎつい色、陶器にふさわしくない色だった。
なぜかあの陶器に色づけをしていた楽しいひとときが目に浮かぶ。


まだまだ細かい思い出が断片的にあるが
ここでひとまず止めよう。

その病院を退院したのは
翌年の春先だったと思う。
本来ならもっと入院していたはずなのだが

父が転勤となった。
函館だ。
当時の札幌と函館間は
距離は今も同じだが、時間が違った。
お見舞いに来ることも容易でない。
それゆえ
私も半ば、強制的な退院だった。
完治はしていなくても今後、函館の病院に定期的に
通院することを約束し、函館に向かうことになった。
私は泣いた。
ここを離れたくない、と泣いた。
病院での最後の写真は
退院日。
あのベレー帽をかぶった私の顔は泣いたあとで膨れていた。
ちっとも退院が嬉しい、という顔じゃない。
低学年の仲間がいっしょに写っている。
Yちゃんはパジャマのままだ。




札幌にいた期間は1年とちょっと。
丸々1年は病院生活だ。
札幌の記憶は病院そのものだ。

本来なら
養子になって
普通の小学校に入学して
両親との生活に慣れていくべきところが
両親とは離れての生活だった。
そして入院でありながら、快適だった。
周囲の人々は皆優しかった。
いやな思い出は全く記憶に残っていない。
いやなことはあったのかもしれないが
心の傷となって残っているのがないから
楽しかったのだと思う。
自然もよかった。
時間の流れ方もよかった。
私の性格に合っていたんだと思う。
これが10歳とか13歳とかの入院だったら
また別ないやな体験をしたのかもしれない。
デリケートな年齢の大部屋はつらかったろう。
実際、中学生のお姉さんの中には
小学生の私たちがうるさくて閉口していた人もいたろう。
7歳の年齢であったことがありがたい。
人を傷つけるとか、貶めるとか、嫉妬するとか、そんなものとは
無縁の子どもたちだった。
せいぜい、○が多い少ない、の揉め事だった。
30分後にはケロッとして、楽しみの夜のおやつをいっしょに
食べていたはずだ。

純白の心、と書いたのはそういう点だ。
無邪気、無辜(むこ)という言葉があてはまる時代だった。

健康体で普通の小学校に通っていたなら
どうだったろう、と思う。
自分の精神形成の時期に
見るもの、触るものが違っていたら
どんな自分になっていたろう、と思う。
7歳の同学年だけの生活とは違って
同時に高学年の人、中学生のお兄さん、お姉さんが傍に
たくさんいた。
彼らが私に与えてくれたものは
後の自分の精神の柱になっていく。
自然を愛する心や
音楽を愛する心や
文学に通じる「故郷」への思いや
それらを文字にすることのときめきや。

あの時代は夢か幻か架空かと思うほどに
違った世界だった。
それは
理由の1つに
あのあと私は一度もそこを訪れていない。
数年後、北海道から離れることになるのだが
そのあと何度も北海道に帰っていた。
仕事で札幌を訪れることも何度かあったし
プライベートでも何度も札幌に行っている。
函館の町も苫小牧もF市も
北海道に帰るたびに寄っている。
自分の住んだ家まで訪ねては懐かしがってきた。

しかし
あの病院だけは退院して以来一度も
訪れていない。
それが心残りでもあった。
いつか訪れたいと思っても
病院や周囲の環境がガラッと変わっているのを見るのも怖かった。
おそらく
死ぬまできっと訪れることはないだろうという前提で
でも
記憶を文字に残しておきたくて今回書いてみたのである。

あのころのお兄さん、お姉さんたちは
この日本の、北海道のどこかで生きていて
自分の子供や孫に恵まれて過ごしているはずだ。
まだまだ現役で働いていることだろう。
彼らは
あの時代を、あの病院を忘れずにいるだろうか。

幻でもなく、夢の世界でもなく
現実にどこかで暮らしているのだから
この感覚が不思議でしょうがないのだ。

でも私には
もう永遠に戻ることもない
あのオレンジ色に象徴される
ふんわりとした桃源郷のような世界だったのだ。
ありがとう
あのときのお兄さん、お姉さん、先生たち。
豊かな感情を育ててくれてありがとう。
私は
北海道を離れて
心の色もいろんな色に染まり
ここで暮らしています。




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(2/9)懐かしき札幌時代④体育

2010年02月09日 23時45分24秒 | 思い出を紐解く
暑い。
ストーブをつけているが
消すと寒くなる。
しかも熱いコーヒーなんかも飲んでいる。


思い出を紐解く


入院生活の中の授業で
体育はどんなことをやるのか。
基本的に
激しい運動は禁止であった。
走ったり跳んだりの運動はなかった。
覚えているのは
散歩である。
体育が散歩というのはなかなかオツなものだ。
おいしい空気を吸うことも
治療の一貫だから
それを取りいれていたのかもしれない。
高学年や中学生の体育については知らない。
運動場がなかったので
バスケットをするとか100メートル走とか
外界の小学、中学の体育のようなものはなかったと思う。
山の中の病院、学校だったので
近辺は散策には格好の場所だった。
きっと
現代のベッドスクールはもっともっと
体育の授業は充実しているかと思う。

運動をしない、ということは
後に
私の外界の学校生活では苦痛の対象になっていった。
それはいつか「函館時代」のときに書こうと思う。

一応、学校も併設だから
授業の1つとして体育もきちんと存在した。
持っている写真には
外にて
玉入れに使う紅白の玉をいかに円形に並べるかの競いの写真がある。
それは運動会だったのかな。

冬は
裏山(距離感がちょっとわからない。すぐ裏の山だったのかどうか)に
皆で
大型の橇(そり)を持って
そこで数名ずつ乗って
急な斜面を降りていく。
初めて心臓が止まった(と思った)ような感覚のスピードだった。
子供たちはオーバーなどを着ているが
先生はマフラーをして白衣を着ているだけだから
近くの山に来ていたのだろう。
その写真もお兄さん、お姉さんと笑いあう私だった。

当時はカメラは先生方が写してくれた。
結構、時代の割りにはそのときの写真を所有しているんだ。
今なら入院していても誰もがデジカメ、ケータイを持っていて
簡単に何枚も撮れるが
当時は先生方しかカメラを持っていなかった。
先生方がせっせと思い出作りに
写真を撮ってくれたということだ。
朝の食事の風景は
私がそこに写っていなくても
お姉さんたちが先生たちと談笑しながら食べているのも所有している。
病院敷地内の池の前でお姉さんが写っているのもある。
それらがあるおかげで
私の当時の思い出をなぞることができる。

クリスマス会での
ヒョロヒョロした私の姿。
痩せていた。
でも心は健康だった。
まだまだ
汚染されない、純白に近い心だった。

何かの会で
大人の病棟の人たちがこちらに来て
集会所のステージにて
くだけた日本舞踊を踊ったおばさんがいた。
中年のおじさん、おばさんが楽しみにしていたステージ。
あの踊りしか記憶にないのだが
おばさんが皆に投げキッスをしていて
野太い大人の声援が新鮮だった。
大人ってこういう感じなんだ、と眺めていた。


記憶は断片である。
記憶の先にストーリーはない。
オチもない。
場面が鮮やかに残っているだけで
小説なら、うまく脚色したいところだが
思い出語りなので
唐突に切れる。

ある日
生母がこの病院に見舞いに来るかもしれないということで
私は生母にピアノを披露したいと思った。
ピアノなどはそれまで見たことも弾いたこともないが
集会所のピアノは自由に使えたので
寝る前の自由時間に練習した。
そこでは低学年組がよく遊んでいた。
男の子はチャンバラのような遊びや
女の子はギャアギャア騒いだりしていた。

お姉さんたちはその時刻は
恋の相手と語らったりする貴重な時間だ。
いっしょにテレビを観たり
廊下で話したり。
それらをたびたび見ていた。
あ、この人とこの人は恋をしているんだな、と
7歳なりにわかったものだ。
私の憧れのお姉さんとお兄さんのカップルもあった。
二人とも聡明な感じで、よかったなあ。
今にして思えば
彼らなりの悩みを抱えていたのだなあ。
遠い所から来ていたのかもしれない。
いつかは退院という形で別れてしまうかもしれない。
切ない恋だったのかもしれない。
そう想像すると
つくづく自分は7歳でよかったと思う。

ピアノの練習のところに
先生がやってきた。
事情を知っている先生は一生懸命教えてくれた。
そのうち
先生がピアノを弾き出した。
そこに走り回って遊んでいた男の子も女の子も集まり
先生のピアノに合わせて歌いだした。
私のピアノの練習はグダグダのうちにストップした。
自分もいっしょになって先生のピアノに合わせて歌った。
そして
生母が来ないとわかって
練習はしなくなった。
それでも楽しき思い出である。




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(2/9)懐かしき札幌時代③お姉さんたちの優しさ

2010年02月09日 21時31分45秒 | 思い出を紐解く
あっという間の休日である。
今日は
夫と焼肉を食べに行った。
久しぶりに外で焼肉。
夫も満足して明日からの仕事のスタミナを補給していた。

今日は最高気温が13℃ということで
暖かい日なのだが
雲が一面に黒くあったので
それほど暖かみを感じなかった。
午後の休息は疲れをほぐし
夜のこの時間はゆったりとネットを楽しもうと思う。
夫は8時半に就寝した。


思い出を紐解く

入院生活が退屈ではなく、一日も早く退院したいと思わせなかったのは
やはり
授業があったからだと思う。
授業は苦痛ではない。
高学年になってくると苦痛も出てくるだろうが
1年生の私たちは授業を楽しんだと思う。
そして
昼食が終わると、「安静の時間」がある。
この安静の時間がゆったり感をもたらしている。
何時間か忘れたが
1時間とか2時間くらいだったと思う。
ただベッドに横たわるのだ。
眠ってもいい。
本を読んでもいい。
トランジスタラジオをイヤホンで聴いてもいい。
とにかく数時間
一斉に、おしゃべりを禁止して
横たわる。
この午後の安静時間が心地よい。
7歳は単純だから、きっと眠ったことであろう。
お姉さんたちは
本を読んだり、瞑想をしていただろう。
そうだ。
クラッシックがよく流れた。
その時間帯だと思うが、クラッシック音楽が流れて
7歳にしてそれらの曲を覚えた。
NHKの「みんなの歌」も流れた。

当時の娯楽といえば
漫画の本とトランジスタラジオ。
漫画の本は回し読み。
長い間ベッド生活をしていると
そのベッドのマットレスの真ん中はへこんでいく。
お姉さんたちは読み終わった本をそのへこみの所に挟んでいく。
そしてそれを私たちが借りて、古い漫画を読んでいくんだ。
トランジスタラジオは
年頃の人たちに流行っていた。
今なら、アイポッドとか?新しい名称もよくわからないが。

もちろん私たちにはそんなものはない。
だからよくお姉さんたちから借りて
当時の音楽を聴いていた。
そう。
私の音楽好きの原点はここなのである。
私はこれを書きたかった。
7歳で、ポップスの曲に目覚めた。
自由時間は、7歳3人組はベッドでお姉さんたちと
踊った。
踊りを教えてもらった。
当時の流行の踊りを。
私の踊り好きもここが発祥。

テレビは別な部屋(集会所ではなかった)にあり
そこに年頃の人たちがよく集まって
音楽番組を観ていた。
お姉さんもお兄さんも、中学生が中心だったと思う。
そこに
どうしても音楽番組が観たくて、7歳の私は
場違いのようにいつもいっしょにいた。

トイレは昔のトイレなので
はずれのほうに
薄暗く、共同便所としてあった。
怖かった。
昔のトイレはどうして怖いのだろう。
特に、汲み取り式の共同便所は一段と怖い。
とてもとても一人では行けない。
先生方のトイレは和式の水洗で、
7歳3人組は好奇心でよくそのトイレを見に行った。
便槽のない、底の見えない、白い陶器の水洗トイレを
一度でいいから使いたかった。

何でも面白かった7歳。
養子縁組をしたことなんか忘れていた。
そこの入院生活が当たり前のようにしてあった。
母を恋うとか
外の生活を想像してみるとかなかった。
お姉さんやお兄さんたちがいて
先生方や看護婦さんたちがいて
皆彼らは普通に優しかった。
決して職業としての優しさではなかった。
それは後から感じたことだ。
そのときは優しい人だ、などと
感慨深く思っていなかった。
それらも普通に、当たり前にあった。

が、こうして何十年も経って
その間に
たくさんの人に出会って
はるか昔の
彼らの普通の優しさを改めて感じた。
なぜ彼らは優しかったのだろう。
もちろん
7歳の狭い視野だったから
見当違いかもしれない。
しかし
私の所有している当時の写真を見ると
笑顔、笑顔の自分、彼らがいるのである。
坂本九さんのリサイタルの時の写真に
中学生のお兄さん、お姉さんに挟まって座って
拍手している私がいるのである。
彼らは
年下の人たちの面倒をよく見ていた。
先生に頼まれたわけでもなく
生活をともにしているから
自覚的に
自発的に私たちの面倒を見ていたのである。

当時の娯楽の1つに
映画鑑賞があった。
そんなにしょっちゅうあったわけでない。
覚えているのは2つだ。
1つは
場面にキスシーンがあるから
小学生の人たちは観てはだめだとか
先生たちが言ったのだが
高学年の人が交渉して皆が観ることができた。
当時は
キスシーンなんて子供に見せられないものだと
大人たちは思っていた。

もう1つは
「路傍の石」だ。
貧しい少年が、奉公先で名前を変えられて
そこのお嬢さんに虐げられる場面があった。
私はそれで大泣きした。
こんな不当な扱い(当時はそんな言葉は知らなかったが、そんな気持ちだった)
があっていいのか、可哀想だ、とワンワン泣いた。
映画が終わっても泣いているので
お姉さんたちが私を洗面所に連れていって
「トモロッシちゃん、これは映画なんだから。」と
何人かで慰めてくれた。
う~ん、いい思い出だ。
これも書きたかった。
お姉さんたちの優しさだった。

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(2/7)懐かしき札幌時代①

2010年02月07日 09時23分39秒 | 思い出を紐解く
昨日の夜は
夫は11時半に帰宅。
すぐに食事。
ちょっと咳をしていたので
風邪が心配。
吹雪の中、仕事をしたんですって。
ちょっと北のほうに行くと
中央とは違う天候。
滑って転んで、右足が腫れていた。
湿布をしてやる。
頑張れ、夫。





今日は夫の好きなカレーを作ろう。
カレーを食べたい、と言っていたので。



土曜日とか日曜の朝、家事をしながら
テレビをつけているとき
NHKをつけていることが多くなった。
前ならNHKなんてほとんど観なかったのに。
今朝は
札幌の藻岩山のエゾリスの生態をやっていた。
都会の中に
自然の森があり、いろんな生き物が生息しているのは
珍しいという始まりだった。
たくさんの種類の鳥たちが
冬の間に、樹木の皮の中に身を潜めている虫を捕って
食べるのは、樹木を守ることにもつながるし
エゾリスが秋のうちに
土の中に隠した胡桃などの実を取り忘れ
それが芽を出し
樹木として育っていくのが
森を生かしていることにつながると
教えてくれる。
自然てそういうものだ。
サイクルがしっかりしている。
役目をしっかり持っている。
それをじっと見守ってやるのが人間の役目なのだが
人間はどんどん
森を切り開いていく。
冬の森は鎮まっているように見えるが
エゾリスは自由自在に樹木間を走り跳んでいる。
その姿が可愛らしい。
冬眠をしないからじっとしているのも寒いので
この時季、繁殖期でもある。
いっしょに番(つがい)となって走るほうが
血の巡りが良さそうだ。
うまくできたものだ。
そういえば
ノラ猫もこの時季
寒いのに、じっとしておれず
相手を求めてさまようのも納得できる。
寒さなんか吹き飛ばせの気持ちで
雪が降ろうと、相手を探しに出かける。
冬眠しているカエルたちは
醒めてからの行動である。
ホント、よくできている。

エゾリスの番組は15分ほどであったが
身近な都会の森の動物たちが
朝から楽しませてくれた。

 思い出を紐解く


私は札幌には1年ほど住んでいた。
両親の元に養子縁組としてやってきたのが
6歳の冬12月。
そしてその家庭に慣れないうちに
翌年の春
小学校に入学と同時にある病院に入った。
いわゆるベッドスクール(死語?)だ。
入院しながら学習して、遅れての義務教育にならないようにというシステム。

先日
日本の代表曲は何かについて書いたが
「ふるさと」という歌を刷り込まれたというのは
校歌がないので
この「ふるさと」が代用されていた。
何かの集会のときにはよく歌わされた。
良い歌である。
広い北海道のあちこちの町からこの病院に
入院してきた子たちにピッタリな歌だ。
自分のふるさと。
それを思い出して歌う、ということなのかもしれない。
しかし
7歳の私には意味はわからない。
うさぎとか
川とか
の単語はわかっても
つつがなしや、などをいつになって意味を知ったことだろう。

その病院はいわゆるサナトリウム(これまた死語か?)で
小児結核だった私は
その治療のために入学入院する。
両親は小学入学のために洋服を新調してくれた。
ベレー帽をかぶって
上靴袋を持って
緊張のため肩に力の入った
純白の心を持った私の写真を写真館で撮ってもらった。
もしも
生母の元で小学を入学するとなっても
このような形で写真を残すとか服を買ってもらうとかは
なかったろう。
お金のなかった生母は
栄養失調になり、結核になった私をあのあと
どうしようとしていたのだろうか。


その病棟は
大人の病棟と義務教育の子どもたちの病棟で分かれていた。
私たち入学組数人が一番若い。
皆からいろいろと教えられ、可愛がられる立場である。
比較的軽い症状(安静度という段階で決まる)だった私は
10人くらいの大部屋のベッドだった。
そういう人数の部屋が幾つもあり、
症状の重い子は個室だった。

ここには生活があった。

普通の小学生のように
学校に来る数時間だけが「社会」ではなく
勉強後の時間も皆いっしょだから
生活そのものを共にしていた。
10人部屋には当然皆年上のお姉さんたちばかりだ。
私たち同学年の女の子は3人ほどだったと思う。
小学6年生の人は
自分にとって大人である。
ましてや中学3年のお姉さんは母親のような役割を果たしている。
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